2016年3月2日水曜日

真実と闘い方について。

自分の真実は自分にある。他者の真実は他者の世界にある。他者のそれは、自分にはわかりえないものとして、謙虚に見守るか放っておくのが基本だ。自分はせいぜい、自分の真を全力で表現することを以て、相手の真を問いかけることしかできない。最後まで、真実か嘘かを判断していいのは本人の心だけだ。

自分の真を全力で表現する、なんて言ったけど、滅多にやるもんじゃないし、やれるものでもない。二宮金次郎やガンジーが示したように、成熟した人間が社会的存在意義と生命をかけて捨て身の言動をするのだから、よっぽどの時と事と相手でなければ表面的には発動しない。

「社会に正義をつらぬく」なら、命をかけた戦争になる。「相手に真実を問いかける」なら、実存をかけた対話になる。私は人間の闘い方として後者を選んでいる。

2016年2月29日月曜日

人間讃歌

人口爆発中は「人間って素晴らしい」っていう人間讃歌言説がどんどん強くなっていく。強気の相場みたいなもんです。安定の順張り。いろいろボロが出てくると「人間だもの」論がフォローします。押し目買いです。じゃあ人口減少になったらどうなるか。人間バブルが弾けて生き様の質の違いが露呈する。

等身大で生きている人にとって、それは報われやすくなる社会変化です。しかし虚像の物語に頼って影響力をもつ人にとって、それは自分の存在価値を損なう怖ろしい危機です。というか、不自然な社会的意味づけが崩れさって、人物や事物はしかるべき適正な価値評価に見直されるだけなんだけれど。

どんどん見せかけが通用しなくなっていく。その厳しさはこれからが本番だ。いずれは見せかけにしがみつきたい自分を殺さなければならない。自分がいかに見せかけだったのかを直視し、気づけば気づくほど辛くなる。同じように社会がいかに見せかけだったのかを悟って絶望する。執着を手放した人は自分の真実を通して社会の真実を見る。

自分が変わるために、孤独になって行動を起こして、恥をかいて傷ついて、これまでのゴマカシを清算したら、もう自分を許せる。自分を許すことで、他人も社会も許せる。今度は愛せる。もっと深く、本当に。そんな自分を讃えたくなる。自分を讃えることを通して、人間を讃えるんだ。それが、人間として人間を愛した人間讃歌。

2016年2月28日日曜日

ブログを書き続ける人は信頼に値する担保をつくっている。

鳥井弘文さんの記事がよかった。以下引用。

ブログを長く書き続けていけば、建前で書き続けていくことは絶対に不可能です。「ネタが尽きてからが、本当の勝負になる」それがブログです。

自身の内々に秘めている本音をさらけ出さなければ、絶対に書き続けられない時期がやってくる。ブログを書き続けている人、ネット上で発信し続けている人が信頼できるというのは、まさにこれが理由です。書き続けているということが、その人を信頼する上でものすごく大きな担保になるんです。

それでも、正直者が得をする社会へ。
inkyodanshi21.com/books/5662/
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ひとりでも多くの人がこの真実に気づきますように。気づくと気づかないでは、人生の質がとんでもなく変わります。

2016年2月17日水曜日

国民年金は払い捨てている。

私は国民年金を払ってるけど、こんな年金物語は期待も信頼もしてないので、気持ちの上では払い捨てています。

公的年金に期待するどころか、むしろ、人口拡大局面しか機能しないこの無責任な政治経済システムが、人間の価値観とライフスタイルを不健全に歪ませていることを確信して注意深く社会を観察しながら、これに代替しうる助け合いのビジョンを構想して上の世代のケツを拭くつもりです。

個人的には年金なんて消えて無くなっても構わないので、不安感からの批判はしません。そこには良い悪いを超えた全体的な意味があり、必然がある。物事の必然性を信頼する眼をもって、人間現象を的確に捉えるために厳しく観察をつづけています。

2016年2月6日土曜日

丸の内の丸善のそとでオッさんを愛してみた話。

さっき丸の内の丸善の外で、「交通費がなくて日雇い現場に行けなくて困ってる。助けてくれ」っていうおっさんに480円下さいって頼まれた。小銭なくて千円あげた。なんだろね。迷ったけども、今日は最高にめでたい日だから、が半分。おっさんと話してみて、なんとなく騙されてあげたくなった、が半分だな。

2016年1月18日月曜日

サドベリー教育と公教育の違い。

私たちは「人は本当にやりたい、必要だと感じたときに一番よく学ぶ」と考え、その瞬間の学びを信頼しているのです。東京サドベリースクール

サドベリーは人間を信頼する。本人を信頼する。余白を信頼する。教育の起点と重心が信頼だ。一方で大半の公教育は、人間不信、社会不信を前提に行われている。教育現場は、不安と必要ゆえの大人たちの願いで埋め尽くされている。「子供のため」と言いながら。

『今ここの必然を信頼する教育』と『いつか何かの不安と期待の物語に応じる教育』。その違いなのだと思う。

私からするとサドベリー教育もまた何かが足りない。しかし、その出身者で広報も務めた米澤悠亮さんは「それ」が足りている。彼は心身をフルオープンにして現代教育に挑んでいる。対話している。他者の不安、社会の不安に、自分を晒して受け止め、向き合っている。私がサドベリーに強く興味を抱いたのは、彼の存在を知ってその姿勢に心打たれたからだ。

大人が子供と対等に対話する教育を実現するには、大人が社会と対等に対話していなきゃならないんだよね。 

理想の教育像がはっきり見えてきたよ。

2016年1月16日土曜日

世界がぼくのコンビ。

社会君を人生のパートナーとして見たとき、彼に日常的に取るべき態度は、生涯を誓いあった妻みたいなものです。
仲良くしようがしまいが関係ありません。理解しようとしまいと、許し合おうと憎み合おうと、心の内側も含めてありとあらゆることは、突き詰めれば、過不足なく分かち合うことしか出来ません。我慢も飾りも全く無用の運命共同体。命懸けで愛すべき伴侶であり、向き合って対話を尽くすべき相手です。

岡本太郎が良いことを言っていた。

「漫才師にかぎらずコンビで何かやるときはみんな同じだ。遠慮したり、ウチにこもらせず、面白くぶつかりあうことが大事だね。ぶつかり合うことが面白いと思って互いをぶつけ合う。そうすれば、逆に生きてくる。
ぼくは世界がぼくのコンビだと思って仕事をしてきているからね。だから、世界を相手に作品をぶっつけている。
ぼくが毎回言っていることだが、人に好かれないことを前提に、世界を相手に作品をぶっつけてきたのもそのためだ。」太郎に訊け

もっと本気の言葉が聞きたいんだよね。ガキでもなく、大人ぶるでもない。命が、命懸けで人生経験をくぐり抜けた肉声を。

世間様なんて意識でチヤホヤしないでいいんだよ。世間ちゃん、社会くんを、世界さんを、自分と対等のパートナーとして語ったら面白くなると思うよ。