僕が証券会社に入社したての頃、営業研修にて聞いた話です。
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とある島へ二人の商社マンが靴を売るための現地調査へ行った。
そこで驚く光景を目にした。
島の住人は皆、裸足で歩いていたのだった。
本社に戻ったA君は次のように報告した。
「この島は駄目です。道行く人はみんな裸足。卸先となりうる靴屋があるどころか、そもそも靴を履くという習慣がありません。この島では靴は絶対に売れません」
部長「そうか。えーと、じゃあ、B君の考えはどう?」
もう一人はこう言いました。
「この島は素晴らしい!道行く人はみんな裸足。競合となりうる靴屋が全くありません。そもそも靴を履くという習慣がないのですから、靴の快適さを体感してもらい、それを提供すれば当社の靴事業はオンリーワン且つナンバーワンです。彼らは我が社に大いに感謝して、長期安定的な優良顧客となってくれるでしょう。この島では靴が高単価で大量に売れます」
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事実は同じです。市場調査に出向いたところ、島民は誰一人も靴を履いていなかったということ。
しかしその解釈(意味)は全く異なります。事業進出の適否判断は真逆です。
言うまでも無く、仕事の上でもプライベートでも上手くいくのはB君です。この話の結論で重要なのはおそらく「プラス思考がビジネスにおいて功を奏する」ということではありません。もっと深い次元の議論です。「現象それ自体で損得が決定されるかのような分析評論の思考はナンセンス。現象に対峙した上で、自らのあり方を創りだすことに軸を置いた解釈力が重要なのだ」ということでしょう。
私たちが物事の解釈をするのに用いているもの。
それは、観念(Belief)です。
観念は、出来事に意味を与える人工的な枠組みです。観念によって意味を強化された経験は、積み重なっていくと人格形成の土台にもなります。経験的に確立された観念は、個人の振舞いや行動を無意識のレベルで支えます。しかし観念に頼ってばかりいると、現象を捉える力が失われていき、レッテルを張る思考癖がつきやすい。現象のあるがままを見ず、感性を研ぎ澄まして感じようともせず、分かっている気になってしまう。観念的に認識する意識のクセによって、起こる出来事に対して、知っている様式にはめ込んで知った気になる状態。これを固定観念に捉われるといいます。
ある観念が相互作用を繰り返して固定的に共有されると、社会のあり方を象る社会観念となります。国民国家、日本、民主主義、資本主義なんかも立派な社会観念です。他にも、学生、サラリーマン、家族、会社、仕事等々、自己のアイデンティティや生き方の定義と同一化対象になったりもします。「私はこうあるべき」「恋人ならこうあるべき」「結婚したらこう」「人間としてはこう」「お金を貰う以上はこう」「社会人としてはこう」・・・個人としても、社会に対しても、私たちは実に多くの観念を持ち出して出来事を認識しています。観念の下で価値判断を下し、多様な感情を抱きながら物事に取り組みます。
皆、それぞれに独自の観念を抱いていて、それをもとに個性ある世界観を創り上げています。内に在る観念体系を用いることで、流れゆく出来事や現象に意味を見出しては解釈していくわけです。
ここで再び靴の商社マンの話に戻ってみると、二人の結論の違いはどう説明できるでしょうか。
二人にはまず、現象を捉える観念に大きな相違があり、その違いが解釈を異にしたといえます。A君は、「ビジネスとは売れるものを売って成立する」という観念に従っているから、消費者が靴をイメージできていなければ絶望的に思えます。B君は、「ビジネスとは顧客との関係を創造するものだ」という観念を有しており、消費者が靴のイメージを持っていないのであれば、体感させて心を掴んで、優良顧客もシェアも取り放題のチャンスに思えます。A君のビジネスは、観念を優位におき、現象を追随するフォロワーです。B君のビジネスは、現象をあるがまま受け入れてから、観念を活かして人へ伝搬させて現象を創造するリーダーです。
これをポジティブシンキングのメリットと片付けるのは何とも軽いのです。この二人の商社マンの話は人生の質を左右するほどの気付きが隠されており、観念の作用の議論とした方が有意義だと考えます。観念・信念・世界観の影響力の大きさとその機能を自覚することは、尊厳をもって人生を楽しく生きる上では必要不可欠なのではないかと感じるほどです。
この世界の価値観が多種多様であるのも、時代によって社会が変遷していくのも、一言でいえば観念の作用です。これを応用して、成功哲学や幸福論やカウンセリング、あるいは企業経営にも利用できます。観念をテーマに優れた分析をしている人は古今東西に沢山いるようです。
スピリチュアル書も示唆に富んでいます。『神との対話』を著したニールは、これを「思考を支える思考」として表現して、自己の観念に注意深くあることの重要性を説いていました。
ただ今日のブログでは、商社マンの書き出しの流れにそって、一流のビジネスの視点を持つ方から学びたい。
観念の作用を理解する上で、僕が知る限り最も分かりやすい説明は、人財教育コンサルタントの村山昇さんの記事です。
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観念が人をつくる insight nowより
私たちは、日々遭遇する出来事や事実、体験によって自己がつくられていくと思っている。しかし実際自己をつくっているのは、出来事や事実をどうとらえ、どう心を構え、どう体験していくかを根っこで決めている「観念」である。降りかかってくる出来事を100%コントロールすることはできないが、観念をコントロールすることは可能である。
最初に、古代ギリシャ・ストア派の哲学者エピクテトスの言葉です───
「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。
また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。
◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす
この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。そのとき一人は、「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、厳しく当たる対応をしました。一方、別の一人は「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、穏やかな対応をしました。
このように同じ出来事に対し、結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。
すなわち、一人は、「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。他方の一人は、「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。
このように人の対応に差が出る仕組みを、臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。ABCとは、次の3つを意味します。
・A(Activating Event)=出来事
・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など
私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによるというのがこの理論の肝です。すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。
アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、「起こってしまった出来事を変えることはできないが、その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。
~中略~
観念は一様ではありません。感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。
いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発にもっともっと目を向けるときにきていると思います。
******************************
この文章を読んで。
感情や出来事は、選べないしコントロールできない。起こる現象と感情のあいだに、直接的な因果関係はない。出来事→感情は観念が関連づけている。人は観念を鍛えることで、出来事に左右されず、感情と思考の働きを高い理性の律動に留めることができる。そのようエネルギーを健全に変換し続けることで、人生を拓くことができるようになる。
考えていること。
感じていること。
行っていること。
観念に向き合うことで、これらを次第に一致させていける。そうして統合された人のあり方は、偽りがなくパワフル。質の高い成果を生み出して、人の心を感動させる。
そう思いました。
この記事は、第一に分かりやすい。第二に考察が深くて濃密。第三に村山さんの情熱と志の高さが伝わってくる。このような記事を見てからはブログの方も読ませて頂いています。物事の本質を図式化することが本当に上手く、偉人の言葉の引用も多くて教養になる。そしてとにかく、やっぱり、志が高い(笑) 僕はそういう方が好きです。
観念について理解することは、自分の人生の可能性を開きます。苦難から自分を救います。それだけではありません。カウンセリングや教育は、不健全な観念を取り除いたり、健全な観念を創る手伝いをすることと言えます。人を救いもするし、人格形成に貢献もする。さらには、社会問題に向き合って、真に合理的な社会を実現しようと思えば、観念の作用を理解することが鍵になると思います。僕は村山さんの記事の結びにある問題意識に共感しています。お会いした事はなくとも、その志は同じです。
最後に。
恋愛や結婚、家庭生活における観念作用について秀逸な記事をリンクで紹介します。恋愛セラピストのあづまさんのブログより。
この世界が安全な場所と感じるかどうかが、幸せな恋愛と関係します(ワールドイメージ)
親の不仲、暴力や離婚など、幼少期の過去の体験が影響して、その人の不幸な恋愛パターンを繰り返させる傾向はあるそうです。それは直観的にも分かる話です。
しかしながら実は、過去の事実は、現在の問題とは本質的に関係がない。言い換えると、「過去の事実として記憶していること」と「現在の恋愛傾向」が関係ないということ。
では現在の恋愛傾向や、人間関係で繰り返し起こる問題の傾向と、関係している「本質」とは一体何なのか。それは、今の自分の「セルフイメージ」と「ワールドイメージ」とのこと。
気になる方は読んでみて下さい。
今日の記事が、皆さんの幸福や社会貢献の参考になれば嬉しいです。
今後も観念について理解を深めたい。とくにお金という観念が、どのように人々の観念体系に作用しているのか。このブログで解き明かしていきたいと思います。
「人はものごとをではなく、それをどう見るかに思いわずらうのである」。
また、フランスの哲学家・モンテーニュは『エセー』でこう言っています───
「事柄に怒ってはならぬ。事柄はわれわれがいくら怒っても意に介しない」。
◆「その出来事が」ではなく「観念が」感情を引き起こす
この2つの言葉を理解するために、卑近な例を出しましょう。
職場の同僚2人が昼食のために定食屋に入りました。2人は同じメニューを注文して待っていたところ、店員が間違った品を持ってきました。そのとき一人は、「オーダーと違うじゃないか。いますぐ作りなおして持ってきてくれ」と、厳しく当たる対応をしました。一方、別の一人は「まぁ、昼食の混雑時だし間違いも時にはあるさ。店員がまだ慣れてないのかもしれないし。時間もないからそのメニューでいいよ」と、穏やかな対応をしました。
このように同じ出来事に対し、結果として2人の持つ感情、そして対応がまったく異なったのはなぜでしょう。───それは、各々が持つ観念(ものごとのとらえ方、見識、信念)が異なっているからといえます。
すなわち、一人は、「客サービスは、決して客の期待を裏切ってはいけない。飲食サービスにおいて注文品を間違えるなどというのは致命的なミスである」という観念を持っているがゆえに、あのような対応が生じました。他方の一人は、「混雑するサービス現場では取り違えや勘違いは起こるものである。おなかが満たされれば、メニューにあまりこだわらない」という観念で受け止めたために、あのような対応になりました。
このように人の対応に差が出る仕組みを、臨床心理学者アルバート・エリスは「ABC理論」でうまく説明しています。ABCとは、次の3つを意味します。
・A(Activating Event)=出来事
・B(Belief)=信念、思い込み、自分の中のルール
・C(Consequence)=結果として表れた感情、症状、対応など
私たちは、何か自分の身に降りかかった出来事に対し、「よかった」とか「悔しい」とか感情を持ちます。ですから私たちは単純に、この場合の因果関係を〈A〉→〈C〉であるかのように思いがちです。ところが実際は、その感情〈C〉を引き起こしているのは、出来事〈A〉ではなく、その出来事をどういった信念〈B〉で受け止めたかによるというのがこの理論の肝です。すなわち、因果関係は〈A〉→〈B〉→〈C〉と表されます。
アルバート・エリスは、このABC理論(より正確には「ABCDE理論」)を基に「論理療法」を創始しました。そのエッセンスは、「起こってしまった出来事を変えることはできないが、その解釈を変えることで人生を好い方向に進めていくことはできる」というものです。
~中略~
観念は一様ではありません。感情的な思い込みから、無意識の思考習慣、思想的・宗教的な信念まで、さまざまな観念が一人の人間の内で、そして社会で、複雑な模様を渦巻いていきます。
あるものは安易に流れ込み感染を広げ、あるものは試練を経て獲得され静かに感化の波を起こし、あるものは悲観的で、傍観主義で、利己的で、あるものは楽観的で、挑戦主義で、利他的で、これらが四六時中せめぎ合いをし、勢力争いをします。そして、どんな観念が支配的になるかで、個人の生き方も社会の様相も決まる。
いずれにせよ、観念が人をつくり、個々の観念が社会をつくります。知識に肥えていても、観念に痩せているという人がいます。同様に、物質は豊かだが、観念の貧しい社会もあります。私たちは自身の内部に広がる無限の観念空間の開発にもっともっと目を向けるときにきていると思います。
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この文章を読んで。
感情や出来事は、選べないしコントロールできない。起こる現象と感情のあいだに、直接的な因果関係はない。出来事→感情は観念が関連づけている。人は観念を鍛えることで、出来事に左右されず、感情と思考の働きを高い理性の律動に留めることができる。そのようエネルギーを健全に変換し続けることで、人生を拓くことができるようになる。
考えていること。
感じていること。
行っていること。
観念に向き合うことで、これらを次第に一致させていける。そうして統合された人のあり方は、偽りがなくパワフル。質の高い成果を生み出して、人の心を感動させる。
そう思いました。
この記事は、第一に分かりやすい。第二に考察が深くて濃密。第三に村山さんの情熱と志の高さが伝わってくる。このような記事を見てからはブログの方も読ませて頂いています。物事の本質を図式化することが本当に上手く、偉人の言葉の引用も多くて教養になる。そしてとにかく、やっぱり、志が高い(笑) 僕はそういう方が好きです。
観念について理解することは、自分の人生の可能性を開きます。苦難から自分を救います。それだけではありません。カウンセリングや教育は、不健全な観念を取り除いたり、健全な観念を創る手伝いをすることと言えます。人を救いもするし、人格形成に貢献もする。さらには、社会問題に向き合って、真に合理的な社会を実現しようと思えば、観念の作用を理解することが鍵になると思います。僕は村山さんの記事の結びにある問題意識に共感しています。お会いした事はなくとも、その志は同じです。
最後に。
恋愛や結婚、家庭生活における観念作用について秀逸な記事をリンクで紹介します。恋愛セラピストのあづまさんのブログより。
この世界が安全な場所と感じるかどうかが、幸せな恋愛と関係します(ワールドイメージ)
親の不仲、暴力や離婚など、幼少期の過去の体験が影響して、その人の不幸な恋愛パターンを繰り返させる傾向はあるそうです。それは直観的にも分かる話です。
しかしながら実は、過去の事実は、現在の問題とは本質的に関係がない。言い換えると、「過去の事実として記憶していること」と「現在の恋愛傾向」が関係ないということ。
では現在の恋愛傾向や、人間関係で繰り返し起こる問題の傾向と、関係している「本質」とは一体何なのか。それは、今の自分の「セルフイメージ」と「ワールドイメージ」とのこと。
気になる方は読んでみて下さい。
今日の記事が、皆さんの幸福や社会貢献の参考になれば嬉しいです。
今後も観念について理解を深めたい。とくにお金という観念が、どのように人々の観念体系に作用しているのか。このブログで解き明かしていきたいと思います。
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