あなたはどんな人を評価しますか。
人が人を評価するっていうのは本当に難しい。
人は多くの面を持っています。
相手次第で見せる面が異なり、立場によって振る舞いを変える。
その時々の気持ちの状態によっても全然違うものです。
あの人の性格はああだこうだといっても、
その個性や感性は、誰にも見せない過去のトラウマが本人すら気付かずに複雑に絡んでいたりもするわけですから、その人の歴史の奥を感じ取らずに分かるともいえません。
夫婦や事業のパートナーとして数年間にわたって運命共同体を続けて、
あぁようやく分かる範疇になれたと思うくらいで丁度いいかもしれません。
経験の共有の積み重ねと、時間経過の熟成過程がどうしても必要です。
ただ評価する目的を限定すれば話は別で、スポーツや仕事のパフォーマンスの高さに限定すれば評価はしやすくなります。結婚でさえも、その目的を機能的に限定するほど、価値基準は明確になりますから評価は簡単になります。お見合い相手の条件検索のように。
ただそれは人ではなく利害を見た関係です。人間関係を目的ではなく手段にする考えなので注意しないと自分に返ってきます。ギブ&テイクの取引関係であるとお互いが自覚している場合なら大人のあり方としていいのかもしれませんが。
相手の評価の範囲を都合よく狭めれば、
強い精神的な絆を求めるほどに矛盾します。
向き合うことよりも評価に関心を向けるなら、
正直な関係性を失っていくでしょう。
家庭も会社も国家も世界も、すべての人間関係に共通することです。
パートナーシップを望んでもそれが難しいのは、人物のトータルを見ないと機能しないから。人が人を本当に「見る」とは、赦し受け入れる過程を必ず含みます。
人は、自分の価値観でいっぱいいっぱいの寛容でない人には本音を打ち明けないものです。自己の価値判断をそのまま他者にぶつけるような態度に対して、適当な愛想笑いをしながら心を閉ざします。心をオープンに引き出せないならば人物を評価することは不可能です。人を評価するといっても、見せてもらえるから見えるわけです。本当に深いレベルでは。
人が心を打ち明けたくなるのは、要は大人な人。厳しさと優しさと洞察力を兼ね備えた人。自分のダメさも弱さも良さも、ありのままを見抜きながらもあえて評価を下さず、良く聞いてくれ、良き問いを投げかけてくれる人。そんな人に心を開きたくなるのではないでしょうか。
だから、人を評価することの意味を高めるほど、あるいは深めるほど、
人間的な成熟が肝要なんじゃないかと僕は思うんです。人を見るということを突き詰めれば、相手から真実を見せてもらえるに値するかを問われるということですから。
・・・とここまで言っておいてなんですが、評価という思考スタイルはあんまり使わない方がいい気がします。より大切なのは、どう評価するかではなく、どう信じるかですから。
一方で社会的な評価はどうでしょうか。
人が人を評価するとき、どんなに公正中立であろうとしても現在の自分の投影でしかありません。今の都合でコロコロ変わってしまうものです。リアルタイムで社会が下す評価もそれと同じで、その時々に生きる人々の都合と常識の投影でしかなく、気分や雰囲気でレッテルを貼る場合が多い気はします。少なくとも短期では当てになりません。
例えばホリエモン。新興IT起業ブームに沸く2005年頃、株式分割を繰り返して市場を煽ったり、球団買収やニッポン放送ごとフジテレビ買収を試みたことなどで知名度を爆発させます。マスコミだけでなく政治家もその人気にあやかってました。当時自民党幹事長の武部さんなんて選挙の際に我が息子と称したり・・・。たしか立教大学の尊敬する経営者ランキングで5位以内に入ってましたね。松下幸之助とか錚々たるメンバーと並んで。時代の寵児から一転、粉飾決算等の罪で逮捕されてどん底を経て今に至りますけど、意外にもその人気は復活してたりします。次世代を背負う若き経営者という評価ではなくなりましたが。
磔で死罪になったイエスキリストの評価は言わずもがなですが、天文対話という著書で地動説を唱えたガリレオも宗教の教義と社会秩序を脅かす犯罪者とみなされました。宗教裁判の見直しと謝罪の1965年まで。
彼より社会的な意味で賢かったコペルニクスは、地動説を出版したのは自分が死んでからでした。人生の集大成の所業を生きているうちに発表したかったに違いありませんが、世間は評価するどころか迫害してくるだろうことも分かっていたので、そっと真実を残して後世に託したのでしょう。権力体制の依って立つ世界観を揺るがせば、組織の正当性を失うことを怖れる権力者たちは正義の名の下に暴力に走り、大衆はスルーか体制に迎合するのが普通でしょうから。
ただガリレオの社会的な意味で賢くない生き方も科学の発展に重要で、彼の真理を追究してやまない精神はニュートンを始め多くの科学者に受け継がれたことでしょう。より高い意味では愚かな宗教裁判はその啓示のために必要だったといえます。真実を求め表現しようとする科学者たちの覚悟を問うために。そして真実は社会に貢献して誇らしくあり、虚構は後ろめたく残ったのちに過ちとして認めなくてはならない、という史実を残すためにも。
僕が言いたいのは、社会も長期では人を適切に評価できるということです。それはなぜか。
人は賞賛に値するかどうかを考えるとき、スポーツやビジネスの成果自体の素晴らしさだけではなく、その成功の目的(動機)を問う必要があることを皆なんとなく理解しているからじゃないでしょうか。きっと深いところでは人は人として大事なものを問わずにはいられない。成功を単純にもてはやす反応はしますが、その成功した果てに何を為そうとしているのかを示し続けてもらいたい。社会は成功者の動機を問い続ける、といいましょうか。
結局のところ後世の人々が敬愛するのは、怖れや不安の動機ではなく、真実と愛を動機とした成功者です。出来事はそのどちらを体現するのか、試し続けるように起こります。
見える成果そのもの以上に、それを含めて伝わってくるトータルな人格を評価する傾向は加速しているようです。インターネットで繋がったデジタル情報社会とは、ますます人が人を評価し合う時代だと言えます。
補足。
天動説も地動説も実はどちらも正しいとも言えます。どちらであろうとも太陽は東から西へ沈むという現象は変わらない。地球を中心として捉える見方も、太陽を中心として捉える見方も、観察者の視点の違いだけ。どちらが正しくて、どちらが間違いであるという議論はナンセンスであり、重要な問いは「どちらの解釈がより合理性が高いか」です。選択する世界観が合理的であればあるほど、様々な現象がシンプルに説明できて便利だから採用しましょうよ、という話です。「全てが相対性の宇宙において、地球が動くということは天が動くということ」
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