ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。
「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい」
長老は答えます。
「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」
村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。
そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。
「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか」
それを聞いた長老は答えました。
「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか」
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村人と長老の「信じる」という行為は似て非なるものです。
ここでは、何を信じるかよりも、信じる深さが問われています。もちろん、そこに理がなければ望む事象は現実化しません。しかし、人間社会を考えた時、お金にしろ国家にしろ、人間がある世界観を信じて、ある観念を創り、それを信じ合って行動する、という行為に起因します。社会問題の全ては、人間の信じるという行為と極めて密接であるため、この話は重要な示唆があると思います。
信じるということは、それを前提にして生きること。
僕はそう考えています。
だとしたら、今この社会は何を信じているでしょうか。
人々は何を前提に生きているでしょうか。
あなたは何を信じていますか。
何を前提に生きていますか。
この社会が、あるいは自分が、
本当に信じているものは何でしょうか。
表面ではなく、奥底で本当に信じているもの。
今の社会のあり様、今の自分、
前提として信じていることが実現しているに過ぎないのかもしれません。
前提として信じていることが実現しているに過ぎないのかもしれません。
だからといって、ポジティブシンキングをしろ、というわけではありません。
一部のスピリチュアルの様に、ワクワクだ!なんて僕は全く思いません。
ネガティブシンキングより100倍マシだと思いはしますが。
ただ思うのは、
自分の真実を重んじた方が良いということ。
それを前提にして生きた方が良いということ。
そこに自身の理を見出し、創造的に自分を生きた方が良いということ。
自分の人生で最も影響力のあるものは、外側の現象にあるのではなく、自分の真実です。
それを過小評価してはならないと思います。
一番影響力のあるものは、一番重んじなければならない。
個人も社会も、そうすることが合理的だからです。
そうしなければ機能しないからです。
いつかは死ぬと意識していることが、 何かを失うのではないかという思考のワナに陥ることを避ける、 私が知る限りの最善の方法だ。 君たちはすでに素っ裸だ。 自分の心のままに行動しない理由など何も無い ―スティーブ・ジョブズ
信じる深さについて。
深さの伴った信じるという行為の力と理について。
今後も考えていこうと思います。
信じる深さについて。
深さの伴った信じるという行為の力と理について。
今後も考えていこうと思います。
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