『裸の王様』
新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。
仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついに皆が「王様は裸だ」と叫ぶなか、王様一行はただただパレードを続けるのだった。wikipedia
ハンス・クリスチャン・アンデルセン作
ハンス・クリスチャン・アンデルセン作
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『裸の王様』という童話は秀逸です。人間社会の滑稽さをユーモラスにえぐっています。臣下も民衆も、みんな自分に嘘をついて、王様が裸ではないというフィクションを前提にして現実を盛大に造り出しています。でも、ありのままを観て自分に嘘をつけない子供の心はごまかせない。
ほんと、「馬鹿には見えない布」って言い回しが絶妙だと思います。
確かに王様は滑稽です。しかし、なぜ王様は滑稽になってしまったのでしょうか。彼を滑稽な王様にしていったもの、それは一体何でしょうか。
想像してみてください。
生まれたときから、身の回りの全ての人間が彼に、「王になる(である)」という物語を前提に接し続けた。
彼は、その物語を他者と共有することでしか、人と繋がれなかった。
王という観念と同化することでしか、人間関係の喜びを体験させて貰えなかったのだとしたら。
その幻想に執着するのは必然なのです。
新聞やニュースを見れば、「愚か者には分からない出来事」に溢れています。今の社会の常識を百年後の人々が見たら、全く支離滅裂で荒唐無稽で、まるで「裸の王様」で描かれたパレードの様な喜劇に見えるかもしれません。
確かに私も、国債も年金も、国民も消費者も、法律も資本主義も、全く見えません。馬鹿だからでしょうか(笑)でもそのような観念と解釈物語に振り回されるのが人間社会なのですよね。
「親」「社会人」「経営者」「専門家」「政治家」…そんな衣装はたくさんあります。裸の王様のように、リーダーが社会物語に依存して権威を着てしまえば、フォロワーも「衣装」を着て振る舞うことになります。やがて化かし合いの人間関係が体験として積み上がり、それを根拠にした「タダシイ常識」が世にはびこっていきます。
しかし、どれだけ影響力の大きいものであろうと、どれだけ本物っぽく見えようと、嘘は嘘であり、必ず破綻します。その時、嘘の物語を前提にした人間関係群もあっけなく破綻することになります。
もし王様が賢くて、自立していて、自分の存在意義や自尊心を権威や立場に依存していなかったとしたら。きっと「地位に相応しくないような愚か者には見えない衣装」とやらを「着る」ことも「見る」こともなかったでしょう。
「愚か者には見えない衣装」の正体は、王様という称号です。そしてそのような社会観念にアイデンティティを依存させているのは、大臣や大衆も同じ。自分に嘘をつく者同士が、大真面目にフィクションありきの「ゲンジツ」に興じてしまうのです。
消費者とか労働者とか国民とか。《愚か者の目には見えない衣装》をお互いに着ているフリ、見えているフリをしあうのなら、私たちも童話『裸の王様』に登場する王様や臣下や民衆と同じです。薄っぺらな物語は大勢で賑わっているけど、いつまで経っても心を閉ざした独り芝居です。
そんな「賢すぎる現実」に生きていれば、個人も社会も病んで当たり前です。
そろそろ私たちは、「愚か者には見えない衣装」を脱ぎ棄てて、
裸にならないといけません。だってハナから裸なんだもの。
裸にならないといけません。だってハナから裸なんだもの。
スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチで言ってました。
君たちはもう素っ裸なんです。
自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。