星の王子さまという絵本があります。
昨年のクリスマスに娘にプレゼントしました。
子供向け絵本として、一部の内容を減らし、優しく翻訳し直したものです。
それでも内容は難しい。読んだ方はご存知の通り、そもそもこの絵本は子供向けではありません。
「大人の中のこども」へ向けたものです。作品が生まれた背景は深い。
参考:
TBS「みんなで訳そう!インターネット版「新訳・星の王子さま」
なぜこの本を娘に贈ったかというと、妻が一番大好きな絵本だからです。海外の旅先で現地の国の言葉の「星の王子さま」をコレクションするくらい好き。
後日、なんでそこまで好きなの?って聞いたら、
「絵が好き」
だそうで。雰囲気・フィーリングだけで、内容や作品の背景にはさほど関心はなかったよう(笑)僕は、ふと本棚にあった池澤夏樹さんの訳書を手に取って大いに気に入りました。その理由を考えると、やはり人間の真実が味わい深く描かれているからです。穏やかに優しく、容赦なく。
著者サンテグジュペリは、作家をしながらも本業はパイロットであり、第二次世界大戦で戦死しています。重たい戦争の時代を背負った彼が、人間社会の滑稽さと迷いを、小さな王子様の素朴な視点で描きます。
本当に大切な事は何か?
あえて大人でも子供でもなく、「大人の中の子ども」へ向けて問いかけています。読み手の心の奥の純粋な感性をふるわせて、インスピレーションを与えてくれます。だからこれほど長く、広く、世界中で愛されるのでしょう。
たとえ娘が、今は到底理解できなくても、この本物の絵本をあげたくなりました。初めてのクリスマスプレゼント、初めて贈った本は、妻の大好きな「星の王子さま」。なんか素敵かなって思ってます。
さて。
星の王子様には多くの「変わった」大人が登場します。その中の一人の話を紹介します。
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4番目の星は、実業家の星でした。この実業家はとてもいそがしかったので、王子様が来ても見向きもしませんでした。
「こんにちは。その煙草、火が消えてるよ」と王子様は話しかけました。
「3たす2は5。5たす7は12。12たす3は15。こんにちは。15たす7は22。22たす6は28。火をつけなおす暇がなくてね。26たす5は31。ふぅ!5億162万2731だ」
「何が5億なの?」
「おや?君はずっとそこにいたのかね?5億100万・・・ええと・・・。そんなこと憶えとりゃせんよ、仕事がたくさんあるんだ!いいかい、私は真剣なんだ。くだらないことを気にしておられんよ。2たす5は7・・・」
「何が5億100万なの?」納得するまで決して質問をやめない王子様は、先ほどの質問をもう一度してみました。
実業家は顔を上げて言いました。
「私はこの星に住んで54年になるが、仕事の邪魔をされたのはたった3回だけだ。22年前、最初に私の邪魔をしたのはどこからか現れたコガネムシだった。やつがひどい騒音を振りまくものだから、計算を4箇所も間違ってしまったんだ。2回目は、11年前のことだがリューマチの発作にやられたよ。運動不足でな。散歩する暇もないのだよ。私は真剣なんだ。そして3回目が・・・君だよ!私が言ったのは5億ひゃく・・・」
「だから何がなの?」
この王子様はどうしても自分をほっといてくれないと、実業家はついにあきらめました。
「空に見える何百万もある小さなものだよ」
「ハエ?」
「まさか。きらきら光っている小さなものだよ」
「ミツバチ?」
「違うよ。金色をしていて、怠け者が眺めて空想にふける小さなものさ。だが私は真剣なんだ!空想にふける暇なんてないのだよ」
「あっ!星のこと?」
「そうさ、星だよ」
「おじさんは5億の星をどうするの?」
「5億162万2731だよ。私は真剣だからな、正確にせねばならん」
「で、その星をどうするの?」
「その星をどうするかって?」
「そう。どうするの?」
「どうもしないよ。ただ持っているだけだ」
「星を持っているの?」
「そうさ」
「でも、この間会った王様は・・・」
「王様っていうのは、何も持ってないんだ。支配しているんだよ。持つことと支配することは大違いさ」
「星を持っていて何の役に立つの?」
「お金持ちになれるじゃないか」
「お金持ちになることが何の役に立つの?」
「新しく星が見つかったら、その星を買うことができるじゃないか」
(このおじさん、前の星の酔っ払いのおじさんとちょっと似たことを言うなあ)と王子様は思いました。
それでも王子様は質問を続けました。
「星を持つには、どうしたらいいの?」
「星は誰のものだ?」と気難し屋の実業家は逆に王子様にききました。
「わからないよ。誰のものでもないんじゃない」
「それなら星は私のものだ。私がいちばんに考えついたんだからな」
「それだけでいいの?」
「もちろんさ。もし君が誰のものでもないダイヤモンドを見つけたら、それは君のダイヤモンドだ。もし君が誰のものでもない島をみつけたら、それは君の島だ。もし君があるアイデアを最初に思いつき、それについての特許をとったら、それは君のアイデアになる。だから星は私のものだ。私が考えつくまで、誰も星を持つなんてことを考えもしなかったんだからな。」
「そのとおりだね」王子様は言いました。「それでその星をどうするの?」
「管理するのさ。星を数えて、そして数えなおすんだよ」と実業家は答えました。「難しい仕事だよ。だが私は真剣な男なのだ!」
王子様はまだ満足しませんでした。
「もしスカーフを持っていたら、首に巻いて身につけて歩けるよ。花を持っていても、摘んで持って歩けるし。でも星は摘んだりできないでしょ?」
「ああ、でも銀行に預けることはできる」
「どういうこと?」
「紙切れに星の数を書くのさ。そしてその紙を引き出しにいれて鍵をかけるんだ」
「それだけ?」
「それで十分さ!」
(おもしろいなあ。けっこう詩的だし。でもそんなに真剣なことじゃないや)と王子様は思いました。王子様は、何が真剣なことかについて、大人とはかけ離れた考えを持っていたのです。
「僕は」と王子様はまた言いました。
「花を持ってて、毎日水をあげてるよ。それに火山を3つ持ってて、毎週灰を掃除してる。火が消えた火山も掃除してるからね。わからないよ。僕が花と火山を持っていることは、花と火山のためになっているんだ。でもおじさんは星を持っていても、星のためになるようなことをしていないじゃない」
実業家は口を開きましたが、言い返すことばが見つかりませんでした。王子様は次の星へと旅立ちました。
(大人って、やっぱり変な生き物だなあ)と王子様は旅のあいだ考えていました。
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この「変な」実業家にとって、金稼ぎ=仕事です。その生き方に触れ、星の王子さまは言いました。
わからないよ。僕が花と火山を持っていることは、花と火山のためになっているんだ。
でもおじさんは星を持っていても、星のためになるようなことをしていないじゃない
奉仕になっているか否かが違うと指摘します。王子さまの「ためになっている」は、労働とも無償で働くボランティアとも違います。花も火山も王子さまの役に立っていて、互いを分かち合う関係から自然に生じています。しかし実業家は、何の関係もない星をただ所有し、お金を追っています。
「星を持つには、どうしたらいいの?」
「星は誰のものだ?」と気難し屋の実業家は逆に王子様にききました。
「わからないよ。誰のものでもないんじゃない」
「それなら星は私のものだ。私がいちばんに考えついたんだからな」
そもそも、所有なんて出来るのか。所有して何を望むのか。
この話を、私たちは笑えるでしょうか。
ちなみに月の土地に関しては売られていますね。現実に。
3000円で証書が付いてきます。ルナエンバシー
たとえ冗談でも、買う気にはなれませんね。
月は月として在るだけです。
同様に、土地は土地として在るだけです。
もともとは。
所有意識のないアメリカ・インディアンの言葉が残っています。
「欲しいと言ってくれれば持っているものはいくらでもあげるのに、白人達はなぜ、銃で殺して奪うのか」
もちろん私たちは、インディアンのような部族単位を遥かに超えて、国家を前提にした社会に住んでいます。所有のルールを公正だとして定めるのは次善の策であり、それに捉われざるを得ません。
所有は幻想である、と安易に言うつもりはありません。
なぜその概念とルールが必要であるのかを突き詰めることが重要です。
星の王子さま、インディアン達にあって、
実業家、現代社会にないもの。
存在を分かち合う関係です。それを前提にした世界観を生きる個人です。
でも、ここまではまだいいんです。より深刻な問題とは、
放っておけば分かち合う関係を築いたであろう機会をことごとく、先回りで権力とお金が介在することで、権利・義務が当然の取引にしてしまうことです。それが固定化し、大量の役割と、大量の権利・義務を意識に流し込まれて、分かち合う関係の喜びと高い合理性は、根こそぎ可能性から毀損されていきます。大半の人が、権利・義務の効率化に目を奪われて、そもそも前提にある世界観が合理的ではないことに気付きません。次善の策として設定した所有というフィクションが、土地や財産だけでなく、人間関係においても適用され続け、それが疑い得ない現実の観念になってしまいます。
人が人と助け合うこと。
人が人から学ぶこと。人が人に教え育てること。
土地が在るように、
太陽が巡るように、
人間の善性は在るんです。
自然に草木が育つように、それを活かすこともできる。
私たちは、自分たちに本当に必要なものは、自分たちの関係性から無理なく生じさせることができます。観念を外して自他に余白を与えれば、関係性は生じて機能する。それが生態系のバランスです。僕にはイメージができます。
例えば農業でいえば、自然栽培や自然農法。企業でいえば、ブラジルのセムコの経営は参考になります。この点はいずれ書こうと思います。
その理を具現化できない最大の障害は「怖れ」にあると思っています。観念がもたらす内的な怖れを見破らなければ、権利と義務の増大と効率化こそが問題解決の道だと勘違いし、怖れから逃げて観念への執着を強化してしまいます。
そんなことが続けられるのは、お金による所有(権利)という幻想が機能するように見える間だけです。つまり、働く人口が増え続ける間、あるいはそういう発展途上国の労働者を傘下に組み入れることができている間です。日本はもう無理ですね、僕の勝手な予想では。
ようやく経済の本質に向き合う時代です。
これからは人間の本質を第一にした世界観でなければ機能しないことが明白になる。
人口爆発が終わることによって、国民国家にしろ資本主義にしろ、社会システムは一度挫折せざるを得ないでしょう。既存の枠組みは、帝国主義の頃からずっと、人口増加を前提にしてしか成り立たないのではないでしょうか。
最速で人口減少が進む日本から、社会を再生するために、自分と向き合うことが問われるでしょう。
そんな状況に自分はいるとして、自分は一体何ができるだろうか。
僕は人間社会に貢献する文章をこのブログで書いていきたいと思います。自分のために。