2013年9月2日月曜日

人をゆるすということ①

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、
きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。―ピーターラッセル

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ふと振り返ってみたら、結婚して三年目です。

二年半経ちました。

もう三年目かぁって感慨深く、しみじみしていると、
ふとある歌が脳内で流れてきました。


三年目ー 三年目―


三年目の浮気



あったあった、こんな歌。なぜ思い出す(笑)



このブログ、ときどき妻も見るんですが・・・
まぁ気にせず続けましょう。


この歌を初めて聞いたのはいつだったのかは覚えてないのですが、
はっきりと印象に残っているのは小学生のとき。

土日に通っていた少年野球チームの練習合宿にて、
宴会の席で、あるコーチがデュエットで唄っていたんですね。

そのコーチは、スマートな背格好でメガネがよく似合っていて、
スラムダンクの小暮君みたいな優しく落ち着いた雰囲気で接してくれるので好きだったんです。

僕が一時期ピッチャーをやっていた時も、ぜんぜん上手くも速くもなかったんですけど、
「俺が監督なら、あそこでコントロールの良い千明を使ったんだけどなー」
と、試合後にこっそりと言ってくれたことが嬉しかったのを今でも覚えています。

だからなのか、なんなのか。
その時のコーチの映像とともに思い出せちゃうんですよね。この歌。

改めてyoutubeで聴いてみたら、なかなかユーモラスです。
男と女の掛け合う歌詞からは、
昭和らしさが滲み出ています。

当時の男女観(ジェンダー)が垣間見えます。

時期は1982年。
70万枚以上売れました。

昭和を背負った僕の親の世代あたりが、
働く仲間たちや友人らと飲みながら、
笑って歌って楽しんでいた曲なのでしょう。

小林幸子の「もしかしてパートⅡ」とか、「男と女のラブゲーム」だとか、
80年代の歌謡曲デュエットを今聞いてみると面白いですね。
男の世界、女の世界っていう陰陽のコントラストが明瞭です。

古き良き昭和のドラマが眼に浮かびます。


(あくまで一般的にですが)景気が良すぎて経済が急成長している時ほど、
多くの男性は人格が伴わないまま、プライドを高くしてしまうような気がします。

きっと時代に流されたゆえに、
傲慢な男も(一時的に)たくさん増えたでしょうし、
自尊心の低い女性ほど、
そういう男に愛されることに自己肯定の根拠を依存するので、
男女の悲劇(喜劇?)も増えたでしょうね。メディアも煽るもんだから・・・

時は高度成長の絶頂からバブルへ。日本経済が最も強かった時期。

ある意味で、お金ほど世界観や観念を歪ませる劇薬はありません。

後遺症も含めて、
男と女、お互いに”精神的に”苦労したんだろうなぁ・・・とお察しします。



一方不景気になるほど、
既存の枠組みが時代遅れになるほど、
人間として普遍的な、本物の生き方しか輝けません。

インターネットによってますますそうなっていく。

今は良き時代です。



戻ります。

三年目の浮気のサビの抜粋。

3年目の浮気ぐらい 多めにみろよ
ひらきなおる その態度が気にいらないのよ


3年目の浮気ぐらい 多めにみてよ
両手をついてあやまったって 許してあげない



「みろよ」が「みてよ」になってるという細かいユーモアも、
「ゆるしてあげない」の言い回しも絶妙です。
「ゆるさない」や「ゆるせない」にはない決定的な含みがあります。


と、表現の上手さをどうだと取りあげたかったのではなくて・・・



そう。



「ゆるすこと」




人が人をゆるすということについて、真面目に考えたい。


その意義と機能についてです。


僕の考える「ゆるし」とは、自分と世界に対する信頼ゆえの、明晰な意志。

正当性とは無関係であり、

罪を悔いて、精神的に償えば、その罪を外してあげるよ、という要求や取引はありません。



正義に同化して(悪というレッテルを張って)裁かないことについて。

自立への意志と、分かち合う意志によって、本当のゆるしができる、ということについて。

事例をあげながら、真剣に考えてみようと思います。


さらには、
人をゆるすことが、自分を誇り高く自由にする行為であり、
極めて生産性の高い生き方であり、
事業経営においても合理的である、ということも触れたいと思います。


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