こんなツイートを読んだ。
「素直だと傷付きやすくなります
素直じゃないと傷付けやすくなります
傷付くより
傷付ける方が辛いと思える人に出会えたとき
人は素直になります」
なるほど。さすがDJあおい、思いあたる。
そして「素直さ」について少し語りたくなった。
証券会社を突然辞めて転職したとき、私は周りの人たちを本当に傷つけた。信頼してくれた人を。育ててくれた両親を。愛を誓ってくれた妻を。
たぶんこれも、「素直じゃなかったから」といえば、まぁそうなんだろう。
金融機関で働いていたころは、社会全体を相手にして素直に生き抜く覚悟が、私にはなかった。覚悟がないというより、そんな大そうな覚悟を抱く必要性に気づかなかった。目の前の大切な人に素直だったらいいじゃん。今はまだ二十代で修行中。言いたいこと言ってやりたいことやるのは、強く賢く成長して認められてからさって、そう思っていた。
でも違った。人間関係において浅いレベルで素朴で素直なだけだと、見えない大勢の思考の前提にある社会的意味づけに食われる。自分の言動の意味を、存在意義を、借り物の会社や結婚の物語に吸収されてしまうんだよね。
自分が矢面に立たず社会に依存している分だけ、その依存度は自ずと周囲に伝わり、次第に周囲は目の前の私を知ろうとすることをやめて、私のボスである社会物語を優先する。それはほとんど無意識だったりする。これは夫婦、親子においても起こる。我慢や忍耐は共依存の甘えが多分に混じっている。
パートナーと対話するのと同じように、社会全体にも、フェアにオープンに自分を表現して、関心を注いで、受けとめる。そんなふうに、社会を背負う覚悟と社会から嫌われる覚悟の両方をもって、自分のトータルで素直なコミュニケーションを日々しなければいけなかった。一組の夫婦が、ただ素朴に、ただ素直であることは、それほどのことなのだ。
自分がひとり世界に立ち向かって自己表現するから、一番大切なパートナーにもその本気度が伝わる。その社会と対話する様を見て、妻は思い巡らし、いろんなメッセージを受け取ってくれる。
私がTwitterやブログで素直に発信し続けることは、妻と相互理解を深める対話をするために、絶対に不可欠なことだった。二人がともに素直であるためには、二人はそれぞれ、独りの人間として、社会への向き合い方が明朗に素直でなければならない。いま私たち夫婦はそのことに気づいています。
夫婦は二者ではない。男と女と社会の三者関係。
傷つけ、傷つけあって、離れて暮らして、改めて出会い直して、私が素直さについて学んだことです。
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