仕事における人間関係において、
自分の正直な気持ちを抑え、我慢してまでルールや誰かに従うとき。
それは何故なのでしょうか。
人はなぜ正直でいられないのか。
お金をもらってるんだから当然じゃないか。嫌なら自分で独立すればいいのでは。
そこまで当然視しなくても・・・と。少なくとも僕はそう思わない。
皆が皆思う通りにやったり好き勝手言ってたら、家庭も仕事も社会もまとまるわけないんだから、守るべきルールがあり、立場の違いを重んじるのは当たり前じゃないか。
と思う方も多いでしょう。確かにその通りですが、僕が知りたいのは、何故働くということは正直と相反する必要が頻繁に生じるのか、という問いの答えです。やりたいことをやったり正直でいることが即、ルールや相手の立場を重んじることと相反するわけではないのですから。
むしろ働くこと自体は「社会貢献」のはずで、もしそれが真実ならば、正直でいられない理由の方が極めて特異で例外であってもおかしくないんです。だから論理を飛躍させずに丁寧に考えたい。
社会に役立つことなら胸を張っていたいですから。いつも健全な自分であるために。もっと言えば正直であることが個人の人生においても共同体においても、最も生産性が高いと信ずるからでもあります。だから改めてもう一度。
正直でいられないのは何故でしょうか。
立場のためでもお金のためでもないはずです。それらは手段なので。不平不満をため込みながらも手段を重んじるのは、目的の大切さゆえ。大切な何かを守るためですね。
自分の生命と尊厳を、
大切に思う人々の生命と尊厳を、
彼らとの素朴で豊かな安息の日々を守るため。
多くの人が頑張っている理由は同じ。行きたくない戦争へ行き命を落とす人も同じ。大切な何かを守るため。守ることと切り離せぬ代償として、やりたくないことをやる。やりたいことを我慢する。大義のために嘘もつく。
そういう自己犠牲に100%納得していれば、それは正直であるということなので問題ありません。自由意思の選択の結果であり矛盾がありません。
僕が知りたいのは100%納得していない大半のケースです。
実はその奥にあるのは失うことへの怖れではないかと思うのです。
守るとは、失わないことを意味する。
プライドを守る、家族を守る、会社を守る、国を守る・・・
人が守ると口にするとき、その裏にはどんな怖れがあるでしょうか。
不安や恐れは、何かに依存するほど大きくなります。
会社に生活を依存する。国家や宗教にアイデンティティを依存する。恋人に精神的に依存する場合も同じ。
これが厄介なのは、極めて少しでも失う可能性を感じてしまうと、不安に押しつぶされそうな日々が続く点です。命ほど大事なものならば、失う可能性が1%でもリアリティがあれば、断固回避しなければならない危機だからです。危機の中で穏やかな幸せがあろうはずありません。
守るために何かに依存するほどに、依存する手段を守る必要性は膨大になります。
手段が機能不全に陥っても固執してしまう。
守るとは抽象的で美しいフレーズですが、ほとんどの場合は、
他者と自分に対する不信と不安が根底にあると思います。
そんなの人間であれば当たり前?
確かにそうなのかもしれません。でも違う場合もある。重要な違いが。
失うことを怖れていい。不安でいい。
大切なことは怖れを自覚すること。怖れと向き合うこと。
その上で不平不満の生じ得ない選択をすること。
他人のせいにしない生き方をすると決めて気付いたことは、
怖れは向き合うことで消え、納得のいく正直な選択ができる。
心に不自由を感じるのは、怖れから逃げて依存するから。
続いて、コントロールする側について考えてみます。
組織のリーダーは危機感を訴えます。
このままではいけない。そんな空気が上から流れて充満します。
この危機からこの組織を守れなければ、あなたは大切なものを守れない、というメッセージが頻繁に出されます。
自己犠牲を厭う人は危機感がないか自分勝手だ。そういうムードは閉鎖性の高いコミュニティであるほど止められなくなる。食品偽装や有価証券報告書虚偽記載などの企業不祥事、情報統制の国家内、戦時中の日本を想像すると分かりやすいかもしれません。
もはや竹やりで飛行機を落とす訓練を強いられても大多数が反対しないこともあり得るわけです。
誰かをコントロールするときに有効なのは
怖れと不安の世界観を共有すること。その上で
私はあなたの不安を取り除く能力と術があると思わせること。
そしてアメとムチのばら撒きが効果を発揮します。ルールの厳格化と信賞必罰の見せしめによって、怖れの世界観はますますリアリティを増していき、不安と希望を分かち合う運命共同体の我々、という認識を互いに深め合っていきます。そうして、組織の大義と上の命令に順じて我慢することが自分のためである、という理屈を飲み込んでいく。
不安を取り除く側と見なされれば、あなたは上に立ち、
不安に反応し、不安を取り除いてほしい側であれば、下に立つことになる。
どちらの立場であろうとも、
権力とコントロールは怖れによって成り立ち、不安とともに強化されます。逆を言えば、
手段に依存しなくなったときに正直なれる。
インドを植民地支配していたイギリス軍の圧政に対して、ガンジーが一切の暴力という手段を用いないだけでなく、相手の暴力手段をも怖れない精神を見せ続ける社会運動を選択したことは、極めて合理性が高かったんです。インドの独立という歴史が証明しています。支配から救ったのは、怖れない精神です。ガンジーがイギリスに管理統制されていた塩と衣服の生産を国産に戻す運動を起こして成功させたのは、1人1人の国民が依存をやめて自立心を養い、各々の心に抱く怖れの世界観を滅するためです。この辺はぜひ映画ガンジーを見てほしい。その中に非暴力運動について象徴的な台詞があります。
「彼らは死体は手に出来ても、服従は得られないのだ。」
良きリーダーは、自らは不安を感じないので組織に依存せず、他者の不安を取り除くために尽くします。権力は不要で人を動かす。
悪しきリーダーは、自らが不安を感じるため組織に依存し、他者の不安を煽ります。権力を拡大し人を動かす。独裁体制であるほど対外的な敵をつくり危機を煽るのが常套です。
前者は愛のリーダーであり、後者が支配とコントロールのリーダーです。
ガンジーとヒトラー、
キリストとカルト宗教、
リカルドセムラーとブラック企業経営者(セムラーはブラジル人気No1企業セムコの社長です)
自由(愛)か支配(怖れ)か、という真逆のリーダーシップです。
市場であれ会社であれ国家であれ手段です。
手段に依存している限り、手段を目的化せざるを得ない人生になる。
僕はというと、正直な人間関係を目的かつ手段として生活をデザインすると決めました。
正直な人間関係という手段が、目的化することは大変結構で素晴らしいからです(笑)
そろそろ簡潔にまとめをします。
正直でいられない理由は怖れ。
怖れを生じさせているのは依存。
怖れの世界観が支配する人とされる人を生み出す。
依存しなければ怖れがなくなり、
コントロールと支配が成立しなくなり、
正直な生き方が自ずと選択されていく。
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