2013年7月6日土曜日

正義の自己犠牲ではなく、愛の献身が機能する経済へ

人は、何があれば幸せと言えるでしょうか。


あなたは、何があれば幸せですか?


僕は三つです。

①正直な人間関係。
②自分が価値があると信じられる仕事。
③美味しくて安全な食事。

それで十分です。きっと時代や地域を問わず、社会に生きる人間であれば、幸せな人生のあり方に大差はないのではないでしょうか。

確かに人間関係は多様です。人は個性豊かです。
価値観も様々。何を信じるかも、何を生業とするのかも其々。
食べ物の好き嫌いも千差万別。

しかし、バリエーションがあるだけです。
「What」や「how」や「do」や「be somebody(~なりたい)」が沢山あるだけ。

なぜやりたいのか。偉くなりたいのか。お金が欲しいのか。結婚したいのか。独立したいのか。

それは何故か。

動機を突き詰めれば、やりたいこと・なりたいことは手段であって目的ではありません。目的は、自由でありたいからであり、自分らしくありたいからではないでしょうか。あるがままの自分であるほど、他者と存在を分かち合う喜びを感じる。それが至福です。人間が幸せであるために求めている本質は、時代や文化を問わず普遍であり、変わらないのだと僕は思います。


「逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること」

アンパンマンのやなせたかしさんは、戦争体験を経て、正義とは何かを数十年考え続け、そのように結論しました。同感です。参考「正義であること


僕の考える愛とは、

①正直な人間関係、②自分が価値あると信じられる仕事、③美味しくて安全な食事

この三つを、他者が得られるようにサポートして喜ぶことです。
同時に、他者からそれらを頂いて喜ぶことです。

そうして献身の循環を機能させて、
自由に存在を分かち合う経済の形成に勤めることです。


たとえ100人の村で、500人分の食糧生産力を有していたとしても、競争に負けないという怖れからの保身を正当化しあう社会では人は豊かになれません。何かを守るという正義のプロセスは、嘘と争いと人間不信を深めあい、経済という人間関係の生態系が匿名と役割だらけになります。正義を前にして、分かち合うべきは利害に基づく役割となると、ありのままの自分という存在は犠牲にすべき対象となります。「みんな自分を犠牲にしている。私もそうあるべきだ」という道徳規範の観念体系を漠然とつくり、他者の正義の目を気にして、自分に嘘をつき始める。すると、心が不安定になり、自尊心を失い、怖れとエゴを膨張させることに繋がっていくように思えます。役割や立場に陶酔したり、権利に依存したり、義務に反抗したりと、自我(アイデンティティ)が一貫性を失ってしまう。あれもこれも守る必要だらけに思え、言っていることとやっていることを立場で変えて、それを演じる関係性に疲れ果てながら、ありのままの自分に無力感を抱えることになります。物事や人間関係に過剰に執着するのは、自分を偽ることで、自分の存在意義を自分で殺しているからではないでしょうか。

不自由さというのは、自分の怖れと弱さを、正義という他責の観念でごまかすことから生じていることに気付かなければなりません。自分が正義に反応する「弱者」として生きることで、他者にも「弱者」の生き方を強いることがあります。このことは、組織のリーダーや子を持つ親は憂慮すべきだと思います。

だから本当の正義とは、やなせさんの言うとおり、愛と献身です。正義の自己犠牲と、愛の献身は似て非なるものです。

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地獄と極楽のお話
ある人が地獄と極楽の見物に出かけようと思い立ちました。まず地獄へ行きました。そこではちょうど大きな円卓を囲んで、大勢の人たちが食事をするところでした。その人々の姿は娑婆(しゃば)に住む私共と変りありませんでした。大きな円卓の真ん中にご馳走が山と盛られてあるので、普通の箸では届きません。皆がそれぞれに五、六尺(2メートル弱)もあるような長い箸を持っています。ところが箸があまりにも長すぎて、折角挟んでも自分の口に運ぶことができない。持ってくるまでに人の口に入ってしまうのです。人に食べられてなるものかとみんな我れ一になって、自分の食べることばかり考えるものですから、長い箸と箸が音をたてて交錯し、結局、ご馳走は卓上に散乱して、誰一人として満足に食べることができないのです。食べようとして食べ得ざる時、人の心は焔となって怒りの火を発するのです。
ところでその人は次に極楽を見に行きました。極楽も地獄も人そのものの姿には、全く相違はありませんでした。食事の時になりました。大きな円卓の真ん中にご馳走が山のように盛られてあり、人々は長い箸を持っている。それもまた地獄と全く同じことでした。ところが、ここではその人々がそれぞれ、自分のお箸に挟んだご馳走を「これはおいしそうでございます。お一つ如何ですか」と人の口へ運んであげています。「結構なお味でございます。あなたさまも如何ですか」とお互いがお互いに食べさせあっているのです。有難うございます。おお勿体ないことと食事は実に和やかに進んで、みるみるうちにご馳走はなくなってゆき、最後には「ありがとうございました。ご馳走さまでございました」とみんな喜び合い、感謝し合いながら終わったというのです。
(高田好胤著『己に克つ』より)
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現代の資本主義社会は、素朴で本質的な豊かさ(①②③)の実現と分かち合いには不向きです。広告・営業経費をふんだんに使っては、付加価値という名の娯楽や利便性を過剰に溢れさせて競争します。500人分の食糧生産力を有する100人の村で、200人分の食料を生産して、300人分の労力を賭して管理しながら奪い合い、余った食糧を廃棄します。
一方で、隣の村は貧しいままです。そんな彼らには、私たちのように豊かに発展するためには、資本を受け入れて、競争することが合理的なのだと説きます。そうして、資本を受け入れた彼らから、多くの労力と資源を「競争に生き残るため」に利用しています。しかし自分たちの村も実は、物質的に食糧や娯楽に溢れているだけで、本当に豊かさ(①②③)を実感しているわけではありません。利害を優先して存在を分かち合わないのですから、①正直な関係と②正直な仕事と③質の高い食事、という人間として尊い豊かさを犠牲にしているからです。

正義の観念は犠牲を求めます。自分という存在を手段にして、結果的にあらゆる事と時間を手段にします。今ここ(存在)にはない目的を永遠に追いかけます。
人間としての豊かさを定義しないままに、経済成長を永遠に目指して、消費者の期待と不安を煽りつづける社会。矛盾の辻褄を合せるがごとく、国民が国民に借金してお金の総量を膨らませ、循環しない資産を永遠に築き続ける資本主義。

それをいつまで、正義として祭り上げておくのでしょうか。

経済の本質を、
お金の本質を、
生産性の本質を、
人間という存在から洞察するべきではないでしょうか。

真実は、消費者ではなく、国民ではなく、人間がいるだけだからです。それらの観念の、何が真実で、何が幻想なのかを、見破る必要があると思います。

逆説的ですが、だからこそ愛を経済合理性という観点で読み解くことが意味を持ちます。

競争合理主義を覆す生産性を実現するヒントは、地獄と極楽の話にあります。次世代へのイノベーションは、技術革新でもグローバリゼーションでもありません。人間関係とお金のパラダイムシフトです。

新たな社会ビジョンが示され、その事例が一つまた一つと実現していった時、世界は変わるでしょう。既に変わらなければならないことは皆分かっています。しかし、どう変われば良いのかが分からなければ人は動けません。それを自らの生き方とビジョンで示し、情熱と理性で導く次世代のリーダーが必要です。

僕が次世代の社会を語る目的とは、
人間であるとは何か?幸せであるとはどういうことか?という考察を軸に、
愛であることの合理性と、経済活動とお金のシステムの合理性を統合することです。
それを実現する生き方と社会ビジョンを、自ら実践して、伝えることです。


正義の自己犠牲ではなく、愛の献身が機能する経済へ。


自分を偽らないこと。
他者に、自分を偽らないでほしいと願うこと。

きっとそこからです。

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