今日は友人の結婚式・披露宴に参列してきました。
彼は、前職で共に社会人デビューした同期です。大阪の独身寮から兵庫県の神戸支店へ一緒に通っていました。何度も飲みに行ったし、お互いの部屋で金融や将来について熱く語り合ったこともあった。仕事だけでなく、僕らは二人とも大学時代からの彼女と遠距離恋愛をしていて、愛について恋についてと打ち明けたこともあった。当時から付き合っていたその子と結婚に至って、ともに語り合った日々を振り返りながら、懐かしさと嬉しさで胸がいっぱいになりました。
とても良い気持ちでした。なんでしょう、この幸せな気持ちは。
そういえば、親族以外の結婚式・披露宴に参列したのは3組目です。
一人目は大学の先輩。
二人目は高校の友人。
そして今回は社会人の同期。
いずれもそれぞれに、それぞれの思い出がありました。今日も僕だけじゃなく、参加している方々には新郎新婦と深い縁があって、皆がそれぞれの胸に特別な思いを抱いていたことでしょう。それが全体を優しいムードで包んでいます。眼差しと拍手があたたかく二人に届いている。プロフィールビデオで流れる一つ一つの写真の背景を思って、「あぁ彼にも語られない人生がいっぱいあるんだよなぁ」と当たり前のことが垣間見えて、愛おしい感慨がしみじみと押し寄せる。親御さんの気持ちを思ったり、自身の披露宴や語られない人生シーンを振り返ったりして、勝手ながらそれを投影して、二人の生きてきた重みを感じとる。そして思う。
人と人との縁って、本当にいいなぁって。
以前より鮮明に感じました。年をとってきたからでしょうか。人生の縁と節目によって醸される人の心に、素直に感動するようになってきたようです。
平たくいうと涙腺が弱くなってきたという(笑)
二人の最高の幸せを、皆で分かち合う。
恵まれた縁への感謝を、皆で分かち合う。
いいですね。披露宴って。
ここまで感動した自分に少し驚き、披露宴って何だろうって思いました。
僕たちは最高に幸せです!っていう全力の前提で、絶頂に幸せな二人が主催して、その幸せを自分たちらしく表現してくれます。あなたに祝ってほしいです!って招待してくれて、あなたに感謝してます!って伝えてくれます。呼ばれた人達も、よかったね!って微笑む。その繋がりには、深みがある。歴史がある。迫力がある。味わいがある。まぎれもなく、真実の喜びを分かち合っている。
だから披露宴は素晴らしい。いや、それは二人が素晴らしいからです。
本当に今日は幸せな一日でした。
お二人の幸せを祝福できたから。分かち合えたから。
ありがとう。
農業を中心とする自営業社会では,子どもはまず家業を分担し,そして継承するとともに,最後は老親を扶養することが期待される存在-つまり「生産財」だった。ところが,サラリーマン中心の社会になって,家業の分担・継承という必要性がなくなるとともに,社会保障制度の充実により,老後扶養についての子どもに対する期待感は薄れていった。
子どもの価値としては,「家庭が明るくなる」と考える者が8割以上,「子どもを育てることは楽しい」と考える者が4割以上と高い割合であるのに対し,「老後のたより」と考える者は1割台,「家業・家名・財産をついでくれる」と考える者は1割にも満たない。いまや,子どもは親に喜びや楽しみを与える存在-「消費財」としての存在意義が強くなっている。
厚生白書(平成10年)
人間関係の質の維持と創造の営みによって、その関係性の価値が助け合う現象を生み出していた。それを社会保障が代表する国家権力と資本市場が介入することで、権利と義務の関係に置き換えていったわけですね。
自らを信じる心を起点にした真実の人間関係。その価値が、お金の流れが介入したことで権利と義務の関係になり、権利義務の付加された役割が大量生産され、役割同士の利害に期待と不安を抱く。そうして人々は、己を信じる精神と、人間を見極めて信頼を創りだす意思と力を失っていく。そのように思えます。
この辺りは極めて重要で、「お金がないから子供を産めない」というのはまったくもって客観的な事実ではないにも関わらず、実感する理由としては圧倒的に一番です。大半の人が、その主張にリアリティを持っているんです。この矛盾には、人間とお金の真実を解くカギがあると感じます。、
人がいるからお金は存在します。
お金がなくても、人間関係があれば財の流通は可能です。
「お金」という観念は、人間という存在が現象として生じさせている。
それは間違いありません。おそらく、子供を産むのにお金が必要だという認識そのものが根本的に間違っているのではないでしょうか。お金がないからではなく、人格と向き合って人間関係の質の維持することなく、お金の量の流れに依存しているから産めなくなるのではないでしょうか。
もちろん「産まない」という選択なら問題はありません。しかし「産みたいのに産めない」と考えていて、それがごく少数ではなく6割を超える水準。しかも、お金がない戦前戦後や、日本よりお金のあろうはずもないアフリカ国家の民の方がずっと多く産んでいる事実。にも関わらず「理由はお金がないから」と認識しているんです。
要は自立して自律する精神を起点として、人と向き合うこともせず、自分を中心に生きていないということです。私たちは、共同体もお金も、その機能を選択するのも創り出すのも、すべて自分自身であるという自覚を持てていないのです。
この話は、「赤字国債という経済現象が人間という存在にとってどのような意味を持つのか」という問いに密接であり、こちらの観点からも書くことになります。
まとめると、子供が産みたいのに産めないという問題は、お金がないことではなく、お金に依存するから起きている。
物質的豊かさと自立には関係がない。金銭的に豊かになっても、自立する生き方をしていなければ子供を産もうとは思えない。
ただし少子化という現象と、少子化を問題だと認識することは別です。経済的豊かさ(権利)を維持できないという理由で、義務を担う人口が減っていく少子化を問題だと認識するのは、「お金に依存する心」であり、それこそが問題です。政治家は、個人の依存心を代弁しているに過ぎないのだと思います。権利を手放して、真実が機能する経済へ舵を切るならば、少子化は全く問題ではないという立場があっていいと思います。
しかし少子化という現象そのものの最も本質的要因は、家族をつくらなくても共同体として機能する可能性が大幅に増大したことだと思います。
これはメディアの発展と密接です。
人格に担保された偽りなき言葉が、人格を媒体にして精査・流通・蓄積されていく。そうした機能の発達が、共同体を高い次元にシフトさせてきた気がします。
資本主義システム(お金)とインターネット(情報)は強力です。
ますます自分が自立することに関して、家族という形態にこだわる理由はなくなりました。家族という共同体は、創造する楽しみが第一の理由となりました。
自分という個と全体がダイレクトに繋がってきたからです。
自分のあり方を表現して響かせれば、それと共鳴する人物と物事を引き寄せる時代。私は既に私らしい共同体の一員である、という前提で生きれば社会がそのように機能してくれる。自分に閉鎖性がなく誠実であれば、全体は共同体として機能してくれるということです。
これこそが本質的な理由ではないでしょうか。
そして新しい時代の性質なのだと思います。
今回は触れませんでしたが、減る理由とともに、これまで増え続けた理由も洞察しなければなりません。そもそも人口爆発はなぜ起きたのか。現象には必ず理があるので解き明かして記したい。
人間という存在の一体何が、お金という現象に現れているのか。今後も経済と人間の理を探る問いについて考えていこうと思います。
厚生白書(平成10年)
人間関係の質の維持と創造の営みによって、その関係性の価値が助け合う現象を生み出していた。それを社会保障が代表する国家権力と資本市場が介入することで、権利と義務の関係に置き換えていったわけですね。
自らを信じる心を起点にした真実の人間関係。その価値が、お金の流れが介入したことで権利と義務の関係になり、権利義務の付加された役割が大量生産され、役割同士の利害に期待と不安を抱く。そうして人々は、己を信じる精神と、人間を見極めて信頼を創りだす意思と力を失っていく。そのように思えます。
この辺りは極めて重要で、「お金がないから子供を産めない」というのはまったくもって客観的な事実ではないにも関わらず、実感する理由としては圧倒的に一番です。大半の人が、その主張にリアリティを持っているんです。この矛盾には、人間とお金の真実を解くカギがあると感じます。、
人がいるからお金は存在します。
お金がなくても、人間関係があれば財の流通は可能です。
「お金」という観念は、人間という存在が現象として生じさせている。
それは間違いありません。おそらく、子供を産むのにお金が必要だという認識そのものが根本的に間違っているのではないでしょうか。お金がないからではなく、人格と向き合って人間関係の質の維持することなく、お金の量の流れに依存しているから産めなくなるのではないでしょうか。
もちろん「産まない」という選択なら問題はありません。しかし「産みたいのに産めない」と考えていて、それがごく少数ではなく6割を超える水準。しかも、お金がない戦前戦後や、日本よりお金のあろうはずもないアフリカ国家の民の方がずっと多く産んでいる事実。にも関わらず「理由はお金がないから」と認識しているんです。
要は自立して自律する精神を起点として、人と向き合うこともせず、自分を中心に生きていないということです。私たちは、共同体もお金も、その機能を選択するのも創り出すのも、すべて自分自身であるという自覚を持てていないのです。
この話は、「赤字国債という経済現象が人間という存在にとってどのような意味を持つのか」という問いに密接であり、こちらの観点からも書くことになります。
まとめると、子供が産みたいのに産めないという問題は、お金がないことではなく、お金に依存するから起きている。
物質的豊かさと自立には関係がない。金銭的に豊かになっても、自立する生き方をしていなければ子供を産もうとは思えない。
ただし少子化という現象と、少子化を問題だと認識することは別です。経済的豊かさ(権利)を維持できないという理由で、義務を担う人口が減っていく少子化を問題だと認識するのは、「お金に依存する心」であり、それこそが問題です。政治家は、個人の依存心を代弁しているに過ぎないのだと思います。権利を手放して、真実が機能する経済へ舵を切るならば、少子化は全く問題ではないという立場があっていいと思います。
しかし少子化という現象そのものの最も本質的要因は、家族をつくらなくても共同体として機能する可能性が大幅に増大したことだと思います。
これはメディアの発展と密接です。
人格に担保された偽りなき言葉が、人格を媒体にして精査・流通・蓄積されていく。そうした機能の発達が、共同体を高い次元にシフトさせてきた気がします。
資本主義システム(お金)とインターネット(情報)は強力です。
ますます自分が自立することに関して、家族という形態にこだわる理由はなくなりました。家族という共同体は、創造する楽しみが第一の理由となりました。
自分という個と全体がダイレクトに繋がってきたからです。
自分のあり方を表現して響かせれば、それと共鳴する人物と物事を引き寄せる時代。私は既に私らしい共同体の一員である、という前提で生きれば社会がそのように機能してくれる。自分に閉鎖性がなく誠実であれば、全体は共同体として機能してくれるということです。
これこそが本質的な理由ではないでしょうか。
そして新しい時代の性質なのだと思います。
今回は触れませんでしたが、減る理由とともに、これまで増え続けた理由も洞察しなければなりません。そもそも人口爆発はなぜ起きたのか。現象には必ず理があるので解き明かして記したい。
人間という存在の一体何が、お金という現象に現れているのか。今後も経済と人間の理を探る問いについて考えていこうと思います。