「善きサマリア人」の実験
90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。
『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)、立ち止まらずに道の反対側を通り過ぎていった。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、近寄って傷の手当をし宿場まで連れて行った。』
ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。
ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。
ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。
①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか?それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」
②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、「職業としての聖職者と宗教的使命の関係」を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。
③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。
さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」
この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。
言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。
マルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』より
この事実からどのような意味を見出せるでしょうか。
「思いやり」「優しさ」などの心が、
行動として顕在化されるか否かは、
置かれた状況に致命的に左右されている可能性が高いということです。
例えば、相手の心に関心をもって話を聞くこと。思いやりの行動の代表です。自分の視点と感情から反応するのではなく、相手の解放したがっている感情を尊重し、背景まで感じとろうとして関心を払う。真摯に聞くとは、誠実で愛のある向き合い方として大きな意味を持つ行為です。
しかしこれは何かに気を取られていてはできません。頭に他の優先事項がちらついている限り、相手の気持ちは二の次になったコミュニケーションしか実現しません。同じ聞くという行為でも、この場合、私と相手の「今」は状況次第で効率的に処理すべき対象になっています。
また「正直さ」においても同様のことが言えます。
お金を稼ぐとき、正直になれない場面が一般に多くなるのは何故でしょうか。強い立場の人を前にするとき、正直な意見を言いにくくなるのは何故でしょうか。政治家が有権者の票を集めるとき。営業マンが見込顧客に商品をセールスするとき。やはり思いやりと同じく、正直さも状況に左右されています。
人の心の中で何がどう作用しているのでしょうか。
普段はどれだけ正直な人であっても、組織に属する者としての建前があります。建前とは、つまり役割です。社員として、父(夫)として、国民として・・・。人は、役割を通じて、何か大切なものを守ろうとします。
サマリタンの実験においては、神学生には人前で説教をする、という役割が与えられました。そして「あぁ遅刻だ、既に数分前から君を待っている」と告げられることで、彼は思いやりを失いました。いや正確には、本質として思いやりを失ったわけではありません。聖書のサマリタン的な行動を取ることよりも、人前で善きサマリタンをテーマに説教をするというミッションが自分と同化してしまったというだけです。
冷静に考えると、もし実験でなければこのような矛盾は、「人としてどうか」と問われてもおかしくないほど酷いものです。しかし科学的に現象を捉えてみると、
人の善意の発揮を左右するのは、人格うんぬんより、
役割への同化と、
自分の義務を果たすという善意の責任感から効率優先で急ぐことではないか。
そのような仕組みになっていると理解する方が合理的ではないでしょうか。彼らはそのような役割さえなければ、あるいは「遅刻だ」と告げられて危機感を感じなかったならば、行き倒れた人を助けたのですから。
常に、いついかなるときも、
人に理性と善意の発揮を望むのであれば、
効率を高めることでも、責任感に訴えることでも、
倫理観を問うことでも、義務を強調することでもありません。
役割への同化をやめることです。やめさせることです。
逆に理性と善意を失わせたければ、役割への同化を求め、
義務を強調し、責任感に訴えて、
倫理観を問いかけ、効率を高めることが有効かも知れませんね。
村上春樹さんはカタルーニャの国際賞受賞のスピーチ(2011/6/9)でこう言いました。
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今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。
どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
答えは簡単でです。「効率」です。efficiencyです。
原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。
まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです
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役割を第一目的に置くとき、個人としていかなる良心・信念による正直さを有していたとしても、その想いは効率的に処理せざるを得ない場合が頻繁に生じます。
思いやりや正直さ、誠実というクオリティが、状況に左右されるとはそういうことです。役割を前提にした関係性に身を置くかぎり、自分の役割や関係者の役割を、脅かしたり逸脱しない範囲に行動を留めるのは必然です。サマリタンの実験のように、役割と自己の良識に矛盾が生じても、自分の振舞いに疑問を持ちにくくなります。
原発を安全だとして推進した人達も含めて、この社会の矛盾は、役割に同化した人達の責任感から引き起こされているケースが大半ではないでしょうか。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはそういう意味です。
そして村上さんの主張した、効率を優先する社会の弊害の根本にあるのは、
多くの人々は不安感から役割に執着するのであって、
「和して同せず」という君子であるのは、
怖れを解消しない限りは困難だという事実です。
社会の現状は、石原都知事がいうように人々が我欲に駆られた結果だとは思いません。むしろ、争いの世界観に自らの存在価値を見出し、人々に役割への同化を要求し、他者を責め立てる強い?リーダーが歴史上大多数であったからのように僕には思えます。観念や役割に依存するから不安が消えないのだと思うのですが・・・。とはいっても、人々はそういう強い?リーダーを望むんでいるのですから、誰も悪くないし、望んだとおりの結果が実現しただけなのですが。
私たちは、正直で善意の言動の多くが、人格という要因以上に、置かれた状況や環境に依存するという事実を過小評価してはならないのではないでしょうか。
人は本来、観念を取り除いてあるがままであるほど、理性を発揮することができます。皆、例外なく優しい人間でありたいし、善意の行動をしたいと望んでいます。
僕はそのような世界観、人間観、信念を持っています。だから、人の本性が発揮されないのは何故か?お金の観念と人々の精神と行動の関係性とは?という思考を続けているのです。
人格を責め立てて、人の善意を疑い、性悪説の世界観を選択して、不信と不安から環境整備をするくらいならば、
「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い出して、心の余裕が赦されている状況か否かという環境的な要因を重んじて整備していく方が合理的だと考えます。
しかし。もしあなたがリーダーの生き方を選択するならば。
環境要因の重要性を認識しながらも、自分の内的な世界観の方が遥かに重要です。自分の外側に言い訳できる原因は一つもありません。そして、リーダーの在り方そのものがメンバーにとっては最大の環境要因です。もしリーダー自身が役割に執着している場合、メンバーも同様の振舞いをするため、個々の理性と善意の生産性は発揮されにくくなります。
この話は、善意の行動化・現象化をテーマとしながら、性善説の企業経営・共同体運営はいかにして可能か?という議論でもあります。
外部の環境に左右されるのは、善意だけではありません。
悪意とされる行動も同じです。例えば、「割れ窓」理論をご存知でしょうか。
「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した理論です。
現実への応用として、軽微な犯罪を徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪率を大幅に下げることができるという考え方があります。
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ニューヨークの例
ニューヨーク市は1980年代からアメリカ有数の犯罪多発都市となっていたが、1994年に検事出身のルドルフ・ジュリアーニが治安回復を公約に市長に当選すると「家族連れにも安心な街にする」と宣言し、ケリングを顧問としてこの理論を応用しての治安対策に乗り出した。
彼の政策は「ゼロ・トレランス(不寛容)」政策と名付けられている。具体的には、警察に予算を重点配分し、警察職員を5,000人増員して街頭パトロールを強化した他、
- 落書き、未成年者の喫煙、無賃乗車、万引き、花火、爆竹、騒音、違法駐車など軽犯罪の徹底的な取り締まり
- ジェイウォーク(歩行者の交通違反)やタクシーの交通違反、飲酒運転の厳罰化
- 路上屋台、ポルノショップの締め出し
- ホームレスを路上から排除し、保護施設に強制収容して労働を強制する
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驚くべき成果です。落書きや違法駐車などの軽犯罪が、徹底して取り締まられているという状況が、殺人などの重犯罪が起こるか否かの七割近くを左右していたということです。
直観的にも分かりやすい理論です。リーダーのあり方の次元から発せられるメッセージが、偽りではないとハッキリと経験されることで、一定水準の認識量のティッピングポイントを超えたことによる現象です。犯罪者だけでなく、犯罪を犯しそうな人、さらには善良な市民たち、そして米国全土の人々までも共有していた、
「ニューヨークは犯罪都市だ」
という観念を覆したわけです。意識の全体性が認識を改めるに至ると、変化は比例的ではなく、跳ね上がるようです。リーダーシップが社会生態系を変えることに成功した好例と言えます。
既存の観念の作用、
人の心と行動、
リーダーシップの本質。
いつの時代も、それを理解した者が新たな世界を切り開くのだと思います。
参考:観念の作用、観念とパラダイムの転換
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