脅威を前提にして、自分の正義を伝えたい。
なぜなら依存し、怖れているからです。
信頼を前提にして、自分の願いを伝えたい。
なぜなら自立し、愛しているからです。
二つの情熱は似て非なるものです。それは怖れと愛の生き方の違いです。
人は、愛の質感を心で感じとれるようになっています。
理屈がどうであろうと、ハートが感じてしまうものです。
赤子や小さな幼子は、最も大きな意味では自立しているのだと私は思っています。
彼らは怖れないゆえに物事に執着しません。依存していません。
彼らほど「生きる力」に溢れた存在はありません。
例え親が守らなくても、ほとんどの社会・時代を問わず、生きていけます。
人々に愛される力によって。
深く愛されるのは、
小さな子供が無償で目の前の人を愛するから。
彼らは信頼しないということを知りません。
親、世界、自分への無心の信頼。
たとえ親が犯罪者であろうと、何者であろうとも、無償に、無条件に、信じています。
笑顔で、純粋な関心の眼差しを向けてくれます。
肌の触れ合いを求めてくれます。
あるがままの心で向き合ってくれます。
いまを分かち合いたいと願ってくれます。
小さな幼子と向き合うことは、
心が安らぎ、微笑ましく愉しくて、暖かくて、本当に幸せなこと。
子供の生き様から学ぶことは大きいです。
核家族が当たり前である日本社会の現状は、大人にとっても子供にとっても健全ではないのではないでしょうか。大人の人生にとって、子育てのプロセスは分かち合った方がずっと良い。子供にとっても、成長のプロセスを皆で分かち合ってもらった方がずっと良い。
そう思っています。
昨日の樋口耕太郎さんのツイートを紹介します。
(いつもこの方の言葉を引用してばっかりです。表現者としてもっと自立しないと笑)
僕の自慢の妹が長女を出産しました。
私からの、彼女へのメッセージです。
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僕に子供が生まれたとき、なぜこれほど子供に愛情を感じるのか、とても不思議に思いました。その理由を5年間考え続けて、自分なりの答えが見つかりました。
確かに自分は子供を愛してるのだけれど、それは、そもそも、「子供が親を無償に愛しているからなのだ」、というのがそのときの結論です。子供は、親がダメ人間でも、嘘つきでも、犯罪者でも、それどころか、子供を虐待していても、無心で信じ、愛する存在です。
私たちが一生の間、これほどの愛情を受けることは、親からも、配偶者からも、その他の誰からも、殆どあり得ないことでしょう。
そんなわけで、子供は誰でも、生まれてからの5年間で、一生分の親孝行をするのだと思っています。子供は親に恩返しをするべきだという考え方が一般的かも知れませんが、私は、親こそが一生かけて子供に恩返しをするべきなのではないかと思うのです。
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よく頑張ったね。おめでとう。
この視点が妥当かどうかの議論は別にして、大切なのはどう感じたかです。
愛について考えさせられるのではないでしょうか。
冒頭であげた私の「愛と自立の生き方」の考えからすると、樋口さんの見方はその通りだなぁと共感します。もちろん、経験的にはまだ子育て初心者であるので、ベテランで孫持ちのお爺さん御婆さんの方々にも聞いてみたいところです。
大人が、社会が、
自分らしく生きられなくなってしまっているのは、
子供の頃の生き方を忘れてしまったからだと思っています。
自分らしくあること。愛。自立。分かち合うこと。
それらは大人が必死で求めてやまない目的ですが、実は過去既に、誰もが実現していたのだと思います。子供が生き様で見せてくれている「無条件の信頼」こそが、その源であったのではないかと私には思えるのです。
それを取り戻すことが、個人の人生と社会の在り方のすべてに繋がるのでしょう。
なぜ信頼できないのか。
自分の心に向き合っていくしかありません。
僕は全てを信頼しています。信頼ゆえの願いをブログに書いています。
これからもそれを伝えていきます。
小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた
心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今 ―やさしさに包まれたなら
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