勉強する意味がわかりません。これが将来何の役に立つの?そう中学二年生に聞かれたとき、先生や親たちはどう答えるだろう。
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学生「算数はわかります。足し算とか掛け算とか。でも、この数学の問題が解けるとそれがどう日常の役に立つんですか?」
学生「算数はわかります。足し算とか掛け算とか。でも、この数学の問題が解けるとそれがどう日常の役に立つんですか?」
学校の先生「テストとか受験とか」
学生「はぁ」(それ日常じゃないだろ)
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学生「去年そんなことがありました」
「ははは、そりゃその先生の日常だよね」
学生「先生。昭和のことや、戦争や政治のこと。経済のことを勉強するのは、何となく分かります。でも何で、織田信長がどうだの、大昔の人の生活や文化がどうだの、学ぶ必要があるんですか?」
「そうだな、役に立ちそうもないよね。実際、数学も歴史も他も、役に立たない勉強が大半だ。
今は分からなくても、いつか役に立つ時がくるよ、とか。今与えられたことを一生懸命やることに意味があるんだよ、とか。少なくとも頭の発達に良い、とか。そうやって大人たちは苦しい説明をしようとするけどね。」
今は分からなくても、いつか役に立つ時がくるよ、とか。今与えられたことを一生懸命やることに意味があるんだよ、とか。少なくとも頭の発達に良い、とか。そうやって大人たちは苦しい説明をしようとするけどね。」
「まず、この勉強は将来の自分に役立つかどうか、という考え方をやめた方がいい。それじゃパワーが出ない。納得しないまま、将来に役立つという曖昧な言葉を信じて無理に取り組んで頑張っても、あとあと報われなければ裏切られた気持ちになる。また、できないと自分の無能さを恥じたり嫌悪する。」
「勉強をするとき、自分に役立つかどうかよりも大事なことがある。そのような勉強を重んじる人が、目の前にいるということ。そのような学校の勉強を、重んじる親や社会の考えがある。その事実を、重んじることだ。」
「目の前の人が重んじたいことを、まずは信頼しよう、よし受けとめてあげよう、そういう姿勢で行動することが大事なんだ。
自分の将来に役立つと思えないときは、もう実際に役立たない可能性をOKする。それでも勉強してみる。それを重んじる人の心を、重んじるために。」
自分の将来に役立つと思えないときは、もう実際に役立たない可能性をOKする。それでも勉強してみる。それを重んじる人の心を、重んじるために。」
「自分の努力が、自分のためじゃないとき。理解できない他人の考えを重んじるためであるとき。その姿勢は立派だよ。自分に得だと納得できることを頑張るよりもね。
それは、他人のために勉強するというわけでもなくて、自分と他人が対等で誠実に対話するために今は勉強する、ということなんだよ。」
それは、他人のために勉強するというわけでもなくて、自分と他人が対等で誠実に対話するために今は勉強する、ということなんだよ。」
「そういえば、先週貸した本は読んでみた?『14歳の君へ』って本。この中にある“勉学“って箇所を読んでみるといいよ。学ぶとはどういうことか、わかりやすく書いてある。まさに今のように問いかけることが、本当の考える勉強なんだよ。」
この後も続いて、教育基本法について語り合う。この法律の前文、第1条教育の目的、第2条教育の目標。それらの文言は、家庭教師として初回訪問したときに既に印刷して渡してある。それを出して、一緒に読んでみて、彼に思ったことや気になったことを聞く。
人格の完成って何だろうね。真理を求める態度って。平和で民主的な社会って。心身ともに健康な国民ってどういうこと。
そんな感じで、なぜ今勉強するのか、大真面目に考える材料を与える。教育基本法に込められているであろう大人たちの願いに、一緒に思いをはせる。私自身の考えと願いとともに。
そこまでやって、教育だと思います。
テスト前だってのに、テスト勉強に身が入らなくなる。何でこんなこと勉強するんだろうなんて、その意味に納得したがって、手が止まる。そんな若者を教えることにやりがい感じます。
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