2013年3月30日土曜日

怖れに向き合う愛のリーダー

人は、

「自分には価値がない」

「弱い自分が嫌だ」

と思いたくないがゆえに、

自らの存在価値を実感したくて、もがきます。


ときに失敗し、
ときに裏目に出てー、

いや成功しつづけていたとしても、
他者との関係性に依存して自己の存在価値を維持しなければと怖れている限り、

不安と自己嫌悪は消えません。

家族、会社、社会、お金、時代の価値観・・・
誰かとの関係性において、
自分の価値を見出さないと不安なのは経験的によく分かります。

互いが互いに存在価値を見出せたときは、
まさに両思いであり、
恋も友人も仕事も社会も、あらゆる関係性においてそのような状態は、
大きな喜びと生きがいを伴うこともよく分かります。


だから、本来はそうあるべきとして、
関係性を固定したいと、絆を求めてしまう。

絆をいつも確認できるよう、
目に見えるカタチや行動、約束を求めてしまう。


互いが互いの存在価値を偽りなく見い出せている状態では、
怖れが消えて、
愛し、愛される喜びを、
確かに力強く実感できる。


それゆえに愛を表現することは、
自分との関係性においてどれだけ存在価値を約束できるか、
ということになってしまいがちな気がします。


良い悪いの話ではありません。

人は、関係の中に安息と平和と喜びを感じます。

それは経験的事実です。


だから、
愛と執着を、気をつけなければならないと思います。


人が絆をもとめるのは、

純粋な喜びのためか。
存在価値を失うことへの怖れと欠乏感か。


それらは入り混じっていて、相互に作用しているからです。


もちろん両方があっていいのですが、
これを自覚するかしないかは大きいと思うんです。


人は人との関係性において、
自らの存在価値を実感するし、喪失感にも苛まれる。

このような関係性をめぐる喜びと不安の心理作用の葛藤を背景にして、
自分の心と相手の心を思いやって行動しあうと、
人間関係は、
あるべき絆のカタチに迫られて繕われていきます。


関係の実態である精神を問うよりも、
関係の形式が整わないことを避けようとしてしまう。

「社会貢献」、「ありがとう」という感謝、「頑張れ」という励まし等、
不安な人ほど「気遣い」や「善意」が目に見えるかどうかを気にして、
言動の「量」を水増ししてしまうように思います。
一方で、
今すぐには形で示せないが、
確かに胸に抱いている偽りのない誠実な思い、
といった孤独と静寂の内にある精神性。
それこそが絆の喜びの源泉であると思うのですが、
「絆」の形式の量と既存の流れを、維持するために、
小さな偽りを繰り返していくうちに、
誇りとともに精神は削られていってしまいます。


僕はこう思います。

絆は、
現れるものではあっても、

示すものではないし、

求めるものでもない。


きっとそれは、

信頼を選択する意思の連続であり、
互いに偽りのない心で還し合う流れであり、

それに伴う、
一体的喜びの一瞬一瞬のリアリティなのでしょうね。


人が幸せを求めて、
誰かのために生き、
社会の役にたって、
存在価値が認められて、
認め合って、喜びあって人生をまっとうしようとする。

それは正しい。

いつの時代も正しかった。

これからもそうです。


僕が大学生の頃・・・

もう8年ほど前でしょうか、

かつて親友だった妻に言いました。


「人の幸せは、人との関係性の中にある」


それは、今も間違っていないと思っています。

経験的な真実として。


やはり、存在するすべては、関係性において輝く。
関係性の中で意味を持ち、
関係性に向き合うことで意味が活かされて、
次の意味へ繋がっていく。


「いのち」とは、
生まれる前も、死んだ後も、
生きている間も、
そういうものなのではないでしょうか。



8年前の言葉を、言いなおしたいと思います。


人の幸せは、

自分の心の内に感じるが、しかし内に留まってくれない。

人との関係性に向き合うことで、

互いの「いのち」が活かされる喜びを感じるという、

互いの存在を分かち合っているリアリティの中にある。



僕はこれを真理だと思っている。

すべてが繋がってるワンネスゆえに、
自分という唯一無二な人間現象を喜んで生きるには、
個の精神であることが最も理にかなっている。


これが、存在の、そして人間関係のパラドックスです。


人は、人との関係性の中にこそ、自分の存在価値を感じる喜びが生じるー、

がしかしその関係性に執着すると、
喜びではなく、不安が付きまとってしまう。

本来の喜びへの目的を失っていく。


関係性に依存しないことが、関係性を最も喜び合う、という真理。


親子、夫婦、友人、仕事仲間、会社、市場、国家、世界、
地球の生態系、宇宙の森羅万象・・・

すべての関係がそう。
関係性に依存しないユニークな個であることが、

あえて関係性を選択する意義を最大化し、
一体である真の喜びは顕現する。

それを人は栄光と呼ぶかもしれない。

それが、ワンネスでありながら、
相対性で機能する宇宙の仕組みなのでしょうね。


いつの時代もこの理を悟った人は、
孤高であったように思います。
その精神は人間の真実であるとして、
時代を超えて人々の道しるべとして、学ばれてきました。


真のリーダーは、この理を体得した人だと僕は思うんです。


人も、物事の現象と同じで、ありのままで完璧である。

本当のあなたは、
あなた自身が思うよりも素敵だ。
もっと自分の存在に喜べることを知ってほしい。
今そうでないのは、もったいない。
自分の存在にもっと喜ぶあなたを見たい。


マスターと呼ばれる彼らは、そう思って人と向き合っています。

自分のありのままの完璧さ、
それに気付かせてあげたいと思ってやまない。

なぜなら彼らは、
人々が苦しむ問題の根源は、
自己の存在不安という「怖れ」であることを分かっていて、且つ、
それは観念によって内的・外的に作用し合う、
人々の心の共同幻想であることも見抜いているから。


そして問題の生じるメカニズムと解決プロセスを、
直観と洞察を研ぎ澄ますことによって、
知識や経験でわかるという次元を超えて、
人間という現象に対する理として悟っています。

理に気付いた彼らは、
人々の怖れを取り除く、という仕事(生き方)を全力でしたくなる。
それ自体が喜びになり、取りつかれたように取り組む。

目の前の現象は諸行無常に流れても、
理への信頼は揺るがない。

人間の内にある理(いのち・魂)を活かしたくてたまらない。



僕の考えですが、

真理を悟るとは、
人々の怖れを取り除く情熱を、必ず伴うものだと思う。

だからキリストは、
神と宗教の時代だからこそ、
神も組織宗教も人も死も怖れないことを、最高の形で示した。

だからガンジーは、
戦争が極まる国家の時代だからこそ、
集団の暴力も支配も怖れない非暴力の精神で、インドを独立国家へ導いた。

「彼らは(イギリス軍)は死体は手に入れても服従は決して得られないのだ」
と、そう言いながら。


真のリーダーの生き様を通じて、
時代を超えて伝えられてきたもの。

理性の究極でありながら、情熱の究極であるもの。

人間という現象の、
理性とエネルギーの最も美しい融合。


私たちは人として、最も美しい真理の体現を、

愛と呼んでいるのでしょう。



理を体現する愛のリーダーは、
理が司って流転する全体を、
絶え間ない愛のプロセスであるとして信頼しています。

なぜなら自分という存在が愛のプロセスであると感じるから。

自分も自分以外も、
理によって、エネルギーが相対性をもって流れ、
関係性を織り成しては多種多様な個性を顕している現象であり、
同一であることを疑いません。

そういう感覚があるからこそ、
予期しない理解不能なことと対峙しても、
理への信頼は揺るがないので、不安はありません。

不安がないから、人々の怖れと真摯に向き合うことができます。

流れの一部である自分を活かそうと、
愛(理)を動機にして、ますます情熱的になります。


無秩序にみえる説明不能な(自然も人間も含む)現象のプロセスも、
理に従っている完璧な事象であることを見抜いています。
自らが勇気で示し、
全体への信頼と、相互の信頼の輪の再生を起爆する要となろうとします。

そのような意識と言動が合理的であることを知っているからです。

怖れのリーダーは違います。
未来や人の心(という現象)のプロセスを把握・予測できないと不安であり、
自らが怖れるゆえに、
他者の怖れを取り除くために誠実に頑張るということが、
人の心(という現象)を支配・コントロールすることになってしまいます。

お金やルールや権力や時代の価値観という、
手段と、手段を活かしたコントロールに依存してしまいます。
危機感を煽り、正義や義務なる自己犠牲を訴えます。

怖れを共有する人々も、
手段であるコントロールの力を目の当たりにし、
それを救いとして加担し、依存し、
それを通じて偽りを重ねてしまい、
ますます先行きを不安に思い、
互いの振る舞いが、互いの怖れの世界観を強化しあって、
手段と権威のコントロールへの依存を深めてしまいます。

そのような意識と言動が合理的ではないことを知らないからです。


この状態が末期になった頃、
末期ゆえに幻想を見抜いた覚醒者が増えてくる。

その中から、
時代が強いる怖れの世界観に立ち向かう真のリーダーが現れて、
それを支持する人が増え、
時代はうねり、
転換点を迎える。

大いなる理によって、
人間という存在は新たな時代へと導かれていく。

マスターは、そういうプロセスの完璧さを予め知っている。

大丈夫、
現象は理に従って流れているだけだと。


だから何も心配いらないし、
絶望も罪悪感も卑下もいりません。


今の私たちが、
本来の人間として「らしくないな」と思うなら変えればいいだけです。

自分たちのあり方を振り返って、
もっと誇りを感じて喜べるはずなのにな、と感じるなら、
今それを変えればいいだけです。


あなたがそれをしなくても、
誰かがそれを始めるし、
いずれあなたもそれを認めることになる。

あなたからそれを始めても、そうでなくても、
全体の流れは理に従って、
人間の真実へ向かうだけです。


インターネットがもたらしている変化は、
そのような人間現象のプロセスの総仕上げに思えてなりません。


自分という現象の流れと、その流れを司る理は、
完璧であるという信頼の下で、

喜びのために、
自分の弱さと真摯に向き合うといいのではないでしょうか。


以上は、
僕はそのように考えている、という一つの見方にすぎません。

キリストやガンジーという偉大なマスターを例に挙げて
彼らの行動の動機や心理状態までを30手前の若者が言いきっていますが、
本当のところは分かりません。


真のリーダーを想像して、
きっとそうだろうな、と感じて僕が語ったにすぎません。


それに僕こそがそのような次世代のリーダーである、
と言いたいわけでもありません。

そうでありたいとは思いますし、
そのように最善を尽くしています。

だからといって、それを決めるのは全体の流れです。


それよりも、これを読んで下さる方々が、
それぞれの胸の内に、
そうあろうとする部分があれば素敵だな、と思ってます。




次世代のリーダーはこの時代に生きる人間から生まれます。

それを信じて疑わず、そうあろうとする人と、
その人物を信じて疑わない人々が、新たな時代の精神を共に築きます。


きっと、かつての明治維新もそうだったんでしょうね。


新しい時代の精神と、
それを象徴するリーダーを創るのは私たちです。


僕は人々の怖れに真摯に向き合う、
愛のリーダーシップを生きる人が増えることを祈っています。


2013年3月27日水曜日

今を問う② 選挙と向き合う

前回の衆議院選挙の一票の格差について、
司法の違憲審査権を軽視しているとの理由で、
選挙無効の判決が広島高裁で出ましたね。

最大で2.43倍の差だとか。



いろいろと所感はありますが、
今一度問い直したいと思うことがあります。



そもそも

選挙ってなんでしょうか。



その意義が明確になってないと、

どんな議論も非効率ですし、空転します。



僕は一国民として、
選挙制度を見直すなら、
選挙の存在意義に立ち返ってほしいと思います。



選挙の目的とは何でしょうか。


それを合理的に実現する(=健全に機能する)
選挙をデザインしたいものです。



僕の考えでは、

選挙とは一言でいうと、

人材採用です。




選ぶんですね、

相応しい人物を。


それが選挙という国家人材採用システムの目的です。


国家なる人間集団の物事を決めるのに、
相応しい人物を選択する。



企業の人材採用と同じで、
人物を観なくてはお話にならないと思います。


皆さんは人物を、
どこまで本気で観ようとしていますか。


僕は結構観たい方なので、
議員の公式サイトとブログを一番に重んじて目を通します。


それだけを以てして、
その人の価値観や生き方の深いところまでは分かりませんが、

①正直であるかどうか
②経済・社会・人間への洞察力
③信念の強さ

については概ね判断がつきます。

立候補したということは、
国家という枠組みを担うために、
それなりの生き方を積み重ねてきて、
質の高い社会ビジョンを示せるはずです。

それを示せているか否か、
文章から候補者の姿勢を感じとろうとすれば、
相応しいかどうかは掴めてきます。


ただ正直、
情報が足りない議員もかなり多いです。
もちろん情報「量」はあるのですが、
情熱と理性を感じさせる本物の言葉は、
残念ながら多くはないんですね。


ありきたりな言葉やパターン化された議論ではなく、
情熱と理性と経験に溢れているような、
自分の思考で積み上げた本物の言葉を、
民に発しようとする人物なのかどうか。


議員の公式サイトやブログを読むとき、
そういう情報を発することが出来ていない、
というのも一つのメッセージになります。

あぁ、普段から情熱をもって社会を考えていないし、
信念がないから政党の共通政策の羅列しか記述しないのだろう・・・と。

そんな人は面接する以前に、
エントリーシートで落としたいな、
と思ってしまいます。

面接できませんけどね。


自分の経験に基づいて、
自問自答を積み重ねて得た、
重厚な世界観を持ち合わせているのか。


普段政治に関心のない人でも、比較すればすぐ分かりますよ。


人は、人の真実を感じとれるものです。


人の社会の問題とその解決の話が、
人に理解できないことの方が本来は例外です。

問題が難しく見えるのは、
話しを伝える方も、受け取る方も、
言葉(観念・概念)に捉われているからです。

そのままだと議論すればするほど、
言葉が空転して混乱するばかりです。

流れれば流れるほど、
お金が空転して価値流通体系が混乱するのとなんだか似ています。


固定観念がいろいろと判断を鈍らせるのですが、
それを差し引いても、
適切に比較をすれば、
やはり人が持つトータルな直観は鋭く機能します。


真実の言葉には心を動かす力がありますし、
物事の本質はシンプルなので、
よくわかっている人が本気で伝えたいと思っているならば、
詳しくない人にもちゃんと伝わります。



さて。

国家の人材採用は、国の民が行う。

このプロセスは、
民主主義国家の大黒柱です。


民主主義が、
国家を機能させる世界観だとしたら、


選挙は、
その世界観を最も体現した制度といえます。


それを今回取り上げたのは、
ニュースを見て改めて、
自分と社会に問いたいと感じたからです。


選挙という人材採用のあり方を問うこと。

民主主義国家のあり方を問うこと。


この問題を考えるにあたって、
さらに一歩踏み込んだ問いの視点を付け加えたい。


民主主義国家の人材採用を機能させる、私たちの意識のあり方を問うこと。


民主主義という社会哲学は、
王国や封建国家よりも健全だと思います。
人間性を解放し、尊厳を重んじ、人々の自立心を養い、
結果として共同体の質を高めます。

この100年間で世界中で民主主義の思想が広まったのも、
人間社会のあり方として普遍性があり、有用だからではないでしょうか。


民主主義は古くて新しいテーマです。


外形ではなく、その質について、まだまだ課題が多いです。



選挙が人材採用であるならば、
政治の問題はつねに
私たち採用する側の問題です。


どのような人物が相応しいのか、
もし望む人物像をイメージできていないまま採用するなら、
合理性を欠く結果になるのは必然ですから。



私たちは本当に、
候補者の人物を観ていると言えるのでしょうか。


候補者の人物を観る前に、
相応しい人物像を描けているでしょうか。


相応しい人物像を描く前に、
望ましい人間社会のあり方を描けているでしょうか。


そもそも自身が、
望ましい人間社会のあり方に関心を持ち、
その実現に貢献しようとしているでしょうか。


自らが真摯にそうあろうとしていなければ、
よき人物を選べないのではないでしょうか。


選挙制度を、
一票の格差という量的な問題として扱う前に、
あるいは憲法の精神に反するか否かを考える前に、

民主主義国家の主(あるじ)として、
自らの意識に問うべき視点を持ち合わせていなければなりません。


民主主義国家がこの先100年、200年と健全に機能し続けるためには、
そのような内的な責任を、
個々人が果たし続ける先にしかありえないように思います。


この課題については、
インターネットの登場によって
偽りの通用しない世界へ加速的に向かっているので、
大丈夫であろうと楽観してます。

国家と社会経済における人材採用は、
ネットの出現によって革命的に変わっていくと思うんですが、
次世代社会に関するこの辺りの洞察はまたいずれ書きたいと思います。



ニュースを見てそんなことも考えつつ。

今日も、皆とよき社会を創っていこうと勤めてきます。

2013年3月20日水曜日

自分の生を貫くこと

僕には少し、


次世代の社会のあり方が見えています。



見えるというのは、予知でも予言でもありません。


地球と生命について、
人間という現象と存在について、
現状の社会問題について、

それぞれを洞察し続けて得た仮説です。


良き知恵を学び、
良き経験を積み重ねた結果、

自分を知り、今を知り、

その可能性の広がりと、
向かうであろう全体のベクトルが、

なんとなく分かるという感覚です。


それ以上ではないので、
高名な占い師や、バシャールの様な断言はできません。

断言はできませんが、
僕の実感(リアリティ)が確信しています。


私たちはこれから先、
次世代になろうと、どんな主義の社会になろうと、
地球を舞台にした人間の社会であることにはなんら変わりありません。


だからどのような時代であろうと心配ありません。


理性と情熱をもって、
人間の真実を貫く生き方を選択すればいい。

そのような普遍の精神を自己と向き合って養い、
気高い自分をオープンに皆と分かち合えばいい。

たくましく、誇りある生をまっとうできるはずです。


全然大丈夫です。


どんな条件でどんな環境であろうと、
真実に誠実であればいいだけですから。



根拠はありません。


天の理と人の理とは、
そのようにできているのだと確信できた、
そう悟った、というだけです。



真実は自分の心の中にあります。

自分の真実に誠実であるかどうかは、どうすればわかるのでしょうか。


胸の奥の方に響いている声を、聞けばいいんです。



良き質問があります。


これは以前の記事「死を思うことと生きること」で紹介した、
スティーブジョブズのあの言葉と同じものです。




もし今日が、
人生最後の日だとしたら。


自分の最後の日として、相応しい過ごし方をできているだろうか。




・・・・・


どうでしたか。


胸に誇りを感じながら、心の底から笑みが込み上げてきましたか。


きっとそれが、真実に生きるということなのだと思います。


僕も皆さんも、毎日そうであれば良いなと願っています。





娘はもうすぐ一歳になります。


この子の為に、僕が残せる最高の贈り物は何だろうか。


そう考えた時に浮かぶのは、
お金でも家でも思い出でもありません。


千明公司という生を貫いた精神です。


偽りのない生き方そのものが、

メッセージとして伝わり、それは

娘自身が自己の生を貫く精神を養う力となる。


そうして、父を誇り、胸に抱き続けることができる。


と、そう考えるからです。

日々を、その意義に値する一日としたい。



もし今日僕が死んだら、

このブログを妻子に読んでほしい。


10年後、20年後、30年後の娘にも読んでほしい。

親兄弟にも。孫にも。


「公を司る」と名付けてくれた、今は亡き祖父にも読んでほしい。


学生時代の友人にも。


以前勤めていた証券会社で、僕の顧客だった人にも。


一緒に働いていた同期や仲間、上司、後輩にも。


そして、

今この時代をともに生きる皆さんに読んでほしい。


風変わりな若者が、
時代の転換点で現れて、
志半ばで消えてったんだなーと思ってもらったら若者冥利に尽きます笑


過去と未来を背負わせたすべてを、
今ここの自分にのせて、
いつもブログを書いています。


そのように一日を過ごしています。




いや、今日はたまたま出来てる方なだけです笑


でも、

もっともっと、そうでありたいと願っています。





もし今日が、
人生最後の日だとしたら。




たった一つの質問で、
自分の日常と人生の意義を
トータルに問うことができます。


家族や財産を守るだとか、
見栄や損得とか、
やらなければならない義務とか、
あれがやりたい、こうなりたいとか、
そんなことの一切をすべてギュッと凝縮して、


結局、私という存在はどうあろうとしているのか?


と自身の内なる声に問うことになります。



それを突き詰めると気付くはずです。



自分が何者として、どうあろうとして、何を為したいのか。


それは、白は黒があって意味を為すのと同様に、

自分と「自分以外」を対峙させることでしか選択できません。



スピリチュアリティが言うように、
すべてはワンネスで、
縁も時も意識も、
全体の流れの中で生じる現象です。


でもその自覚だけでは、
自分を生きているとは言えないし、
本当に全体を生きているとも言えないと思う。

すべてが相対性の流れで機能する宇宙においては、
自分の生は、
自己の流れと自己以外の流れを定義して、
対峙することでしか経験しえないのではないでしょうか。


絶対のワンネスであることを信頼して、相対に対峙する生き方を選択する。

そうして、

自分の真実を生きるとは、

世界の真実を問うということになる。


それは強烈に「生」を感じることになる。


それが、

自己の真実=「生」を貫くということの意味であり、


本来の自分であるということなのではないでしょうか。




次世代への移行過程の洞察を書こうと思いましたが、
それを書くにあたっての、
僕の想いの方を書いてしまいました。

またいずれ書きます。

読んで下さりありがとうございました。

2013年3月18日月曜日

真理を求めた果てに立つ

人はこの世界を説明しようとしてきました。

自分の内と外を観て、
感じては問い続け、
思考しては試みて。

そうして天地を象(かたど)っている理への理解を深めていきました。


外側の物理現象に対してだけではありません。

自らの身体、
そして精神の内にも理があるということ。
人の生き方と社会のあり方にも理があること。
社会全体も、個々の人生と心のあり様も・・・
幸福という現象へ向かうエネルギーと流れには、やはり理がある。


自然科学と宗教と人間哲学。

いずれも真理を追究したものです。


理に近づくほど個人も社会も機能する。
人・物・事をよりよく、より高く活かすことができる。
そうして理を体現することは喜びを伴っています。
これを探求せずにはいられないのが人間なのでしょうね。


さて。

真理についてよく考えた偉人として、二宮尊徳がいます。
彼は、科学的な見地や諸行無常などの悟りについては「天道」とよび、
人の世で人として徳を積み、誠に生きる道を「人道」とよびました。
天の理と人の理の融合をテーマとして、
それを目指し実践しつづけた人物です。

江戸後期、
一農民だった彼は藩主や役人からその人格の高さと能力を買われ、
数多くの地域再生を託されました。

そして600以上に及ぶ農村の再生を手掛け、
歴史上類まれなリーダーシップを発揮して、
多くの人々を救う偉業を成し遂げました。

人民の人民による人民のための政治、と謳ったリンカーンの台詞は有名ですが、
その同時代を生きた二宮尊徳について、
当時GHQの新聞課長であるインボーデン少佐は重なって見えたようです。

「二宮尊徳翁は、日本のアブラハム・リンカーンである。
自由と民主主義を日本で初めて実践した人物である」

と称えています。


GHQの新聞課長インボーデン少佐(Major Daniel C Inboden)は、
昭和24年10月、日本青年館発行『青年』誌上に「二宮尊徳を語る=新生日本は尊徳の再認識を必要とする」を公表した。その中に次のような記述がある。

「もしあなた方が熱心に真理を求める人であるなら、いやしくも真理に関しては、新しいとか、流行外れだとかいうことはない。真理というものは時代を超越して、つねに、しかも永遠に、生々とした力をもっていることを知るだろう」

「尊徳の事業は、その精神において深遠なものであったが、【武士に非ずんば人に非ず】の封建時代に、農夫に生まれ農夫として立ったため、後で大小の藩から財政立て直しの顧問や、指導者として起用されたが、その手腕を大きく振るったとはいえない。しかし、彼の人格と意志は全国日本人の間にまだ残っているはずである。彼が数ケ町村、あるいは2~3の藩の復興に試みた方法を、今日拡大発展させ、あなた方の祖国日本再建のため用いることは、あなた方の義務であると同時に権利でもあろう。……尊徳二宮金次郎こそは、日本において再認識さるべき第一の偉人であると私は考える」

 

そして、尊徳に次のような賛辞を贈っている。

「近世日本の生んだ最大の民主主義者」
「世界の民主主義の英雄、偉人」
「世界最初の信用組合の創設者」
「日本の現状において再認識さるべき第一の偉人」と。
(二宮尊徳思想論叢Ⅲより)


思うに、占領政策の基本原則の一つReform=改革、重点政策の一つDemocratization=民主化を推進する。すなわち民主主義国家として再生させる。その手本となるべき人物が日本人の中に居るではないか。それは「二宮尊徳」だと認識していたわけである。




そんな人物だからこそ内村鑑三は、
GHQよりもずっと以前に世界へ紹介したい偉大な日本人として彼を著したわけです。

amazonの内容紹介より

内村鑑三は「代表的日本人」として、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ、その生涯を叙述する。

新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』と並ぶ、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作。内村鑑三(1861‐1930)が、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。

日本の精神を知ることができる一冊です。
世界に通用し、時代を超えて通じる彼らは、
日本の精神というより、
人間としての真実を貫く精神、と言った方が良いのかもしれません。



なんだか人間は理を求めるようにプログラムされてるみたいですね。


情熱的な人はいい。

でも情熱だけでは空回ります。
やはり理性がないと。

理性的で情熱的な人、でありたいものです。


哲学や宗教で言われる愛と、
恋愛感情の文脈で使われる「愛」は別ですよね。

「あなたの敵を愛しなさい」

という記述が聖書にあるからと言って、

「敵に好感を持て」
「敵対する人を大好きと思え」

という意味ではないことは当然です。言葉って表面では伝わらないですね。


キリスト教の神学における愛の概念は、アガペー。
理性愛と言われます。

愛といっても、感情ではありません。

敵を愛するとは、
ハートに情熱をもって、高い理性で向き合いなさい、ということ。

それがキリストの生き方のエッセンスであり、
人が人として生きる普遍の理なんです。理の体現なんです。


分かる人には分かるはずです。


二宮尊徳だけでなく、敬天愛人を説いた西郷隆盛、
非暴力主義でインド独立を果たしたガンジー。
新たな時代へ導いた偉人には同様の思想を感じるはずです。


書いてて思います。
真理は大切ですが、
真理を求める態度は、それ自体が尊いものであり、
そのプロセス自体が喜びなのだと、改めて感じます。



人体も地球生態系も宇宙も、
すべては神秘です。
肉体も精神も、人間自体が神秘そのものです。

そんな人間社会の理については未だ暗中模索なのです。

今の時代の常識がずっと続くわけではありません。

にもかかわらず、
時代の真ん中にいると、その時代に流されがちです。
水槽の魚にとって、水槽が何かは分かりません。
分からないまま枠組みに従えば、
不信を募らせ、不安に苦しみ、社会と自分を恨みかねません。
枠組みの正義の欺瞞と胡散臭さに、
憤慨したり絶望したりという反応をしがちです。
「時代の流れ」という幻想を抱いて、加担して、
その流れを現実化しているのは他でもない私たち自身なのですが。

私たちは既に、
このまま流されていては良くないのだと本当は気付いています。

時代を超えて輝いている、
人間として普遍的な精神を、いま一度学ぶ時ではないでしょうか。

いや学ぶというよりも、
自分の内には既にあるのだから、それを呼び起こす時だと思うんです。


この時代を生きる人々にとって、
怖れを生んでいる支配的な世界観の正体は何か。
バランスを欠かざるを得ない、生きる枠組みを形成させている根源とは何か。

もしそれが、お金と資本主義という観念であるのならば、
それに情熱と理性で向き合おうと思うのです。

観念それ自体に向き合うのではなく、
それを象っている人々の心の真実に、情熱と理性で向き合いたい。


だから僕は、
自由と民主主義を体現しただけでなく、
報徳金という無利子金融によって、
人の心とお金の理を活かして
地域社会を再生した二宮尊徳から学んでいるのです。


時代を超えて通用する精神でないと、
新たな時代の礎を創ることはできません。

しかし時代を超えただけでは、人々の怖れを取り除くことはできません。

時代から自立して、時代に立ち向かわなければなりません。



今私たちは、

神の時代でも、
科学の時代でも、
国家の時代でも、
民主主義と自由経済の時代でも、
グローバル資本主義の時代でも、
インターネットの時代でもあるわけです。


僕は思います。

全ては揃ったと。

彗星のごとく現れたインターネットによって、
人格に担保されたまま、情報が精査・流通・蓄積されていく。

これはいわば、
人類全体を一つの頭脳と心だとイメージすると、
脳内の神経回路が爆発的に繋がっていき、
心の波動の障壁が一気に消え去り、一斉に調和と連動を始めた状態です。

言葉と文字の発明。
活版印刷技術による書籍の普及。
通信技術の発展とインターネット。


理性ある真実の情報と、
情熱ある心の波動が届きやすくなるほど、
人類は叡智を発揮してきました。
文明と社会の在り方を高めてきました。


哲学と宗教も、言語と文字があったからこそです。
自然科学も、民主主義と自由主義経済も、書籍の流通と蓄積があったからこそです。
スピリチュアリティの広がりも、インターネットがあったからこそです。


人々の理性と情熱が、
地球規模のスケールでこれほど緊密に行き交う時代は初めてです。


混沌としていた全てのピースは、
急速に膨張するように見えて、
実は加速的に整理されている最中です。


最後のピースは、
神でも国家でも経済システムでもありません。


人間です。

そして自分自身です。


もう何かの概念のせいにはできないのです。




ある挿話を知りました。

神はこの世を創ったとき天使たちを集めてこういった。
「私は自分の姿に似せて人間を創る。彼らは想像性に溢れ、知的で善良だ。神聖なもののすべてが生まれながらの権利として彼らのものになる」
天使たちは言った。
「でも、彼らがその真実を知っていたら、人生がうまくいきすぎて退屈になるでしょう」
「ならば、私はその真実を一番高い山の頂上に隠そう」と神は言った。
「人間たちは簡単に一番高い山に登る方法を見つけるでしょう」と天使たちは言った。
「ならば、大海の一番深いところに沈めよう」と神は言った。
「人間は一番深い大海に潜水する方法を見つけることでしょう」と天使たちは言った。
そのような頭の良い生き物から真実を隠すのはどこがいいかという話し合いに熱がこもっていった。雲の中、月の上、遠い銀河の中…。やがて神はすばらしいアイディアを思いついた。
「わかった。」
「私は真実を人間の心の中に隠そう。そこは彼らがいちばん最後に探す場所だろうから」
天使たちは拍手した。そこで神はそうした。



私たちは真理を求めた果てに立っています。

僕はこの時代に生きる皆と、

今ここから

新しい時代を切り開きたいのです。

2013年3月15日金曜日

資本市場の世界観と人間性、そして次世代へ

あなたの人生で一番高い買い物は何ですか?


一般にはマイホームがあげられます。
次点で保険と言われています。


生命保険でも年金保険でも、
保険の本質は、お金の共有化です。

お金の個人での所有権を手放して、
利害を共にする他者と共有する形態に変えます。

必要でないときは、集団で管理します。
必要なときには、集団に根拠を伝えて利用権を発動して引き出します。

個人所有から集団共有へ、
集団共有から個人所有へ、という移転の約束といえます。

それら一連の流れを管理するコーディネイター(保険会社・保険組合)に
手間の対価として手数料を払い続けるというのが保険です。


つまりお金の預け方の一種になります。


なぜ共有で管理するかというと、メリットがあるからです。


それはどのようなメリットなのか、
二つ述べたいと思います。


まず本来の、素朴な意味について。

個人も共同体も、いつ困った不測の事態になるかは予測できません。
そんなとき、便利なお金を仲間に融通し合う、という助け合い(相互扶助)です。

これが文化として原始的なまま機能しているのが沖縄の模合(wiki)です。
長期の人間関係で判断される人格を根拠とする人間的な信頼によって成立します。



次に、資本主義社会であるゆえのメリットについて。


資金の量的規模を大きくすると、
資本市場においては強者として取引が可能です。


なぜなら資本市場のルールでは、
お金の量がそのまま正当性の大きさ、
として機能するからです。


「増やしたい」「減らしたくない」
という個々の善良で素朴な不安を取り除くため、
保険や預金として集められたお金は、
はたして資本市場においてどのように振舞うのか。


今日の本題は、
お馴染みの保険商品の、
その先にある資本市場についてです。
そして資本市場の世界観と、
人間社会の影響についてという大きなテーマについて述べます。



資本マーケットには多くの参加者がいます。


保険や銀行の運用部門、
公開・非公開のファンド、
機関投資家や国際金融資本といわれる彼ら資産運用のプロたちと、
彼らの取引を予想しながら所有資産の拡大を目指す世界中の個人投資家たち。


匿名性の強い資本マーケット(株、債券などの有価証券)では、
利害対立と競争が激しいため、
駆け引きや出し抜くという意識が強烈です。
勝負は一瞬で、情報が命であり、判断力と情報源が生命線です。
取引は、個人としても集団としても、
運用パフォーマンスとして歴然と勝ち負けが決まります。
戦場さながらの殺伐としたものです。
プロは自らの仕事人生と尊厳をかけて戦わざるを得ません。
託されたミッションと顧客の財産を守るため、というのは嘘ではありません。


そのような取引の場で頼りになるものは、
お金の量の大きさなのです。


そこで繰り広げられているお金の流通(金融)は、
模合のような素朴で本質的な価値を失います。


「人格に基づいた助け合いと共同体の精神からくる信頼」
によってお金が流れるのではありません。


「権利と義務の履行の確実さという信用」
「自己利益の保全と獲得を第一目的にした不安と期待」
によってお金が流れます。

そしてお金が流れれば、
その流通の摩擦コストとして、
①税金、②金融機関への手数料がかかります。

金融資産の取引量が増えれば増えるほど、
「競争の合理性」を実現する「公正な」舞台を提供する対価として、
金融業界と国家財政に手数料が流れ込みます。


もちろんお金は巡り巡るものですから、
どこからどのように流れたとしても、
一人ひとりがコストとともに恩恵を受ける機会も無数にある。
循環の全体を見ればの話ですが。


ただ僕が問いたいことは、
この資本市場の流れ方が、本当の本当に合理的なのかどうかです。

大切なのは、株価の変動でもなければ、GDPや売買額でもありません。
お金の流れる量ではなく、
お金の流れ方の質なのです。
それが経済を人間として見たときの現実だと僕は思います。


そのようにお金の流れ方を思考したときに、
いろんな疑問が浮かんできます。


このような資本市場のお金の流れ方が、
人々の意識に、
あるいは観念や人生観や世界観の形成に、
どのように作用してしまうのだろうか。


資本的成功者を繰り返し見せられた若者や大衆は、
何に憧れて、何を怖れるようになるのだろうか。


自社の株をマーケットに公開した上場企業は、
その支配権を匿名の取引行為によって決定されるわけですが、
その経営者らは、一体どのような観念を形成せざるを得ないのだろうか。
自業自得とはいえ、
資本市場に従う立場に縛られた彼らは、一体どのような苦しみがあるのだろうか。

資本市場で巨額の運用をするプロの参加者らは、
自らの尊厳を守る為にも、
「誠実」に会社と市場に全力を尽くすことになるが、
それを通じてどのような世界観を形成してしまうのだろうか。


個人も集団も、
どのような「公正な」ルールに基づいていたとしても、
制度の前提となっている世界観に合理性がなければ、
いずれは機能不全になるのではないだろうか。

ルールや制度の問題ではないのです。

法の実態は法の精神であるように。
法を改廃するのは人間の精神であるように。


既存システムの合理性を問うならば、
既存システムを支えている、人間の世界観(精神)の合理性を問わねばなりません。


個人や集団がルールに則って、どれほど誠実に尽くしたとしても、
それは部分最適でしかないのかもしれません。
部分の最適を断片的に積み上げたところで、全体が最適になるわけではありません。
もしそうであれば、
ルールの前提である世界観を問わない私たちの社会が
バランスを欠いた結果に陥っているのは当然なのではないでしょうか。


そしてこの選択をしているのは、間違いなく一人ひとりの個人であるという事実。


この世界における、
個々人の生き方の一つ一つの意識と選択が、
過不足なく反映された純然な結果でしかありえないわけです。


「お金の量は正当性の大きさである」
「公正なルールに基づく利害対立と競争は、社会全体を合理化する」
という世界観の象徴が資本市場ですが、

それは、

「お金の量がないと不安である」
「お金の量があると幸せである」
「お金の量を競うことは個人としても全体としても合理的である」
という個人の世界観と、その生き方を反映したものでしかありません。


日本だけでなく、世界においてもです。


・・・社会と経済が人間を幸せにするために機能していない・・・

果たしてそれは、

私たちに倫理感が足りていないのでしょうか。

教育の問題であり、
道徳教育がもっとなされるべきなのでしょうか。

愛国心と古き良き伝統を、
重んじてこなかったからなのでしょうか。


一人ひとりが考えてみないといけません。
私たちの社会ですから。



僕は道徳の有無のような話ではないと思うんです。

実はそうではなく、
そもそもの世界観が間違ってたから、
仕組みを間違えてしまっただけなのだと。

その上で辻褄を合せるように、
自尊心が満たされない人々が「正当性」に「誠実」に応えようと頑張るから、
世界全体が上手くいかないように見えるんです。


「私こそが世界である」と、
個人の自尊心の大きさが、所属する会社のスケールにとどまらず、
国家や世界なる巨大なイメージの産物と等しくなければ、
もはや健全な人間観による健全な世界観を創りだすことも共有することも
できないような気がするのです。


断っておきますが、この話に善悪はありません。
ただ僕の捉えた現実でしかありません。
少なくとも僕にはそのように見える、ということであり、
だからこそブログを通じて皆さんに問いを投げかけています。


私たちの創りだしているお金の流れは、既に、
とっくの昔から循環していないのではないでしょうか。


国家の民間部門に対する負債。
米国の外国に対する負債。
膨らみ続ける金融資産。

金融危機がある度に、世界の金融資産は加速して膨張するばかりです。

もはやお金の総量を増やし続けないと、
破綻するということではないでしょうか。

国家と米国と中央銀行という、
一部の組織の債務の数字を永遠と増やし続けるしか、
存続できない状態なのではないでしょうか。


存続それ自体が目的ではなかったはずですよね。

国家と資本市場というシステムは、
私たちの幸せのための手段だったのではないですか。
人間と地球のための手段だったはずです。


「物事を決めるとき、お金の量が正当性の大きさである」

という、
本当の心の内では人間として思ってもないくせに、
お金に依存する僕らはそれを肯定せざるを得なくなってしまった。

怖れから。

そのような人間的ではない世界観に基づいたまま、
怖れを正当化するように、
不都合に目をつぶり、
ルールを対症療法で強化していき、
正当性の根拠となる非合理な世界観を強めていって、
ますますお金に自己の存続と精神を依存してしまった。

数世代に渡って手段に依存しつづけた私たちは、
手段を目的としている可能性を疑わなければなりません。

手段である既存システムの正当性と存続を維持するために、
循環することなく詰まり続けているにも関わらず、
無理やり量を増やし、お金の既存の流れ方を肯定しつづける。
お金の量で物事を決めることは正しいのだ、
と言葉にせずとも現実にそう振舞っている私たちと社会は、
「利害対立と競争によって社会を合理的にできるのだ」
という正当性が欲しいだけなのではないでしょうか。

そのような、本心では思っていない世界観を前提にして、
お金という概念に依存を続けるほどに、
私たちはその世界観と本心との矛盾を強化しなければならないのです。


苦しくて辛くて当然ではないでしょうか。


そんな中で人々は、
愛する家族と平和な日常のために誠実に働いています。

この時代を背負っている大人たちは、
守るべき子供たちと、次代を担う若者たちに、
どんどんメッセージを送っています。

お金が無いと不安であり、惨めであると。

テレビを見れば、
お金があれば沢山の寄付も慈善事業もでき、
マスコミ等社会から褒められて、
なんだか人格的にも立派に見える。

そんなメッセージが何世代にも渡って発し続けられている。

お金の量的獲得に駆られて、
対立して争って、嘘とコントロールが増え続け、
互いに不安と不信を深めあっている。

本来は素朴な願いで幸せである人々の心が、その精神が、
病んでいってしまうのはもっともではないでしょうか。


本当にこのままで、対症療法を続けて、
健全に社会が機能する未来がやってくるのでしょうか。



なぜ、僕らはお金に依存してしまったのでしょうか。


人の歴史を振り返って思うんです。

私たちはいつのまにか、
自由主義経済の循環の健全さと、
資本主義経済の妥当性を混同してしまったのではないかと。

国家が管理する社会主義の失敗を目の当たりにし、
封建的な身分社会の不自由さと経済効率の悪さに辟易しながら。

戦争や奴隷が象徴するように、
権力者が人間の尊厳を恣意的に犯し続けた人類史。

国家と封建社会の失敗と、
自由を求めてそれらを克服した民主主義と自由主義経済の成功。

この史実と経験が強烈に意識にあるゆえに、
私たちは、
自由は権力の排除によって成り立つと、
勘違いしてしまったのではないでしょうか。

市場(いちば)のように自由に人間性を解放した経済が健全に機能することと、
資本の量を正当性としてルール化し、
国家や身分制度を排除して支配と所有の権利を争う自由を是とすることを。

私たちは両者を混同しているのではないでしょうか。



19世紀にはじまる10億人から70億人への人口爆発。

46億年の地球史において、
これほどの短期間である一種の生命が爆発的に増加し、
なおかつ全体の生態系に致命的な影響を及ぼす力をもった例はないでしょう。

僕は、この人口爆発が、
人間が宇宙の理を理解しはじめたからなのだと漠然と感じています。

宗教へ、
科学へ、
民主主義と自由主義経済へ、
そして個人の内的世界であるスピリチュアルへ。

それらが統合され、
本来の自由な存在へと導かれる大いなる過程にあるのだと。


私たちは地球を舞台に、
これらの壮大な人間存在の問いの流れの中に生きています。


これまで経験した資本主義の成功は、
人口爆発局面を前提してのみ成立しているにすぎません。


しかしそれも、
存在が自由へ向かうという宇宙的現象のプロセスなのかもしれません。


もしこの仮説が本当ならば、
あなたはこの流れの中で、
どのようなポジションを取りますか。
どのような生き方を選択しますか。


ぜひ考えてみて下さい。

お金の稼ぎ方、使い方、預け方について。
その流れ方の質について。
それに伴って発し合っている無言のメッセージについて。
そして、人々の心のあり様や、観念の形成に作用することについて。


そのようなことを意識しつつ、
今日も新たな世界へ向けた一日を皆さんと創っていきたいと思います。

2013年3月10日日曜日

今後書くテーマ一覧

報徳金という、人格と救済を担保にした無利子資本の循環経済システムについて


二宮尊徳という人物について


リカルドセムラーの経営とセムコという会社について


役に立つもの②


統計から見る社会考察②
生産年齢人口から見えること


日本がもし130人の大家族だったら


今を問う②
ワクチンに関する事実のまとめと健康の本質


情報が人格に担保されて流通・精査・蓄積される、ということの意味


日本の農業の現状について


世界の農業の現状について


食料廃棄の現状について


自殺と精神疾患の現状について


可能性・記憶・幻想。
それらすべてが現在という場に作用することについて


人体と地球生態系と宇宙の神秘と機能について


人材育成の観点からみる農村への留学と勤労の価値について


「命をかける」「魂を込める」ということについて


生命という現象と、
生態系という関係性が織り成す現象について


人間関係の生産性について


家族愛について


夫婦愛について


仕事愛について

2013年3月9日土曜日

生命を考えることと、自分を知ること

生命ってなんでしょうか。


生命(せいめい)、
・・・または命(いのち)。


人のいのち。
動物のいのち。

魚、虫、草木や花、
カビ、細菌、ウイルス?

無数の生物がこの世界には生きています。

生物学者に確認され、名前が付けられているのは190万種。
年間2万種ずつ増えています。
実は、確認されていない種の方が圧倒的に多いんですね。

細菌に至っては謎が多く、確認されているのはわずか5000種。
1gの土には10億以上の細菌がいて、
38000種が含まれていたというデータもあるそうで。

それら生命のすべてが絶え間なく活動し、
この地球の壮大な生態系(エコシステム)を創っています。


食の生産・流通の仕事に僕は携わっていますが、
それは生命を中心に据えた産業と言えます。

命に向き合って働く者として、
自然の生態系と調和した生産性の高い社会の実現に貢献したいという志において、
「生きる、命あるもの」について考えを巡らせることがあります。


生命とは何か。


哲学、宗教だけでなく、科学にとってもそれは大きなテーマです。


古代ギリシアの人類史最古の哲学者タレスは、
弟子に問われて答えました。

「この世界で最も難しいこととは何ですか」

「それは自分を知ることである」
The most difficult thing in life is to know yourself.


3年前にそんな話を石川県のあるコンサルタントから教えてもらった時、
あぁなるほど、と思ったものです。

生命が生命の神秘を理解することなど、到底不可能なのかも知れませんね。

同時に、人間が宇宙の神秘である人間を理解することも叶わないのでしょう。

僕らは神ではありませんから。

しかしわからなければ考えることに意味はないのか、
といわれれば決してそんなことはない。


目的によりますよね。


目的を定めれば、
合理的に機能する一つの見方を知ることができる。
その見方を洗練させ、
私たちの人生や社会に活かすことができる。

なので完全無欠な知を求める必要などありません。
考えること自体が楽しいとか、
純粋な真理を追求したいとか、
そういう態度を思考の中心に置いたりもしません。

目的を定め、
それが目的の実現に対して、
役に立つ(目的に対して機能する)考えであるかどうか。
どれほど合理性が高いのか。



命題を証明する必要はない。
機能するかどうかを問えば良い。

このような態度を機能主義といいます。

このブログはそういう思考で書いています。


戻ります。

生命とは何か、
という問いの僕の目的。

次世代の社会を担う人間として、
現代社会の問題の根本を特定し、
その解決プロセスを見出す世界観を捉えること。

問いに対する答えはまだ出ていませんが
次のようなことは本質的に言えると考えます。


生命とは、

外部に対して、エネルギーが独自の自律流動サイクル(循環)をもつ現象。
-ただし時間的・物理的に厳密に区切れる境界線はない-


果たしてこの見方が現代社会にどのように役立つのか。
今の僕ではどうやら上手く書けません。
経営、経済、金融を機能させるイメージと重なるのですが、まだまだ練りきれていません。

二宮尊徳の報徳金という資本システムが、
資本主義を次世代へ切り開くヒントに溢れていると
僕は思っているのですが、
それは生命システムや生態系との本質的類似がある、と感じてはいます。

改めて、いずれ書きたいと思います。


しかし今日はそれよりもまず、
思考のあり方について述べたかった。


「問い」は大事です。

個人も社会も、
答えを探し続けるよりも、
自らに問い続けることによって開けると思うから。

そして問うときに、
目的と機能を明確にさせるという視点は常に生産的です。


問いの答えそのもの以上に、なぜ問うのかを明確にする。

自分の本当の目的が見えくるはずです。

きっと問い続けることが、
自分を知り続けることになるのだと思います。

2013年3月8日金曜日

食による人間関係と健康と社会

あなたはこれまでに
感動するほどのレストランに出会ったことがありますか。


それはどんな店でしょうか。


ぜひ教えてほしいと思います。


単純に行ってみたいのもありますが、それだけでなく
どうして感動するのか、
他の店と何が違うのか、
その理由にも大いに興味があります。


僕もいくつかあります。
中でも一番は、前職で石川県に転勤していたころにお世話になった店。
金沢駅から5分ほど歩いた先にある「心味」さんです。

ジャンルは創作料理で、
和のテイストを中心に据え、日本的な上品さが料理に心地よく溢れているのですが、
欧風の味付けと盛りつけも存分に楽しませてくれます。
野菜へのこだわりは強く、地元農家に毎朝バイクで取りに行っているそう。
またその種類と調理法は、観るほど創り手の趣と匠を感じるものです。

何よりオーナーシェフの宮津さんが素敵です。
ランチでもディナーでも、食後の会計のあとは、
可能な限り厨房から出てきてご挨拶してくれます。
最高の笑顔で。最高の声で。(妻曰く声フェチには堪らないらしいけど笑)

お客さんと料理への深い愛が伝わってきます。
内装、テーブル、スッタフの振る舞い、メニュー、料理、器・・・それらすべてからです。
宮津さんの想いの深さ、強さ。人柄の優しさ、気品。
これまで一体どれほどのものを積み上げてきたのだろうか。
そういう諸々を思うと感嘆せずにはいられません。

この店は僕のなかで、本物のサービスを語る上での確かな基準となっています。


さて。

美味しいものを食べているときって、
心から幸せを感じますよね。


それも素敵な雰囲気のお店で、
一流のシェフによる料理を、
心のゆき届いたサービスとともに提供され、
大好きな人と楽しい会話をしながら食事をする。
なんて、まさに至福のときです。


なんだか思い浮かべるだけでも幸せな気分になってしまいます。


仕事で社内外のキーパーソンと仲良くなりたいとき、
誰かと大切な事を本音で話したいとき、
恋愛において素敵な彼(女)にアプローチするとき、
やっぱり食事が一番ですよね。

エスコートした店で料理とサービスの感動を共有できたら
それがたった一度のチャンスだったとしても、驚くほど心理的な距離は近づくものです。


そういえば男性が結婚を考える女性に望むことのうち、
「料理が上手いこと」のポイントは昔っから根強い人気があります。


誰かを祝ったり皆でパーティする等の特別なときだけでなく、
なんでもない日常生活においても、
食事のクオリティが高いということは重要だということでしょう。


医食同源という言葉もあります。

日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで、
病気を予防し治療しようとする考え方です。

3000年程前の中国(周)では、薬や執刀をする内科医や外科医よりも、食医が最上位に位置されており、皇帝の健康管理を任されていました。
ご存知の方はイメージしやすいと思いますが、
韓流ドラマの『チャングムの誓い』の主人公がまさにそれです。(このドラマ父と母が大好きなんです)

予防と養生が大事である、ともよく聞きます。
悪い症状が出てから何とかする対症療法は、身体への副作用の負担と医療費が大きい。そもそも対症なので、根治を目的にしない治療であることも多い。(風邪薬もそう)
だから本質的な健康維持は予防にあり、その中核は食事にあると。

医療コストを比較すると、
病になる前の予防医療に比べ、
病になった後の対症治療は100倍の社会コストがかかる、と言われています。

そして現代医療の大半は対症医療であり、
国民医療費は約38兆円であり、年々過去最高を更新しているのが現状です。

健康を求めたとき、
日々の食事の質を高めることが最も合理的であり、
それこそが医療の最高峰といえるでしょう。



さらに。



食の生産のあり方、
食の分配のあり方、という視点。

そこまで見方を広げていくと、
自然環境と経済の持続可能性。
共同体の緊密化と平和の安定。
・・・という一大テーマになります。

世の社会問題の根本的解決にも辿り着きます。

一例をあげます。

江戸後期の二宮尊徳(金次郎)。1787年生まれ-1856年没
薪を背負って本を読んで歩いている彼ですね。
戦前では勤勉の象徴として、
日本全国の小学校にその姿の銅像が建てられていました。

19世紀はじめ、日本の農業は悲惨な状態にあったそうです。
長期にわたる泰平の世の果てで、あらゆる階級で贅沢と散財がなされ、人々に怠惰の心が蔓延って田畑は荒れていた。真面目に働く民も少なくなっていき、土壌の生産性も落ち、多くの地域で収入は3分の2になっていた。彼はそんな荒廃と貧困に苦しむ農村を再生した。その数600以上に及びます。


なぜそれが可能だったのか。

第一に、道徳と信念の強さ。

第二に、農業を中核にした実学と自然摂理の理解。

第三に、報徳金という救いと人格を担保にした無利子金融。


今回は一についてのみ述べます。
あるとき尊徳は藩政の執行をしていた国家老に対して講話を行いました。
偉い官僚と政治家に、各地で地域再生の実績をあげている民間のリーダーが、食糧難という国家危機についての現実的なアドバイスをするというシーンです。

『手立てに困った時の飢饉の救済法』

内村鑑三著「代表的日本人」より引用

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「国が飢饉をむかえ、倉庫は空になり、民は食べるものがない。

この責任は、治者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。

民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。

その職務の報酬として高録を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのであります。

ところが今や、民が飢饉におちいっているのに、自分には責任はないなどと考えています。

諸氏よ、これほど嘆かわしいことを天下に知りません。

この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、

もしできない場合には、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります。

ついでに配下の大夫、郡奉行、代官も同じく食を断って死すべきであります。

その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからであります。

飢えた人々に対して、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。


『ご家老様と奉行様が、もともとなんの責任もないにもかかわらず、私たちの困窮のために責任をとられた。
私たちがおちいっている飢饉は、豊かなときに備えようとはせずに、贅沢と無駄遣いをしたためだ。
立派なお役人らをいたましい死に追いやったのは私たちのせいである。私たちが餓死するのも当然だ』


こうして飢饉に対する恐れも餓死に対する恐怖も消え去るでありましょう。

心は落ちつき、恐怖は除かれ、十分な食料の供給も間もない。

富める者は貧しき者と所有を分かち、山に登って、木の葉、木の根も食べることになりましょう。

たった一年の飢饉では、国にある米穀をすべて消費しつくす心配はありません。

山野には緑の食物もあることです。

国に飢餓がおこるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。

これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。

弾丸をこめてない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃ち落とすことがあるように、

食料不足の年には、飢餓の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。

したがって、治める者たちがまずすすんで餓死するならば、

飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて救われるでありましょう。

群奉行や代官にいたるまでの犠牲をまたずに、よい結果が訪れると思います。

このためには家老の死のみで十分であります。

諸氏よ、これが、なんの手立てもないときに飢えた民を救う方法であるのです。」

  講話は終わりました。家老は恥じて恐れいり、長い沈黙ののちに言いました。

  「貴殿の話に異議はない」

-----------------------------------------------------------------------

このような強い信念と言葉で、
領主と官僚らに農村の年貢を下げる交渉をする一方で、
農民らに勤労と道徳の大切さを説いて導いていきました。


彼をこういう人もいます。


日本が生んだ偉大な事業再生家。



たとえ飢餓に陥る心配のない現在の日本にあっても、
食の重要性は変わりません。

①食べ物がなくなって生活苦に陥る潜在意識の恐れが、社会を非効率にしている。

②他国では食糧難があり、食の事業と自立支援が世界の平和と自国の尊厳を最も高める。

と僕は考えています。

だからこそこの分野において
最高のクオリティを追求しつつ、社会創造を志す事業には、
次世代を切り開く大きな可能性を秘めていると考えている。

今世紀のリーダーたる企業、あるいはリーダーたる共同体は、
「食」を中心に据えていることでしょう。


話がどんどん大きくなってしまいましたね。


結局言いたいことは、
それだけ食事というのは、
日常と人生と世界を左右するほどに重要だということです。

健康においても、人間関係においても、社会においても。
最も素朴に幸福を象徴するシーンでありながら。


食の事業を担い、
働き、
学べていることに、
誇りと感謝を感じて。

2013年3月3日日曜日

死を思うことと生きること

週末のフールという本をご存知ですか?

伊坂 幸太郎さんの小説です。



amazonの内容紹介より
八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。
そう予告されてから五年が過ぎた頃。
当初は絶望からパニックに陥った世界も、
いまや平穏な小康状態にある。
仙台北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちも同様だった。
彼らは余命三年という時間の中で人生を見つめ直す。
家族の再生、新しい生命への希望、過去の恩讐。
はたして終末を前にした人間にとっての幸福とは?
今日を生きることの意味を知る物語。





かなり面白いです。

世界の終末という背景を同一にした短編集で、まだその二つ目を読み終えたばかりですが。




死を意識した人々の心の変化を以て、

生き方や人間関係のあり方を問う小説のようです。


作品に関する著者のインタビュー記事があります。(s-woman.netより)

――やられました。パニックのど真ん中ではなくて、隕石衝突の3年前の、なぎの状態を描くという設定が、ユニークですね。

「そうですか! そこは僕にとって一番のキモなんですよね。パニック映画や世界の終わりを描く作品はたくさんあると思うんですが、そうじゃなくて、あと3年で地球が終わるという、結構微妙な状態を描く。その小康状態を描きたい、というのは強くあって。
いきなりですけど、僕自身も事故にあったりして、明日死ぬかもしれないじゃないですか。そうじゃなくても、いつかは必ず死ぬ。それこそ3年後に死ぬかもしれない。それなのに、今、全然ビクビクしないで普通に生きていますよね。別にパニックに陥ったりもしていないし。それって“3年後に隕石が落ちてくる”というのと、どこか似てると思うんですよ」


伊坂さんは「生きることと死ぬこと」を一番大きなテーマにしているそうです。


生きるとはどういうことなのか。


それは死を思うことによって鮮明に問うことが出来るのかもしれません。

終末のフールを読んでいて思ったのですが、
死という大きな運命を受け入れると、
実は不安がなくなって問題を先延ばししない決断をしやすくなり、
人は自分の心にどんどん正直になっていくのではないでしょうか。
同時に人間関係も人生も、本来の自然なあり方や自由さを取り戻していくのだと思います。


と、ここで話は終わりません。

死を思うことは、もっと深く、濃く、起爆的な意義すらありえるようです。


スティーブジョブズの有名なスピーチをご存知でしょうか。
2005年6月12日に行われた米国スタンフォード大学の卒業式での彼の言葉はとても素晴らしいものです。彼が世界中から尊敬される経営者である所以が垣間見えるものとなっています。

youtubeで検索すればすぐ見られます。内容は三つです。

ひとつ、点と点を繋ぐことについて。
ふたつ、大切なものとそれを失うことについて。
みっつ、死について。

三つめの死について話は次の様に始まる。

わたしは17歳のとき次のような一節を読んだ。

「毎日を人生最後の日であるかのように生きなさい。
やがて必ずその通りになる日がくるから」

学生(笑)

それは私にとってとても印象的でした。

それから現在に至るまで33年間、わたしは毎朝鏡を見て自分に問いかけてきました。


「もし今日が人生最後の日だとしたら、
今日やる予定のことを私は本当にやりたいと思うだろうか」と。

それに対する答えが"NO"の日が幾日も続くと、
そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。



このスピーチの最良の評論が、
沖縄の事業再生家である樋口さんのツイートにあります。


樋口耕太郎 ‏@trinity_inc

スティーブジョブズが亡くなったという報道を聞いて、「CEOを退任してから随分突然に亡くなってしまったね」という人がいたのだが、それは解釈が違う。彼は自分の命の限界まで、自分が心からやりたいことをし続けた人物なのだと思う。もちろん自分の死期が近いことも知っていただろう。

「自分の死が間近に迫っているのであれば、仕事などせずに、本当に好きな、やり残したことをすれば良かったのに」という人もいた。これも解釈が違う。彼は、人生があと一日だけ残された日に、心からやりたいことを彼の「仕事」にしていただけだったろう。

彼の死がこれほど大きな衝撃を世界中に与えている理由は、アップルが生み出した数々の洗練された商品群にも増して、彼の鮮烈な生き方が多くの人の強い共感を生んでいるからだろう。そして、彼の「生」がこれほどまでに鮮やかだったのは、彼が17歳のときから死に向き合い続けたからだと思う。

彼の有名なスタンフォード大学でのスピーチで、彼が17歳のときに強烈な印象を受けた言葉を紹介している。「毎日を人生最後の日と思って生きれば、いつか必ずその通りの日がやって来る」

彼が非凡だったのは、その日から恐らく昨日まで毎朝鏡を見つめて「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日自分がしようとしていることを本当にしたいだろうか?」と自らに問い続けたことだろう。

彼は、世の中の多くの人が忌み嫌い、向き合うことを避け、意識からできるだけ遠ざけようとする「死」という概念を、自分の「生」を最も鮮やかに機能させるための最良のツールとして携え、人生を歩んできた。

彼はスピーチの中で「死はおそらく生の最高の道具」と語ったが、私はこの一節がこのスピーチ最大の名言だと思う・・・不思議なことに、これだけ彼の話題一色のネット上で、誰も引用していないようだが。

「死は生のチェンジエージェント」自分自身を生きるために、人を心から愛するために、社会に真に貢献するために、覇道ではなく王道を歩むために、障害となる人生の数々の荷物・・・他人の価値観、しがみついている固定観念、数々の執着、虚栄や恐れなどを手放すために最も有効な道具でもある。

彼のスピーチの一節にはこうあります。
「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。

…何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。

…そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

…君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。」

死を見つめよう。生を燃え立たせるために。死は忌まわしき概念ではなく、生に命を吹き込む最良の友人だ。今日は自分の最後の日として相応しい一日になるだろうか?

(スティーブ・ジョブズに捧げる)




「今日を生きる」ということ。

それは誰もがしていることです。

しかし大事なことは、それをどれだけ深くしているのか。

今が良ければいい、
とはまるで違いますよね。

「最後の日として相応しいだろうか」と
死を思って自分という存在に問いかけ、
未来も過去も背負わせたすべての重心を「今日」「自分」にのせて生きるということ。


世界が最も覇道に満ちていた帝国主義の時代、
インドを独立に導いたガンジーはこう言いました。

Learn as if you will Live Forever,
Live as if you will Die Tomorrow.

永遠に生きるかのように学べ。
明日死ぬかのように生きよ。


どのような時代であろうと、どんな分野であろうと、
このように生きる人たちが次世代を切り開くのではないだろうか。


自分の死を思うレンズを通じて、
自分を生きるということがより見えてくる。

見えてくるから、開けるのだろう。

それを突き詰める人生を選択するのであれば、

今置かれている苦難を乗り越えていけるだけでなく、

人々の希望を託される存在として輝き、

ひょっとしたらあなたこそが世界を変えることができるのかもしれません。


死を思うときに重要なことは、
自分に問う生き方を選択すること。

自分の外側と未来に答えを追い求めて生きるのか。
自分の内側と今に問いかけて生きるのか。


僕はこの二年間で前者から後者になって世界観と生き方は大きく変わりました。

人生で機能するのは「答え探し」ではなく「問い」である。
そう実感しています。

その結果はこれから現れると信じます。


偉大な先人達が述べてくれているように、
「今ここの自分」というすべてを秘めた可能性に対して、
死を思うほどに重心をグッと寄せて、
真っ向から問う日々を続けていこうと思う。

2013年3月1日金曜日

人が人を育てるということ

家庭で大切なことの一つとして
子どもの教育があります。

人が人を育てるということですが、
それってつまり、どういうことでなのでしょうか。

例えば子育てにおいて、
あなたが最も重んじていることは何ですか。

家庭教育のゴールを、どのようにイメージされていらっしゃいますか。


僕は一児の父です。
去年生まれてくれた娘のためにも、
そんな問いにちゃんと答えられる自分でありたい。
妻の妊娠が分かった頃から、
以前にも増して教育について深く考えるようになりました。

近年、文科省は「生きる力」を謳っています。
そのコンセプトにおいて、
新学習指導要領の全面実施がなされ始めました(小学校:平成23年度、中学校:平成24年度、高等学校:平成25年度の入学生から実施) 興味のある方は生きる力と題されたパンフレットをご覧ください。

新しい学習指導要領は子どもたちの現状をふまえ、
「生きる力」を育むという理念のもと、
知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。
これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。
次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。

そのような思いで新しい学習指導要領を定めました。
「生きる力」を育むためには、

学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。
子どもたちの未来のために。
新学習指導要領、スタート。


だそうです。

次に最近の記事を一つ。

2012年5月8日、読売新聞より抜粋
就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、
昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、

翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。
10~20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは07年は60人だったが、08年には91人に急増。
毎年、男性が8~9割を占め、昨年は特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。


就職活動の失敗を理由に150人もの人が自殺しています。


あえて「生きる力」と「自殺」の両極のワードで取り上げてます。


就職が決まらないことで人生は終わりだと絶望する若者が増加している現実があり、
その一方で、
生きる力に焦点を当てた教育改革をする文科省の立場がある。



ただ世界を見れば、
毎日25000人が餓死している現実がありますね。

彼らは何故生きられなかったのでしょうか。
生きる力がなかったからでしょうか。
生きる力って果たして何でしょうか。
そもそも生きるとは何でしょうか。

問いっぱなしで続けます。

続いて、僕が実際に読んだ本。

なぜか3兄弟全員が東大合格! 「勉強しろ」と絶対言わない子育て  後藤眞智子著

参考になりました。
良い大学に入れる目的なんてなくとも内容がいいです。
勉強しろと言わずに、
3人とも東京大学に入れるだけの学力が身に付いたのは、もはや偶然ではありません。
家庭教育の質を高めている日常的な何かが必然としてありました。
後藤さんの母としての考えと振る舞いにヒントがあります。
親も子も、
良い大学に入るという手段を一切目的化せずに、
結果的に3分の3という100%の確率で、
最高峰の大学に入れた家庭教育の実話だからリアルで面白い。

あと、おまけで安倍さんの公式サイトにある教育再生の項目
・・・一応見とくだけ見といていいかなと。首相ですし。



ここまで読むうちに、
いろいろと思うところがあったと思います。


僕の意見はこうです。


家庭教育のゴールとは、子どもが社会から自立すること。


自立とは依存しないということで、
つまり親の後ろ立てがなくなっても全く問題ないこと。
全く問題ないとは、
一人でも時と場合を問わず、人間関係を築いて深めて、幸せに生きていけるということ。
自由意志の選択で、自分を誇らしく思える仕事を見出して働けること。
そういう自信がある精神状態であることを、自立と考えます。

これをもう少し突き詰めると、
家庭からの自立ではなく、社会からの自立になります。
どの会社であろうと、
どの国であろうと、
どの文化であろうと、
どの時代であろうと、
普遍的に通用する人間であること。

教育基本法第一条、教育の目的でいう「人格の完成」はそういうことです。僕の考えでは。
つまり既に「生きる力」は示されているんですね。
法律のトップ項目で。

内村鑑三の名著『代表的日本人』(中江藤樹)からの引用です。
『私どもが学校教育で学ぶことは、力は正義ではないこと、天地は利己主義の上に成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。その他多くのことを知った。学校教育の目的について、第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。それを、真の人、君子と称した。さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』
これがまさに結果的に「生きる力」になるのではないでしょうか。
養うべき根本は人格であると信じます。
相当に高いゴールです。
僕自身が人間として修練を積んでいる最中ですから。

しかし人は人に育てられる以上に、
自分で自分を育くむ存在です。

外部から導けるのは、きっかけでしかありません。
教育を過信し、育てる立場であることに驕ってはなりません。
心を強制することも、精神の成長をコントロールすることも出来ないからです。
それが出来るのは本人の信念だけです。

大人が若者にできることは、
自分で自分を育むことを通じて、
自分で自分を育む精神を伝えること。

親が自らの人間的成長と社会貢献に本気で取り組んで生きる日常そのものが、
子供にとって最高の教育環境です。
子供にとって最大の糧であり誇りであり財産です。
今日の自分の生き方が、家庭教育のスタートでありゴールだということです。




人は生き方でしか、本当に意味のある水準で伝えることは出来ない。




道徳。
誠実。
愛。

学校の授業時間を増やして本当に教えられますか?
優れた教材があれば本当に伝わるのでしょうか?

違いますよね。

そのような価値を自らの信念として行動している人だから自ずと伝わるのであって、
そうでなければ伝わらないものです。
どれだけ時間とお金をかけても不可能です。
人間の最も深い価値は、人間の偽りのない生き方でしか伝えられません。
スティーブジョブズの内にある"Think different"の価値が、
彼の偽りのない生き方によって世界中に伝えられたように。




子どもに勉強が大切だと言ったところで勉強しません。

自分自身が勉強は大事であると信じて、
現に日々そうしていて、
楽しく学んでいて、
有意義に活用して人を幸せにして、
感謝されて自分も喜んで、
幸せな人間関係を築いている。
そういう現実のプロセスを見て聞いて感じとれた上で、
「勉強が大切だぞ」って言うから伝わるのではないでしょうか。


もはや方法論ではありません。

人が人を育てるということの深さについて、
私たちはもっと考えなければならないのではないでしょうか。

家庭人としても、
次世代の社会を担う人間を育てる大人としても。

次世代の社会を担う若者として

ブログタイトルを変えました。

それまでの「Be the change you want to see in the world」は副題としました。


変更したのは、ブログを書く意識の起点が定まったから。

いま僕は28歳です。

社会ではやっぱり若者で、自分の未熟さを痛感することも多い。

この世界を担うには、
まだまだ至らぬ人間であることを認めます。

それでも、
この社会は問題だらけであると確信している。
それと同じくらい自身も問題だらけであることも。

だから自分を問わずにはいられない。
自分を問うことを通じて、
社会を問わずにはいられません。

問題があるから不幸であるとは少しも思いません。
そうではなく、
人は問題から逃げるから不幸になります。

心が正直に問題だと感じているにも関わらず、
ごまかしたり、
蓋をして見ないようにしたり、
こそこそやり過ごして自分の運命を他人に依存してしまえば、
自分で自分を尊く思えなくなります。

そうして怖れと不安に負けて、
自尊心を失うことこそが、
あらゆる不幸の源泉であるという真理を僕は分かっています。


ここは僕が自己を尊ぶために、
自分と社会を問うブログと定めました。


未熟な若者として、
謙虚に、
誠実に、
愛をもって、
自分と社会を問いかけていきます。
オープンに。
嘘をつかずに。
正直に。

果たして僕は次の世代を担う若者として
世間で認められるだけ価値のある問いと、思考と、
その実践ができるだろうか。

自分を試したい。
社会から試されたい。
そのプロセスを経て、
信頼され、託されたい。

この社会を担っているあなた達から、
君に託したいと
言われるに値する人物になりたいです。

だからここで
次世代を開く若者として名乗りを上げたい。


Be the change you want to see in the world.


ガンジーの言葉です。
「あなた自身が、この世界で見たいと望んでいる変化そのものであれ」