2013年3月9日土曜日

生命を考えることと、自分を知ること

生命ってなんでしょうか。


生命(せいめい)、
・・・または命(いのち)。


人のいのち。
動物のいのち。

魚、虫、草木や花、
カビ、細菌、ウイルス?

無数の生物がこの世界には生きています。

生物学者に確認され、名前が付けられているのは190万種。
年間2万種ずつ増えています。
実は、確認されていない種の方が圧倒的に多いんですね。

細菌に至っては謎が多く、確認されているのはわずか5000種。
1gの土には10億以上の細菌がいて、
38000種が含まれていたというデータもあるそうで。

それら生命のすべてが絶え間なく活動し、
この地球の壮大な生態系(エコシステム)を創っています。


食の生産・流通の仕事に僕は携わっていますが、
それは生命を中心に据えた産業と言えます。

命に向き合って働く者として、
自然の生態系と調和した生産性の高い社会の実現に貢献したいという志において、
「生きる、命あるもの」について考えを巡らせることがあります。


生命とは何か。


哲学、宗教だけでなく、科学にとってもそれは大きなテーマです。


古代ギリシアの人類史最古の哲学者タレスは、
弟子に問われて答えました。

「この世界で最も難しいこととは何ですか」

「それは自分を知ることである」
The most difficult thing in life is to know yourself.


3年前にそんな話を石川県のあるコンサルタントから教えてもらった時、
あぁなるほど、と思ったものです。

生命が生命の神秘を理解することなど、到底不可能なのかも知れませんね。

同時に、人間が宇宙の神秘である人間を理解することも叶わないのでしょう。

僕らは神ではありませんから。

しかしわからなければ考えることに意味はないのか、
といわれれば決してそんなことはない。


目的によりますよね。


目的を定めれば、
合理的に機能する一つの見方を知ることができる。
その見方を洗練させ、
私たちの人生や社会に活かすことができる。

なので完全無欠な知を求める必要などありません。
考えること自体が楽しいとか、
純粋な真理を追求したいとか、
そういう態度を思考の中心に置いたりもしません。

目的を定め、
それが目的の実現に対して、
役に立つ(目的に対して機能する)考えであるかどうか。
どれほど合理性が高いのか。



命題を証明する必要はない。
機能するかどうかを問えば良い。

このような態度を機能主義といいます。

このブログはそういう思考で書いています。


戻ります。

生命とは何か、
という問いの僕の目的。

次世代の社会を担う人間として、
現代社会の問題の根本を特定し、
その解決プロセスを見出す世界観を捉えること。

問いに対する答えはまだ出ていませんが
次のようなことは本質的に言えると考えます。


生命とは、

外部に対して、エネルギーが独自の自律流動サイクル(循環)をもつ現象。
-ただし時間的・物理的に厳密に区切れる境界線はない-


果たしてこの見方が現代社会にどのように役立つのか。
今の僕ではどうやら上手く書けません。
経営、経済、金融を機能させるイメージと重なるのですが、まだまだ練りきれていません。

二宮尊徳の報徳金という資本システムが、
資本主義を次世代へ切り開くヒントに溢れていると
僕は思っているのですが、
それは生命システムや生態系との本質的類似がある、と感じてはいます。

改めて、いずれ書きたいと思います。


しかし今日はそれよりもまず、
思考のあり方について述べたかった。


「問い」は大事です。

個人も社会も、
答えを探し続けるよりも、
自らに問い続けることによって開けると思うから。

そして問うときに、
目的と機能を明確にさせるという視点は常に生産的です。


問いの答えそのもの以上に、なぜ問うのかを明確にする。

自分の本当の目的が見えくるはずです。

きっと問い続けることが、
自分を知り続けることになるのだと思います。

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