2013年4月28日日曜日

披露宴に参列して

今日は友人の結婚式・披露宴に参列してきました。

彼は、前職で共に社会人デビューした同期です。大阪の独身寮から兵庫県の神戸支店へ一緒に通っていました。何度も飲みに行ったし、お互いの部屋で金融や将来について熱く語り合ったこともあった。仕事だけでなく、僕らは二人とも大学時代からの彼女と遠距離恋愛をしていて、愛について恋についてと打ち明けたこともあった。当時から付き合っていたその子と結婚に至って、ともに語り合った日々を振り返りながら、懐かしさと嬉しさで胸がいっぱいになりました。

とても良い気持ちでした。なんでしょう、この幸せな気持ちは。


そういえば、親族以外の結婚式・披露宴に参列したのは3組目です。

一人目は大学の先輩。

二人目は高校の友人。

そして今回は社会人の同期。


いずれもそれぞれに、それぞれの思い出がありました。今日も僕だけじゃなく、参加している方々には新郎新婦と深い縁があって、皆がそれぞれの胸に特別な思いを抱いていたことでしょう。それが全体を優しいムードで包んでいます。眼差しと拍手があたたかく二人に届いている。プロフィールビデオで流れる一つ一つの写真の背景を思って、「あぁ彼にも語られない人生がいっぱいあるんだよなぁ」と当たり前のことが垣間見えて、愛おしい感慨がしみじみと押し寄せる。親御さんの気持ちを思ったり、自身の披露宴や語られない人生シーンを振り返ったりして、勝手ながらそれを投影して、二人の生きてきた重みを感じとる。そして思う。

人と人との縁って、本当にいいなぁって。

以前より鮮明に感じました。年をとってきたからでしょうか。人生の縁と節目によって醸される人の心に、素直に感動するようになってきたようです。

平たくいうと涙腺が弱くなってきたという(笑)




二人の最高の幸せを、皆で分かち合う。

恵まれた縁への感謝を、皆で分かち合う。


いいですね。披露宴って。


ここまで感動した自分に少し驚き、披露宴って何だろうって思いました。

僕たちは最高に幸せです!っていう全力の前提で、絶頂に幸せな二人が主催して、その幸せを自分たちらしく表現してくれます。あなたに祝ってほしいです!って招待してくれて、あなたに感謝してます!って伝えてくれます。呼ばれた人達も、よかったね!って微笑む。その繋がりには、深みがある。歴史がある。迫力がある。味わいがある。まぎれもなく、真実の喜びを分かち合っている。


だから披露宴は素晴らしい。いや、それは二人が素晴らしいからです。

本当に今日は幸せな一日でした。

お二人の幸せを祝福できたから。分かち合えたから。

ありがとう。

2013年4月25日木曜日

ミスター資本主義


「問題は、その問題を生み出した考え方と同じ考え方をしているうちは解けない」
アインシュタイン

私たちの直面する問題の本質は、対象となっている現象そのものにあるのではなく、対象をみるにあたって認識の前提にしてしまっている観念に起因します。この意識の前提は、フレームワーク、世界観、あるいは既存パラダイムなどと述べられたり、ニール著の『神との対話』においては、「思考を支える思考」と表現されています。

人間社会という現象は、それを生じさせる主役を振る舞うのも、観察するのも、人間です。現象そのものであると同時に、基準点でもある私たちは、「問題となる現象が、客観的な法則に従って繰り返し生じているのか」 「基準である自分らがパラダイムに固執して動いているから、問題の現象が繰り返し再現されてしまっているのか」が極めて曖昧になります。基準点自身が動くと、すべての景色が動く。このシンプルな事実が、自分が自分を知ることの最も困難な理由であり、人間社会という現象を人間社会の観念で捉えることが極めて難しい所以です。

アインシュタインはこれを見抜いていました。観測者の視点(観測者という現象)次第で、時間も速度も変わる。エネルギーや質量についても変わる。であるならばいっそのこと、人間ではなく光の速度を基準にした方がいい。光速ならば、広大な宇宙の現象と身近な地球の現象を、統一して捉えることができて合理的である。以下は自らの研究を通じて、そのような結論に至ったことを実感しつつ出た名言だったのでしょう。
"We can't solve problems by using the same kind of thinking we used when we created them"

「私たちは、問題を生み出してしまっている時と同じ思考を通じて問題を捉えているが、その思考のレベルでは問題を解決できないのだ。」

問題を認識するフレームワークに、問題を生じさせるメカニズムが既に内包されているわけです。それに気付けていないことが、真の問題だということです。
例えば経済問題について考えるとき、政策や制度設計は、アダムスミスやケインズ等の経済学が根底にあります。経済現象が議論されるときには、経済の見方を支配している価値観(パラダイム)が既に前提されています。これがお金の観念を規定し、規定された観念に基づいて人々が意識と行動を形成していく。人間社会の現象は、特定の観念に固執しているゆえに一定の再現性をもって起きる、ということが頻繁に起きる。「現象があって、それを観測する」ではなく、「認識があって、現象を生じさせて、それを観測して認識を深めてしまう」ということです。

経済学は、社会現象に対して科学的な検証と理論で成り立つようにみえますが、実は行動と認識の前提となるパラダイムを提供するから、その枠組みに沿って経済現象が実現する、という方が一般的なのかもしれません。インフレ期待がインフレを実現するというアベノミクスの論調が象徴している気がします。

経済は人間集団が観測者であると同時に観測対象でもあります。このシンプルな事実を明確に自覚すると、経済合理性の実現は、観測可能な合理性を数量のコントロールで追うよりも、人々の行動の前提をつくっている世界観の合理性を問い直すこと、そして示すことの方が遥かに建設的であろうと僕には思えます。

オーストラリアの経済学者クライブ・ハミルトンは、彼の著書『経済成長神話からの脱却』で、次のように述べています。
経済成長の有益性は自明のこととされているので、経済学の教科書でそれのどこが有益なのか調べようとしても簡単にはいかない。どこでもいいから大学の教科書を開いてみれば分かるが、経済学の定義としていきなり、わずかな資源で無限の欲求に対してできるだけ大きな満足をもたらすにはどうすればいいかを研究するものだと書いてある。ここでは「欲求」は消費によって満たされるものだとされ、教科書の前半はもっぱら、消費者が自身の「幸福」を最大化しようとする行動の分析に当てられる。本来は人間だったものがいつの間にか「消費者」にされ、人間の欲求は商品によって定義されてしまっている。これに続けて、人間を最も幸せにできる唯一の方法は、より多くの商品を提供することだと書いてある筈だ。いいかえれば、目的は経済成長だということになる。教科書の後半はマクロ経済の話だろう。こちらの目的は要するに、政府がどのように経済を管理すれば、やがて成長率を最大にできるかを理解することにある。

経済成長と幸福は関係がないと僕は思うのですが、政治経済の議論の前提は、人の幸福は消費の量的な増加関数であるということです。このまま幸福な経済とは何かを理解(定義)しなければ、お金の総量と流量を増やすことを延々と続けることになります。世界では25000人が日々餓死していますが、私たち日本人は食料を6000万トンを輸入する一方で2000万トンを廃棄しています。それを見て、寄付やボランティアや社会起業家という対症はなされても、「市場競争は合理的だ」という前提の枠組みを変える気配は感じません。なぜでしょうか。

この説明としては、個々人のお金の獲得競争を通じて、お金の総量と流量を増大していかなければ、あまりに多くの人にとって目の前の生活が破綻してしまうからではないでしょうか。あらゆる業界で、全体としてみたらおかしいが・・・という、そんな事例に溢れていると思うのですが、それでも「市場を通じた公正な競争は合理的である」という第一前提を私たちは変えられません。既存の枠組みが支える、既存のお金の流れに精神的に依存すれば、既存の枠組みの根拠である正当性と真っ向から向き合えなくなってしまいます。だからではないでしょうか。返せるはずもない国債残高をみて、もうどうにもならなくて、返すという前提すら議論しなくなった政治家。それを見ても何も感じない国民。政治家、国民、納税者・・・という言葉で流れているお金に、人の真実はどれほど込められているのでしょうか。そのお金の流れに、共同体に依存ではなく貢献しようとする社会奉仕の精神は、一体どれほど残っているというのでしょうか。

消費者、労働者、経営者、資本家(貯蓄・保険・投資)、国民(納税)・・・あらゆる役割パターンが強固に結びついて、お金の観念は人間性と内的に同化してしまっているようです。(もちろんお金は人間関係が生じさせているので、もともと人間の内的な存在が顕れたものですが、ベクトルが逆になってきているということです)
お金の総量と流量の増加を推進しつづけることは、個人の生活から国家社会の存続、世界経済システムに至るまで、もはや有無を言わさない反応として肯定されているように僕には見えます。買い物からアベノミクスのニュースに至るまで、お金の流れの質を問う余裕はなく、量に反応している。個人、企業、自治体、国家、あらゆる経済主体がお金の使い手、貸し手、借り手として振舞うことを「本当の目的」よりも優先する結果、相互に影響しあいつつ、結局はお金の量の動きが現実を象り続けているのでしょう。



ミスターマーケットの寓話はご存知でしょうか。世界で最も成功している投資家ウォーレン・バフェットが、資本市場と向き合う心構えとして面白い話を紹介しています。

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私の友であり師でもあるベン・グレアムは、投資で成功するためには市場の変動に対する心構えがもっとも大切な要素であるとかつて言ったことがありますが、私もそう信じています。

彼が言ったのは「市場の値付けというのは、あなたの個人事業のパートナーである、ミスター・マーケットという名の非常に世話好きな男によってなされたものだと考えなさい」という言葉です。ミスター・マーケットは必ずや毎日現れて値付けをして、その価格で、あなたの持ち株を買うか、彼の持ち株をあなたが買うのです。

たとえあなたたち二人に介在する企業が安定した財政状況にあったとしても、ミスター・マーケットの値付けはそれをきちんと反映しません。悲しいかな、彼は気の毒なことに矯正不能の感情的問題を抱えているからです。時としてやたらと上機嫌になり、企業にとって好ましい要素しか見えなくなってしまいます。そういう気分のときには非常に高い売買価格を付けます。あなたが彼の持ち株をひったくり、かれからささやかな含み益を奪い取ってしまうのを恐れてのことです。また時として彼は落ち込んで、企業と世界の先行きに暗雲しか見えなくなってしまいます。そういうとき彼は、あなたが持ち株を自分に対して大量に売ってくるのではないかとおびえて、非常に低い価格を付けます。

ミスター・マーケットはあなたの助けをすることはあっても、あなたを手引きすることはありません。あなたが役立てることができるのは、彼の知恵ではなく資力なのです。もしある日、彼が目立っておどけた調子で現れたら、彼を無視するのもいいですし、あるいはその状況に付け込むのも一案です。だがもし彼の手に落ちてしまえば悲惨な目に遭うでしょう。

ミスター・マーケットよりはるかに企業の価値評価に長けているという自信があなたにないのなら、真の意味でゲームに参加しているとはいえないでしょう。「30分以上ゲームに参加していて誰がカモか分からなければ、あなたがカモなのだ」とポーカーでいうように。

(『バフェットからの手紙』パンローリング刊)
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ミスターマーケットという言葉は、莫大な資力を有する気まぐれな資本市場を擬人化しているんですね。資本市場を相手に投資ビジネスに臨むなら、証券の価値を見抜く知性と強い信念が自らになければ、相場の楽観と悲観に心が振り回されて大損をすることになります。市場を明確にパートナーとして尊重しながらも、彼の価値判断を信用せず、当てにするべきは彼のお金であり、知性は上回っていなければならない、という意味です。この心構えは僕の証券会社勤務の経験からしても実感するところです。

そんなバフェットだからこそ、サブプライム・ショックからリーマン・ブラザーズが破綻し、ベアー・スターンズとメリルリンチが他銀行に捨値で売られるような金融危機の中で、ゴールドマンサックスをほぼ底値で買い支えて莫大な利益を得ることができたわけです。

その救済の際に引き出した条件は、配当利回り10%の永久優先株を50億ドル+5年以内にゴールドマンの普通株を1株115ドルで購入できるワラント50億ドル。GSの株価の推移を見ていただければ、この投資判断と条件がいかに優れたパフォーマンスを残したか分って頂けると思います。

「投資は、皆が貪欲なときは慎重に。恐怖に慄いているときは貪欲であれ」
"Be fearful when others are greedy, and be greedy when others are fearful "

彼の言うとおりですね。しかしこれを実行することは困難です。ましてや彼のような事業規模と資金規模になってもそれを実行し続けることは、世界が驚嘆するほどの所業となります。

バフェットはそのような投資の王道(邪道でも覇道でもなく)を数十年に渡って貫いて世界一の長者になったこともあり、経営者としても人格者としても多くの尊敬を集めています。

さらに2006年6月、彼は資産の85%にあたる約374億ドルを慈善財団に寄付すると発表しました。これはアメリカ史上最大の金額です。



僕は金融マンとして、彼の投資哲学から多くを学びました。顧客に提案するときも、値動きや相場主導の考え方を嫌い、バフェットのように企業価値の本質を見るビジョンを示しました。証券会社に入る以前に、大学生の頃から金融の世界を志していたのも、彼のような本物の投資家の哲学が胸に響いたからだったのだと思います。

しかし今では考えを異にしています。バフェットの栄光は彼の時代を背負ってこそであり、敬意を表したいと思うものの、新しい時代に生きる僕らにその哲学は全く通用しないと考えます。

資本主義を前提にした政治経済の枠組みが機能しなくなっているからです。お金をお金として扱うメカニズムを受け入れるまえに、お金という観念をもっと掘り下げ、人間の本質から生じる観念的現象として捉え直し、新たなお金の認識による新たな経済メカニズムを再構築すべきだと考えるからです。

お金は権力と同じで、増やすよりも使う方が難しく、その真価が問われる。世の中ではお金を増やすことを考えている人が大半だが、お金を(正しく)使うことを考えている人は少ない。 このことが社会を悪くしている重大な原因になっているのではないでしょうか。

社会を真に豊かにする鍵は、お金を増やすことではなく使うことである。 最も資本家として成功したウォーレン・バフェットの個人資産4兆円の寄付は、資本主義社会の大事件。ミスターマーケット(資本市場)をパートナーとして最も賢く付き合って世界中から尊敬されたバフェットすら、富を得た果てに寄付することしかできなかった。賢人バフェットの寄付・・・それが資本主義の限界ではないでしょうか。すなわち資本主義の重大な欠陥のひとつは、お金を使うしくみと概念の欠如ではないでしょうか。

参考文献:沖縄大学 沖縄観光論 2012 年後期 木曜3校時(1:00PM~)レジュメ 



ミスターマーケットにちなんで考えてみました。

ミスター消費者。
ミスター労働者。
ミスター経営者。
ミスター資本家。
ミスター国民。

私たちはお金を介在して、お金の流れに定義された枠組みと役割を維持すべく振舞い過ぎているのかもしれません。それがどのような観念を形成し、人の意識をどのように象り、どのような現実を創りだしてしまっているのか。もっとお金の使い方に注意深くあるべきではないでしょうか。

お金が回っている現象を見ているようで、基準である人間が回ってしまっているのではないか。

資本主義は本当によくできたシステムです。人類に誇るべき成果を出したことは疑いようがないとすら思っています。それゆえに人口増加中の社会は熱狂し、お金の扱い方が歪んいくのは当然の成り行きなのかもしれません。まだ歴史が浅いのですから、そのシステムの精神が成熟していないのは無理がありません。

もし現状を変えたいと思うのなら、重要なのは何故変えたいのかという問いの深さです。人間としての尊厳を与えるお金の使い方を、僕は金融機関を辞めた今も真剣に考え続けています。お金のあり方を人間の真実から捉え直したい。

私たちが、ミスター資本主義ではなく、人間として、幸せであるために。

2013年4月24日水曜日

娘が一歳になって

一歳の誕生日まで元気に成長してくれてありがとう。

よく笑う。よく食べて、よく動く。
一つ一つの仕草と表情がとても可愛くて、この子を見てると微笑んでしまう。

TVのリモコンとパソコンと携帯が大好きなのは分かったから。
子供ってコントロールする機械とボタンが好きなんだ。

子供がいると家族が明るくなるというけれど、
こんなにも幸せな光となってくれるなんて思わなかった。

父、母、妻、祖母。皆が微笑んでいる。
穏やかで暖かい空気が絶え間なく広がっている。


子供が存在している。

それがこれほどに、日常にも人生にも、影響を与えるものなんだね。

思いも及ばなかったよ。



「子供は3 歳までに一生分の親孝行を終えている」

なぜならそれは、

最も得難い自分への無償の愛を、子供が親に与えてくれるから。

親が子供を命がけで守るのは、子供を愛しているから以上に、子供に愛されているから。


二年ほど前に聞いた言葉なのだが、
成長していく我が子を見て、そして3歳まで想像してみて、
確かにそうかもしれないなと思う。


娘は、親に全身全霊の関心を注いでくれている。
目の前の人間関係と物事に全力で生きている。
正直で、無垢で、命そのものをのせた信頼で今と向き合っている。

僕ら大人は、彼女の生命の光に照らされている。

彼女を愛して喜び、それを大切な人たちと分かち合う機会まで与えられている。


愛されて、愛することができる幸せ。


娘が生まれ、育つという出来事は、
そんな愛の幸せを僕に教えてくれている。

きっと妻にも。


なんて偉大なんだ。


ありがとう。


2013年4月23日火曜日

プレゼントとギフト


ギフトとプレゼントの違いを調べました。

「gift」
冠婚葬祭や贈答品など、やや改まった場で使われることが多い。割と高価なもの。
遺伝的に受け継いだものや、才能など神から授かったものという意味もある。


「Present」
誕生日やクリスマスなど、親しい間柄で大切な人への愛情や感謝を表すパーソナルな贈り物。今、現在という意味もある。今この一瞬を輝かせるために与えられているもの。




そういえばニール著『神との対話』でこんな記述があった。

現在(pre-sent)とは、前もって(pre)送られた(sent)という意味なのだ。あなたが探し求めている瞬間に、それどころか、探し求めようと考える前に、わたしは回答を与えている。一瞬、一瞬はすべて、神の輝かしい贈り物だ。現在はプレゼント(贈り物)なのだよ。



沖縄の事業再生家の樋口さんのツイートを思い出した。
https://twitter.com/trinity_inc

才能があるということは長所ではない、責任なのだ。同様に、与えられた能力、幸運、出会いは「ギフト」ではない。自分の使命を理解するためのメッセージであり、役割を果たすための武器である。






改めて考えさせられる。




恵まれた幸運や才能や出会いは、神(存在のすべて)から自分へのギフトだ。

現在は、神(存在のすべて)から自分へのプレゼントだ。



贈り物を、自分のために所有してはいないだろうか。

贈り物を、自分のための取引に利用してはいないだろうか。


なぜ贈与するだけでいいことに、
無償の喜びで分かち合うだけでいいことに、
自分は気付きつづけることができないのだろう。




僕は無量の贈り物で象られて存在しています。


人間関係と一期一会に向き合っているとき、
彼らのPresent(現在)にとって、僕というPresent(存在)は、
はたして恵まれたと言えるほどのGift(贈り物)になれているのだろうか。


Pay it forword.


石川県金沢市で働いていたころ、飛び込み営業してある社長に気に入られ、何度もご馳走を頂いた。俺に報いる必要はないと、その時に教えて頂いた「恩送り」という言葉を思い出す。


既に多くを貰っていた恩を、なぜ送り出すことなく、こんなに留めていたのだろうか。


今日は子供に沢山ふれあって、夜は親と妻と語りあって、
なぜかギフトとプレゼントについて自身に問いかけるべきだと強く感じた休日。


贈与は、人間としての知性と思いやりが試される、創造的で楽しい分かち合いですね。


所有と取引によって立つものを、いかに贈与に変換できるか。


自分の人生を深く見直してみたいと思います。

2013年4月20日土曜日

少子化の原因となる依存心

少子高齢化が言われて久しいですね。
つい先日もこんなニュースがありました。

人口推計 減少数過去最大に 4月16日 NHKニュースwebより抜粋

総務省が発表した人口推計によりますと、去年10月1日現在の日本の総人口は、1億2751万5000人で、前の年に比べて28万4000人減少し、少子化を反映して減少数、減少率ともに過去最大となりました。

また、65歳以上の「老年人口」は3079万3000人となり、初めて3000万人を超え、0歳から14歳の「年少人口」をすべての都道府県で上回りました。



そもそも、少子化の原因ってなんでしょうか。



理想の子ども数を生まない理由について、国立社会保障・人口問題研究所のアンケート調査によると、ダントツの63%で「子育てと教育にお金がかかりすぎるから」です。

なるほど。確かに妻もそう言っていました。子供はもっと欲しいけど経済的な不安があると。大学卒業まで視野に入れた教育費用を考えると二の足を踏むようです。「子供がやりたいと望むことを、家計が苦しいからさせてあげられないのは嫌だ」と感じる方は多いことでしょう。

で、不思議に思ったんです。

日本は経済的に豊かになったとされています。だとすれば、この理由っておかしくないでしょうか。「お金がかかりすぎる」と口をそろえて言いますが、お金がなくて貧しかった頃の方がずっと子供を産んでいますよね。なぜでしょうか。

戦後における合計特殊出生率と出生数の推移


合計特殊出生率とは、ひとりの女性が一生に生む子供の平均数です。人口を維持する水準は2.1人です。1970年始め頃には2人を下回っています。

日本は経済的に豊かになっていないということでしょうか。いや物質的には遥かに豊かになっている。経済的収入も公的な社会保障も向上しています。年金や医療等の社会保障も1960年前後から発足しています。

では何故「お金がないから子供を産めない」と感じるのでしょうか。すくなとも、子供を生めると思える”豊かさ”は低下し続けているということを意味している気がします。

でも豊かさの本質の議論へいく前に、もう少し現状をありのまま見てみる必要がありますね。

「経済的に豊かだから子供を産める」という認識が、そもそも根本的におかしいと思います。歴史を見ても、世界の現状を見ても、「経済的に貧しいから子供を産んでいた」ケースの方がむしろ一般的ではないでしょうか。

世界の合計特殊出生率  CIA World Factbook's data.

アフリカを中心に貧困地域の方が出生率は高いです。この理由について考えて見ます。

アフリカは今も独裁的な政治、軍事体制の強い地域です。紛争も多い。国家の社会保障なんて民衆は期待できるはずもありません。であるならば、人はどうあろうとするか。

頼れるものは己である。自立して自律することである。

その意識からスタートして、極めて厳しい信頼関係を創っていく。緊密な共同体を創っていく。
一人より二人。二人より三人・・・より確実に、より強く、より深く。自立という状態を高めていくために。日本のように、他者に保障を求めるがごとく依存するためにではありません。個々が己を頼りにするからこその結論です。

貧しさと暴力にあえぐ厳しい環境に置かれた人間は、人間という存在であるという厳しさに向き合うことになります。その結論として、共同体を形成することが理にかなっているからそうする。己を頼るがゆえに共同体を創る。人が人として存在する限り、個の強さと喜びを高める最善は、互いの存在を分かち合う真実の関係性を築くことだと理解しているのではないでしょうか。
だから厳しい環境であるほど、厳しい信頼の輪を創ろうとするのではないでしょうか。

その最も象徴的、普遍的かつ合理的なアプローチが、家族をつくることです。

それは生命が生命として、自立して自律するための営みです。逆にいうと、自律しなくなった人は、「信頼」を己で見極める意思と能力に乏しく、共同体であることの本来の意義を忘れます。共同体による保障とお金があって、初めて安心できる。そのような人は、子供はお金という条件が約束されて存在可能である、という世界観を持っています。なぜなら自分という存在の安定がお金の条件下にあるから。

己を頼むとは、お金や国家よりも、自分で築いた人間関係で助け合うことを自立の根拠として生きることです。お金や国家とは、見極められる信頼の及ばない無数の人々が支える観念であり、これを自立の基盤とするとは自分以外に依存するということです。日本が戦争に負け、内外の国家権力の暴走と欺瞞の記憶も新しい中で、新しく共同体を再生しなければならない頃、頼れるのは自分という所からスタートしました。だから昔の方が家族をつくった。

厳しい環境ほど自立していないものは破綻する、という摂理が機能するのですが、日本を含め資本主義各国は、これが一定期間機能しなかったために認識が倒錯してしまったのではないでしょうか。

家族という共同体を創ることの意味を変えたのが、預金、社会保障制度、年金保険、国債という経済現象であり、つまり資本主義の金融システムです。

経済学では、子供という存在を三つの機能に分けます。
1. 生産財 ・・・ 働いて、親を助けてくれる。
2. 社会保障財・・・ 年老いた親の面倒を見てくれる。
3. 消費財 ・・・ 親に喜びを与えてくれる。

冗談ではありません。厚生白書にも載っています。

家族における子どもの機能は,経済学的には「生産財」から「消費財」へと比重を移してきたといわれる。
 農業を中心とする自営業社会では,子どもはまず家業を分担し,そして継承するとともに,最後は老親を扶養することが期待される存在-つまり「生産財」だった。ところが,サラリーマン中心の社会になって,家業の分担・継承という必要性がなくなるとともに,社会保障制度の充実により,老後扶養についての子どもに対する期待感は薄れていった。
 子どもの価値としては,「家庭が明るくなる」と考える者が8割以上,「子どもを育てることは楽しい」と考える者が4割以上と高い割合であるのに対し,「老後のたより」と考える者は1割台,「家業・家名・財産をついでくれる」と考える者は1割にも満たない。いまや,子どもは親に喜びや楽しみを与える存在-「消費財」としての存在意義が強くなっている。
厚生白書(平成10年)
人間関係の質の維持と創造の営みによって、その関係性の価値が助け合う現象を生み出していた。それを社会保障が代表する国家権力と資本市場が介入することで、権利と義務の関係に置き換えていったわけですね。
自らを信じる心を起点にした真実の人間関係。その価値が、お金の流れが介入したことで権利と義務の関係になり、権利義務の付加された役割が大量生産され、役割同士の利害に期待と不安を抱く。そうして人々は、己を信じる精神と、人間を見極めて信頼を創りだす意思と力を失っていく。そのように思えます。

この辺りは極めて重要で、「お金がないから子供を産めない」というのはまったくもって客観的な事実ではないにも関わらず、実感する理由としては圧倒的に一番です。大半の人が、その主張にリアリティを持っているんです。この矛盾には、人間とお金の真実を解くカギがあると感じます。、
人がいるからお金は存在します。
お金がなくても、人間関係があれば財の流通は可能です。

「お金」という観念は、人間という存在が現象として生じさせている。

それは間違いありません。おそらく、子供を産むのにお金が必要だという認識そのものが根本的に間違っているのではないでしょうか。お金がないからではなく、人格と向き合って人間関係の質の維持することなく、お金の量の流れに依存しているから産めなくなるのではないでしょうか。

もちろん「産まない」という選択なら問題はありません。しかし「産みたいのに産めない」と考えていて、それがごく少数ではなく6割を超える水準。しかも、お金がない戦前戦後や、日本よりお金のあろうはずもないアフリカ国家の民の方がずっと多く産んでいる事実。にも関わらず「理由はお金がないから」と認識しているんです。

要は自立して自律する精神を起点として、人と向き合うこともせず、自分を中心に生きていないということです。私たちは、共同体もお金も、その機能を選択するのも創り出すのも、すべて自分自身であるという自覚を持てていないのです。
この話は、「赤字国債という経済現象が人間という存在にとってどのような意味を持つのか」という問いに密接であり、こちらの観点からも書くことになります。


まとめると、子供が産みたいのに産めないという問題は、お金がないことではなく、お金に依存するから起きている。

物質的豊かさと自立には関係がない。金銭的に豊かになっても、自立する生き方をしていなければ子供を産もうとは思えない。

ただし少子化という現象と、少子化を問題だと認識することは別です。経済的豊かさ(権利)を維持できないという理由で、義務を担う人口が減っていく少子化を問題だと認識するのは、「お金に依存する心」であり、それこそが問題です。政治家は、個人の依存心を代弁しているに過ぎないのだと思います。権利を手放して、真実が機能する経済へ舵を切るならば、少子化は全く問題ではないという立場があっていいと思います。



しかし少子化という現象そのものの最も本質的要因は、家族をつくらなくても共同体として機能する可能性が大幅に増大したことだと思います。

これはメディアの発展と密接です。
人格に担保された偽りなき言葉が、人格を媒体にして精査・流通・蓄積されていく。そうした機能の発達が、共同体を高い次元にシフトさせてきた気がします。

資本主義システム(お金)とインターネット(情報)は強力です。
ますます自分が自立することに関して、家族という形態にこだわる理由はなくなりました。家族という共同体は、創造する楽しみが第一の理由となりました。

自分という個と全体がダイレクトに繋がってきたからです。
自分のあり方を表現して響かせれば、それと共鳴する人物と物事を引き寄せる時代。私は既に私らしい共同体の一員である、という前提で生きれば社会がそのように機能してくれる。自分に閉鎖性がなく誠実であれば、全体は共同体として機能してくれるということです。

これこそが本質的な理由ではないでしょうか。

そして新しい時代の性質なのだと思います。

今回は触れませんでしたが、減る理由とともに、これまで増え続けた理由も洞察しなければなりません。そもそも人口爆発はなぜ起きたのか。現象には必ず理があるので解き明かして記したい。

人間という存在の一体何が、お金という現象に現れているのか。今後も経済と人間の理を探る問いについて考えていこうと思います。

2013年4月14日日曜日

お金の本質は肩たたき券


お金の本質は肩たたき券


と、僕は考えています。


他の誰かもきっと同じことを考えてるだろうと、

「お金 本質 肩たたき券」とグーグル検索したところ、

ほぼ日刊イトイ新聞の記事が出てきました。


第19回 潜在能力への信頼が、お金の本質

糸井

ポテンシャルこそが
ものごとの価値のすべてなんだ、
ということにぼくが気づいたのは
赤城山の埋蔵金を調べた時なんですよ。
徳川埋蔵金を掘っていてわかったのは、
江戸幕府がフランスから借金をしたのですが、
フランス側からして見れば、
徳川埋蔵金があろうがなかろうが
日本にお金を必ず貸すという事実がありました。

フランスの銀行に取材をしたら、
当時、現地に金を貸すグループがあって
日本にお金を投資しまくっていたんですよ。
「あれだけの小さな島国で、
 あれだけの多くの働き者がいれば、
 密集していて人数的にも工場としても
 いくらでもものを生産できるだろうし、
 人数としても市場として成り立たせられる」
・・・だから、やっぱり、埋蔵金がなくても、
フランスがお金を貸したんだろうなあ。
それに気づいたら、経済の仕組みを
ぜんぶわかったような気がしたんです。

末永それがお金というものの本質です。

例えば南太平洋のヤップ島では、
石がお金ですけど・・・そこの石貨は、
石が大きければ大きいほど価値があります。
みんな、お金を、どこかほかの島から
掘り出してくるらしいんです。

で、ヤップ島いちばんのお金持ちは、
その人の先祖が、ある島からものすごい
大きな石を掘り出してきたからですが、
でも、その祖先は、大きな石を、船で
運んでいる途中に沈没しちゃったんですよね。
でも、その子孫たちは、やっぱり、
村一番のお金持ちでありつづけるそうです。
糸井いいなあ、その話。
末永引き上げられる可能性はゼロなのに、
その沈んだ石が、この世にあるものとして
子孫たちの財産として、通用してしまう。
糸井ヤップ島のお金って、
あんまりでかいから交換しないよね?
末永ええ。金は動かない。もともと、
不動産はそういう仕組みですから。
糸井なるほどね。
バブルの時にも、そういう仕組みを
ちゃんと説明してもっていれば、
みんなが、不動産についても
もっといろいろとわかったはずのに、
なんか絶対価値のように誤解しちゃうよね。
末永そう。
ヤップ島の話は、みんな笑うんだけど、
でもぼくたちは金(きん)を使って
おんなじことをやってたんですよね。
松本(笑)
末永一生懸命掘り出した金(きん)を
中央銀行の金庫に入れて、
これと交換できるのが通貨だとしただけで。
糸井ニクソンが、
「もう、金(きん)に変えなくていいのな!」
と言ったあとに、それがもっと本質的になって。
末永東洋では早くから紙のお金がありましたが、
ただの紙切れが正統なお金になったというのは、
西欧の歴史では、1971年の金・ドル交換停止が、
はじめてのことなんです。

それまでは、ただの紙切れというのは
戦争なんかで困った時に政府が出すもので、
その後、ものすごいインフレで
紙くずになってしまうようなものだった。

でも、1971年までだって、やっぱり
ほんとうに価値があったのは約束だったんですよね。
石なり金属なりが、約束の裏付けだっただけです。
お金って「約束だけ」なんですよ。
持っている人が、他の人に
何かをさせることができるという。
糸井「肩たたき券」ですよね。
松本そうそう(笑)。

~以下略~


糸井さんの考察は素晴らしい。


埋蔵金があろうがなかろうが、
フランスは日本にお金を貸しただろう。


なぜか。


それは、

日本が働く人間が沢山いる良質な共同体だったから。


お金の価値を支えるのは、
ゴールドの保有高ではなく、
人間と人間が緊密に生産し合う関係性のポテンシャルだった。


当時のフランスはお金(金融)の本質を理解していたのだ。



そのご指摘、
全くその通りだと僕も思います。


お金は肩たたき券です。


あなたの財布の中にあるお金の価値は、
お金を流す人に報いようとする人々の心が支えています。


お金という観念へ抱いている人の心。
それがお金の実態です。


だからお金を集めることで富を蓄積できるというのは、

半分は事実ですが、半分は幻想です。


肩たたき券の枚数を集めていって、
それが富の大きさとして保全できるのは、

「肩をたたきますよ」と約束する人々が、
実際に肩をたたく意思と能力を持ち続ける限りです。


お金の価値は、

お金の流れに報いようと思う人々の関係性の連なりが、

担保しているんです。



すると、

「生産年齢人口の割合と増加こそが、
ある単位の社会経済発展の最大要因になる」

ということがもっとすっきり理解できるはずです。


近年の中国、インド、ブラジル、インドネシアの成功と、
かつての米国、日本、ドイツの高度成長も背景は同じ。


資本主義に限らず一つの国家経済が上手くいく黄金パターンとは、
生産年齢人口が増加し続けること。


なぜならその間に限り、
「お金のために働く > お金のために働いてもらう」

がシンプルに成立するからです。


事業の質や、持続可能かどうか、共同体内で循環するか否か、
というような、
お金の流れ方の質を問わずして、

皆が獲得した量だけを気にして管理してさえいれば、
豊かさは担保され続けた、とざっくりと言える状態です。


肩をたたくぞ、と血気あふれる若者がどんどん増えていくほど、
肩をたたき合う関係性が拡大します。

それが経済成長です。


そのようにしてお金の価値は、

誰かに貢献する私が、
私に貢献してくれる誰かと、

互いの存在を分かち合って生じているんです。


共同体の個としての私と、
共同体の個としての誰か。

その関係性の連続がお金の正体です。




もっと本質に迫ります。


肩たたき券をパパにプレゼントした後、

パパが肩たたき券を無くしてしまいました。

しかし、

娘は「しょうがないなー」って笑って許し、肩をたたいてあげました。


肩たたき券には、GOLD等の裏付けは必要ありません。

娘にはパパの肩をたたいてあげたいという思いやりがある。

心が券の実態として機能します。


娘とパパが喧嘩しました。

口も聞いてくれない状況でしたが、

パパは肩が凝ったので肩たたき券を使おうとしました。

しかし娘は

「は?自分で揉めよ」と言い捨て、壁をたたいて怒りました。


実際こんなお馬鹿なパパはいませんが笑

僕が言いたいことは、

人と人の関係性の価値が維持されて、
はじめて券はその価値を維持することができる。
約束を発揮することができる。


つまり

券の創造も、使用も、履行も、

人と人の関係性の真価が、表面に現れた現象だということです。


それはすなわち、
人間関係の質が維持できていないのであれば、
お金は量や数値がいくら増えようと、いくら大量に投下しようと、
既に価値は死んでいて、使えなくなっているも同然だ、ということを意味します。


お金の量がモチベーションになるというのは嘘です。
人間はそんな存在になれません。
仕事そのものを通じて偽りのない自分を皆と分かち合う
そのような誇り高い喜びを犠牲にしてまで、
必要以上のお金を追うことはできません。


コントロールの利便性と優越の快感に酔うことは、
人間的成長の未熟な間だけのことであり、
そのような生き方では自尊心を持てず、真の幸福は得られません。


もしパパが肩たたき券を、
野口英世の描かれた日本銀行券に変えて、
喧嘩中の娘に手渡して、肩を叩いてもらおうとします。

娘は果たして、
「1000円札くれるならいいよ」と肩をたたいてくれるでしょうか。

「ふざけんな。そんなつもりであげたわけじゃない!」って
悲しみ傷つきながら、怒るのではないでしょうか。


もし、1000円札を受け取るならば、
パパと娘の関係は大切な何かを失うでしょう。

労働者による顧客への肩たたきサービスに成り下がり、
思いやりから肩をたたくことはありません。

それは利益提供であり、
お金という共同体内で通用する権利の獲得を目的として、
義務を履行するという行為であり、
一過性の取引関係が顕れた現象に過ぎなくなります。

この場合のパパは手段であって目的ではないし、
娘にとって肩たたきは、
自分とパパの関係性を分かち合う喜びの行為ではなくなります。


別に券なんてなくても、
いつも家族を大切に思い、自分たちの為に頑張ってくれるパパが疲れていたら、
今日はねぎらってあげたいなと思い立って、
「肩もんであげるよ」と自然に言葉が出てくることもある。

肩たたき券は、
娘としてパパの存在を喜び、その関係性の価値が現れただけなんです。


肩たたき券 >>>> 1000円

娘とパパという愛の関係性 >>>> 利害取引の関係性


もっと言うと、

愛 > 共同体の信頼関係 > 権利と義務の利害関係 > 支配と服従の隷属関係


これが人間の本性から見たお金の本質の違いではないでしょうか。


人間関係の質を維持・向上しないかぎり、お金は価値を維持・向上できないし、
人間関係が破綻すれば、お金も存続不能です。

お金という機能の根源は、人間関係の喜びが創造しているからです。



資本主義社会は、
このお金の真実を取り戻さなくては存続不能ではないかと思います。

私たちは、
生産年齢人口が減少して、始めて経済の本質に直面しています。
経済的豊かさが、人の心と共同体のあり方に向き合わずしては維持できない現実に。


お金が肩たたき券と同じだからです。

日本の生産年齢人口が減少しても、その価値を維持できたように見えたのは、

第一に、
思いやりの関係の質を、権利・義務の関係への量に変換したから。

第二に、
国際金融を活かし、中国を筆頭に低賃金国家の人々をピラミッドの下に組み込んだから。


決して、人間関係の質を維持・向上したからではありません。


強者である日本経済は、
人口の多い発展途上社会に、
お金による自由への夢を見せ、自由への争いに駆り立て、
国家主義経済よりは遥かにマシな
資本主義経済を歓迎するエリート層の後押しを得て、
パワーとして富の実態を維持していたに過ぎません。


権利・義務という一過性の取引関係を拡大することによって、
巡らないお金の割合はますます増え続けていきます。

余剰マネーは富の増殖と保全を求め、一過性のバブルと金融危機を起こすが、
金融緩和という対症療法によって量的な辻褄が繕われ、
循環しないマネーによる人間関係の質の低下という問題は先送りにされる。

危機の度に余剰マネーの総量は増加し、
相変わらず延々と数値の増殖を機械的に追い求めている。

この流れに人間の理性は働いていないように見えます。

利息を追い続けるプログラムのみが機能している、
といっても過言ではない気がします。


そのプログラムが、数十年ものあいだ世界で通用していたのは、
人口爆発を背景にした生産年齢人口の増加期間だったから
に過ぎないのではないでしょうか。


それが終焉した日本は、今後の世界に先駆けて、

お金の流れ方の質を真摯に問い、お金のあり方を定める

という叡智が試されていると僕は思うのです。


これまでもこれからも、
富の価値とは人間関係の価値であったのですが、

この真実を捻じ曲げていた世界観は、
限界に達し始めているということなのだと思います。


日本も米国も、
戦後資本主義の初期から中期にかけて生み出されていた生産性は、

競争の合理性などではなく、

分かち合いの合理性だったのでしょう。


資本主義の真価は、

お金の量でコントロールするという主義ではなく、

お金の流れを共有するという主義だったのではないでしょうか。




今も昔も

お金の真実は、

分かち合う人間関係の喜びに裏付けられた、

共同体への信頼が、

お金の価値として生じているのではないでしょうか。



お金の理解が深まれば深まるほど、

お金とは極めて人間を顕す現象なのだと感じます。


お金の生産性が依って立つのは、

「物々交換を効率化する」などという、利害取引の世界観ではありません。

それは嘘です。

「互いの存在を分かち合う」という愛の世界観です。




真の金融は、虚業ではありません。

真の資本主義は、所有の取引ゲームではありません。


人間関係の喜びと共同体の生産性を創造するという、最も人間的な営みです。


以上が、

新たな時代を切り開く次世代の金融が必要だと、僕が考える所以です。




2013年4月11日木曜日

人口爆発という現象の意味

日本の人口推移をふり返ると、
室町-安土桃山時代は人口1000万人強でした。
江戸時代になり、
1600年ごろから百数十年の間で一気に3000万人を超えます。

明治になるとまた爆発し、
1910年頃には5000万人を突破。
1967年には1億人を突破。
2008年には1億2808万人のピークを迎え、減少に転じます。
(参考文献:『Newton 2012/06 まもなくやってくる100億人時代』)

下の図を観て下さい。

国立社会保障・人口問題研究所より
ネットで手に入る生産年齢人口に関するグラフの中で、これがもっとも分かりやすい。

そもそも生産年齢人口とは何か。
なぜそれが社会を考える上で重要なのか。

これについては、
僕が途中で投げ出した過去記事「現代社会の考察② 生産年齢人口の推移
を少し参考にして下さい。すいません(笑)


手元にあるニュートンの記事と、上記の図を見て思うのは、

ここ100年の日本は、日本史上類を見ないほど、
働く人口が高い割合のまま劇的に増加したということです。
お爺さんの、お爺さんの、お爺さんくらいまで遡らないと、
人口拡大局面の社会しか知らないんです。

国民年金と国民医療保険の制度発足は1960年前後からです。

財政収支の均衡の原則を捨てて、
赤字国債の発行に踏み切ったのが1974年からです。

いかにお気楽で恵まれた時期に始まったかが分かりますよね。


生産年齢人口が折り返して十数年たっただけで、
プライマリーバランス黒字化(利息だけでも返せる状態)、
消費税20%と、あたふた騒いでいるわけですが、

そもそもの前提の前提の前提から、
成り立つ条件が変わってしまったのではないでしょうか。

それが人口爆発とその終焉です。


我々の社会にとって、
生産年齢人口の拡大は極めて重要な意味を持っていたんですね。


近代的な政治・経済システムを備えた国家のなかで、

人口減少社会を経験した国はおそらくありません。




日本はこのまま減少していくとして、
世界ではどうかというと、
まだまだ伸び続けます。

それでも、いずれは限界に達して、
おそらく100億人までだろうと言われています。



このあたりの説明は、
TEDのハンス・ロスリング 「宗教と赤ちゃん」をご参考下さい。



本当にTEDというプレゼンサイトは素晴らしいです。 

はっきり言って、
このような高品質の無料コンテンツが溢れるネットに、
さらに理解を深める書籍があれば、
大学に通う必要があるのかとすら思える時代がここ数年で始まっているんです。

世界の教育環境の格差がなくなっていったら・・・
あと十数年であろうと思いますが、一体どうなるでしょうか。



話を戻します。



さてこの人口爆発という現象は、

人類にとって何を意味しているのでしょうか。



まだ僕にはわかりません。

すぐに答えが出るものではありません。



しかし確実に言えることは、

日本も米国も、世界も、

たった200年の間で起こった、10億人から70億人への未曾有の人口爆発を土台にして、

国家・政治・経済の世界観を創ってきたということです。



先の年金・医療保険の制度は一例です。

不兌換紙幣と資本主義ですら、その例にあたる可能性があると僕は考えています。

人口爆発とは、
不兌換紙幣と財政不均衡とドル基軸通貨を可能にし、
資本主義システムを支え続けた最大の要因であると思うのですが、
この辺りの分析は、今後ブログで書いていきたいと思います。

この事態は46億年の地球史においても未曾有の出来ごとなのですが、
私たちの時間感覚はたかだが数十年と短いので、
これが当たり前だいう認識なんです。



人口爆発が終焉し、人口減少に転ずるとき、
いったい何が起きるでしょうか。



現代の国家、経済、社会の常識が、
根底から崩れさっていく気がしています。

戦前と戦後、昭和、平成・・・
私たちの記憶にある限りでも、
確かに常識は大きく変遷していきました。


しかし、
もっと根本からの変化が起きるのだと思います。


それは、人間として、生命として、
人間観と世界観が普遍的であるか否かを、
強烈に問いかけてくる変化なのだと思います。



私たちは、執着を捨てて、

真に普遍性のある道の上に、

人生と社会を形成し直すことできるのか。


執着を捨てられず、

真実を隠す個人、組織、国家は、

存続不可能になっていく。


そんな予感がしています。





ある支配的な価値観が時代を象り、

その価値観の拡大が終わったあとに、

人間の真価が問われる。



歴史は常にそうだったのではないでしょうか。


その繰り返しだったのではないでしょうか。




支配的価値が崩れていく中で、

人は苦悩し、

真理を求め、

存在へ立ち返り、

真実を自らの内に見出し、

誇り高き精神で分かち合って、

現実を創りだす。




この人間という生命のプロセスを、

時空を超えて「意識」をつなぐことによって、

加速させているのがインターネットです。



ネットによって、人間現象の流れに革命が起きています。



物事は、

役割と役割という仮面の関係性で流れ、生じるものから、

人格と人格という真実の人間関係で流れ、創造的に生じさせるものへ。




国民と国家という観念が支配的だった時代は終わり、
今世界に広がっているのはお金という観念です。

しかし、

もっともっと大きくみてみると、

地球における人類史は、

人間という生命体を拡大してきたわけです。



今世紀中に、

おそらく数十年後には、

人間そのものの拡大が終わることになります。




そのとき、

人間という存在の真価が問われることになるのではないでしょうか。




人類の総決算として

人間の繁栄と存在の意味を問うこと


それが、
人口爆発という現象とその終焉によって完成する意味なのだと思います。




人口爆発の終焉は、今日本で起きています。


日本が世界に先駆けてこの問題と向き合うことになります。


だからこそ、

日本が次世代の社会のリーダーになりうるんです。



これからの新しい時代を生きることに、

それを創ることに、

とても大きな意義を感じずにはいられません。

情熱の薔薇



見てきたことや聞いたこと

今まで覚えた全部

デタラメだったら面白い

そんな気持ちわかるでしょう



そう、ブルーハーツの情熱の薔薇です。

甲本さんの詩の中でも一番好きな歌詞です。



あなたの情熱は、

あなたの心のずっと奥の方に咲き誇る、真っ赤な薔薇です。



それを咲かせようぜ!っていうメッセージを、彼は全力で歌っています。



熱くなれるものがない?

情熱がない?



咲いていないだけです。


情熱は必ず咲きます。



咲かせ方がわからない?



答えはきっと奥の方

心のずっと奥の方

涙はそこからやってくる

心のずっと奥の方



自分の心の奥の声を聴いて下さい。


感じて動いているはずです。


それがあなたの真実です。


それを観つづけてください。




情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう

花瓶に水をあげましょう

心のずっと奥の方




孤独に埋もれている種を、小さな小さな芽を、

信じて、

孤独に水をあげてください。



あなたは、あなたの真実を、現実にしたくなります。

あなたの真実を、もっとリアルに分かち合いたくなります。



それが胸に咲いたとき、

心も体も「それ」に突き動かされているでしょう。





この世界の多くの人の胸に、

それぞれの真実への情熱の薔薇が咲き誇りますように。



甲本さん、最高のメッセージをありがとう。

2013年4月10日水曜日

赤字国債という現象の意味


国債が700兆円を超えています。



財務省:戦後の国債管理政策の推移 普通国債残高の項目より


さらに地方債を含めると公債は900兆円を超えます。



それでも国家会計は破綻しない。




なぜだと思いますか。




国債は「借金」だという認識に間違いはありません。

もし家計であれば
信用を失って貸し手がいなくなって利息も返せなくなり、
お金の流れが途絶えて自己破産です。


ただ国家の場合、

「家計における借金」というイメージでは捉えきれない、

「お金という観念の本質的何か」が機能しているのだと僕は考えています。


一体それは何なのか。


これを捉えると、

資本主義国家が

返せるはずもないほど国債を発行し続けるのは何故か。

借金まみれの国家会計は何故それが可能で、破綻しないのか。


これらの問いを説明できるような気がしています。


どうやら、

断片の流れで見た「お金」の機能と、
全体の流れで見た「お金」の機能は、

ずいぶんと異なって見える可能性がありそうです。


部分と全体の理解を統合することが、

お金という観念を創りだしている人間の真実に迫るのではないか。


お金と人間の真実の理解に基づいた、

新たなお金の世界観こそが、

悪化を辿る資本主義経済の生産性を上回り、

真に持続可能で健全な人間社会を実現する経済システムを創ることができる。


僕にはそんな直感が働いています。



だから、
この問いに挑戦したい。



赤字国債という現象は、人間にとって何を意味するのか。



今後書いていきますので、一緒に考えて頂けたら嬉しいです。



2013年4月8日月曜日

経済と人間を理解するリーダー

どうして為替は株価と連動するのだろうと本気で考え始めたのは、
証券会社に入社して二年目の頃です。


入社は2008年4月。
一年目は右も左も分からないまま新規顧客の開拓営業に出た。
サブプライムローン、リーマンショック、CDS・・・
世界的バブル崩壊と金融危機で、
目の前のニュースを追いかけるだけで精いっぱいだった。

金融経済のメカニズムについて、
腰を据えて考察する余裕はありませんでした。


二年目になると、自分で開拓した新規客に加えて既存顧客を任されます。
日々の経済ニュースの意味、今日の市場動向の解釈、
証券制度と金融商品取引法、上場企業の事業内容、
石油・金の値動きについて、新興国の将来性、
投資戦略や資産内容の評価・・・

それらの説明を自分の口から伝える機会が圧倒的に増えた。

自分が理解していないことは伝わらないと痛感した。

緊張感を持ってますます経済・金融・経営への関心を高めていきました。


そこで気付きます。


為替と株価は、なんでこんなにも相関するんだ?
どの期間を切り取った比較チャートを見ても、値動きがそっくりじゃないか。

もちろんこの二つが連動することは知識として知ってはいますが、
その連動性が異常なほど強いわけです。


理由を探すと、

「日本経済は輸出型の構造なので円安が業績に有利だから」
「外国人投資家が6割だから」

といった一般的な説明ばかりです。上司もベテラン社員もそう言っている。


なんとなく理屈は通ります。

でもふわふわした部分が残ってしまう。


僕は自分の感覚が納得しないと、ずっと考えてしまう性格です。


実際にyahooファイナンスでデータを取り、
為替動向と日経平均株価の相関係数をエクセルではじき出します。

統計学は大学生の頃にかじった程度でしたが、思い出しつつグラフと関数をいじくる。

円相場と日経平均株価の相関係数は、0.95程という想像以上の強さを示しました。
これほど二つの要素が毎日連動しているのは絶対におかしい。

「投資家が、為替を見て、株を評価判断して、売り買いをする」

というイメージが直観的に成立しない。

だから一般的な説明はますます不十分に思えました。





僕がどのような分析を行ったかを実際に紹介します。

せっかくなので

2012年4月~2013年4月までの最新1年間のデータで見て下さい。
(ちなみに数値は週次です。ヤフーファイナンスで取り込みました)


①散布図


縦軸は日経平均株価。
横軸は円・ドル為替レート。
一年ちょいの間の週次データのプロットです。散布していませんね。
77円から96円の幅で、綺麗な右肩上がりを示しています。


相関係数は0.97

詳しい説明は省きます。1に近いほど正の相関が強いことを示します。
仮に同じもの同士だと分散がまったくなくなり、相関係数は1となります。


②折れ線(初期値を100%とした時の推移比較)



二つの数値変動の推移を比較するとき、初期値を100%にするのが便利です。
やはり株価の変動は、為替に比べると大きめですね。

前半の円高は株安に、後半の円安は株高になっているのがよく分かります。



こうしてデータ情報を集め、自分の手と目を動かし、
数値をはじき出したり、グラフへ視覚化する過程で、

連動性とはいうものの、それは一体どの程度なのか、という感覚がつかめます。

そうすることで直観がさえてくる。判断と仮説に自信を持って思考できる。

もちろんすぐには分かりません。
ふとしたときに思い出したり、
別の観点から関連付けるひらめきが起きたりして、
数カ月はかかったと思います。

しかし洞察を続けていくと、ちゃんと全体像は見えてくるんですね。



先日紹介した田村記者の記事ですが、

僕は2009年度後半には同じ結論を得ていて、顧客に説明していました。

外国人投資家の割合の高さと、ドルベース価格で売り買いするマネーの影響の強さ。
日本も含めた世界中の機関投資家による、ポートフォリオ重視による機械的な自動売買。


就社して二年目でも、そこまでは見抜けるということです。
本気で関心を持っているのならば。



しかしこの問いに対して、

トレード損益に関心がなくポートフォリオ維持のため機械的に売買する時価投資家と、
短期トレード利益を狙って価格変動に追随する時価投資家がいて、
これら二つの最優先事項の異なるマネーのリレー現象である

という、先日書いた記事ほど深い理解に及んだのは金融業界を離れてからでした。


スピリチュアル、哲学、心理学、自然科学の視点を取りいれている今だから、
より鮮明に現象を解いて見えるのだと思います。


業界にいると、その世界観と専門性に引きずられて、
人間として人間社会の現象をありのまま見る力が鈍るのかもしれません。

もちろん証券金融の専門を学ぶことで、社会を見抜く力を養う面も多々ありますが。


5年も勤めずに辞めた人間が業界にいると・・・なんて、口にすると怒られそうですね(笑)
専門性についても分かったとは言えないのは認めます。

でも、現代金融の王道と世界観の本質については理解した自信があるので、
つい分かった風にいってしまうところがある。

妻にはよく指摘されるところでもあります。


確かに実感していることは、

経済を見る上で、
金融と離れた今の方が遥かに見通しがいい。


毎朝日経新聞を読んで、
会社の金融情報端末で常に情報に触れ、
家に帰ったら有価証券報告書を見て企業経営を知ろうとし、
寝る前にはワールドビジネスサテライトを見ていた頃の方が、
ずっと経済に明るくて良いはずですが、
そういうものではないんですよね。
人間社会というものは。


所属組織にも、業界にも、国にも、時代にも、

「和して同せず」で、ありたいなと思います。




そうでした。


為替と株価の関係への問いが、
政治を担うリーダーの資質を見抜くものとして
なぜ望ましいと考えるのかを説明します。

一つには、

「君子は和して同せず」だからです。


高度成長期から使い古された一般的な答えを言ってしまう人は、
確かに新聞の論調から経済学の教科書まで書いてあるのだから、
非難はされません。最も安全な答えでしょう。

本質が分かっていない人は、引用して答える。
本質が分かっている人でも、一般的意見と異なる説明をするのは避けたい。

自分の頭で考えて、納得する答えを導き出したとしても、
それを口にするのは勇気がいります。

保身より、身内の論理より、

個の精神であるかが問われることになります。


政治家や上場企業経営者として、許される答えか否か、を基準にするのか。

自分として、誠意を尽くした誇れる答えか否か、を基準にするのか。


人間社会というのは、
全体を思いやりながらも個の精神で、
自分の真実を述べるリーダーを選び続けなければ、
いずれどこかで上手くいかなくなるのではないでしょうか。



そして、もうひとつ。

この時代のリーダーは、
お金という観念と真摯に向き合うべきだからです。

お金の観念が人間社会の問題の根本にあります。


そして、
お金という観念を、
人生観も社会観も飲み込んでしまうほど肥大化させているのは資本市場です。

これを理解したリーダーでなければ、
人間社会の問題を根本から治癒することはできない、と僕は考えます。


新たな時代を拓くリーダーは、
事業経営としても、国家運営としても、
愛として機能するお金と、
怖れとして機能するお金を、
明確に見抜けなくてはならないと思うんです。

その上で、

人間関係の社会生態系を洞察し、
怖れではなく、愛の理を活かすように、
お金の流れ方の質をデザインできるか。

個と全体の真の繋がりを再生し、
確かな生産性を上げる社会を創れるか。


僕は、新時代のリーダーにそれを求めたい。


そういうわけで、

「なぜ株価は為替レートと連動するのか」という問いは、
新たな時代を拓くリーダーとしての資質を見る試金石として悪くないな、と思っています。





歴史を振り返っても、
人間と経済の見方が優れ、
それを個の精神で実践して時代を導いたリーダーはいました。



ガンジーはこう言いました。

「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく大衆による生産である」




二宮尊徳はこう言いました。

「財の生命は徳を生かすにあり」




貧しい人を救わない。

豊かな国でも善意は生かされず、依存と嘘による不信が拡大する。


国家も年金医療も、
お金の総量を増やし続ける前提でないと破綻する。
インフレターゲット、金融緩和、赤字国債と財政出動・・・
それら総量を増やし続ける延命策に執着する。

そんな状態で私たちは、
既存のお金の流れ方の問題に、
本当に根本から向き合えているのでしょうか。


私たちは国民として将来に問題を先送りにし、将来を憂えていますが、
同時にそのような先送りをしつづける社会に対して不信と保身を強めていて、
ますますお金と権威が味方でないと不安になってはいませんか。


資本主義国家は、
いつから国家は借金を返さなくてもよい、という理屈を採用したのでしょうか。


西洋と東洋の、
経済大国の最高峰であり、
生産年齢人口が拡大し続けた果てに豊かになった米国と日本ですら、
社会が上手くいっていないと思うのであれば、
一体どこの国が資本主義のあり方に希望を持てるというのでしょうか。


私たちは、
お金の観念と、それが現実を象る作用を注意深く観察しなければなりません。


人間としての理性が働く部分と、
働いていない部分があるのではないか。


それらを混同してはならないのではないか。


そもそもお金とは何なのか。

人間という存在の一体何が、お金として現われているのか。





僕は、

そういう事に気付き、経済と人間の理を一つとして生かすリーダーを創りたい。

自分がそうであることによって。

2013年4月7日日曜日

今後書くテーマ 2

お金の価値について

第一価値は愛 
(信頼。共有。贈与。循環。理性。自律。創造。 和 。真実。自由。自尊。赦し)

第二価値は怖れの愛 
(信用。所有。権利。蓄積。理屈。規律。反応。妥協。建前。義務。期待。正義)




お金の第二価値の創造・流通過程について


お金の第一価値の創造・流通過程について




資本主義の質の変容について




資本主義を祝福であるとして赦すこと




男女関係について





NANAの登場人物ヤスについて




人口爆発について




資質を問う質問とは、どのような質問か




父、母、妻への感謝




スーパーオオゼキの経営について





証券会社勤務時代に培った金融経済の見方





人間関係の光を創造するお金の使い方





大切な人を自由にするということ




信頼と信用と期待の違い




真実を分かち合う時代へ

2013年4月5日金曜日

為替と株価はなぜ連動するのか

為替市場で円が安くなると、
ほぼすべての株価が高くなります。


それは一体なぜか。


為替と株価は、なぜ連動するのか。

先日、お金という世界観の問題にて問いかけをしました。


もし金融マンや上場企業経営者や政治家が、
一流の回答を示せないのなら、
その責任をまっとうする資質として一流ではない、と僕は言いました。


であるなら、
僕は答えを示さなければなりません。


自分の洞察が正しいかどうかは証明できませんが、
読んでいただく人の心で感じていただきたいと思います。

真実に迫るような説明力があるか。
社会を機能させるのに役立つ視点とインスピレーションがあるかどうか。




途中までは、一般的な説明を紹介しつつ、
経済の常識に基づいた説明をします。

人によっては小難しいですが、
最後は自分なりの簡略化した見方を示します。



問題。

なぜ為替と株価は連動するのか。



まずは経済学の教科書でも言われる一般的な説明です。


日本経済は輸出主導型の経済構造になっているため、
輸出に有利な円安・ドル高を歓迎し、
輸出に不利な円高・ドル安を警戒する傾向があります。

また円高が進むと、輸出関連株が売られ、
内需関連株が買われる傾向があります。
逆に円安が進むと、 輸出関連株が買われて、
内需関連株が売られる傾向が見られます。


テレビも新聞も、経済紙も昔っからそのように説明しているので、
このような見方をご存知の方も多いはず。


金融機関の営業マン(資産運用コンサルタント)も、
基本的にそう説明しています。

以前の職場でも、
顧客に市場動向を説明する際、
この理屈を伝える人がほとんどでした。


詳しく読みたい方はこの日経の記事を参考にして下さい。



しかし上記の常識は、
果たして本当に正しいと言えるでしょうか。


疑問①
内需株(ニトリ・ユニクロ等)も上昇している。
円安は無差別・無条件の全面株高ではないか。

疑問②
為替と株価の連動は、即時性が強すぎる。
業績を予想した歓迎や警戒のような、
事業価値を算定する判断の動きと言えないのではないか。

疑問③
そもそも、日本は輸出主導型の経済構造なのか。
高度成長期は間違いなくそうだっただろうが、
はたして今となっては、輸出主導とは一体どの程度なのだろうか。


最近、疑問①と疑問②を的確に答えている、
為替と株価の相関関係を説明する良い記事を見つけました。


【国際政治経済学入門】円安と株高はなぜ連動するか
Sankei Express 2013/03/13 より抜粋

2011年3月11日の東日本大震災から2年がたった。震災で株式市場は、
08年9月の「リーマン・ショック」以来の不振に追い打ちをかけられたが、
昨年11月16日の衆院解散総選挙決定を機に、一挙に上昇局面に転じた。
大胆な金融緩和政策を求める安倍晋三氏率いる自民党の政権奪還が
確実視されて円高是正とともに株が買われるようになり、
安倍政権発足で円安・株高に弾みがついた。

そこで円相場と株価の連動メカニズムを解明してみよう。

●日本株の比率一定に
本来、日本の株価は円の対ドル相場に連動する「法則」がかなり前から働いている。
理由について、
自動車、家電など輸出産業が円安で収益を増やし、円高では逆になる、
という説明が多いが、その見方は大ざっぱすぎる。

現実の株式市場は投資家の売り買いで動くのだが、
投資家は通常、現時点の相場水準ではなく、
円相場の動向が高くなる、あるいは安くなるという予想をまず立てて、
円高が進みそうだと日本株を売り、安くなりそうだと買うはずである。
予想が定着するまでにはある程度時間がかかる。

ところがグラフを見ると、
円相場と株価のアップダウンの動きはほぼ同時並行で進んでいる。
時間差はほとんどみられない。なぜか。

日本株の売買高の5割以上を占めているのは「外国人」である。
外国人の本拠はニューヨーク・ウォール街で、
かれらはグローバルな証券投資を展開している。
そのポートフォリオはドル建てで計算され、
米国株に対する日本株の比率はしばらくの間、固定される。

円相場が上がると、ドル建ての日本株時価は増えるので、
ポートフォリオでの日本株の比率が上がる。
すると、コンピューターによる自動売買プログラムが作動し、
日本株を売って、日本株の比率の上昇を防ぐ。

円安の場合、逆に日本株の比率が下がるので、日本株を買い増すようになる。
日本国内の投資家はこうした外国人の動向に敏感なので、
円安は買い、円高は売りというふうに追随する。
こうして、円安すなわち株高という現象が生まれる。
以下略
(産経新聞特別記者・編集委員 田村秀男)



僕の見解は田村記者と概ね同じです。




この説明を補足しつつ、僕の考えをまとめます。



①株価の動きは、将来の企業業績と為替レートの価値を予測した結果ではない。

価格形成は、価値への予測が集約された集合知ではなく、
価格への反射運動の連鎖。

※反射運動・・・特定の刺激に対して高い確率で起こる反応。
例えば、膝の皿あたりを叩くと、足が前に上がってしまう等

②東証一部の市場売買高の5割以上が外国人である。

それは、
日本株投資家の半数以上がドルベースで損益を測っており、
円と円以外のバスケット通貨で「時価」は形成されているということ。

③投資スタイルの金融業界の常識は、分散投資。

大きな資産を運用するプロは、
円とドルとユーロ、株と国債と不動産など、
通貨や証券の種類の保有割合の維持をルールとして定めている。
どのリスクをどの程度取るか、最適なリスク分散のあり方を検討し、
運用目的に合理的な資産へと組み合わせることを、ポートフォリオを組むという。


④為替レートの変動は保有割合が決定されている大量のマネーを動かす。

日本株の比率を原則通りに保つための取引を誘発し、時価を形成する。


⑤プロが最優先するのは運用の原則である。

投資の結果は預けた人の自己責任であり、
雇われであるプロはパフォーマンスが悪くても問題ない。
嫌なら自分で運用すればいい。
しかし雇われのプロが、クライアントとの約束である原則に背くことは、
内外から責められるべき事由。

そもそもポートフォリオ重視の投資家は、
売り買いのトレーディングで儲けようとしていない。

複数の金融資産の合理的な組み合わせを管理することで、
時間経過を味方にした利子によって、
安定的なパフォーマンスを得ようとしている。

従ってこのマネーの特徴は、運用ルールに従って、
為替レートに従順に反応して機械的に売買すること。


⑥コンピュータ技術の発達が為替と株の連動性を強めた。

為替レートが変動するとき、
それに反応して機械的に売買するマネーが市場において主流となる。

その効率をよくしているのは、
世界中の市場情報を集約するシステム、
それをもとに運用ルールに従って投資判断する自動売買プログラム、
運用会社と証券取引所の高速売買システムです。

売り買いの情報収集・判断・発注は瞬時に処理され、
為替レートと株価は時間差なく連動するようになる。



以上が、金融の常識に則った、為替と株価の連動性の説明です。



僕は田村さんの記事を修正して、もっと本質に迫りたい。


>円安の場合、逆に日本株の比率が下がるので、日本株を買い増すようになる。
日本国内の投資家はこうした外国人の動向に敏感なので、
円安は買い、円高は売りというふうに追随する。
>こうして、円安すなわち株高という現象が生まれる。


投資家は大きく3ついます。


(1)淡々とルールで動くマネー

(2)値動きに反応するマネー (多くは上がるから買う、下がるから売るという順張り)

(3)価値を将来予測するマネー



僕のイメージでは、
(1)と(2)は時価投資家、(3)は価値投資家です。 ※これは僕の造語です。

一番早いのは(1)のルールで動くマネーです。
彼らは機会的かつ利益を優先しないゆえに動きが一番早い。

その次に、(2)の値動きに投機する順張りマネーが追随します。
彼らは短期利益を追求しすぎるがゆえに、常に動きは2番手。


これら二種類の時価投資家のマネーによって、
為替と株価が連動するパターンは、
驚異的な再現性をもって繰り返されつづけて、
法則と呼べるまでになった。

と僕は考えます。


おそらく、
このパターンを形成する時価投資家は、
必ずしも外国人投資家とはいえません。

国内のプロ投資家も、
円建てとドル建てに分散し、それぞれに保有割合を定めています。

彼らも目先のパフォーマンスより、ポートフォリオ維持を重視しますから、
円安という為替変動への反応の仕方としては、
保有資産を円ベースで見て、
外国株の比率が上がるのでそれを売却し、
日本株の比率が下がるのでこっちを買います。


このポートフォリオの維持を重視するスタイルは、
日米欧問わず、世界の常識であり、
このマネーの動き方に、国籍の差はありません。

既に大量のドル建て資産を、
ポートフォリオ重視のマネーで所有・管理している日本人投資家のマネーも、
原理的に外国人と同じ動きをするからです。


さらに。

この値動きに追随する(2)の順張り時価投資家に関しても、
おそらく日本人の方が多いとは思いますが、
外国人投資家にも多数いるはずです。

日本人投資家による追随マネーが多いのは、
彼らに主体性がないというわけではなく、
日本人にとって地元である日本株は、
短期パフォーマンスを最優先する順張り投資が外国人よりも手軽に実行しやすく有利、
という単純な事実によっているのでしょう。


マネーの国籍の違いは、
分かりやすい理由のように見えて本質ではないのです。


以上のように、

為替レートと株価の連動性を真に説明するには、

現象として現れる一つの時価と向き合って、

その形成過程を総合しながら読み解かなければなりません。


最終的に行きついたのは、

マネーの流れの量ではなく、


どのような最優先事項を持ったマネーなのか、

という質の違いを見抜くこと


すなわち、

市場に参加する投資家のあり方の本質的な違いを見抜くことでした。



今日の、以前とは比較にならないほど驚異的な為替と株価の連動性は、
証券取引における情報処理技術の発達と、
分散投資の哲学が世界中で普及したことによる必然的な結果といえるでしょう。



ちなみに(3)の価値投資家について。
値動きに投機するのではなく、価値に投資する彼らは、
きちんと企業価値、通貨価値を予測します。
買うからには安く買いたい、と逆張りが多くなります。
イメージとしては、王道の中の最高峰であるウォーレンバフェットです。




本当は、もっともっと大胆に簡略化した説明をしたかったです。

肩叩き券などの比喩を使ったり、簡単なシミュレーションを示したりと、
いろいろ考えましたが、
余計に分かりにくくなる気がしてやめました。

僕は金融マンとして一流の資質ではなかったようです(笑)





一つ大切な視点を忘れていました。

為替変動と株価変動の連動性の説明として、
中期においても変動率の水準が酷似する理由を示さないと完璧ではありません。


次回はそれに加え、
僕が何故この問いを重んじているのかも含めて書きたいと思います。

参考「為替と株価はなぜ連動するのか②

2013年4月4日木曜日

お金という世界観の問題

為替市場で円が安くなると、

ほぼすべての株価が高くなります。


一体なぜでしょうか。


為替と株価は、
なぜ連動するのでしょうか。





これは最も一般的な経済現象の基本的な問いです。


だからこそ、
もしこの問いについて、
一流の説明が出来ないのであれば、

 そのような
金融マン、
上場企業経営者、
経済学者・評論家、
新聞、
政治家は一流ではないと考えます。


彼らを挙げたのは、
今の社会の世界観を創りだしている彼らの責任が極めて重いからです。


もし僕が国会答弁で、
政治家に問う機会があるとしたら、
資質の試金石となる質問を沢山投げかけるでしょうね。


さて、

世界観という言葉を使いました。

それは私の生きるこの世界は一体どういうものか、というイメージです。

行動と思考の前提であり、
感情のトリガーとなる観念を象っている認識のことです。


イメージといっても、
「美しい桜を想像して下さい」

というような、生易しい言葉ではありません。


ニール・ドナルド・ウォルシュは著書「神との対話」の中で、
「信念」
あるいは、
「思考を支える思考」と表現しています。


世界観は、
自らの人生の可能性と枠組みを決定するものであり、
これを自由に創り、選択することができるようにならねば、
自由で創造性あふれる人生を歩むことはできないと思います。

安心を追い求めてながら、常に不安が付きまとってしまうのは、
誰かに与えられた世界観に依存しているからであり、
つまり自らそれを築けないからです。

世界の見方がゆらいでいれば、
自分の存在は相対的にしか定まらないので揺らぎっぱなしになります。

不安の問題は、外ではなく内にあるということです。


私たちの世界観は、
個人差だけでなく、
生まれる国や文化によって、
あるいは生きる時代によっても異なります。


ざっくり言ってしまえば、時代を司る価値観は3つだったと僕は考えます。


「神」  「国家」  「お金」


今は組織宗教と「神」に権威を感じる時代でもなければ、

戦争と身分制度を強いる「国家」の武力と権力を怖れる時代でもありません。

それらよりも、
素朴な個人の生活から地球の成り行きまで影響を与える支配的な価値観はー、
どうやら資本主義化が極まっていく世界をみると、「お金」の時代といえそうです。


世界中で多くの人が、
日夜プレッシャーの中で働いて稼ぎ、食費をまかないます。

家賃も医療も、
老後の安心も子供の教育も、
家族や友人との娯楽も、
親としての尊厳も人生の成功も、

お金に依存しています。


だからこそ、
人々の世界観の形成について、
お金の見方と経験は絶大な力をもつ。


それは、
人をコントロールしたいと望むならば、
お金の見方と経験を提供せよ、ということでもあります。



日常生活で味わっているお金をめぐる実体験をもって、
新聞やテレビを見ます。

そこで私たちは日々、
経済ニュースを聞いていて、
なんとなく分かる様な、
分からない様な感覚のままでいるのではないでしょうか。


そうして潜在意識において、

「社会というのは難しいんだな」
「この世界は難しい問題だらけで、私の判断や影響力なんて小さいんだ」
「誰か頭の良い、凄い人じゃないと問題を解決できない世界なんだ」

と自分で自分を小さくし、ちょっとした無力感とともに、
世界や、人間社会の全体を、
理解不能な、複雑で巨大なイメージにしてしまうように思えるんです。


人は、
本当に理解した現象は怖れなくなるものです。

逆に、理解できないもの(人)を怖れます。

自然科学の発展も、
宗教・哲学でいう悟りも、
その真価は、
人間が世界に抱く怖れの克服であったように思います。

科学も哲学も、
世界と自分という
存在意義を根本から支える最も大きな対象と、
真摯に向き合い、
理を解く(=理解する)営みです。

そうして、
世界を信頼する(=自分を信頼する)生き方を選択するという、
自由で、能動的で、創造的な世界観を手に入れることが出来るわけです。

人類全体はそのように進歩してきた。
今もその最中であると僕は思います。


要するに、言いたいのはこうです。

人は世界と向き合わず、
その理解と世界観の形成を、
他人に任せて避けるほど、
勝手に頭で世界なる全体を大きく複雑にして怖れるのではないか。

怖れると余計に、
世界という全体に向き合いたくなくなり、
個人としては理性的でも、
全体としては理性を失うのではないか。



「私は自分には理解が及ばない巨大な全体に所属している。

私のような平凡な人間が、
素朴に幸せに生きるためには、
競って戦うなり、
強者に従うなりして、
自分を保身する必要があるのだ。

私も皆も、
そういう世界で、
ささやかな幸せを生きるために必死に頑張る人生なのだ」


もしこのような世界観が、

一人一人の、思考と行動の前提となる潜在意識の中に、
形成されてしまっているとしたら。

果たしてどういうことが起きるでしょうか。


本来は既に全体であるにも関わらず、
「全体」を怖れる私たちは、
個人としては理性的でも、
矛盾に溢れた思考・行動を繰り返していて、
「全体」としては理性を失った振る舞いをするかもしれません。

であるならば、
個人が全体を信頼できない世界観をもっている限り、
個人としての部分最適の積み上げは、
それがどれほど美しく誠実な行為であったとしても、
全体の最適にはならないのかもしれません。


つまり、

全体を信頼できる世界観を創り(解き)、

それが広がるメカニズムを起爆させれば、

全体の理性を再生できるということです。

真に合理的な社会を創れるということです。


内なる世界観に向き合い、
外へ世界観を分かち合い、
愛によって怖れを取り除くプロセスの果てに、
人間社会の問題は解決される。

僕はそう考えています。


富の蓄積が社会を豊かにするという資本主義の「常識」―


地球の自然現象と生態系が示すのと同様に、

富の生命は「循環」だと思うのですが、

循環なき蓄積を求める社会が、

果たして本当に人間を豊かにするのか。


そのような社会のまま、

地球と人間の多様性と機能は持続可能であるのか。






お金とは何か。


私たちの社会はまだ回答を得ていません。

正しくいうと、
「こういうものにしよう」
という定義をしきれていません。


神とは何か。

分かりません。分からないけども、
スピリチュアリティの広がりによって、
その概念は個人において内的な統合を果たし、
自分を信じることと神を信じることは同じであると悟り、
世界と自分を大きな意味で信頼する生き方を選択して、
人々はより自由になっていく気がしています。


国家とは何か。

意見はいろいろあります。ありますけども、
民主主義の広がりと定着によって、
完璧ではないものの、
その概念は個人において内的に統合され、
国家を信じることと国民を信じることは同じであるという制度設計がされ、
一応は信頼できるものになり、
人々はより自由になった気がしています。


お金とは何か。

自由主義経済の広がりと定着によって、
その概念は個人において内的に統合されたかに見えました。

しかし自由主義が生み出した資本主義の枠組みを、
人々は次第に制御しきれなくなり、
全体としては、
人間の理性を機能させているとは言い難い現状です。

食料を6000万トン輸入し、2000万トン廃棄する日本と、
毎日25000人が餓死する世界。

そのように貧困に苦しむ人々に、
豊かになれるチャンスを与えるとして、
自由競争に駆り立て、
膨大に物を生産し、
流通させては廃棄を繰り返し、
お金の量は正当性であるという理屈を強化し続けるグローバル金融経済。

お金の価値観に支配されて苦しむ貧困国家と民が、
資本主義の上流にいる米国や日本をみて、
夢をみている間は一時的に憧れて尊敬するかもしれません。

しかし競争の蔓延る世界が生み出す現実に絶望したとき、
恨みを抱くのは当然でしょう。

お金による自由とは、
勝者・強者・経済力の自由といった方が良いような気がします

お金に関する人々の怖れと不自由は強まっているからです。

同時に、嘘とコントロールと依存と競争も強まっている。

この内面と外面は相互に作用し合い、
負のスパイラルは連鎖拡大していくのでしょう。


そうして、
資本主義の上流として経済的に成功した米国も日本も、
一流企業のエリートも経営層も、
強者に見える人たちも、
同じくお金の力を怖れて戦い続けています。
お金の力によって安心と尊厳を得ようとしている限り。



循環を目的とした競争であるならば、
互いの存在を、分かち合う共同体の精神があります。

しかし所有という権力手段に用いるためのお金の獲得競争ならば、
互いの存在を怖れ手段にしあう、分裂の精神にもとづきます。

後者の争いが社会を真に合理的にすることは永遠にないと、
僕は思っています。


お金という機能の、何が善で、何が悪なのか。


質の違いを定義し、
選択しなければ、
いつまで経っても量を追うばかりです。


叡智が試されています。



僕は悲観していません。

お金を生み出したのが人間であるなら、
お金も必ず”人間の理”として機能するよう統合できるはずですから。


それが僕の信念です。


人間の真実は、

お金があるから自由になるのではありません。

自由であるから豊かになる。


お金があるから幸福になるのではありません。

幸福であるから豊かになる。



現実は違いますか?

現実も長期ではそうなっていると、僕は信じて疑いませんが、

もし違うというなら、

そういう仕組みにすればいいのではないでしょうか。


お金とは、

人間の真実に従って、

そういう枠組みとして創造し直せばいい。


かつて西欧で、
国家なる幻想の正当性に立ち向かった、
民主主義の叡智の起こりと同じように。


次世代のビジョンについては、このブログで整理していきます。



『ネバー・エンディング・ストーリー』『モモ』などの代表作で知られる
ドイツの童話作家、ミヒャエルエンデは言いました。

お金の問題が解決されなければ、
われわれの文化に関するすべての問題は解決されないだろう