堀江さんの言葉から、お金の本質について考えます。
著書『新・資本論』より
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「お金とは、信用を数値化したもの」
これが僕なりの定義です。もう少し詳しく説明しましょう。
お金とは、その成り立ちからして、価値を保証するもの、価値を交換する際の媒介に過ぎません。人類が誕生し、文化が発達した段階で物々交換が起こり、その不便を解消する存在としてお金は誕生しました。つまり、お金は最初から「しるし」である以上でも以下でもないわけです。経済活動の信用を媒介する道具であって、そもそもがバーチャルなものなのです。
(中略)
信用といっても、何も難しく考える必要はありません。たとえば、困った時に助けてくれる人が身近にいる。これは信用があるということです。
お金がなくなってしまった時、「じゃあ、ウチに居候しなよ」「ご飯を食べさせてあげるよ」と言ってくれる友人がいる。これは揺るぎない信用があるからこそ言ってくれることですよね。毎日住まわせてくれる人、ご飯を食べさせてくれる人が周囲にいたら、家賃も食費もかからない。
信用がお金=経済価値を生んでいる好例です。
車に乗ってどこかへいきたいが、車を持っていない。そんな時に、車をタダで貸してくれる知り合いがいれば、お礼やガソリン代、通行料など最低限の費用で車を利用することができます。信用が、車を保有することでかかるコストを代替してしまっているのです。
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お金がなくても信用があればそれと同等の機能を発揮する、ということです。
僕なりの表現でいうと、たとえ会ったことがなくとも、まず最初に信用に値する人と人の関係性が既にあり、それに基づいてお金が数値化・流動化されているに過ぎないということです。人と人の関係性のうち、ある条件の健全な質を「信用」と呼びます(個人的には単発の利害をこえた共同体的な関係は信頼と呼ぶ方がしっくりきます)。仮に信用がなくなれば、いとも簡単にお金は消えます(機能不全になる)。
こんなこともおっしゃっています。
「保険会社のほうが儲かるに決まっている『生命保険』というシステムにお金を払い続けるくらいなら、入院費を貸してくれる友人や親戚を持ったほうが良いに決まっているじゃないか」
私企業との契約による金銭保証よりも、約束事がなくても自分で築いた人間関係を信頼する、ということです。
彼の保険に対する見方そのものはさておき、「人間関係の質の高さこそが本当のセーフティネットである」という認識には強い共感を覚えます。保証契約があろうとなかろうと、人間同士が助け合う行動を取るか否かが問題であるのは同じですから。「お金を介した人間関係と、直接の人間関係。あなたはどちらが安心ですか?」あるいは、「大切な人を、どちらの方法がより安心させてあげられますか?」そう問われたら堀江さんは、迷わず後者(自分で築いた人間関係のネットワーク)の機能を信じる、と答えるのでしょう。
お金の強制力はバーチャル(幻想)なのだから、権力に保証された権利・義務に期待して、安心を得ようとするのは上手くないのかもしれません。
①前提が変われば約束は守られないかもしれません。②額面と形式だけで守られても、その質は大幅に劣化するかもしれません。③約束通りに義務を履行させるための、管理・監視・懲罰・副作用の経済的・精神的コストが膨大すぎるかもしれません。④小さな損とリスクに意識が捉われ続けることによって、不用意に合理性のない観念を増やしては反応しあって、強化・固定化し、社会効率を悪化させてしまうかもしれません。⑤保証を前提とする日常と生き方によって、無意識に権利ある役割へ自分を同化したり、義務ある役割への同化を他者に押し付けるかもしれません。そうして自立精神や赦しの態度、尊厳や誇り、心身の健康、人間的成長機会、人間関係の質、といった人として大切な何かを大きく毀損してしまう可能性もあるのではないでしょうか。
モノや不動産を、法的に自分名義で所有できると言っても、あらゆる財・サービス・資源は、本質的には共有物でしかありえないと僕は思います。所有者であるか非所有者であるかを問わず、それをそのとき利用できる人がいるだけです。これを深く理解する人は、所有という概念を過大評価しないため、そこに安心や優越を求めることもなく、執着がありません。
健全な人間関係を築くことによって、他者の所有物は、潜在的な共有物になりえます。偽りのないコミュニケーションによって、必要が生じたときに必要性を伝えれば、必要分は利用できるのだ、という世界観を持っている人は、逆に自分も、価値を活かしてくれる他者と縁が生ずれば、自分の所有物・能力・時間などを喜んで利用させてあげる準備があります。その継続的在り方が、分かち合う関係を創り、広げ、良き縁を引き寄せる。個人も組織も、善意と正直であることの合理性は、このような人間関係のネットワークの質の向上を介して発揮されるのでしょう。
一人が有しているものは、全体の多様性のほんの一部であり、常に断片です。互いの有しているものを利用しあえばいいのだから、お金を介するという利用方法は選択肢の一つでしかありません。むしろより重要なこと、より幸福なことほど、人は共有していますし、お金を介さない方が合理的だったりします。献血や人材採用は典型例です。共有の世界観で利用し合い、存在を分かち合うことの合理性は極めて高い。だから人は経済を形成するのではないでしょうか。
ただ気をつけなければならないのは、話はそう簡単ではないということです。個人の信頼関係をお金と同等に機能させるのは一筋縄ではいきません。本来的には信頼関係であるとしても、現代のお金と同じように語るには無理があります。その意味では堀江さんの説明も、以前に僕が書いた「お金の本質は肩たたき券」も不十分です。
良好な人間関係があるといっても、信用という質は生じないかもしれません。堀江さんの言うほど、頼れるほどのものでないケースが大半かもしれません。また、利用価値を相互に享受しあうには、どのような障害があるでしょうか。信用の質を生じさせる、あるいは、機能させる良質なコミュニケーションとはどのようなものでしょうか。そのような質の高い人間関係の構築プロセスや、人と人の縁に対する理解も深める必要がありそうです。そもそも信用に足る人間性とは何か。いかにして形成されるのか。そこまで突き詰めて、初めて実用可能な気もします。
「自分でつくれないものは、理解したとは言えない」
What i cannot create, I do not understand. ―物理学者 リチャード・ファインマン
お金の創造。これをリアリティ溢れる水準で示せれば、金融を本当に理解したと言えます。例えば地域通貨です。それを円やドルと同等以上の合理性を発揮するものとして、デザインすることは可能でしょうか。それが到底不可能だと思うのは、一体何故でしょうか。そのように考えることも理解を深めるアプローチです。
人間という存在の、一体何がお金という現象を生じさせているのでしょうか。
二人の人間関係に愛があれば、「肩たたき(券)」としてお金の機能は現象化します。この事実が示唆するのは、お金の本質は、物々交換という利害取引の関係性ではなく、相手と贈与的に分かち合う関係性にあることです。
複数の人間関係に信頼があると、メンバー間で通用する「信用(券)」としてお金の機能は現象化します。この事実が示唆するのは、お金の本質は、物々交換という利害取引の関係性ではなく、ネットワークを共有する相手と贈与的に分かち合う関係性にあることです。
では、一人ではどうか?
例えば無人島にいる場合。木から果物を取る。畑から作物をとる。薪を取る。動物を狩る。価値のあるものを、自然の生態系から得ることは出来ます。
生命は、関係性のネットワークとして存在し、生態系を成して太陽エネルギーを流転させています。エネルギー流転のネットワークを共有する人間と人間以外は、互いに個性ある一部として生きる過程そのものによって、摂理に従って自ずと必要な物質を贈与的に分かち合っています。
そこはあるがままでの世界が広がっているばかり。自然の総体から自然の恵みを享受しあうだけで、さすがにお金という概念が当てはまりません。そこに人と人の関係性がないからです。どうやらお金という観念を用いる意味は、「人間にとって価値あるものを得るか否か」にはありません。「人間の経済において価値あるものを得るか否か」によって、お金という流動する数値に意味が生じているようです。無人島ではお金は無価値。お金という観念がカバーできるのは、純粋に価値があるかどうかではなく、人と人同士の関係性において生じる価値に限定されるということです。
以上をまとめます。人間関係の連なりの価値が、お金の価値そのものである。各々が一対複数の関係性の価値を支える存在である。人が連なる価値を、合理的かつ持続可能に享受しあうため、あえて流動する数値としてお金を現象化させている、といえます。
そうだとすると、もしお金を創ろう(創りなおそう)と思えば、人間という存在が、いかにして贈与的に分かち合うネットワークを創り続けるかが重要です。
人と人はコミュニケーションで繋がります。
人間関係のネットワークを創るのに有意なコミュニケーションとは何かを考える。それは「一対全」あるいは「全対一」というあり方ではありません。allでもeveryoneでもなく、
「一でも全でもある自分」 対 「一でも全でもある他者」
「ネットワークとしての自分」 対 「ネットワークである他者」
という前提(世界観)のコミュニケーションが合理的です。大げさなことではなく、私たちは既にやっています。そもそも経済活動とは、それ自体がそのようなコミュニケーションだからです。
経済活動の本質はここにあると思う。お金を稼いだり使ったりする量の動きやその増減は表象です。重要なのは、お金が機能する”場”を創造・再生・拡大・縮小して、信用に値する人間関係のネットワークの質を維持していることです。
しかし、表象と本質が乖離してしまうこともあります。
今の資本主義は、競争合理主義と利害対立の世界観です。資本量と正当性を比例させるルールが行きつくのは、人々が自らの存在の正当性を保守することをお金の第一目的とする社会です。この状態で、赤字国債や金融緩和を中心としたお金の総量増加が数十年も続くと、正当性の有無とネットワークの質の支え手(支える活動)が連動しなくなり、表象と本質のズレの乖離が起きやすくなります。正当化する手段として使われるお金の割合が高い社会ほど、正当性が合理性を損ない、お金が健全に機能する場(人間関係のネットワーク)を毀損し続けるという矛盾が頻発します。
いかに人間関係と向き合うか。自分の心を偽らず、人の心を思いやるか。高い喜びを分かちあうか。そういう愛であることを重んじたコミュニケーションが作用して、お金が健全に機能するネットワークが再生し、今の常識を遥かに超えた生産性を無数に生み出せるようになるかもしれません。
この辺りは事業再生や地域通貨、
インターネットの可能性なども絡めて今後も詳しく書いていきます。
あらゆる言動はその在り方の次元から、メッセージであり、コミュニケーションです。
参考
「TED 社会的ネットワークの知られざる影響(ニコラス・クリスタキス)」
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