2013年3月30日土曜日

怖れに向き合う愛のリーダー

人は、

「自分には価値がない」

「弱い自分が嫌だ」

と思いたくないがゆえに、

自らの存在価値を実感したくて、もがきます。


ときに失敗し、
ときに裏目に出てー、

いや成功しつづけていたとしても、
他者との関係性に依存して自己の存在価値を維持しなければと怖れている限り、

不安と自己嫌悪は消えません。

家族、会社、社会、お金、時代の価値観・・・
誰かとの関係性において、
自分の価値を見出さないと不安なのは経験的によく分かります。

互いが互いに存在価値を見出せたときは、
まさに両思いであり、
恋も友人も仕事も社会も、あらゆる関係性においてそのような状態は、
大きな喜びと生きがいを伴うこともよく分かります。


だから、本来はそうあるべきとして、
関係性を固定したいと、絆を求めてしまう。

絆をいつも確認できるよう、
目に見えるカタチや行動、約束を求めてしまう。


互いが互いの存在価値を偽りなく見い出せている状態では、
怖れが消えて、
愛し、愛される喜びを、
確かに力強く実感できる。


それゆえに愛を表現することは、
自分との関係性においてどれだけ存在価値を約束できるか、
ということになってしまいがちな気がします。


良い悪いの話ではありません。

人は、関係の中に安息と平和と喜びを感じます。

それは経験的事実です。


だから、
愛と執着を、気をつけなければならないと思います。


人が絆をもとめるのは、

純粋な喜びのためか。
存在価値を失うことへの怖れと欠乏感か。


それらは入り混じっていて、相互に作用しているからです。


もちろん両方があっていいのですが、
これを自覚するかしないかは大きいと思うんです。


人は人との関係性において、
自らの存在価値を実感するし、喪失感にも苛まれる。

このような関係性をめぐる喜びと不安の心理作用の葛藤を背景にして、
自分の心と相手の心を思いやって行動しあうと、
人間関係は、
あるべき絆のカタチに迫られて繕われていきます。


関係の実態である精神を問うよりも、
関係の形式が整わないことを避けようとしてしまう。

「社会貢献」、「ありがとう」という感謝、「頑張れ」という励まし等、
不安な人ほど「気遣い」や「善意」が目に見えるかどうかを気にして、
言動の「量」を水増ししてしまうように思います。
一方で、
今すぐには形で示せないが、
確かに胸に抱いている偽りのない誠実な思い、
といった孤独と静寂の内にある精神性。
それこそが絆の喜びの源泉であると思うのですが、
「絆」の形式の量と既存の流れを、維持するために、
小さな偽りを繰り返していくうちに、
誇りとともに精神は削られていってしまいます。


僕はこう思います。

絆は、
現れるものではあっても、

示すものではないし、

求めるものでもない。


きっとそれは、

信頼を選択する意思の連続であり、
互いに偽りのない心で還し合う流れであり、

それに伴う、
一体的喜びの一瞬一瞬のリアリティなのでしょうね。


人が幸せを求めて、
誰かのために生き、
社会の役にたって、
存在価値が認められて、
認め合って、喜びあって人生をまっとうしようとする。

それは正しい。

いつの時代も正しかった。

これからもそうです。


僕が大学生の頃・・・

もう8年ほど前でしょうか、

かつて親友だった妻に言いました。


「人の幸せは、人との関係性の中にある」


それは、今も間違っていないと思っています。

経験的な真実として。


やはり、存在するすべては、関係性において輝く。
関係性の中で意味を持ち、
関係性に向き合うことで意味が活かされて、
次の意味へ繋がっていく。


「いのち」とは、
生まれる前も、死んだ後も、
生きている間も、
そういうものなのではないでしょうか。



8年前の言葉を、言いなおしたいと思います。


人の幸せは、

自分の心の内に感じるが、しかし内に留まってくれない。

人との関係性に向き合うことで、

互いの「いのち」が活かされる喜びを感じるという、

互いの存在を分かち合っているリアリティの中にある。



僕はこれを真理だと思っている。

すべてが繋がってるワンネスゆえに、
自分という唯一無二な人間現象を喜んで生きるには、
個の精神であることが最も理にかなっている。


これが、存在の、そして人間関係のパラドックスです。


人は、人との関係性の中にこそ、自分の存在価値を感じる喜びが生じるー、

がしかしその関係性に執着すると、
喜びではなく、不安が付きまとってしまう。

本来の喜びへの目的を失っていく。


関係性に依存しないことが、関係性を最も喜び合う、という真理。


親子、夫婦、友人、仕事仲間、会社、市場、国家、世界、
地球の生態系、宇宙の森羅万象・・・

すべての関係がそう。
関係性に依存しないユニークな個であることが、

あえて関係性を選択する意義を最大化し、
一体である真の喜びは顕現する。

それを人は栄光と呼ぶかもしれない。

それが、ワンネスでありながら、
相対性で機能する宇宙の仕組みなのでしょうね。


いつの時代もこの理を悟った人は、
孤高であったように思います。
その精神は人間の真実であるとして、
時代を超えて人々の道しるべとして、学ばれてきました。


真のリーダーは、この理を体得した人だと僕は思うんです。


人も、物事の現象と同じで、ありのままで完璧である。

本当のあなたは、
あなた自身が思うよりも素敵だ。
もっと自分の存在に喜べることを知ってほしい。
今そうでないのは、もったいない。
自分の存在にもっと喜ぶあなたを見たい。


マスターと呼ばれる彼らは、そう思って人と向き合っています。

自分のありのままの完璧さ、
それに気付かせてあげたいと思ってやまない。

なぜなら彼らは、
人々が苦しむ問題の根源は、
自己の存在不安という「怖れ」であることを分かっていて、且つ、
それは観念によって内的・外的に作用し合う、
人々の心の共同幻想であることも見抜いているから。


そして問題の生じるメカニズムと解決プロセスを、
直観と洞察を研ぎ澄ますことによって、
知識や経験でわかるという次元を超えて、
人間という現象に対する理として悟っています。

理に気付いた彼らは、
人々の怖れを取り除く、という仕事(生き方)を全力でしたくなる。
それ自体が喜びになり、取りつかれたように取り組む。

目の前の現象は諸行無常に流れても、
理への信頼は揺るがない。

人間の内にある理(いのち・魂)を活かしたくてたまらない。



僕の考えですが、

真理を悟るとは、
人々の怖れを取り除く情熱を、必ず伴うものだと思う。

だからキリストは、
神と宗教の時代だからこそ、
神も組織宗教も人も死も怖れないことを、最高の形で示した。

だからガンジーは、
戦争が極まる国家の時代だからこそ、
集団の暴力も支配も怖れない非暴力の精神で、インドを独立国家へ導いた。

「彼らは(イギリス軍)は死体は手に入れても服従は決して得られないのだ」
と、そう言いながら。


真のリーダーの生き様を通じて、
時代を超えて伝えられてきたもの。

理性の究極でありながら、情熱の究極であるもの。

人間という現象の、
理性とエネルギーの最も美しい融合。


私たちは人として、最も美しい真理の体現を、

愛と呼んでいるのでしょう。



理を体現する愛のリーダーは、
理が司って流転する全体を、
絶え間ない愛のプロセスであるとして信頼しています。

なぜなら自分という存在が愛のプロセスであると感じるから。

自分も自分以外も、
理によって、エネルギーが相対性をもって流れ、
関係性を織り成しては多種多様な個性を顕している現象であり、
同一であることを疑いません。

そういう感覚があるからこそ、
予期しない理解不能なことと対峙しても、
理への信頼は揺るがないので、不安はありません。

不安がないから、人々の怖れと真摯に向き合うことができます。

流れの一部である自分を活かそうと、
愛(理)を動機にして、ますます情熱的になります。


無秩序にみえる説明不能な(自然も人間も含む)現象のプロセスも、
理に従っている完璧な事象であることを見抜いています。
自らが勇気で示し、
全体への信頼と、相互の信頼の輪の再生を起爆する要となろうとします。

そのような意識と言動が合理的であることを知っているからです。

怖れのリーダーは違います。
未来や人の心(という現象)のプロセスを把握・予測できないと不安であり、
自らが怖れるゆえに、
他者の怖れを取り除くために誠実に頑張るということが、
人の心(という現象)を支配・コントロールすることになってしまいます。

お金やルールや権力や時代の価値観という、
手段と、手段を活かしたコントロールに依存してしまいます。
危機感を煽り、正義や義務なる自己犠牲を訴えます。

怖れを共有する人々も、
手段であるコントロールの力を目の当たりにし、
それを救いとして加担し、依存し、
それを通じて偽りを重ねてしまい、
ますます先行きを不安に思い、
互いの振る舞いが、互いの怖れの世界観を強化しあって、
手段と権威のコントロールへの依存を深めてしまいます。

そのような意識と言動が合理的ではないことを知らないからです。


この状態が末期になった頃、
末期ゆえに幻想を見抜いた覚醒者が増えてくる。

その中から、
時代が強いる怖れの世界観に立ち向かう真のリーダーが現れて、
それを支持する人が増え、
時代はうねり、
転換点を迎える。

大いなる理によって、
人間という存在は新たな時代へと導かれていく。

マスターは、そういうプロセスの完璧さを予め知っている。

大丈夫、
現象は理に従って流れているだけだと。


だから何も心配いらないし、
絶望も罪悪感も卑下もいりません。


今の私たちが、
本来の人間として「らしくないな」と思うなら変えればいいだけです。

自分たちのあり方を振り返って、
もっと誇りを感じて喜べるはずなのにな、と感じるなら、
今それを変えればいいだけです。


あなたがそれをしなくても、
誰かがそれを始めるし、
いずれあなたもそれを認めることになる。

あなたからそれを始めても、そうでなくても、
全体の流れは理に従って、
人間の真実へ向かうだけです。


インターネットがもたらしている変化は、
そのような人間現象のプロセスの総仕上げに思えてなりません。


自分という現象の流れと、その流れを司る理は、
完璧であるという信頼の下で、

喜びのために、
自分の弱さと真摯に向き合うといいのではないでしょうか。


以上は、
僕はそのように考えている、という一つの見方にすぎません。

キリストやガンジーという偉大なマスターを例に挙げて
彼らの行動の動機や心理状態までを30手前の若者が言いきっていますが、
本当のところは分かりません。


真のリーダーを想像して、
きっとそうだろうな、と感じて僕が語ったにすぎません。


それに僕こそがそのような次世代のリーダーである、
と言いたいわけでもありません。

そうでありたいとは思いますし、
そのように最善を尽くしています。

だからといって、それを決めるのは全体の流れです。


それよりも、これを読んで下さる方々が、
それぞれの胸の内に、
そうあろうとする部分があれば素敵だな、と思ってます。




次世代のリーダーはこの時代に生きる人間から生まれます。

それを信じて疑わず、そうあろうとする人と、
その人物を信じて疑わない人々が、新たな時代の精神を共に築きます。


きっと、かつての明治維新もそうだったんでしょうね。


新しい時代の精神と、
それを象徴するリーダーを創るのは私たちです。


僕は人々の怖れに真摯に向き合う、
愛のリーダーシップを生きる人が増えることを祈っています。


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