最も合理的な教育とは、自分がロールモデルとなることです。
つまりそれは自分の生き方そのものであり、
人間関係の向き合い方そのものであり、
社会に誠実に貢献せんとする働きざまそのもので、自ずと伝わるものだということです。
個人的にも、社会的にも、お金をかける必要はほとんどないと思っています。むしろ、ある一定以上の年齢になれば、親だけでなく子供だって公共性を担うことが出来ます。公共の精神を担う気概をもって、自分の価値観と向き合いながら自発的に働きかけること。それを親と子が共同体に対してオープンに実践しているのであれば、その地域において善き学ぶ機会、善き勤労の機会、善き人の縁を得る機会に恵まれないことの方が考えにくいのではないでしょうか。
図書館に行けば、インターネットを開けば、いくらでも知識はタダで学べる時代。
真に得難きは、志をもって誠実に実践している人物=ロールモデルに触れる機会です。これですら、親自身がそうあれば良いだけであり、親がそのような人物と繋がっていればなお良いのであり、親の背中を見て子供は勝手に学びたくなって学んでいきます。
小さな子供を観てれば分かります。
人は本来、人と世界への好奇心に満ち溢れています。知りたくて、見たくて、触れたくて、味わいたくて、感じたくて、心を通わせたい。純粋な興味に突き動かされ、あらゆる素敵な経験をしたがる生き物です。怖れを覚えるまでは。
学びは、作為的に刺激せずとも、本来の人間性を活かせば良いだけです。怖れを取り除くことで。といってもこれが難しい。それは親自身に怖れがあるからです。
不安を動機にして「お金を稼ぐこと」「勉強すること」をしている以上、学びの意欲は、野心や保身やプライドのような、外発的な動機に根っこの部分を占められしまいます。親も学校の大人も、子供に膨大な必要性と期待そして競争環境と評価を与えることで存在不安を覚えさせ、外発的なインセンティブに反応する行動パターンを訓練します。悪気はありません。自分がそのような怖れを理由にした行動を中心に生きているので、どれほど善意であろうとも、そうすることでしか学びの意味付けに説得力をもたせることができないだけです。
自分の生き方以上のことは伝えられないのです。
そうして子供は、大人によって怖れを教わり、
情熱的で純粋で、楽しくてしょうがない体験に溢れた学び方を失っていく。
教育について考えたとき、真に問うべきは「教育」ではなく、大人の生き方であるということです。お金をかけずに出来ることで、最高品質の教育は十分過ぎるほど可能だと私は考えます。むしろ大半の大人がお金への観念によって、子に不安を与えているのであれば、お金をかけない教育によって「人間とは何か」を伝えることの方が合理的であろうと思います。子の人格形成において、第一の栄養が大人の生き方そのものだとしたら、それが教育機能を果たしていない以上、第二以下の栄養について一生懸命に頑張ったとしても上手くいかないのではないでしょうか。
現代教育は、公的費用も家庭の経済的負担も大きすぎると言われます。
「子供の教育にお金がかかりすぎる」という理由で望む子供数を産めないと考える夫婦は少なくありません。教育は子育てにおける最大の経済コストであり、そしてお金の欠乏こそが大人の生活不安に最も直結します。「教育にはお金がかかり、子供に満足な教育費用を出せる自信がない」という心理的障壁が、少子化の原因の大きな一つとなっています。
私はそういう方々に役立ちたいと思っています。
第一に、善き教育は全くお金がかからないということ。
第二に、お金の欠乏を怖れる人生であるのは何故か?という問いに、真正面から向き合うこと。
それらを真摯に考えていきたい。
教育のあり方を問うとき、不安を動機とした教育の世界観が既に合理的ではないのではないでしょうか。怖れを起点としている時点で、依存的かつ無力感を伴った受け身の精神を伝えてしまいます。教育を担う人々がそのような生き方を通じて、不安を核としたメッセージをあり方で伝え続けている以上、精神的な自立へ向けた教育機能は果たせないのではないかと思うのです。
自分の存在が唯一のメッセージ。
ブログではこのような問題意識をもって、善き教育について語っていこうと思います。
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