2015年8月30日日曜日

自分がおかしいのか、社会がおかしいのか。

こんなツイートを読みました。

「社会不適合者という言葉もあるけれど、鬱病患者が100万人以上もいると噂の社会に無理矢理適合させて生きるよりも、新しい社会の在り方なり理想のスタイルを(自分の生き様を通じて)実現する為の力を養う方が、多分、圧倒的に有意義だと思う。レールを外れても、大地があるから大丈夫だ。」

「鬱病とは「おかしいのは自分なのか、おかしいのは世の中なのか」と悩んだ時に、おかしいのは自分なんだと思い込んでしまった瞬間に発症する病気だと思う。年間3万人の自殺者がいる世の中は「あまりまともじゃない」と思うので、おかしいのは世の中の方なんだと思うことを推奨しています。」

「先日、不登校の息子を抱えて悩む母親と話した。母親は「このままでは息子に未来はない」と言った。私は「そんなことはない」と思った。不登校は別に問題ではなく、不登校を問題だと思うマインドが問題で、世間的なレールの上を歩く価値よりも、息子そのものの価値を認めて欲しいと思った。」
(坂爪圭吾さんのツイッターより)
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共感するところが多分にあります。

日本の自殺者は年間三万人。しかし統計上の「変死者」は年間14万人に達します。両者の違いは、自殺の定義、①遺言があるか、②死後24時間以内に発見されたか。変死者の半数を自殺に計上するWHOの見解を適用すれば、日本の推定自殺数は十万人に膨れ上がります。
※死因が特定できず法規上警察への通報が義務付けられた遺体の内、犯罪の疑いのあるものを除外した「非犯罪死体」は14万6千体(08年)で、その数は過去11年間で1.6倍に増加している。一方、同期間の自殺者数はほぼ3万強で変動なし。

私見ですが、うつ病の人が「世間がおかしい」といってもまぁまぁ正解ですし、「自分がおかしい」といってもまぁまぁ正解だと思います。しかしどっちのせいにしても自分が苦しいという結果は変わりません。

大切なのは、そのおかしい自分を捨て身でオープンにする勇気と、そのおかしい世間と真っ向からフェアに対話する覚悟です。

『自己と世界との関係性がおかしい』という表現がきっと一番的確です。健全な関係を自分に正直になって選び直せばいいのだと思います。

2015年8月5日水曜日

街づくりのリーダー

社会人になって二年目、2009年頃、面白法人カヤックへの転職を結構真剣に考えてた時期がありました。社長の柳澤さんが面白いなって。

地域にイノベーションは起こせるか–福岡市・鎌倉市から学ぶ楽しい町づくり 
http://logmi.jp/80188
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鎌倉に本社があるカヤックの柳澤です。今日はカマコンバレーという活動の話ということで、カマコンバレーがどういう活動をしているか、どういう事例が生まれたか、あとかなりうまくいっていろんな行政の方が地方から見学に来るので……カマコンバレー式の仕組みを地方でもう5、6ヵ所展開して根付いているんですけれども、なぜうまくいっているか、と。この3つの話をすると5分ではたぶん終わらなくて。
吉田:5分でお願いします(笑)。
柳澤:終わらないので、なぜうまくいっているのかはあとで話そうと思って。じゃあカマコンバレーの仕組みを1分くらいでお話します。月に1回定例会をやっているだけです。地元のITとか、さっきデザインの話もありましたが、クリエイティブの企業や個人。都内で働いているような方が参加しまして。ただ実は中学生から80代くらいまでいるんですけどね。
毎月150人くらいが参加して。地元ですでにおもしろい活動をしている人をゲストで5組呼んで、1組5分でプレゼンをしてもらったあとに、自分が興味のあるところに分かれてクリエイティブやITでその活動に対してどんなお手伝いができるかをみんなで必死にブレストをすると。それだけをやっているだけです。
それをやるとやりたくなっちゃうので、さっきの話と一緒で自然発生的に手伝いたいチームが発足され、あとは分科会で勝手に行われていくと。さらにお金が必要なときは鎌倉専用のクラウドファンディングでお金を集めて支援すると。この流れを2、3年やっているうちに、いろいろな会社が生まれたり。
いろいろなプロジェクトが、自分がプレゼンを聞いていてやりたいと言って手を挙げてやることもありますし、お手伝いをしてその活動が大きくなることもある。さらに1年で60組プレゼンがありますから、町づくりに関わりたい人が何らかの形で参加できるようになるというということで、住んでいるのが楽しくなるという仕組みでやってるんですね。
中略
柳澤:自分ごと、つまり「この町は自分がつくっている」となると楽しく住めるようになる。これは会社でカヤックがそうだったので。「自分がこの会社をつくっている」となると、おもしろく働けるということだったので。
地域も一緒だろうということで、地域活動に関わる人が増えれば増えるほどたぶん好きになるんだろうと。全部自分ごと化して、それぞれ活動している人たちを勝手に応援して、参加していきましょうということでつくったんですけど。
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本物の街づくりのリーダーは、
皆の願いに純粋に関心を注いで「話そうよ」と根気よく語りかけ続け、
住民の自発的な対話と表現がシェアされるコミュニケーション機会を創っては愉しみ、
そのプロセスや体験やストーリーの面白さを世間にオープンにすることで、
街の外側の人々に対しても注目に値するケーススタディを提供し、彼らの関心にも開いたコミュニケーションで歓迎し、
シナジーを生むご縁を引き寄せ、自分たちの街づくりの意義や精神性やビジョンへの共感・共鳴を呼び、
巻き込んだマンパワーによって共同体内部における存在感とメッセージの説得力を拡大し、
意欲と協力の質量は台風のごとく大きくなってゆき、
不可能だと思われた理想を無理のない自然な展開で実現する。

そんなリーダー集団をつくる事業をやりたいと思っています。この柳澤さんの記事は参考になりました。

2015年7月19日日曜日

愚か者には見えない衣装なんか脱ぎ捨てて、裸になって語ろうよ。

『裸の王様』
新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。
仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついに皆が「王様は裸だ」と叫ぶなか、王様一行はただただパレードを続けるのだった。wikipedia
ハンス・クリスチャン・アンデルセン作
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『裸の王様』という童話は秀逸です。人間社会の滑稽さをユーモラスにえぐっています。臣下も民衆も、みんな自分に嘘をついて、王様が裸ではないというフィクションを前提にして現実を盛大に造り出しています。でも、ありのままを観て自分に嘘をつけない子供の心はごまかせない。

ほんと、「馬鹿には見えない布」って言い回しが絶妙だと思います。

確かに王様は滑稽です。しかし、なぜ王様は滑稽になってしまったのでしょうか。彼を滑稽な王様にしていったもの、それは一体何でしょうか。

想像してみてください。

生まれたときから、身の回りの全ての人間が彼に、「王になる(である)」という物語を前提に接し続けた。

彼は、その物語を他者と共有することでしか、人と繋がれなかった。

王という観念と同化することでしか、人間関係の喜びを体験させて貰えなかったのだとしたら。

その幻想に執着するのは必然なのです。


新聞やニュースを見れば、「愚か者には分からない出来事」に溢れています。今の社会の常識を百年後の人々が見たら、全く支離滅裂で荒唐無稽で、まるで「裸の王様」で描かれたパレードの様な喜劇に見えるかもしれません。
確かに私も、国債も年金も、国民も消費者も、法律も資本主義も、全く見えません。馬鹿だからでしょうか(笑)でもそのような観念と解釈物語に振り回されるのが人間社会なのですよね。
「親」「社会人」「経営者」「専門家」「政治家」…そんな衣装はたくさんあります。裸の王様のように、リーダーが社会物語に依存して権威を着てしまえば、フォロワーも「衣装」を着て振る舞うことになります。やがて化かし合いの人間関係が体験として積み上がり、それを根拠にした「タダシイ常識」が世にはびこっていきます。
しかし、どれだけ影響力の大きいものであろうと、どれだけ本物っぽく見えようと、嘘は嘘であり、必ず破綻します。その時、嘘の物語を前提にした人間関係群もあっけなく破綻することになります。
もし王様が賢くて、自立していて、自分の存在意義や自尊心を権威や立場に依存していなかったとしたら。きっと「地位に相応しくないような愚か者には見えない衣装」とやらを「着る」ことも「見る」こともなかったでしょう。
「愚か者には見えない衣装」の正体は、王様という称号です。そしてそのような社会観念にアイデンティティを依存させているのは、大臣や大衆も同じ。自分に嘘をつく者同士が、大真面目にフィクションありきの「ゲンジツ」に興じてしまうのです。


消費者とか労働者とか国民とか。《愚か者の目には見えない衣装》をお互いに着ているフリ、見えているフリをしあうのなら、私たちも童話『裸の王様』に登場する王様や臣下や民衆と同じです。薄っぺらな物語は大勢で賑わっているけど、いつまで経っても心を閉ざした独り芝居です。
そんな「賢すぎる現実」に生きていれば、個人も社会も病んで当たり前です。
そろそろ私たちは、「愚か者には見えない衣装」を脱ぎ棄てて、
裸にならないといけません。だってハナから裸なんだもの。


スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチで言ってました。

君たちはもう素っ裸なんです。
自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

2015年7月17日金曜日

日本国憲法前文っていいよね。当時の人間の願いと覚悟が匂ってくる。

最近は、憲法と国家安全保障について語られている記事をタイムラインでよく目にします。関心を持っている人が多いようですね。

私は日本国憲法の前文が好きです。全部載っけちゃいますね。

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『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。』

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日本国憲法は昭和21年11月3日に公布されました。表現は少々堅いけど、私はこの文章から、当時を懸命に生き抜いた人たちの素直な想いを感じ取ります。それはきっと、70年後の私たちがポジショニングしながら小手先の理屈で組み立てた言葉ではないからです。

人間と人間が互いに削ぎ合った血肉の渦に、どうしようもなく自ら身を投じて呑み込まれていくような、熱量の夥しい体感と連帯。怖れを動機とした共依存は極まって、国家と自我を同化させる正当性は自滅しました。国は人なり、決して、人は国なりではない。一人一人が世界観を自立させなければならない。日本社会の再生は、人間(自己)の理性を信頼する歩みから始めなければならない。戦争体験はそのような自覚を、日本列島に住む人々にもたらしたはずです。

日本国憲法の前文は、理性を信じるリーダーによって純粋に綴られた言葉であると思います。人類史最悪の国家戦争をくぐり抜けた人々が、生存と実存の限りを懸けて至った自覚であり、後世の人間社会に伝えるべき「願い」と「覚悟」を総括した文献であると言って差し支えない思います。



そういえば、日本国首相の公式サイトには憲法改正について書かれているのをご存知でしょうか。2009年06月12日に書かれたものです。文末には関連資料として、平成17年に提案された自民党新憲法草案が紹介されています。

読んでみて、ちょっとした感想を。


うすい。


法の精神性が如実に表れる前文を、現憲法のそれと比較したとき。
自民党草案はまったくもって貧弱で、薄く、軽く、浅い。

真に迫るような、命懸けの人間による願いと覚悟。人類の過去と未来を背負って代表して語ろうとする公正さと誠実さ。国家主義の物語に自我の怖れを同化させるがゆえに大量殺戮の連鎖が起こる、という戦争現象のメカニズムの理解

それらが、滲み出ていない。匂ってこない。響いてこない。
文言から伝わってくる内容の質量、密度、濃度、深み・・・
自民党草案は、現憲法の前文と見比べると全く勝負になっていません。

そう感じてしまうんですね。
感じてしまうのものは仕方ありません。
でもこの印象の違いは何だろうかと。

独断と偏見を承知で私の仮説を言わせてもらえば、
日本国憲法の精神を語る人物の、精神的な拠り所の違いです

語り手の語る意識が、「人間の存在」を起点に思考しているのか。
「日本国家の物語」を起点に思考しているのか。

それは語り手の思考を支えるアイデンティティの違いであり、
アイデンティティを支える世界観の違いであり、
世界に対して自分はどうありたいのか、という生きる動機の違いです。


私は「国家」を重んじるのではなく、「国家を重んじる人の心」を重んじています。
そして法に従う者ではなく、法の精神を重んじる者です。

細かい条文の是非については語りません。重要な問題であるほど、二番目以下の内容についてはどうこう語らずに放っておくタイプです。そして一番大事なことは、制度ではなく、精神性を読み解こうとすれば分かると思っています。

憲法改正に関する私見は以上です。

よく聞いて、仮説が観えて、自分がどうありたいのか定まれば、よく伝える。
対話あるのみです。
http://www.sabe.or.jp/wp-content/uploads/constitutiondraft.pdf

2015年5月14日木曜日

娘にお姉さんが出来た。

3歳の娘と公園で遊んでいた。
そろそろ図書館と銀行に行きたいので帰ろうとした直後、駆け寄って来た女の子が娘に声を掛けた。

「ねぇ、一緒に遊ぼ」

小学校の名札がついている。どうやら一年生になったばかりみたい。どうしようか、妻には今から帰ると電話で伝えたばかり。娘はちょっと戸惑ってる様子、と一瞬考えつつ、

「こんにちは。お名前は、、、◯◯ちゃん?」

「うん」

「この子は◯◯◯。3歳になったところ。よろしくね。」

女の子「よろしくね」
娘「よろしくね」

まぁいいかな。二人共満足に遊べるのかはちょっぴり不安だけど。


でも全くの杞憂でした。


持って来たシャボン玉を一緒にやったり。

砂場で山をつくって、3箇所からトンネルを繋げたり。それぞれの穴からその子と娘と私の手が最初に触れた時は
、みんなとても嬉しい顔をした。

そこへ水を流してみたり。落ち葉や木の実や枝で飾り付けたり。

妻に連絡して、図書館と銀行は代わりに行ってもらい、もちろん途中参加。

そして縄跳びに、アスレチック。

気づけば小学校帰りの元気な子供たちで公園は賑わっていた。


娘は高い滑り台を怖がる。
喜んで登るくせに(そして大好きなアンパンマンの映画のプルンちゃんの真似をする)、当たり前のように滑らずに階段から降りる。
大丈夫だよ、パパが側にいるから滑ってごらん、って言っても駄目だ。

また子供に対しては少し臆病だ。
オトモダチが来たから、とすぐに場を離れてしまう。一緒に遊ぼう、とか、お先にどうぞ、とか、そういうやり取りをするまでもなく、早め早めにそそくさ引き下がる。保育園や幼稚園に行くようになれば、子供同士の関わ合いにも慣れるのかなぁと私も妻も思っていた。

でもこの日、娘は滑り台を思いっきり楽しんだ。

「◯◯◯ちゃん、滑り台すべろう」

娘「…」

「この子は、高い滑り台だと怖いみたいで。◯◯ちゃん行っといで」

逆から走り登ったりと、思いっきり滑り台を楽しむ◯◯ちゃん。そしてその脇の草花で遊んでる娘をしばらく見ていた。

ふと滑り台に近づいた娘に、◯◯ちゃんが上から降りて、

「◯◯◯ちゃん、二人で滑ろう。私のお膝の上に乗れば怖くないよ。」

「◯◯◯、一緒に滑ってみたら?」

いざ滑るときになるとやっぱり不安気だったが、
「大丈夫」と◯◯ちゃんが慣れた感じで娘の体をしっかり支えて、滑った。

娘は満足そうに笑った。

「ねぇパパ。また◯◯ちゃんと滑りたい。」

「声掛けてみな。また一緒に滑ろうって」

「うん」


二人とも楽しそうだ。

「ねぇパパ、また滑りたい。」

「また声掛けてみたら。きっと一緒に滑ってくれるよ。」

「うん」



「百回でも、十回でも、何回でもいいよ!」

そういって、娘が満足するまで何度も何度も滑ってくれた。


本当に楽しんだ。
17時30分、そろそろ帰ろうか。

「◯◯◯ちゃんのお家に行きたい」

え、、と、まぁいいか。喉も渇いたろうし、飲み物くらい出してあげたいし。おうちも近いみたいだし、その後で自宅まで送ってあげよう。

で、狭い我が家で、ピアノ絵本で娘はまた遊んでもらった。

18時。「◯◯◯ちゃんちでごはん食べたい」と言っていたけど(それは嬉しいんだけど)、お母さんが心配しちゃうかもしれないし、またおいでねと切り上げて、皆でお家まで送った。最後にお母さんさんにご挨拶をしてお別れした。


疲れた。思いっきり疲れたが、なんて気持ちの良い疲れだろう。

一人っ子だと聞いたが、なんて面倒見のいいお姉さんだろう。妻が「はたから見たら姉妹に見えるね」なんて言ってたけど、◯◯◯の本当のお姉さんみたいで微笑ましかった。

「一緒に遊ぼう」って声をかけてくれたあのとき、応えてあげて良かった。

大人の都合と予定もあって一瞬迷ったけど、
娘には子供同士で遊ばせてあげたいなって常々思っているし(午前中は近所の保育園の園庭開放で遊ばせていた)、
何よりも、小さな女の子の一緒に遊びたいという気持ちと誘ってくれた勇気に応えてあげたかった。

3歳の娘じゃ小学校一年生の相手としては不足で、こりゃ俺が本気で遊ばないとな、ってわかってたけど覚悟した笑

最初に妻が駆けつけてたとき、
◯◯ちゃんを紹介して、

「この子から遊ぼうって誘ってくれたんだ」

そういうと、

「(誘ったりすることは)最初は恥ずかしかったけど、大丈夫になったんだよ」と。

そんな会話を思い返すと、ちょっと臆病な娘に優しく引っ張ってくれるお姉さんができた、そんな心境にもなる。


なんだろうね。

自分の子供と近所の子供の触れ合い。そこに子供たちのそれぞれの成長を見ながら、また幼い彼女らの純粋な世界と全力の遊びに交わりながら、とても懐かしい感覚と記憶が蘇ってくる。

20数年前に、砂場で山をつくりトンネルを掘っていた自分。誰よりも固い団子をつくり続けていた自分。蟻の動きに夢中になっていた自分。

なんだろうね。この優しい気持ちは、穏やかな幸せは。


今日は子供たちから教えてもらったよ。

大人の不安と、子供の不安は違うんだな。

社会に本音を開くことではなく、
自分の心が生きる世界に身体を開いている。
人間関係を信頼することではなく、
自分の心が生きる世界にいてくれる人を信頼する。

楽しい一日をありがとう。





2015年3月26日木曜日

良書をシェアしたい。

ここ数年間で読んだ良書の一部です。

私は千葉県佐倉市西志津に住んでいます。
近所に住んでいらっしゃる方で読んでみたいと思われた方はご連絡下さい。
無償でお貸しします。

誰かが読み終えて、もう手離しても構わなくなった書籍を寄贈してもらうのではない。

「今」その地域に住んでいる人々が、「今」手元に置いておきたい本。
そして、地域を分かち合う仲間たちと「今」共有したいと思う知恵。

「いま現在の私の良書」を住民たちが開いた心でシェアする図書室をつくりたい。
そんな知性の公園があったら素敵じゃないだろうか。 

2014年8月15日金曜日

「社会とは何か」を語る者の心構え

村上春樹さんのカキフライ理論が面白い。

あるとき読者からこんなメールが来たそうです。

*****

先日就職試験を受けたのですが、そこで『原稿用紙四枚以内』で自分自身について説明しなさい、という問題が出ました。

僕はとても原稿用紙四枚以内で自分自身を説明することなんて出来ませんでした。そんなこと出来っこないですよね。もしそんな問題を出されたら村上さんはどうしますか。プロの作家にはそういうことも出来るのでしょうか?


それについての僕の答えはこういうものだ。

こんにちは。原稿用紙4枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問に僕には思えます。ただ、自分自身について書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙4枚以内で書くことは可能ですよね。あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。それが僕のいわゆる「牡蠣フライ理論」です。今度自分自身について書けと言われたら、ためしに牡蠣フライについて書いてみて下さい。もちろん牡蠣フライじゃなくてもいいんです。メンチカツでも、海老コロッケでもかまいません。トヨタ・カローラでも青山通りでもレオナルド・ディカプリオでも、何でもいいんです。とりあえず、僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。健闘を祈ります。

『村上春樹 雑文集』の最初に収録されている自己とは何か(あるいは美味しい牡蠣フライの食べ方)」より

*****

ちなみに引用した記事は、村上さんの考える小説家とは何か、文学とは何か、物語とは何か、自己とは何か。そういう核心がギュッと詰まったかなり読みごたえのある「雑文」です。その文中の最後には実際に原稿用紙四枚で書いてみた「牡蠣フライの話」を紹介しています。実存に関する本質論からオウム真理教に観る社会背景、そして日常感覚のユーモアにまで文脈を自在に繋げる力はさすがです。

こう表現することも出来るでしょう。

あなたが「何か」を表現すると、
その何かが意図した通りに表現される以上に、
「それを表現するあなた自身」が自動的に表れる。

あなたが意識する「それ」との関係性の、質感とエネルギーを以て、「あなたとそれ、というあなたのユニークな全体性」が無意識に伝わってしまうということです。

ところで。私は昨日ブログタイトルを「社会を担う者として」に変えました。これからもっとシンプルに社会を語っていこう!ということですが、それもまた「牡蠣フライ理論」と同じです。社会を観察しブログで描写するということは、自分の頭と心と行動を観察してオープンに自己表現する、ということです。ここで重要かつ純粋な表現物は、「社会」ではなく「千明公司」です。この自覚がなければバランスを欠いてしまいます。

健全な社会を描き、語り、自ら導きたいと望む者は、自分の人間観、人生観、社会観、世界観をオープンに語らなければなりません。自分の頭と心の中をさらし続け、その健全さは人として共感に値するものであるか、他者に判断を委ねて試されなければなりません。与えられた主義主張や立場に思考を依存せずに、また正当化することなく、ただ真摯に観察し、気づきゆえの願いをビジョンとして描き、勇気をもって正直に問いかけていく。社会を導くリーダーはそんな態度で臨むべきだと私は思います。


村上春樹さんの「牡蠣フライ理論」を紹介した理由はもうひとつあります。

それは、妻が彼をロールモデルとして選んでいるということです。

彼は本好きの妻が一番好きな作家ですが、その自立した精神性と余白のある心は、生き方や子育てにおいても人として参考にしたいと妻は考えています。私にとって村上春樹さんを観ていくことは、私たちが最良の家庭づくりのためのコミュニケーションをしていく上でとても重要なのです。

私と妻のあいだの関係性を新たに描くために、私と村上春樹さんのあいだの関係性を深める、ということです。
その具体的で合理的なアプローチとして、「社会を担う者」という私自身の物語の文脈から、村上春樹さんの文章を捉え、このブログでオープンに有意義なシェアをしたいと考えました。

「健全な社会とは何か」を語るリーダーとして、いま自分が重んじている人間関係の質感と社会を繋げて、他者の願いと自分の願いを一つとして表現していく。これからはそんなスタンスで描いていきます。

そういえば思いだした。
ブログを書きまくってた去年の夏頃だったか、妻の刺すような言葉。


「別に次世代にならなくていいから」


そうだね。消しました。


それはもう、私の中にあるからね。