2013年6月9日日曜日

制約が自己の真実を悟らせ、在り方の情熱へと導く

サーカスの子象

子象が杭に鎖でつながれると、始めは命懸けで逃げようともがく。
しかしそのうち自由になることが不可能だと諦める。

一度逃げることを諦めた象は、
その後どんなに大きな体に育っても、自分の力を発揮する意思を失う。

制約とは「子象にとって」の制約に過ぎません。

子象にとっての制約を一生の制約として生きるか?
制約を乗り越えて大人象に成長を遂げるか?

「杭」は本当の制約ではありません。
制約は、それを制約と認める、自分の心の中(世界観)にあります。

杭を引き抜くのは、
あるがままに杭を洞察する目と頭、
そして何より、
自分の人生の責任を取る意思です。

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甲本ヒロトさんのインタビュー動画より


「大好きなことをずーとやり続けてるじゃないですか。
凄いことだと思います。やりたくてもやれない現実があると思うんです」


そんなことないぜ。

やればいい。


「・・・制限されるからって、そんなんに負けちゃダメだよってことですか?」


んーとね、そうなんだよ。

何かをやるためには、ついでにやらなければいけないことってのが、くっついてくるんだよな世の中。

子供の時はさ。やりたいことをやるためにくっついてくる、そのやらなければいけないことを克服できないんだよ。だからやりたいことも我慢しなければいけない。それはしょうがないじゃん。子供なんだもの。

だけど大人になると何が違うかっていうと、このやりたいことにくっついてくるやらなければいけないことを、克服できるパワーが備わってきてさ。それを全部解決していくんだな。そしてやりたいことをやる、っていうことに到達できるんだ。

それが出来るようになるのが大人だからさ。

だから十代の頃に出来なかったからといって、諦めなくていいと思う。二十歳になった、30歳になった、40歳になったときに、

あぁ、あの時に出来なかったことが今なら出来る、っていう大人になっているかもしれないじゃないか。だからもう一回でも、何回でも、チャレンジできると思うぜ。

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子供の頃に刻まれた、体験、記憶、イメージ、トラウマ。
それらは残っていて、無意識に自己を制限するものです。小象の杭の話の通りです。

甲本さんは、そういう人の心を十分に分かった上で言っています。
諦めなくていい。克服できるパワーは備わる。何回でもチャレンジすればいいよ、と。

夢はかなう!可能性は無限!と安易に言っているのではありません。

おそらく甲本さんの様な人達は、制約を克服する過程も含めて、既に「やりたいことをやっている」感覚であったのだろうと推測します。彼らは、

何をしたいか(do)という表面に情熱を持っているわけではありません。
どう在りたいか(be)という生き方に情熱を持っています。

やりたいことは、誰かに自分の価値を認めて貰って、機会を与えてもらわなければ出来ないことばかりです。しかし、在り方は無条件にいつでも選択できる。自己完結で決まる内面の話だからです。やりたくてもやれない現実はあっても、在りたくても在れない現実などありません。

自分の在り方の選択。その純度とメッセージの継続が、人の心を動かして望むような縁と機会をもたらし、やりたいことをやれるという現実を創り出すのではないでしょうか。

人は自分の在り方を模索しなければなりません。しかし、人生を通してのそれを見出せている人は多くないかもしれません。

ヒントは「今」にあります。今の在り方と人間関係に真摯に向き合うほど、自分の魂の声を聞くことになるからです。そうして、分からなかった自分の本当の願いが、ビジョンと情熱という形へと洗練されていくのだと思います。


自分の経験から言えることがあります。

僕は数年前までずっと「これがやりたい」と言えることがありませんでした。素朴な日常に幸せを感じる人間であり、それが満たされていればいい、という生き方をしていました。

それが今ではこのようなブログを書くほど、社会と向き合うことに情熱を燃やしています。

この情熱が生じる転換点となったのは、
「自分の人生に100%責任を持つ」と心に決めたことでした。

この決断によって、
自分の内にある問題から目を背けなくなりました。
日常は自分の内と外を問い続ける修行となりました。
今と向き合う=自分の在り方を模索するということを、意味のある水準で可能にしました。

自分の在り方は、一切の言い訳をせずに、内と外に全力で向き合わなければ見えてこないのだと思います。


ミスチルの桜井さんは名もなき詩で歌っています。


「あるがままの心で 生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしている」


やりたいことをやりたい。あるがままの心で生きたい。その気持ち、本当ですか?

やりたいことを貫きたいなんて、
そんな大それた望みを持たないから、
あるがままの心を我慢するから、
平穏無事に暮らす権利と保証がほしい。

心の底のどこかで、そう思っていた自分がいました。自分以外の、一体誰に、何に、どんな約束に、すがっていたのか。

贅沢を言わない。わがままは我慢する。義務を頑張る。耐える。
素朴な幸せだけで満足する。そんな勝手な自己犠牲と引き換えに、

誰かを、社会を、自分の平穏を与えてくれる手段と見なしていた卑怯さに気付く。このエゴを自覚した時点で、自分の人生に100%責任を持つ覚悟はできつつありました。

今の自分を問い続ければ、次第に真実が見えて、自己嫌悪になるかもしれません。無自覚に「我慢するから安心をくれ」という取引をしながら、嘘のない誇れる仕事をしたがっていた愚かさ。置かれた環境や目の前の現象は、決して理不尽ではありませんでした。人間関係を手段にしている自分の在り方が根底にあったから、招いた結果に過ぎないのだと悟りました。

そのような過程の中で、嫌悪した自分を赦し、多くの同じ他者を赦していきます。
人の心の弱さを知る。本当の強さを知る。

心の真実を知ることで、自分がどう在りたいのかが分かるんです。
自分の在り方への情熱は、自ずと生じていました。
まるで、新たな命が宿ったかのように。



どうしようもない制約なら気になりはしません。人は飛べないことに何故翼がないのかと悩みません。もし今制約と感じずにはいられない何かがあるのなら、それは克服できるというメッセージです。甲本さんと同じく、僕もそう信じています。


あなたの制約は、どこにありますか?




参考「あるがままの心で生きられぬ弱さを」「情熱の薔薇

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