バガボンド好きですか?
僕は大好きです。
スラムダンクもリアルも素晴らしいですけど、どうしてもバガボンドだけは別格。この作品には、井上さんのすべてが込められていると感じます。
井上さん自身、「リアルを描く方がバガボンドよりずっと気は楽です」と言っているように、この作品は相当の精神力が要るようです。おそらく常人には想像し難いほど、深く緻密に内側を見つめ、感性を研ぎ澄まして描写し、その質には極めて厳しい基準を自身に課しているのでしょう。
そんな井上さんが一番重んじていることは「人間を描けているかどうか」。
尾田栄一郎さんとの対談で出た言葉です。これを数年前に聞いて以来、映画でも歌でも小説でもレストランでも事業でも、創作物のクオリティを見る視点としてずっと頭の隅にありました。その結論として、物事をみる上で最重要の質とは「人間の真実」であり、人を真に感動させるのは人の(自分の)リアリティしかあり得ない、ということでした。まったくもって井上さんのおっしゃる通りだったわけです。
この辺りは以前ブログに書きました。「人間を描けているかどうか」
バガボンドは、静けさの中で重厚かつ濃密に、孤独に自己と向き合うシーンが極めて多いです。物語のドラマ(展開)を描くよりも、人間の精神と感性の動き、静寂、波、内なる声を描くことを重んじているのが特徴的です。武蔵や小次郎は、剣や鍬を振るなどの物理的な動きはもちろん、高揚や迷いなどの精神の動きについても、感覚と意識を研ぎ澄まして自身を観察しています。それはまるで瞑想するがごとく。自問自答のような自己への観察を、読者に伝わるように、作中で幾度となく感覚的な言葉や絵で表現するのですが、それがバガボンドの味わいになっています。この漫画を見ると、井上さんがいかに人間の探求を楽しんでいるかが伝わってきます。
登場人物に沢庵という御坊さんがいます。
井上さんは、多分ですが、自分を沢庵として登場させていると思います。
全ての人物には作者の投影が少なからずあるでしょうが、この人物だけは特別であり、僕には井上さんが自分自身を背負わせている気がしてなりません。沢庵の言葉と振舞いは、武蔵にも小次郎にも、それ以外の主要人物にも、そして全体の世界観にも、要所要所で核心を問いかけるようにして揺さぶり、物語における精神面の成長と方向性を与えているからです。
作品の重心は武蔵ですが、井上さんの「人間を描く」というテーマにおいては、沢庵こそが軸になっていると思います。
28巻に、その沢庵が悟りについて語るシーンがあります。武蔵が吉岡一門70名を切り殺して、天下無双の名声を得たものの、それを目指して歩んできた自分の道を見つめなおし、苦しみを抱えます。自分の生きる道の先を見失ったところで沢庵と再会します。
――――――――――――――――――
沢庵「わしも分からんことだらけだよ、本当は。剣で斬り合う人なんか見ると余計に。
人間のなんたるか。
人はなぜ生まれ、如何に生きるべきか。
救いはあるのか。
分からなくて、混沌の闇の中で、苦しみ、のたうち、間違いを犯し・・・」
武蔵「あんたがかい?」
「そうさ」
「わしの中にも我執ー、それはあって
それが頭をもたげる時、わしの歩んできた道は無意味に思え、阿呆らしくみえて・・・
武蔵、
お前が七十対一の一乗寺下り松から、もしも生きて還ることがあったなら
こんな話をしたいと思っていた。
武蔵、あのな
実は最近、声を聞いた」
武蔵「・・・誰の?
・・・・声って、誰の?」
天を指差す沢庵。
「それによると― わしの、お前の、生きる道は、
これまでも、これから先も、天によって完璧に決まっていて
それが故に― 完全に自由だ」
武蔵「完璧に決められていて・・・完全に自由?
んなアホな。完璧に決まってるなら不自由この上なしだろ?すげえ矛盾」
「そう思うだろ?それがどうもそうじゃないんだよ!
何から話そうか・・・
お前が剣の道なら、わしは仏の道。
仏の道は人の道。
「人」の答えを探す旅は・・・見たくはない「人」の姿を見せつけられる旅だったー
武蔵「お・・・俺のことだな。見たくない「人」の姿ってのは、俺のことだな?」
「みーんなだ。もちろんそこにはわしも含む。
自分たちの姿に絶望し、「人」の答えなど見つけて何になる。
人を導くなど俺に無理と唾を吐く。
吐いた唾は自分に返り、拭い去るためにまた旅をつづけ「人」の答えを探す。
そして思い知らされる。
天とのつながり無しに生きるは苦ばかりなり。
もしも生まれた甲斐があるのだとしたら、もうどうなとしてくれ。
ただそれを受け入れる。
扉が開いた
長いこと閉ざされていたいくつもの扉が一斉にー
自由とはこれだった。今まで知っていた自由は別のものだった。
人は無限だ
それぞれの道は、天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ。
根っこのところを天に預けている限りは―」
「苦しみを知る今のお前には伝わると思ったんだ・・・武蔵。
対吉岡の戦いが勝利であれ何であれ
今、おまえは誰ひとり理解できない苦しみを抱え込むことになった。
この世に一人も お前の苦しみを理解できる者はおらん。
ただ武蔵よ。分かるかい?
それでも天はお前とつながっている」
―――――――――――――――――
救いはあるのか、如何に生きるべきか。
「人」の答えを探しても、答えは見つかりませんでした。
「天とのつながり無しに生きるは苦ばかりなり。 もしも生まれた甲斐があるのだとしたら、もうどうなとしてくれ。 ただそれを受け入れる」
その境地に至って、閉ざされていた扉が開きます。一斉に射し込んだ天の光に包まれる。沢庵は答えを見出し、真の自由を得たといいます。
人の道の答えは、どうやら「人」の中にはなかったようです。「人」であることを求めた先に、それを捨てたことで見えた。それは既に、完全に定められていることに気付きます。そういう意味では自由なんて与えられていなかったんですね。
でも一体、なぜそれが自由なのでしょうか。
定められているのは、人という理であって、人という制限ではないからです。自由を求めて制限を克服する者から、理の自由な活かし手となったから。
そして悟りを開くと選択肢が一つだけになる。表面に現れる行為や態度は、ケースバイケースで臨機応変に違うのですが、本人の意識としてはたった一つを選んでいる感覚になるようです。いつどんな状況でも、誰と向き合っても、選ぶのは最善。その意識に迷いや不安に脅かされる隙はなくなります。
これまでの条件付きの自由とは次元の異なる、無条件の自由を得たと沢庵は感じた。自由を求めて制限に向き合うと、人は思考と手段に興じなくてはなりません。しかし、どんな現象に直面しようと、外からは決して侵されることのない内なる理が導くままに選ぶことが最善なのだ、と信じられたら、制限に見える現象は自分の最善に関係ないということになります。それが悟るということなのだと、僕は解釈しています。
武蔵が孤独と苦しみを知るゆえに、この話が伝わると沢庵は考えました。
それは、なぜでしょうか。
苦しみの重さが増していくばかりのとき、それが極まると人は、自分の生き方はどこか間違っているのではないかと真摯に自分を問い始めます。これまで自分を支えてきた価値観や信念を、変えなくてはならない。あるいは捨てなくてはならない。そして再生しなければならない。結構しんどい孤独な精神作業です。変わらなくてはならないことを、本人は明確に自覚していなくても、どこかでは気付いています。天に定められた人の道を悟る沢庵は、武蔵のそういう無意識も含めて見抜いているから、聞く準備ができているだろうと思って話したのだと思います。
井上さん、僕はこんな深くて面白いバガボンドをリアルタイムで読める時代に生まれて良かった!ありがとう。
ここで、二宮尊徳が語った悟りについて面白い部分も紹介します。
済度(さいど)せぬ悟りは迷いと同じ 「二宮先生語録」
仏徒が悟りを尊ぶのは、まだ迷界から抜け出ていないものだ。すでに悟ってしまえば、何もそれを尊ぶに足らない。これを高山に登るのにたとえれば、その高さを仰ぐうちは、まだ絶頂に達していないのだ。同様にその悟りを尊ぶうちは、まだ極地に達していないのだ。すでに絶頂に達したならば、四方をながめてから下山するように、すでに悟りの極致に達したならば、ふたたび迷界に入って済度に努めるほかはない。もしも、もっぱら悟りを尊ぶだけで済度に努めないならば、迷っている者と同じことだ。たとい数万巻の経文を読み、正法眼蔵をきわめても、衆生済度の功がなければ、ちょうどへちまの蔓(つる)ばかり延びて実が結ばないのと同じようなものだ。世の中に役に立たない以上は、誰がそのようなものを用いよう。わが法はそうではなく、神儒仏の三道を実行するのだ。だから人生において無上の良法とする。なぜならば、これを民に施して、衆生を済(すく)う功があるからだ。
重要なのは、悟ったあと。
それを活かして何を為し得るか。
どれだけ多く、深く、人を救えるのか。
そうでないなら、悟っていないのと何も変わらない。
尊徳はそう言っています。
僕もそう思います。
――――――――――――――――――
武蔵「自分でも驚くほどの太刀筋が―――」
沢庵「ん?」
武蔵「――強くて、速い。剣使いができるときがある。
そんなときは・・・俺の真ん中の奥が光ってる。
そんなときなぜか・・・笑いがこみあげてきて・・・
祈りたくなる。
その光のことを、あんたは『心に抱く天』と呼ぶんだろう?
『おれは天とつながっている――』
わかるような気がする。
天と、しっかりつながるほど剣は・・・そうか
自由で
無限だ。
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