2013年5月30日木曜日

お金の本質はネットワーク

堀江さんの言葉から、お金の本質について考えます。

著書『新・資本論』より
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「お金とは、信用を数値化したもの」
これが僕なりの定義です。もう少し詳しく説明しましょう。

お金とは、その成り立ちからして、価値を保証するもの、価値を交換する際の媒介に過ぎません。人類が誕生し、文化が発達した段階で物々交換が起こり、その不便を解消する存在としてお金は誕生しました。つまり、お金は最初から「しるし」である以上でも以下でもないわけです。経済活動の信用を媒介する道具であって、そもそもがバーチャルなものなのです。

(中略)

 信用といっても、何も難しく考える必要はありません。たとえば、困った時に助けてくれる人が身近にいる。これは信用があるということです。

 お金がなくなってしまった時、「じゃあ、ウチに居候しなよ」「ご飯を食べさせてあげるよ」と言ってくれる友人がいる。これは揺るぎない信用があるからこそ言ってくれることですよね。毎日住まわせてくれる人、ご飯を食べさせてくれる人が周囲にいたら、家賃も食費もかからない。

 信用がお金=経済価値を生んでいる好例です。

 車に乗ってどこかへいきたいが、車を持っていない。そんな時に、車をタダで貸してくれる知り合いがいれば、お礼やガソリン代、通行料など最低限の費用で車を利用することができます。信用が、車を保有することでかかるコストを代替してしまっているのです。

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お金がなくても信用があればそれと同等の機能を発揮する、ということです。

僕なりの表現でいうと、たとえ会ったことがなくとも、まず最初に信用に値する人と人の関係性が既にあり、それに基づいてお金が数値化・流動化されているに過ぎないということです。人と人の関係性のうち、ある条件の健全な質を「信用」と呼びます(個人的には単発の利害をこえた共同体的な関係は信頼と呼ぶ方がしっくりきます)。仮に信用がなくなれば、いとも簡単にお金は消えます(機能不全になる)。

こんなこともおっしゃっています。

「保険会社のほうが儲かるに決まっている『生命保険』というシステムにお金を払い続けるくらいなら、入院費を貸してくれる友人や親戚を持ったほうが良いに決まっているじゃないか」

私企業との契約による金銭保証よりも、約束事がなくても自分で築いた人間関係を信頼する、ということです。

彼の保険に対する見方そのものはさておき、「人間関係の質の高さこそが本当のセーフティネットである」という認識には強い共感を覚えます。保証契約があろうとなかろうと、人間同士が助け合う行動を取るか否かが問題であるのは同じですから。「お金を介した人間関係と、直接の人間関係。あなたはどちらが安心ですか?」あるいは、「大切な人を、どちらの方法がより安心させてあげられますか?」そう問われたら堀江さんは、迷わず後者(自分で築いた人間関係のネットワーク)の機能を信じる、と答えるのでしょう。

お金の強制力はバーチャル(幻想)なのだから、権力に保証された権利・義務に期待して、安心を得ようとするのは上手くないのかもしれません。

前提が変われば約束は守られないかもしれません。額面と形式だけで守られても、その質は大幅に劣化するかもしれません。約束通りに義務を履行させるための、管理・監視・懲罰・副作用の経済的・精神的コストが膨大すぎるかもしれません。小さな損とリスクに意識が捉われ続けることによって、不用意に合理性のない観念を増やしては反応しあって、強化・固定化し、社会効率を悪化させてしまうかもしれません。保証を前提とする日常と生き方によって、無意識に権利ある役割へ自分を同化したり、義務ある役割への同化を他者に押し付けるかもしれません。そうして自立精神や赦しの態度、尊厳や誇り、心身の健康、人間的成長機会、人間関係の質、といった人として大切な何かを大きく毀損してしまう可能性もあるのではないでしょうか。

モノや不動産を、法的に自分名義で所有できると言っても、あらゆる財・サービス・資源は、本質的には共有物でしかありえないと僕は思います。所有者であるか非所有者であるかを問わず、それをそのとき利用できる人がいるだけです。これを深く理解する人は、所有という概念を過大評価しないため、そこに安心や優越を求めることもなく、執着がありません。

健全な人間関係を築くことによって、他者の所有物は、潜在的な共有物になりえます。偽りのないコミュニケーションによって、必要が生じたときに必要性を伝えれば、必要分は利用できるのだ、という世界観を持っている人は、逆に自分も、価値を活かしてくれる他者と縁が生ずれば、自分の所有物・能力・時間などを喜んで利用させてあげる準備があります。その継続的在り方が、分かち合う関係を創り、広げ、良き縁を引き寄せる。個人も組織も、善意と正直であることの合理性は、このような人間関係のネットワークの質の向上を介して発揮されるのでしょう。

一人が有しているものは、全体の多様性のほんの一部であり、常に断片です。互いの有しているものを利用しあえばいいのだから、お金を介するという利用方法は選択肢の一つでしかありません。むしろより重要なこと、より幸福なことほど、人は共有していますし、お金を介さない方が合理的だったりします。献血や人材採用は典型例です。共有の世界観で利用し合い、存在を分かち合うことの合理性は極めて高い。だから人は経済を形成するのではないでしょうか。

ただ気をつけなければならないのは、話はそう簡単ではないということです。個人の信頼関係をお金と同等に機能させるのは一筋縄ではいきません。本来的には信頼関係であるとしても、現代のお金と同じように語るには無理があります。その意味では堀江さんの説明も、以前に僕が書いた「お金の本質は肩たたき券」も不十分です。

良好な人間関係があるといっても、信用という質は生じないかもしれません。堀江さんの言うほど、頼れるほどのものでないケースが大半かもしれません。また、利用価値を相互に享受しあうには、どのような障害があるでしょうか。信用の質を生じさせる、あるいは、機能させる良質なコミュニケーションとはどのようなものでしょうか。そのような質の高い人間関係の構築プロセスや、人と人の縁に対する理解も深める必要がありそうです。そもそも信用に足る人間性とは何か。いかにして形成されるのか。そこまで突き詰めて、初めて実用可能な気もします。



「自分でつくれないものは、理解したとは言えない」
What i cannot create, I do not understand. ―物理学者 リチャード・ファインマン 

お金の創造。これをリアリティ溢れる水準で示せれば、金融を本当に理解したと言えます。例えば地域通貨です。それを円やドルと同等以上の合理性を発揮するものとして、デザインすることは可能でしょうか。それが到底不可能だと思うのは、一体何故でしょうか。そのように考えることも理解を深めるアプローチです。

人間という存在の、一体何がお金という現象を生じさせているのでしょうか。

二人の人間関係に愛があれば、「肩たたき(券)」としてお金の機能は現象化します。この事実が示唆するのは、お金の本質は、物々交換という利害取引の関係性ではなく、相手と贈与的に分かち合う関係性にあることです。

複数の人間関係に信頼があると、メンバー間で通用する「信用(券)」としてお金の機能は現象化します。この事実が示唆するのは、お金の本質は、物々交換という利害取引の関係性ではなく、ネットワークを共有する相手と贈与的に分かち合う関係性にあることです。


では、一人ではどうか?

例えば無人島にいる場合。木から果物を取る。畑から作物をとる。薪を取る。動物を狩る。価値のあるものを、自然の生態系から得ることは出来ます。

生命は、関係性のネットワークとして存在し、生態系を成して太陽エネルギーを流転させています。エネルギー流転のネットワークを共有する人間と人間以外は、互いに個性ある一部として生きる過程そのものによって、摂理に従って自ずと必要な物質を贈与的に分かち合っています。

そこはあるがままでの世界が広がっているばかり。自然の総体から自然の恵みを享受しあうだけで、さすがにお金という概念が当てはまりません。そこに人と人の関係性がないからです。どうやらお金という観念を用いる意味は、「人間にとって価値あるものを得るか否か」にはありません。「人間の経済において価値あるものを得るか否か」によって、お金という流動する数値に意味が生じているようです。無人島ではお金は無価値。お金という観念がカバーできるのは、純粋に価値があるかどうかではなく、人と人同士の関係性において生じる価値に限定されるということです。
以上をまとめます。人間関係の連なりの価値が、お金の価値そのものである。各々が一対複数の関係性の価値を支える存在である。人が連なる価値を、合理的かつ持続可能に享受しあうため、あえて流動する数値としてお金を現象化させている、といえます。


そうだとすると、もしお金を創ろう(創りなおそう)と思えば、人間という存在が、いかにして贈与的に分かち合うネットワークを創り続けるかが重要です。

人と人はコミュニケーションで繋がります。

人間関係のネットワークを創るのに有意なコミュニケーションとは何かを考える。それは「一対全」あるいは「全対一」というあり方ではありません。allでもeveryoneでもなく、

「一でも全でもある自分」 対 「一でも全でもある他者」
「ネットワークとしての自分」 対 「ネットワークである他者」

という前提(世界観)のコミュニケーションが合理的です。大げさなことではなく、私たちは既にやっています。そもそも経済活動とは、それ自体がそのようなコミュニケーションだからです。

経済活動の本質はここにあると思う。お金を稼いだり使ったりする量の動きやその増減は表象です。重要なのは、お金が機能する”場”を創造・再生・拡大・縮小して、信用に値する人間関係のネットワークの質を維持していることです。

しかし、表象と本質が乖離してしまうこともあります。

今の資本主義は、競争合理主義と利害対立の世界観です。資本量と正当性を比例させるルールが行きつくのは、人々が自らの存在の正当性を保守することをお金の第一目的とする社会です。この状態で、赤字国債や金融緩和を中心としたお金の総量増加が数十年も続くと、正当性の有無とネットワークの質の支え手(支える活動)が連動しなくなり、表象と本質のズレの乖離が起きやすくなります。正当化する手段として使われるお金の割合が高い社会ほど、正当性が合理性を損ない、お金が健全に機能する場(人間関係のネットワーク)を毀損し続けるという矛盾が頻発します。


いかに人間関係と向き合うか。自分の心を偽らず、人の心を思いやるか。高い喜びを分かちあうか。そういう愛であることを重んじたコミュニケーションが作用して、お金が健全に機能するネットワークが再生し、今の常識を遥かに超えた生産性を無数に生み出せるようになるかもしれません。


この辺りは事業再生や地域通貨、
インターネットの可能性なども絡めて今後も詳しく書いていきます。


あらゆる言動はその在り方の次元から、メッセージであり、コミュニケーションです。

参考
「TED 社会的ネットワークの知られざる影響(ニコラス・クリスタキス)」

証券会社を志望した理由

僕が金融を志す背景には、元ライブドア代表の堀江さん騒動がありました。


覚えているでしょうか。

2004年~2006年当時、日本は新興市場バブル真っ盛りでした。


新興企業向けの株式市場ジャスダックの指数推移。yahoo financeより。


インターネットの電子商取引が一般化して、株式投資もオンライントレードが普及しました。以前と比較にならないほど簡便で低コストになり、新規の個人投資家が激増し、バブルは加速しました。新規上場株(IPO)はほぼ確実に公募価格を上回り、株式分割のニュースが発表された銘柄は軒並み上昇。そんな熱狂ムードを最も味方につけて、企業買収を次々に繰り返して急成長したのがライブドアです。

この企業がどのくらい派手だったかといえば、

①野球球団の買収計画を発表。近鉄バファローズを買って、仙台ライブドア・フェニックスをつくろうとしました。(結局、楽天になりました)

②前代未聞の株式100分割を実施。市場は大熱狂し、15営業日連続ストップ高となりました。

③フジテレビ買収をしかける。午前8時過ぎのわずか30分の間に700億円を投じ、時間外取引(市場は9時~15時)によって、親会社のニッポン放送株の35%強を取得して筆頭株主へ。売主はトヨタ。その資金調達は外資系証券会社リーマンブラザーズを介したMSCB、という奇策でした。

④社長に留まりながら、堀江さんは衆院選に出馬。小泉首相の郵政解散の選挙で、自民党の武部幹事長から「我が息子です」と紹介されながら演説に立ちました。

⑤証券取引法違反容疑で東京地検より強制捜査。ライブドア・ショックにより株式市場全体に個人投資家などからの大量の注文が殺到し、東証の売買システムの処理可能件数である450万件に迫ったことから異例の「全銘柄取引停止」措置。そしてライブドアは上場廃止。
振り返ってみても凄まじい話題提供力ですね。堀江さんは新世代の若き経営者として扱われ、マスメディアに出てはビジョンなり主張を語っていました。当時の僕は大学生だったわけですが、大学生といえば一度は起業家に憧れる人種です(違ったらすいません)。ライブドアと堀江さんのニュースには大いに刺激を受けていました。

経営権って、資本力ありきで強引に奪い合ったり、ひっくり返すものでもあるのか。
企業は誰のものか、というあちこちの議論を見ては考えさせられる。
一体何が起こってるのか?
時価総額、企業価値ってなんだろうか。
MSCBって何?一体その資金調達方法の何がどう悪いのだろうか。
敵対的買収とは?企業を売り買いする意味は?良い買収と悪い買収の違いは?
村上ファンドは何をしたのか。
風説の流布って?株価って操作できるのものなのか?どうやって?
そもそも株式って何だろう。
そもそも上場って何だろう。
これほど影響力のある金融とは、一体どういうものなのだろう?

テレビを見て、ネットで調べ、新聞を読んで。とにかく納得いく理解を求め続けました。

一方では、政治において小泉改革が勢いよく取り上げられていた頃。日本郵政公社は郵貯・簡保経由で国民から膨大な資金を集め、300兆円を超える規模で金融を行っていました。それは国民の余剰資金を、民間への融資ではなく、国・地方自治体・公社への公共事業へ融資する仕組みであり、公的金融の本丸です。小泉さんの郵政改革とは、いわばこの巨大な公的金融を民営化しようというものです。

マスメディアから流れる政治経済のムードを感じとって、金融が、社会を機能させる上で重大な役割を担っているように見えました。話に出てくる金額も○○兆円と大きいですしね。20年間生きてきた過程で、資本主義社会は個人も企業も政治も、お金の量がものを言うのだと感じていました。今はまったくそうは思わないんですけど。当時は社会の変化を自分の頭で納得するためには、金融というアプローチを深く知る必要がある気がしていたんです。大学での所属は政治経済学部、国際政治経済学科です。もともと政治経済を学ぶことへの関心は高かったところ、触発されて自発的に学ぶ情熱が地味に燃え続けました。

そうして経済と金融と企業について、考えることが習慣になりました。偉大な投資家であるバフェットを知ったのもこの頃です。

―経済の本質を理解したい。
―お金の本質を理解したい。
―社会をきちんと語れる人物でありたい。
―経済の真ん中だと感じた金融業界の、その真ん中に行ってみるのもいいかもしれない。

漠然とそう感じていました。
社会への関心は高いものの、地位や名誉や成功には興味が湧きません。ただ胸にあったのは、生きる上で、物事の本質を理解して、それと向き合う人間でありたい、という素朴な思いでした。


証券会社に入ったのは何故か。

自分は、誰の、どのようなシーンに貢献する生き方がしたいのか?と自分に問う。

社会で働くということに何を求めるのか?

この社会に自分のビジョンを持って向き合い、リスクを取り、切り開いていく。そんな事業家たちと接していたい。本音で語ってみたい。彼らの情熱的な真剣勝負に役立ちたい。

金融という広大で底の見えない可能性。
事業家という自ら切り開く精神と生き方。

それらを結びつけたのが証券でした。

生活のため、社会に貢献するため。
決して嘘ではありませんが、それ以上に、
自分の頭と心でこの社会を理解するために、僕は金融の世界へ行ったのです。


そういうわけで、堀江さんは僕に金融を志す背景を与えてくれた人です。尊敬や感謝の念を抱いたわけでもありませんが、ただ彼には正直な生き方を感じるので心に強く残っています。


あなたがそれを志した背景には何がありますか?どんな人がいましたか?

僕はそういう話が好きです。

2013年5月23日木曜日

正義であること

何の為に生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ

今を生きることで 
熱い心 燃える
だから君は行くんだ 微笑んで


そうだ嬉しいんだ 生きる喜び
例え胸の傷が痛んでも




これ、何の歌か分かりますか?



何が君の幸せ
何をして喜ぶ
分からないまま終わる そんなのは嫌だ


忘れないで夢を
こぼさないで涙
だから君は飛ぶんだ どこまでも

そうだ怖れないで 皆のために
愛と勇気だけが友達さ


時は速く過ぎる
光る星は消える
だから君は行くんだ 微笑んで

そうだ嬉しいんだ 生きる喜び
例えどんな敵が相手でも

ああ アンパンマン 優しい君は
行け 皆の夢守るため



アンパンマンのマーチです。娘と一緒に聴いていたのですが、初めてじっくりと歌詞を読んで驚きました。メッセージの迫力に。


あなたは何のために生まれて、何をして生きるのでしょうか。答えられますか?
あなたは何が幸せで、何をして喜ぶのでしょうか。分かりますか?

1番も2番もメロディの初っ端から、大人がたじろぐほどのテーマを直球で投げかけてきます。
この歌詞の厳しさを際立たせているのは、ヒーローであるアンパンマン(漫画家やなせさん)の立場を明確にしていることです。

「答えられない。分からない。そんな生き方、僕は嫌だ

ズドンときます。多くの人が自分の生き方に迷っていることも、納得いく人生を歩んでいるわけではないことも、承知のくせに容赦がありませんよね。嫌いという価値判断をあえてすることで、問いの切れ味を鋭くしています。

自分の人生に向き合えているのか。心の声に誠実であるのか。ごまかしてはいないか。自分の存在に意味を見出せているのか。それに燃えて、生きる喜びを感じているか。胸を張って答えられるだろうか?・・・まさに生きることを考えさせる歌詞ではないでしょうか。

これが子供向けアニメのテーマソングなのかと、衝撃をうけました。

人間のなんたるか。人生とは。愛とは。そういうことを考え尽くしてきた方にしか書けません。それにこの歌詞にはメッセージを伝えようとする信念が明確にある。その迫力は普通ではない。作詞をしたやなせたかしさんは一体どんな方なのだろうかと興味が湧きました。


同時に思い出しました。

「愛と勇気だけが友達さ」の意味について考えた二つの出来事。

「ヒーローなのにリアルの友達いないの?愛と勇気だけのアンパンマンって可哀そう~」というネタは、僕が小学生の頃から言われていました。

子供にとって「友達」というのは、100人できるかな~って歌いたくなる存在です。だからこそ「だけ」という限定の助詞は、違和感を伴う強いインパクトがあります。もちろん少なくても構わない人もいます。だとしても、深く理解し合える親友がいればいいよね、という意味でしょう。この歌詞の場合、親友「だけ」でいいということでもありません。

そんな小学校の低学年の思い出から十数年後。『トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~』というテレビ番組で、やなせさん本人がVTRに出演し、この歌詞の意味について指摘されてこう答えています。

「語呂がいいのでなんとなくそういう歌詞にした」

強引すぎでしょ!なんだよ、愛と勇気という言葉を使いたかっただけかよ。
と、この時はまったく疑問に思わず笑っていました。


以上の経験を改めて振り返り、
この歌詞の意味の深さを理解できるようになった今、思います。
「語呂がいいからそうした」という発言は、やなせさんのテレビ視聴者向けの嘘です。
この箇所には深いメッセージが確実に込められています。
本人が語呂合わせと言おうが信じません。
生半可な気持ちでこのテーマソングは絶対に書けません。

そういう気持ちで調べたら、沢山のヒントが見つかりました。まず、やなせさんの言葉です。

アンパンマンのテーマソングは僕の作詞だが、幼児アニメーションのテーマソングとしては重い問いかけになっている。僕はお子様ランチや、子供だましの甘さを嫌った。

アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて、なんのために生きるのか」というのですが、実は僕はずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。

メッセージが必要なんです。おもしろくすることばかり考えていると、肝心なものが抜けてしまいます。ただおもしろいというだけではいい作品とはいえません。芸術映画でなくても、見る人の心に残るメッセージは必要不可欠。それが僕の作品を作る上での信念なんです。
絵本作家やなせたかしの名言より


≪なんのために生まれて/なにをして生きるのか≫
「これは哲学の永遠の命題みたいなものだけど、『なんのために生まれてきたか』ってわからないまま人生を終えるのは残念ですね。この歌を子供の頃からずっと歌っていると、考えることが自然と身に付くような気がするんだ。そしてある時になると、わかる。僕がわかったのはいつかって? 60過ぎてからだな(笑)。遅いんだよね」
NEWSポストセブンインタビューより


「子供だましの甘さを嫌った」と言い切っているところ、心底好きです。

そして、「愛と勇気だけが友達さ」という歌詞の「だけ」が、決して語呂合わせではない裏付けが見つかります。


『勇気のルンダ』 歌手:アンパンマン(戸田恵子) 作詞:やなせたかし 

ナンダ ナンダ ルンダ
ガンバ ルンダ ルンダ
たたかう時は心にいうんだ
たよるものは なにもないんだ
勇気ひとつが 友だちなんだ


別のアンパンマンの歌では、「勇気ひとつが友達なんだ」と言及しています。どうやら、「友達」という言葉をあえて普通とは違う使い方をしている様です。明確なメッセージがあることに確信を深めます。

著書「わたしが正義について語るなら」を読んだ感想レビューの中から、この歌詞の意味を説明している引用文の記述を見つけました。


「アンパンマンのマーチの中」に、愛と勇気だけが友達さ、という歌詞があります。それで抗議がきたことがあるんだけど。これは、戦うときは友達をまきこんじゃいけない、戦うときは自分一人だと思わなくちゃいけないんだということなんです。お前も一緒に行け、と道連れを作るのはよくないんですね。無理矢理ついてくるなら仕方ないけどね。横断歩道もみんなで渡れば怖くない、悪いことをするときにも群集でやれば怖くないというのがあるけど、責任は自分で負うという覚悟が必要なんだということなんです」


戦うとき、責任を自分で負う覚悟のない人たちが「お前も行け」といい、群衆でやれば怖くないと友達を巻き込んでいく出来事とは何か。

戦争です。

やなせさんは御年94歳。1919年生まれです。(やなせたかしwikipedia
戦争体験があります。

そしてこの記事。

NEWSポストセブン インタビュー

「アンパンマン」を創作する際の僕の強い動機が、「正義とはなにか」ということです。正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。
なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はありません。アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。

アンパンマンに込められていたのは、やなせさんの人生における「正義とは何か」という問いだった。

それが、やなせさんの人生の深さをもって、込められていたのです。




「愛と勇気だけが友達さ」




いつか僕は、娘にこのテーマソングの意味を伝えるでしょう。
僕が心で読んで感じたやなせさんの戦争体験と精神を語りながら。
その著作を添えて。


やなせさん、ありがとう。

2013年5月19日日曜日

観念とパラダイムの転換



一つ告白します。







実は、






一年ほど散髪に行ってません。





・・・自分で切っています。


人にこれを言うと結構驚かれます。昨日も職場で言われました。

男性「まったく気付かないです。美容師で切ってもらうのと全然変わりませんね。そう言えば千明さん、見ためも美容師っぽいですしね」(後ろのコメントよく分かりません笑)

女性「えー凄い!どーやったら出来るの??」

千明「こんな感じです」

女性「おぉ、リスペクト!久々に出たわ、リスペクト」 (いつも表現が面白い人です)


髪が伸びたら散髪に行く、というのはごく普通です。一人で切るなんてとんでもない、器用な人でも難しそう。皆そういうイメージを持っているからこれほど驚くのだと思います。予想以上に驚く反応の多くに、僕の方が驚いています。

何、節約の話?というわけではなく、本記事のテーマは、観念とパラダイムの転換についてです。大真面目に書いていますが、切り口がこんななので、気楽に読んで頂ければ幸いです。


人間なのでヒゲや爪など勝手に伸びてくるわけですが、体のメンテナンスは自分でやるのが基本ですよね。でも髪だけは違って特別扱いです。誰かにやってもらうのが当たり前。

なぜ自分で処理しないのでしょうか。

難しそう、ケガしそう、失敗したくない、の3つが主な理由だと思います。

髪を切るという行為は、刃物を使います。にもかかわらず、目に頼れない。どこを、どれ程、どのように切れば良いか。そのような判断を、見えないのに出来るのか。後ろなんてどうするの?合わせ鏡で見ながら切ろうとしても、うまく手を動せない。想像するだけで、ケガする不安がよぎる。

何よりも髪型は、見た目の印象に大きな影響があるオシャレ要素。絶対に失敗したくない、という想いは強い。失敗の可能性を考えると、美意識からリスクを嫌がります。

困難を直観する。ケガに加えて、自己表現を損なう不安がある。そう思えば容易にはやれません。

逆に僕にはこれらの理由がありませんでした。だからやってみようと思えた。一度も試したことがない人が大半ですが、その事実と僕ができるかどうかは関係ありません。自分の直観では出来そうな気がしたし、まず試してみて、駄目だったら次回からやらなければいいだけです。

一般的な不安についても感じませんでした。子供なら危険かもしれないが、大人が注意力をもっていれば料理と同じで、ちょっとした失敗くらいでは大したケガになりません。後ろ髪のカットも、自分の手の動きとハサミの刃の位置に意識的であれば、目に頼らずとも大丈夫なことが試してみてすぐに分かります。割と短期間で、ガツンガツンとハサミを動かすことも出来るようになります。

あとは美意識からくる失敗の不安についてです。これも僕にはありませんでした。いわゆるオシャレを気にしない方なのは確かですが、清潔で格好良くありたいとは思っています。安物のTシャツとジーンズだけで格好良い人はいるように、髪型も普通で格好良い人は沢山います。美意識は重要ですが、少なくともオシャレで飾ろうとするレベルの作為では、外見の魅力は全く決まらないと思っています。これは男性に限っての話です。女性については男の自分には全く分かりません。

ちなみに、別にセルフカットをオススメする気で書いているわけではありません。これを読んで下さる方に、やってみたくなったのなら試してみる価値はあると思いますよ、くらいの気持ちです。結構楽しいですよ。あえて自分でやってみることの楽しさでしょうか。別にお金をケチっているわけでもないし、気が向いたら美容院にも行くこともあろうと思います。

僕にとって髪を自分で切ることは、自転車を乗ること、包丁を使って料理すること、車を運転することと同じです。注意力を要して取り組む必要があるのは変わりませんが、出来るようになる以前に抱いていたほど難しくも危険でもありません。この難しくなさと失敗しなさを体感的に知れば、おそらく自分で切る人はかなり増えるんじゃないでしょうか。

私たちは日常で視覚に頼りっきりです。それゆえに、視覚に頼らずに刃物を扱う、ということに実態以上の困難なイメージを抱くのかもしれません。見えなくても、後ろ髪を手で掴みながら、長さをなんとなく意識してチョキチョキ切ればいいだけでした。最初は慎重ですが、コツはすぐ掴めます。自己流ですが、仕上げにカミソリを使って調整しています。僕自身は参考サイトを見たわけではありませんが、よかったらご参考にリンクを張ります。自分で髪を切るコツ


「髪が延びたら散髪してもらう必要がある」という観念を改めて見てみます。

なぜ皆、自分で切らないのか。そして実態より難しいと感じているのか。(男性限定)

①ハードルが高いというイメージが強固
②失敗への不安がある
③皆が当然のごとく、その認識を共有している

そういう事には、やってみる気になれないものです。ここがあらゆる固定観念の作用と酷似しています。ハードルが高いし不安だという常識は、案外そうでもないかもしれません。あるがままを洞察することと、自分の直観と力を信じることで、観念にまとわりついている制限は消えるかもしれません。それが自分の可能性を開いていきます。


ここで話を大きくします。

一つ一つの観念を体系化させるパラダイムについても考えてみます。

人類の過去を振り返ってみると、王様がいて、貴族がいて、身分制度がありました。それが当たり前の時代に、それらを覆す民主主義の革命がおきました。

そのパラダイム転換はどのようにして起きたのかというと、「社会契約」という観念の創造です。
みんな人間である。生まれながらにして格差が当たり前なのはおかしい。それが当然視されていることが、いかに人々の精神に悪影響を及ぼし、社会を歪ませているかは明白だろう。人は等しく尊厳をもって生まれてくるはずだ。王権神受説を説く人がいる。「王様は神から統治権を授かったのだ。そもそも人は争う生き物である。人民に秩序をもたらすための、神の意思による王権である」と主張する人がいる。本当にそうだろうか。そうではないのでは?生まれながらにして身分格差を当然視する権力の存在とその歪みが、人から理性を奪い、争いに駆り立ているのではないだろうか?王権や身分制の正当性には、そもそも人間は放っておけば愚かに争う存在だという前提がある。しかし本当にそうだろうか。果たして人間とはそのような生き物なのか。性善説の前提を置いたらどうだろうか。神の子として人間には理性があり、それゆえに自由意思によって、社会を共に形成することを選択した。社会契約を結んだ。そう考えたらどうだろうか。そうであるならば、人間の尊厳と自由が侵害され、その状態を当然視する権力を是とする社会は、契約の反故である。契約が順守されないのであれば、統治に抵抗する権利が民衆にはある。社会権力が帰属するのは、王ではない。等しく尊厳をもつ人間なのだ。

これが政治学の基礎で習う、
民主主義の根幹となった社会契約説です。

世襲の統治権や財産権、そして身分制度が、人間性に反しているのは人々の実感として明らかです。しかし、その社会を変えることを実行するとしたら躊躇したくなります。

それに挑むことは、①ハードルが高いです。②失敗の怖れがあります。③皆がその認識を共有しています。

ふつうの人の考えでは、そんなことに自発的に向き合おうとは思いません。

でも社会契約という観念を見出したジョン・ロックやルソーは挑みました。


何が違うのか。おそらく、彼らはこう感じていたと思います。

本当にハードルが高いのだろうか?そうでもない気がする。自分には出来そうだ。確かに注意深くある必要はあるけど、失敗の怖れも別にそこまで感じない。統治権の帰属を、尊厳ある人間の自由意思による契約とする、というパラダイム転換。皆がそれを不可能だと認識していようと、自分の直感と洞察による見解では十分に可能だ。

出来ると信じていたから、やってみて、その通りに出来た。

僕が一人で髪を切れた感覚と同じです、と言ったら、さすがに言いすぎてますが。ようするに言いたいことは、観念とは観念のままで捉えると絶対強固に見えますが、実はあるがままに見るとそうでもないこと。ある角度に気付くと、あっとうい間に脆く崩れ去るシロモノだったりする、ということです。

それに気付くためには、こう問うことが合理的です。世界観の転換となる問いです。

「人間とは何だろうか」

社会である前に、国家に属する国民である前に、
私たちは人間だからです。その事実から出発します。

しかし外に答えはありません。

「人間である自分は何だろうか」

という問いになります。一度徹底的にあるがままの存在に立ち返って考えます。哲学する。そして、あるがままの現象を洞察します。観察する。

人間(自分)には理性があり、真実を知るほどに、怖れがなくなるのであり、愛を選択するのであり、他者の尊厳を重んじるのである。本来は怖れを動機にする存在ではない、ということに主観的な確信が持てます。そして、人間が争ってしまう存在に見える理由は、人間不信の世界観を前提とした意識と行動のすべてが一体の原因である、と分かります。

身分や国民という観念がフィクションに過ぎないことと、
権力側と服従する側が相互に作用して生じさせている、不安と争いの現実化のメカニズムを、看破したわけです。

国家権力のない人間社会の自然な状態とは、万人の万人による闘争だ。それを避ける正義のために、王様は神より絶対の統治権を受けたのだ、というホッブズ。その社会形成の原初の仮説を、人間の理性を信じることで完全に否定したジョン・ロックとルソー。

民衆は後者の、人間の理性を信じる世界観を選択しました。

社会の創り手として存在することを選択をした。

それが真実であるとわかるからです。人は、フィクションとフィクションの間では迷いますが、真実を提示されたら迷わず選択できるようになっています。

これが民主主義の革命を支えた、民主主義の精神の創造です。

民主主義とは、人間の理性を信じることから始まっています。


国民である以前の、
そんな観念がない状態での、
人間という存在への純粋な問いから生まれた精神です。

社会(国家)という現象を生み出しているのは尊厳を重んじる人間の理性である。
そういう人間哲学が根本にあります。


ここ最近、国家ありきで語っている印象を受ける政治家の方々の発言を見ていると感じますが、国民は民主主義の原点となった社会契約説を、今一度深く理解した方がいいのかもしれません。



そして。

資本主義というパラダイムもそんなものじゃないだろうかと、僕は考えています。

「人間とは何か」

「人間である自分とは何か」

その問いを突き詰めれば、民主主義への転換と同じことが起こる気がしています。

現代社会の、何が真実で、何がそうでないのか。

社会契約説のように、人間の原初状態を想定して資本主義を捉えるのも面白いかもしれません。

いずれにせよ、しっかりと真実を見据えていきたいと思っています。



以上、

散髪を自分でやってみたら難なく出来たという話でした。

今後書くテーマ3


民主主義の根幹を創りだした「人間とは何か」という問い
社会契約説についての考察

山田方谷の共同体再生について


観念を捨てることと、創造すること


依存するということ


ワンピースという作品について


オノナツメのリストランテ・パラディーゾについて


合理と情理


真実であることの合理性、偽ることのコスト


次世代のパブリックコメント・システム


人間関係を創造する「みんなの本屋」構想
地域住民を中心に、実名で書籍等をお勧めしあう場の社会的意義。
ネットとアナログの両方で、情報が人格に担保されて発信・流通・精査・蓄積されたら。


「人々を貧困から救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である」
というガンジーの言葉の意味


シルビオ・ゲゼルの死にゆく通貨についての考察


「すべてのものは二度つくられる」
万物にはまず「第一の創造」(知的創造)があり、それから「第二の創造」(物的創造)がある、というスティーブン・コビーの言葉について

信じるということ②
信じることだけでは実現できない、という現実の壁の意味。実現すること(ビジョンの現象化)を第一に置くと、理のあることしか信じることができない。信じることの質について。


余白がある人。「余白がある」という質について
人間関係、レストラン事業、教育、著作物


お金をかけずに最高水準の教育環境を享受すること


wikipedia、クックパッド、エムスリーに見る集合知の付加価値と、それを引き出すメカニズムについて


地球の意識をちょっと想像してみた挿話


男性と女性の違いについて。
女性はハンドル、男はアクセルとしての機能が(本来は)優位かも。
女性は理があるゆえに、内的な受動へ向かう。思考ではなく直観に従う。
男性は理がないゆえに、外的な変化へ向かう。インスピレーションではなく思考に従う。


優しさは心の余裕から~人間関係の善意の生産性を活かすこと~
人間関係に「効率」は逆効果、 善きサマリタンの実験


ダンバー数を上回る可能性とロゼト効果~正直な人間関係の生産性の考察~


器がある人、メンタルが強い人、というのは、人間性に理があるか否か。
本当に意思の強さだろうか?車が力強く走るのは、ガソリンのパワー(エネルギー)の大きさが本質ではない。それを司る理があるから可能。エンジンというメカニズム(理)が現象の本質。理への気付きの重要性。


宗教・スピリチュアルはインスピレーション(ハート中心)。哲学は理性(思考中心)。科学は理解(現象中心)。事業は実現(人間中心)
すべてが重要。しかし事業が最も強く、総合力が試される。

今週号モーニングのバガボンドが面白すぎる件

2013年5月18日土曜日

真実と愛を選択するリーダー

私には夢がある。いつの日かこの国が立ち上がり、「我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」(アメリカ独立宣言)というこの国の信条を、真の意味で実現させることだ。――キング牧師

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."


1963 年の夏、25 万人もの人がワシントンの通りを埋め尽くし、キング牧師の演説に耳を傾けました。招待状が送られたわけではなく、告知するウェブサイトもない。キング牧師だけが偉大な演説家というわけでもない。彼はアメリカを変えるために何が必要かを説かず、自分が信じること、そして自分の願いを語りました。「I have a dream」と。彼が信じることを信じた人々が、彼の動機を自らの動機とし、他の人に伝えて広まり、その日その時に、彼の話を聴くために25 万人が集まったのです。聴衆の25 パーセントは白人でした。

キング牧師のために集まった人は一人もいません。自分がアメリカに対して信じることのため、自分のために訪れました。 そしてキング牧師も 「私には、夢がある」という演説をしたのであって、「私には、あなた方に貢献するプランがある」という演説をしたわけではありませんでした。


ここに、人を動かす、ということの本質があると思います。


人は、信じる枠組みにそって既に動いています。人々の動きの流れを変えたいのであれば、彼ら自身が信じる枠組みを変えることです。一般的には、危機感を与えたり、不安を強調したり、ルールをつくったり、アメとムチの取引をしたり、罪悪感に訴えたり、無力感を与えたりして、怖れの枠組みを強化します。しかし覇道のリーダーとは異なり、王道のリーダーであるキング牧師やガンジーはこの真逆です。

人は常に真実を求めています。リーダーは人々の求めている真実を照らすだけでいい。心を開き、自らの真実を行動で示す。それに感化されて、各々が自分の心の真実を問う。リーダーという存在が放つ情熱の火と理性の光によって、多くの人が自分と向き合うことを選択し、怖れや不安の枠組みが解かれていく。すると人々の信じる枠組みは自然に変化して、行動も変わります。自由、愛、尊厳。そういった人間の根幹に在る動機が、ますます機能していくようになる。社会はうねり、変革のときを迎える。かつて西欧で起こった民主主義への革命もまさにそうでした。

本来リーダーシップは、誰かを否定する必要はありません。正当化や嘘も不要です。自分の正直な思いを生きることによって、人の心を共振させます。怖れから偽ることをやめて、自分に正直になるだけです。それぞれが、それぞれの心の真実に向き合い、それらを現実へと引き出していく。この流れを誇り高く分かち合って、さらに共振のエネルギーは大きくなっていく。内なる真実に基づくとき、人間は必ず愛を選択するのではないでしょうか。どんなに世界が怖れにまみれていようと、リーダーはその真理を全く疑いません。


「私は失望するといつも思う。歴史を見れば真実と愛は常に勝利を収めた。暴君や殺人狂の為政者もいた。一時は彼らは無敵にさえ見える。だが結局は滅びているのだ。それを思う」 ―― ガンジー



この言葉が象徴しています。偉大なリーダーの戦略はたった一つ。愛を動機にして、自らの真実を示し続けることです。その根本は揺るぎないままに、多くの人々の怖れを取り除くように、自分が変わり続けることによって、彼らにも自らの意思で自身の真実を問うように促します。多くの人は、そんなリーダーの言動の力強さに惹きつけられます。一人の人間として社会と向き合い、打算や怖れがないからです。そのようなリーダーは、大義に同化を求める正義ではなく、生まれながらの自由と尊厳から、信念と世界観を語ります。キング牧師の「I have a dream」の演説は最も象徴的です。


リーダーシップによるムーブメントのメカニズムについては、たった3分でイメージできる動画があります。ご参考になれば。TED社会運動はどうやって起こすかデレク・シヴァーズ


もしあなたが本当に世界を変えたいと望むのであれば、愛と真実を選択する生き方が合理的です。その純度の高さが問われます。遅かれ早かれ、人がそれを選ぶのは歴史が示す通りです。怖れの幻想を看破し、正直な生き方を選択する人々が、次々と真実の現実化の連鎖を起こす。愛のリーダーシップによって、人間社会に真理のメカニズムが機能する。ガンジーはこれを見抜き、実践したのでしょう。

真のリーダーは生き方によって世界を変えましたが、変化の内容は重要ではありません。そして、変わる変わらない自体には本質はありません。どちらにしても、人々の自由意思の選択の結果であるのは変わりません。問題の本質は、変化を望む・望まない理由の真実です。「今なぜこのあり方なのか」という真の動機。それこそが、今の社会のあり方を決定しているのであり、変わる起点はそこにしかありません。
時代を変えたリーダーは、もともと人間に備わっている愛の真実に訴えて、それを選択する生き方を伝搬させたにすぎません。理性の光を取り戻せば、人は存在を分かち合うことの誇り高き安らぎを、既に知っているからです。ここへ向かうメカニズムは不変の法則として在るのですから、いつどのような時代になろうとも、悲観する必要は全くないと僕は思っています。


あなたが自分以外の誰かを変えたいと思うとき。

その動機は、自らの怖れや不安感からではなく、愛からですか?

2013年5月12日日曜日

村上春樹さんの精神と、真実であることを重んじて

村上春樹さんの公開インタビューが大きなニュースになりましたね。

僕は普段テレビをまったく見ないのですが、実家にいる時はついているので自然に見ます。村上さんの作品は、エッセイの「村上ラジオ」しか読んだことはありませんが、報道ステーションの村上春樹特集を見て、僕は彼のことが好きになりました。公開インタビューではこんなことを言っていたようです。


僕は必要があって自分の小説を読み返しても涙が流れたりすることはない。もっと引いています。僕の本を読んで「泣きました」という人がいるけれど、「笑いが止まりませんでした」と言ってくれる方がうれしい。悲しみというのはすごく個人的なことなんですね。個人的なところに密接につながっている。でも、笑いというのは、もっとジェネラル。僕の書くもので何が好きな要素かというと、ユーモアの感覚。笑ってしまう、ということがすごく好きなんです。ユーモアというのは笑うと人の心に広がる。悲しみは内向していく。まずは開かないと。なるべくユーモアをいろんなところにちりばめられればと考えている。

僕は結局、魂のネットワークのようなものをつくりたいと思うようになったんです。読者が僕の本を読んですごく共感するものがある、自分にもそういう経験があると思うと感応する。僕の物語に呼応して感応する。また別の読者がいて、僕の物語に感応するとネットワークができるのです。それが物語の力だと思います。

僕はごく普通の生活を送っている普通の人間なんです。地下鉄やバスに乗ってあちこち移動し、近所に買い物に行きます。そこで声をかけられると困ってしまう。もともとそういうのに向いていない。文章書くのが仕事なので。僕は絶滅危惧種の動物のようなんです。イリオモテヤマネコみたいな。そばに寄ったり触ったりしないでください。おびえてかみついたりするかもしれないので。

本当にうれしいのは、待って買ってくれる読者がいること。「今回はつまらなくてがっかりした。でも次も買います」みたいな人が大好きです。つまらないと思ってもらってもけっこう。僕自身は一生懸命書いているが、好みに合わないことはもちろんある。ただ、理解してほしいのは、本当に手抜きなしに書いている。もし今回の小説が合わないとしても、村上は一生懸命やっていると考えてもらえるとすごくうれしい。


最後のコメントがテレビで紹介されたとき結構グっときました。「あ、この人イイ感じ」と。特集では、印象的な発言が一つ一つ取りあげられ、原発と効率優先の社会に問いかけたスピーチも紹介されました。それを見て村上さんへの関心が高まってしまい、寝る前に妻と村上春樹談義で盛り上がったのですが、翌日になってもその思考が止まりませんでした。なぜ僕はグッときたのか。村上さんはなぜ、そういう読者が好きだと言ったのか。


たぶんですが、仕事のトータルをみて、作品ではなく人間への信頼を動機に購入する人からは、より愛を感じるからではないでしょうか。

作品が面白いかどうかに焦点を当てて、買うかどうかを決める人。面白くなかったという思いを正直に表明しながらも、内容を問わずに次回の購入意思を決めている人。関心を注ぐ対象が違います。作品なのか、村上春樹という作家なのか。

次にお金を使う姿勢が違います。次回作は自分にとって読む価値があるかどうか、迷いながら購入を決めるのか。作家を信頼して、ガッカリしても別に構わないという心境で既に決めているのか。後者のお金の流れには、書籍とエンターテイメントの流通という以上に、人間と人間の関係性があるような気もします。

村上さんは「手抜きをしないことが僕の誇り」と言っています。作品そのものへの評価や次回作への期待よりも、作家としての姿勢を感じとって信頼してくれる読者が沢山いること。それが何よりも喜ばしいと感じているのでしょうね。


そう。


村上春樹の作家精神を愛してくれる読者がいる。その作家冥利に尽きる幸せを感じながら、「大好きです」と言ったはずだったと思うんです。



それがです。


翌朝、めざましテレビで同じニュースをやっていて、見るわけです。昨晩の特集で気分が良かったから、もう一度見たくなって目を凝らす。

村上さんの発言内容がボードに書かれていて、それをアナウンサーが伝えます。


「今回面白くなくても次も買って欲しい。読み返して欲しい」


え?・・・っと、誰の発言?

村上さんはそんなこと言ってなかったよな。昨日のニュースが本当だよね。これ、ニュアンスが違うっていうレベルじゃないんですけど。だって、

「今回はつまらなくてがっかりした。でも次も買います」みたいな人が大好きです。

の趣旨が、「面白くなくても、次も買ってほしい」というお願い営業になってて、
その上「読み返してほしい」という、言ってもない媚びを付け加えられている・・・

この報道を作家の立場で見たら、どう思うだろうか。

妻も全く同じことを思ったようで、顔を合わせてすぐ意思疎通ができました。僕は言いました。

「全然内容が変わってて、ありえないよな。番組の制作側は、こんな仕事していて恥ずかしくないのだろうか。テレビに真っ当な報道を期待しているわけじゃないが、これは酷い」とうんぬんうんぬん・・・

と苛立ってしまった。シリアスというより、愚痴っぽく。
そのあとも、あまりにも気持ち悪かったので、正確な発言内容を確かめるためにネットで検索しました。

村上春樹さん (秘)トーク 2013年5月7日放送 7:06 - 7:11 フジテレビ

新聞社や通信社のテキスト記事を5つ見ましたが、どれも最初に認識した内容と同じでした。この報道だけがおかしかったのかもしれません。

なぜこんなことが起きたのだろうか。

おそらく取材班が会場の出口にて、聴衆に村上さんの発言を聞き出して、彼(女)が思い出しつつ解釈して答えたものを、なんとなくでさらに解釈してテキストに起こし、そのまま裏を取らずに事実として持ちかえって、採用されてボードに書き起こされて、村上春樹の発言として報道されてしまった――のかなぁ。真偽は分かりません。ただの僕の想像です。

世の中には、もっと突っ込むべきことが沢山ある。山ほどあります。こんな小さなことを目くじら立てて指摘するなんて御苦労さまと思われるかもしれません。でも、姿勢を問題にしているのであって、大きい小さいは関係ありません。

そもそも僕は批判を好みません。ましてブログに書くのは嫌です。問題があると思うときは、批判ではなく、現象を洞察して、人の役に立つ思考を提供し、鏡となるように問いかけることを心がけたいと思っています。

ただ今回は、真実を歪める報道が常態化しないようにとの自分の願いを重んじました。

公開インタビューの内容と、原発と効率社会への問いかけをした「非現実的な夢想家として」と題したスピーチ(NHKブログ 全文)をネットで読んで、僕は村上さんの生きる姿勢に敬意を覚えました。作家を生業としてエンターテイメントとユーモアを重んじながらも、社会問題には鋭く関心を持っていて、世界に向けて国際市民として発言できる機会を活かすことの高い公平性と合理性を自覚しながら、自らの真実を以て、正義ではなく個人の信念として、堂々と私たちに生き方を問いかける。心から尊敬すべき大人だと思います。

真実を重んじる村上さんを知って、その精神を尊く感じた一方で、発言を捻じ曲げて真実を軽視する報道には嫌悪感を感じました。テレビメディアにとっては普段通りの誤差の範囲内の出来事なのかは分かりませんが、とにかく気持ちの悪いコントラストを実感した自分がいます。


真実であること。

人間が人間社会を担う上で、最も大切にすべきことではないでしょうか。


かつてガンジーは言いました。
「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である」

情報についても同じだと思う。重要なのは流れの量的効率ではなく、質的効率です。
「人間社会の真実を照らし出すのは、マスメディアではなく、大衆による情報の発信・精査・流通・蓄積である」

そう信じています。だから僕はブログを書いています。

村上さん。あなたの精神と、深く考える機会を与えてくれたことに感謝致します。
新作読ませて頂きますね。

2013年5月11日土曜日

観念の作用

靴のセールスマンという話はご存知でしょうか?

僕が証券会社に入社したての頃、営業研修にて聞いた話です。
―――――――――――――――――――――

とある島へ二人の商社マンが靴を売るための現地調査へ行った。
そこで驚く光景を目にした。
島の住人は皆、裸足で歩いていたのだった。

本社に戻ったA君は次のように報告した。

「この島は駄目です。道行く人はみんな裸足。卸先となりうる靴屋があるどころか、そもそも靴を履くという習慣がありません。この島では靴は絶対に売れません」

部長「そうか。えーと、じゃあ、B君の考えはどう?」

もう一人はこう言いました。

「この島は素晴らしい!道行く人はみんな裸足。競合となりうる靴屋が全くありません。そもそも靴を履くという習慣がないのですから、靴の快適さを体感してもらい、それを提供すれば当社の靴事業はオンリーワン且つナンバーワンです。彼らは我が社に大いに感謝して、長期安定的な優良顧客となってくれるでしょう。この島では靴が高単価で大量に売れます」

――――――――――――――――――――――

事実は同じです。市場調査に出向いたところ、島民は誰一人も靴を履いていなかったということ。
しかしその解釈(意味)は全く異なります。事業進出の適否判断は真逆です。

言うまでも無く、仕事の上でもプライベートでも上手くいくのはB君です。この話の結論で重要なのはおそらく「プラス思考がビジネスにおいて功を奏する」ということではありません。もっと深い次元の議論です。「現象それ自体で損得が決定されるかのような分析評論の思考はナンセンス。現象に対峙した上で、自らのあり方を創りだすことに軸を置いた解釈力が重要なのだ」ということでしょう。


私たちが物事の解釈をするのに用いているもの。

それは、観念(Belief)です。


観念は、出来事に意味を与える人工的な枠組みです。観念によって意味を強化された経験は、積み重なっていくと人格形成の土台にもなります。経験的に確立された観念は、個人の振舞いや行動を無意識のレベルで支えます。しかし観念に頼ってばかりいると、現象を捉える力が失われていき、レッテルを張る思考癖がつきやすい。現象のあるがままを見ず、感性を研ぎ澄まして感じようともせず、分かっている気になってしまう。観念的に認識する意識のクセによって、起こる出来事に対して、知っている様式にはめ込んで知った気になる状態。これを固定観念に捉われるといいます。

ある観念が相互作用を繰り返して固定的に共有されると、社会のあり方を象る社会観念となります。国民国家、日本、民主主義、資本主義なんかも立派な社会観念です。他にも、学生、サラリーマン、家族、会社、仕事等々、自己のアイデンティティや生き方の定義と同一化対象になったりもします。「私はこうあるべき」「恋人ならこうあるべき」「結婚したらこう」「人間としてはこう」「お金を貰う以上はこう」「社会人としてはこう」・・・個人としても、社会に対しても、私たちは実に多くの観念を持ち出して出来事を認識しています。観念の下で価値判断を下し、多様な感情を抱きながら物事に取り組みます。

皆、それぞれに独自の観念を抱いていて、それをもとに個性ある世界観を創り上げています。内に在る観念体系を用いることで、流れゆく出来事や現象に意味を見出しては解釈していくわけです。

ここで再び靴の商社マンの話に戻ってみると、二人の結論の違いはどう説明できるでしょうか。

二人にはまず、現象を捉える観念に大きな相違があり、その違いが解釈を異にしたといえます。A君は、「ビジネスとは売れるものを売って成立する」という観念に従っているから、消費者が靴をイメージできていなければ絶望的に思えます。B君は、「ビジネスとは顧客との関係を創造するものだ」という観念を有しており、消費者が靴のイメージを持っていないのであれば、体感させて心を掴んで、優良顧客もシェアも取り放題のチャンスに思えます。A君のビジネスは、観念を優位におき、現象を追随するフォロワーです。B君のビジネスは、現象をあるがまま受け入れてから、観念を活かして人へ伝搬させて現象を創造するリーダーです。

これをポジティブシンキングのメリットと片付けるのは何とも軽いのです。この二人の商社マンの話は人生の質を左右するほどの気付きが隠されており、観念の作用の議論とした方が有意義だと考えます。観念・信念・世界観の影響力の大きさとその機能を自覚することは、尊厳をもって人生を楽しく生きる上では必要不可欠なのではないかと感じるほどです。

この世界の価値観が多種多様であるのも、時代によって社会が変遷していくのも、一言でいえば観念の作用です。これを応用して、成功哲学や幸福論やカウンセリング、あるいは企業経営にも利用できます。観念をテーマに優れた分析をしている人は古今東西に沢山いるようです。

スピリチュアル書も示唆に富んでいます。『神との対話』を著したニールは、これを「思考を支える思考」として表現して、自己の観念に注意深くあることの重要性を説いていました。

ただ今日のブログでは、商社マンの書き出しの流れにそって、一流のビジネスの視点を持つ方から学びたい。

観念の作用を理解する上で、僕が知る限り最も分かりやすい説明は、人財教育コンサルタントの村山昇さんの記事です。

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観念が人をつくる insight nowより

私たちは、日々遭遇する出来事や事実、体験によって自己がつくられていくと思っている。しかし実際自己をつくっているのは、出来事や事実をどうとらえ、どう心を構え、どう体験していくかを根っこで決めている「観念」である。降りかかってくる出来事を100%コントロールすることはできないが、観念をコントロールすることは可能である。


 最初に、古代ギリシャ・ストア派の哲学者エピクテトスの言葉です───
 「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。

 また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
 「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。

◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす
 この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
 職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。そのとき一人は、「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、厳しく当たる対応をしました。一方、別の一人は「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、穏やかな対応をしました。

 このように同じ出来事に対し、結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。

 すなわち、一人は、「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。他方の一人は、「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。

 このように人の対応に差が出る仕組みを、臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。ABCとは、次の3つを意味します。
  ・A(Activating Event)=出来事
  ・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
  ・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など

 私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによるというのがこの理論の肝です。すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。


 アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、「起こってしまった出来事を変えることはできないが、その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。

~中略~


観念は一様ではありません。感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
 あるものは安易に流れ込み感染を広げ、あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。
 いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発にもっともっと目を向けるときにきていると思います。

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この文章を読んで。

感情や出来事は、選べないしコントロールできない。起こる現象と感情のあいだに、直接的な因果関係はない。出来事→感情は観念が関連づけている。人は観念を鍛えることで、出来事に左右されず、感情と思考の働きを高い理性の律動に留めることができる。そのようエネルギーを健全に変換し続けることで、人生を拓くことができるようになる。

考えていること。
感じていること。
行っていること。

観念に向き合うことで、これらを次第に一致させていける。そうして統合された人のあり方は、偽りがなくパワフル。質の高い成果を生み出して、人の心を感動させる。

そう思いました。

この記事は、第一に分かりやすい。第二に考察が深くて濃密。第三に村山さんの情熱と志の高さが伝わってくる。このような記事を見てからはブログの方も読ませて頂いています。物事の本質を図式化することが本当に上手く、偉人の言葉の引用も多くて教養になる。そしてとにかく、やっぱり、志が高い(笑) 僕はそういう方が好きです。


観念について理解することは、自分の人生の可能性を開きます。苦難から自分を救います。それだけではありません。カウンセリングや教育は、不健全な観念を取り除いたり、健全な観念を創る手伝いをすることと言えます。人を救いもするし、人格形成に貢献もする。さらには、社会問題に向き合って、真に合理的な社会を実現しようと思えば、観念の作用を理解することが鍵になると思います。僕は村山さんの記事の結びにある問題意識に共感しています。お会いした事はなくとも、その志は同じです。



最後に。

恋愛や結婚、家庭生活における観念作用について秀逸な記事をリンクで紹介します。恋愛セラピストのあづまさんのブログより。

この世界が安全な場所と感じるかどうかが、幸せな恋愛と関係します(ワールドイメージ)

親の不仲、暴力や離婚など、幼少期の過去の体験が影響して、その人の不幸な恋愛パターンを繰り返させる傾向はあるそうです。それは直観的にも分かる話です。

しかしながら実は、過去の事実は、現在の問題とは本質的に関係がない。言い換えると、「過去の事実として記憶していること」と「現在の恋愛傾向」が関係ないということ。

では現在の恋愛傾向や、人間関係で繰り返し起こる問題の傾向と、関係している「本質」とは一体何なのか。それは、今の自分の「セルフイメージ」と「ワールドイメージ」とのこと。

気になる方は読んでみて下さい。




今日の記事が、皆さんの幸福や社会貢献の参考になれば嬉しいです。


今後も観念について理解を深めたい。とくにお金という観念が、どのように人々の観念体系に作用しているのか。このブログで解き明かしていきたいと思います。

2013年5月3日金曜日

悟りについて

バガボンド好きですか?

僕は大好きです。
スラムダンクもリアルも素晴らしいですけど、どうしてもバガボンドだけは別格。この作品には、井上さんのすべてが込められていると感じます。

井上さん自身、「リアルを描く方がバガボンドよりずっと気は楽です」と言っているように、この作品は相当の精神力が要るようです。おそらく常人には想像し難いほど、深く緻密に内側を見つめ、感性を研ぎ澄まして描写し、その質には極めて厳しい基準を自身に課しているのでしょう。

そんな井上さんが一番重んじていることは「人間を描けているかどうか」。

尾田栄一郎さんとの対談で出た言葉です。これを数年前に聞いて以来、映画でも歌でも小説でもレストランでも事業でも、創作物のクオリティを見る視点としてずっと頭の隅にありました。その結論として、物事をみる上で最重要の質とは「人間の真実」であり、人を真に感動させるのは人の(自分の)リアリティしかあり得ない、ということでした。まったくもって井上さんのおっしゃる通りだったわけです。

この辺りは以前ブログに書きました。「人間を描けているかどうか


バガボンドは、静けさの中で重厚かつ濃密に、孤独に自己と向き合うシーンが極めて多いです。物語のドラマ(展開)を描くよりも、人間の精神と感性の動き、静寂、波、内なる声を描くことを重んじているのが特徴的です。武蔵や小次郎は、剣や鍬を振るなどの物理的な動きはもちろん、高揚や迷いなどの精神の動きについても、感覚と意識を研ぎ澄まして自身を観察しています。それはまるで瞑想するがごとく。自問自答のような自己への観察を、読者に伝わるように、作中で幾度となく感覚的な言葉や絵で表現するのですが、それがバガボンドの味わいになっています。この漫画を見ると、井上さんがいかに人間の探求を楽しんでいるかが伝わってきます。



登場人物に沢庵という御坊さんがいます。
井上さんは、多分ですが、自分を沢庵として登場させていると思います。

全ての人物には作者の投影が少なからずあるでしょうが、この人物だけは特別であり、僕には井上さんが自分自身を背負わせている気がしてなりません。沢庵の言葉と振舞いは、武蔵にも小次郎にも、それ以外の主要人物にも、そして全体の世界観にも、要所要所で核心を問いかけるようにして揺さぶり、物語における精神面の成長と方向性を与えているからです。

作品の重心は武蔵ですが、井上さんの「人間を描く」というテーマにおいては、沢庵こそが軸になっていると思います。

28巻に、その沢庵が悟りについて語るシーンがあります。武蔵が吉岡一門70名を切り殺して、天下無双の名声を得たものの、それを目指して歩んできた自分の道を見つめなおし、苦しみを抱えます。自分の生きる道の先を見失ったところで沢庵と再会します。

――――――――――――――――――

沢庵「わしも分からんことだらけだよ、本当は。剣で斬り合う人なんか見ると余計に。

人間のなんたるか。

人はなぜ生まれ、如何に生きるべきか。

救いはあるのか。

分からなくて、混沌の闇の中で、苦しみ、のたうち、間違いを犯し・・・」


武蔵「あんたがかい?」


「そうさ」

「わしの中にも我執ー、それはあって

それが頭をもたげる時、わしの歩んできた道は無意味に思え、阿呆らしくみえて・・・

武蔵、

お前が七十対一の一乗寺下り松から、もしも生きて還ることがあったなら

こんな話をしたいと思っていた。

武蔵、あのな

実は最近、声を聞いた」


武蔵「・・・誰の?

・・・・声って、誰の?」



天を指差す沢庵。


「それによると― わしの、お前の、生きる道は、

これまでも、これから先も、天によって完璧に決まっていて

それが故に― 完全に自由だ」


武蔵「完璧に決められていて・・・完全に自由?

んなアホな。完璧に決まってるなら不自由この上なしだろ?すげえ矛盾」


「そう思うだろ?それがどうもそうじゃないんだよ!

何から話そうか・・・

お前が剣の道なら、わしは仏の道。

仏の道は人の道。

「人」の答えを探す旅は・・・見たくはない「人」の姿を見せつけられる旅だったー


武蔵「お・・・俺のことだな。見たくない「人」の姿ってのは、俺のことだな?」


「みーんなだ。もちろんそこにはわしも含む。

自分たちの姿に絶望し、「人」の答えなど見つけて何になる。

人を導くなど俺に無理と唾を吐く。

吐いた唾は自分に返り、拭い去るためにまた旅をつづけ「人」の答えを探す。

そして思い知らされる。

天とのつながり無しに生きるは苦ばかりなり。

もしも生まれた甲斐があるのだとしたら、もうどうなとしてくれ。

ただそれを受け入れる。



扉が開いた



長いこと閉ざされていたいくつもの扉が一斉にー

自由とはこれだった。今まで知っていた自由は別のものだった。



人は無限だ



それぞれの道は、天によって完璧に決められていて

それでいて完全に自由だ。

根っこのところを天に預けている限りは―」


「苦しみを知る今のお前には伝わると思ったんだ・・・武蔵。

対吉岡の戦いが勝利であれ何であれ

今、おまえは誰ひとり理解できない苦しみを抱え込むことになった。

この世に一人も お前の苦しみを理解できる者はおらん。

ただ武蔵よ。分かるかい?

それでも天はお前とつながっている」



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救いはあるのか、如何に生きるべきか。
「人」の答えを探しても、答えは見つかりませんでした。

「天とのつながり無しに生きるは苦ばかりなり。 もしも生まれた甲斐があるのだとしたら、もうどうなとしてくれ。 ただそれを受け入れる」

その境地に至って、閉ざされていた扉が開きます。一斉に射し込んだ天の光に包まれる。沢庵は答えを見出し、真の自由を得たといいます。


人の道の答えは、どうやら「人」の中にはなかったようです。「人」であることを求めた先に、それを捨てたことで見えた。それは既に、完全に定められていることに気付きます。そういう意味では自由なんて与えられていなかったんですね。

でも一体、なぜそれが自由なのでしょうか。

定められているのは、人という理であって、人という制限ではないからです。自由を求めて制限を克服する者から、理の自由な活かし手となったから。

そして悟りを開くと選択肢が一つだけになる。表面に現れる行為や態度は、ケースバイケースで臨機応変に違うのですが、本人の意識としてはたった一つを選んでいる感覚になるようです。いつどんな状況でも、誰と向き合っても、選ぶのは最善。その意識に迷いや不安に脅かされる隙はなくなります。

これまでの条件付きの自由とは次元の異なる、無条件の自由を得たと沢庵は感じた。自由を求めて制限に向き合うと、人は思考と手段に興じなくてはなりません。しかし、どんな現象に直面しようと、外からは決して侵されることのない内なる理が導くままに選ぶことが最善なのだ、と信じられたら、制限に見える現象は自分の最善に関係ないということになります。それが悟るということなのだと、僕は解釈しています。


武蔵が孤独と苦しみを知るゆえに、この話が伝わると沢庵は考えました。

それは、なぜでしょうか。

苦しみの重さが増していくばかりのとき、それが極まると人は、自分の生き方はどこか間違っているのではないかと真摯に自分を問い始めます。これまで自分を支えてきた価値観や信念を、変えなくてはならない。あるいは捨てなくてはならない。そして再生しなければならない。結構しんどい孤独な精神作業です。変わらなくてはならないことを、本人は明確に自覚していなくても、どこかでは気付いています。天に定められた人の道を悟る沢庵は、武蔵のそういう無意識も含めて見抜いているから、聞く準備ができているだろうと思って話したのだと思います。


井上さん、僕はこんな深くて面白いバガボンドをリアルタイムで読める時代に生まれて良かった!ありがとう。



ここで、二宮尊徳が語った悟りについて面白い部分も紹介します。

済度(さいど)せぬ悟りは迷いと同じ 「二宮先生語録」

仏徒が悟りを尊ぶのは、まだ迷界から抜け出ていないものだ。すでに悟ってしまえば、何もそれを尊ぶに足らない。これを高山に登るのにたとえれば、その高さを仰ぐうちは、まだ絶頂に達していないのだ。同様にその悟りを尊ぶうちは、まだ極地に達していないのだ。すでに絶頂に達したならば、四方をながめてから下山するように、すでに悟りの極致に達したならば、ふたたび迷界に入って済度に努めるほかはない。もしも、もっぱら悟りを尊ぶだけで済度に努めないならば、迷っている者と同じことだ。たとい数万巻の経文を読み、正法眼蔵をきわめても、衆生済度の功がなければ、ちょうどへちまの蔓(つる)ばかり延びて実が結ばないのと同じようなものだ。世の中に役に立たない以上は、誰がそのようなものを用いよう。わが法はそうではなく、神儒仏の三道を実行するのだ。だから人生において無上の良法とする。なぜならば、これを民に施して、衆生を済(すく)う功があるからだ。

重要なのは、悟ったあと。
それを活かして何を為し得るか。
どれだけ多く、深く、人を救えるのか。
そうでないなら、悟っていないのと何も変わらない。

尊徳はそう言っています。


僕もそう思います。


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武蔵「自分でも驚くほどの太刀筋が―――」

沢庵「ん?」

武蔵「――強くて、速い。剣使いができるときがある。

そんなときは・・・俺の真ん中の奥が光ってる。

そんなときなぜか・・・笑いがこみあげてきて・・・

祈りたくなる。

その光のことを、あんたは『心に抱く天』と呼ぶんだろう?

『おれは天とつながっている――』

わかるような気がする。

天と、しっかりつながるほど剣は・・・そうか

自由で

無限だ。

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2013年5月2日木曜日

信じるということ

ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。

「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい」

長老は答えます。

「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」

村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。

そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。

「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか」

それを聞いた長老は答えました。

「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか」

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村人と長老の「信じる」という行為は似て非なるものです。

ここでは、何を信じるかよりも、信じる深さが問われています。もちろん、そこに理がなければ望む事象は現実化しません。しかし、人間社会を考えた時、お金にしろ国家にしろ、人間がある世界観を信じて、ある観念を創り、それを信じ合って行動する、という行為に起因します。社会問題の全ては、人間の信じるという行為と極めて密接であるため、この話は重要な示唆があると思います。


信じるということは、それを前提にして生きること。

僕はそう考えています。


だとしたら、今この社会は何を信じているでしょうか。
人々は何を前提に生きているでしょうか。

あなたは何を信じていますか。
何を前提に生きていますか。

この社会が、あるいは自分が、
本当に信じているものは何でしょうか。

表面ではなく、奥底で本当に信じているもの。
今の社会のあり様、今の自分、
前提として信じていることが実現しているに過ぎないのかもしれません。


だからといって、ポジティブシンキングをしろ、というわけではありません。
一部のスピリチュアルの様に、ワクワクだ!なんて僕は全く思いません。

ネガティブシンキングより100倍マシだと思いはしますが。


ただ思うのは、
自分の真実を重んじた方が良いということ。
それを前提にして生きた方が良いということ。
そこに自身の理を見出し、創造的に自分を生きた方が良いということ。

自分の人生で最も影響力のあるものは、外側の現象にあるのではなく、自分の真実です。
それを過小評価してはならないと思います。
一番影響力のあるものは、一番重んじなければならない。
個人も社会も、そうすることが合理的だからです。
そうしなければ機能しないからです。


自分の真実を意識して生きるためには、死と向き合うことも良いかもしれません。
これについては「死を思うことと生きること」で書きました。

いつかは死ぬと意識していることが、 何かを失うのではないかという思考のワナに陥ることを避ける、 私が知る限りの最善の方法だ。 君たちはすでに素っ裸だ。 自分の心のままに行動しない理由など何も無い ―スティーブ・ジョブズ


信じる深さについて。
深さの伴った信じるという行為の力と理について。
今後も考えていこうと思います。