お金の本質は肩たたき券
と、僕は考えています。
他の誰かもきっと同じことを考えてるだろうと、
「お金 本質 肩たたき券」とグーグル検索したところ、
ほぼ日刊イトイ新聞の記事が出てきました。
第19回 潜在能力への信頼が、お金の本質
糸井 | ポテンシャルこそが ものごとの価値のすべてなんだ、 ということにぼくが気づいたのは 赤城山の埋蔵金を調べた時なんですよ。 徳川埋蔵金を掘っていてわかったのは、 江戸幕府がフランスから借金をしたのですが、 フランス側からして見れば、 徳川埋蔵金があろうがなかろうが 日本にお金を必ず貸すという事実がありました。 フランスの銀行に取材をしたら、 当時、現地に金を貸すグループがあって 日本にお金を投資しまくっていたんですよ。 「あれだけの小さな島国で、 あれだけの多くの働き者がいれば、 密集していて人数的にも工場としても いくらでもものを生産できるだろうし、 人数としても市場として成り立たせられる」 ・・・だから、やっぱり、埋蔵金がなくても、 フランスがお金を貸したんだろうなあ。 それに気づいたら、経済の仕組みを ぜんぶわかったような気がしたんです。 |
末永 | それがお金というものの本質です。 例えば南太平洋のヤップ島では、 石がお金ですけど・・・そこの石貨は、 石が大きければ大きいほど価値があります。 みんな、お金を、どこかほかの島から 掘り出してくるらしいんです。 で、ヤップ島いちばんのお金持ちは、 その人の先祖が、ある島からものすごい 大きな石を掘り出してきたからですが、 でも、その祖先は、大きな石を、船で 運んでいる途中に沈没しちゃったんですよね。 でも、その子孫たちは、やっぱり、 村一番のお金持ちでありつづけるそうです。 |
糸井 | いいなあ、その話。 |
末永 | 引き上げられる可能性はゼロなのに、 その沈んだ石が、この世にあるものとして 子孫たちの財産として、通用してしまう。 |
糸井 | ヤップ島のお金って、 あんまりでかいから交換しないよね? |
末永 | ええ。金は動かない。もともと、 不動産はそういう仕組みですから。 |
糸井 | なるほどね。 バブルの時にも、そういう仕組みを ちゃんと説明してもっていれば、 みんなが、不動産についても もっといろいろとわかったはずのに、 なんか絶対価値のように誤解しちゃうよね。 |
末永 | そう。 ヤップ島の話は、みんな笑うんだけど、 でもぼくたちは金(きん)を使って おんなじことをやってたんですよね。 |
松本 | (笑) |
末永 | 一生懸命掘り出した金(きん)を 中央銀行の金庫に入れて、 これと交換できるのが通貨だとしただけで。 |
糸井 | ニクソンが、 「もう、金(きん)に変えなくていいのな!」 と言ったあとに、それがもっと本質的になって。 |
末永 | 東洋では早くから紙のお金がありましたが、 ただの紙切れが正統なお金になったというのは、 西欧の歴史では、1971年の金・ドル交換停止が、 はじめてのことなんです。 それまでは、ただの紙切れというのは 戦争なんかで困った時に政府が出すもので、 その後、ものすごいインフレで 紙くずになってしまうようなものだった。 でも、1971年までだって、やっぱり ほんとうに価値があったのは約束だったんですよね。 石なり金属なりが、約束の裏付けだっただけです。 お金って「約束だけ」なんですよ。 持っている人が、他の人に 何かをさせることができるという。 |
糸井 | 「肩たたき券」ですよね。 |
松本 | そうそう(笑)。 |
~以下略~
糸井さんの考察は素晴らしい。
埋蔵金があろうがなかろうが、
フランスは日本にお金を貸しただろう。
なぜか。
それは、
日本が働く人間が沢山いる良質な共同体だったから。
お金の価値を支えるのは、
ゴールドの保有高ではなく、
人間と人間が緊密に生産し合う関係性のポテンシャルだった。
当時のフランスはお金(金融)の本質を理解していたのだ。
そのご指摘、
全くその通りだと僕も思います。
お金は肩たたき券です。
あなたの財布の中にあるお金の価値は、
お金を流す人に報いようとする人々の心が支えています。
お金という観念へ抱いている人の心。
それがお金の実態です。
だからお金を集めることで富を蓄積できるというのは、
半分は事実ですが、半分は幻想です。
肩たたき券の枚数を集めていって、
それが富の大きさとして保全できるのは、
「肩をたたきますよ」と約束する人々が、
実際に肩をたたく意思と能力を持ち続ける限りです。
お金の価値は、
お金の流れに報いようと思う人々の関係性の連なりが、
担保しているんです。
すると、
「生産年齢人口の割合と増加こそが、
ある単位の社会経済発展の最大要因になる」
ということがもっとすっきり理解できるはずです。
近年の中国、インド、ブラジル、インドネシアの成功と、
かつての米国、日本、ドイツの高度成長も背景は同じ。
資本主義に限らず一つの国家経済が上手くいく黄金パターンとは、
生産年齢人口が増加し続けること。
なぜならその間に限り、
「お金のために働く > お金のために働いてもらう」
がシンプルに成立するからです。
事業の質や、持続可能かどうか、共同体内で循環するか否か、
というような、
お金の流れ方の質を問わずして、
皆が獲得した量だけを気にして管理してさえいれば、
豊かさは担保され続けた、とざっくりと言える状態です。
肩をたたくぞ、と血気あふれる若者がどんどん増えていくほど、
肩をたたき合う関係性が拡大します。
それが経済成長です。
そのようにしてお金の価値は、
誰かに貢献する私が、
私に貢献してくれる誰かと、
互いの存在を分かち合って生じているんです。
共同体の個としての私と、
共同体の個としての誰か。
その関係性の連続がお金の正体です。
もっと本質に迫ります。
肩たたき券をパパにプレゼントした後、
パパが肩たたき券を無くしてしまいました。
しかし、
娘は「しょうがないなー」って笑って許し、肩をたたいてあげました。
肩たたき券には、GOLD等の裏付けは必要ありません。
娘にはパパの肩をたたいてあげたいという思いやりがある。
心が券の実態として機能します。
娘とパパが喧嘩しました。
口も聞いてくれない状況でしたが、
パパは肩が凝ったので肩たたき券を使おうとしました。
しかし娘は
「は?自分で揉めよ」と言い捨て、壁をたたいて怒りました。
実際こんなお馬鹿なパパはいませんが笑
僕が言いたいことは、
人と人の関係性の価値が維持されて、
はじめて券はその価値を維持することができる。
約束を発揮することができる。
つまり
券の創造も、使用も、履行も、
人と人の関係性の真価が、表面に現れた現象だということです。
それはすなわち、
人間関係の質が維持できていないのであれば、
お金は量や数値がいくら増えようと、いくら大量に投下しようと、
既に価値は死んでいて、使えなくなっているも同然だ、ということを意味します。
お金の量がモチベーションになるというのは嘘です。
人間はそんな存在になれません。
仕事そのものを通じて偽りのない自分を皆と分かち合う
そのような誇り高い喜びを犠牲にしてまで、
必要以上のお金を追うことはできません。
コントロールの利便性と優越の快感に酔うことは、
人間的成長の未熟な間だけのことであり、
そのような生き方では自尊心を持てず、真の幸福は得られません。
もしパパが肩たたき券を、
野口英世の描かれた日本銀行券に変えて、
喧嘩中の娘に手渡して、肩を叩いてもらおうとします。
娘は果たして、
「1000円札くれるならいいよ」と肩をたたいてくれるでしょうか。
「ふざけんな。そんなつもりであげたわけじゃない!」って
悲しみ傷つきながら、怒るのではないでしょうか。
もし、1000円札を受け取るならば、
パパと娘の関係は大切な何かを失うでしょう。
労働者による顧客への肩たたきサービスに成り下がり、
思いやりから肩をたたくことはありません。
それは利益提供であり、
お金という共同体内で通用する権利の獲得を目的として、
義務を履行するという行為であり、
一過性の取引関係が顕れた現象に過ぎなくなります。
この場合のパパは手段であって目的ではないし、
娘にとって肩たたきは、
自分とパパの関係性を分かち合う喜びの行為ではなくなります。
別に券なんてなくても、
いつも家族を大切に思い、自分たちの為に頑張ってくれるパパが疲れていたら、
今日はねぎらってあげたいなと思い立って、
「肩もんであげるよ」と自然に言葉が出てくることもある。
肩たたき券は、
娘としてパパの存在を喜び、その関係性の価値が現れただけなんです。
肩たたき券 >>>> 1000円
娘とパパという愛の関係性 >>>> 利害取引の関係性
もっと言うと、
愛 > 共同体の信頼関係 > 権利と義務の利害関係 > 支配と服従の隷属関係
これが人間の本性から見たお金の本質の違いではないでしょうか。
人間関係の質を維持・向上しないかぎり、お金は価値を維持・向上できないし、
人間関係が破綻すれば、お金も存続不能です。
お金という機能の根源は、人間関係の喜びが創造しているからです。
資本主義社会は、
このお金の真実を取り戻さなくては存続不能ではないかと思います。
私たちは、
生産年齢人口が減少して、始めて経済の本質に直面しています。
経済的豊かさが、人の心と共同体のあり方に向き合わずしては維持できない現実に。
お金が肩たたき券と同じだからです。
日本の生産年齢人口が減少しても、その価値を維持できたように見えたのは、
第一に、
思いやりの関係の質を、権利・義務の関係への量に変換したから。
第二に、
国際金融を活かし、中国を筆頭に低賃金国家の人々をピラミッドの下に組み込んだから。
決して、人間関係の質を維持・向上したからではありません。
強者である日本経済は、
人口の多い発展途上社会に、
お金による自由への夢を見せ、自由への争いに駆り立て、
国家主義経済よりは遥かにマシな
資本主義経済を歓迎するエリート層の後押しを得て、
パワーとして富の実態を維持していたに過ぎません。
権利・義務という一過性の取引関係を拡大することによって、
巡らないお金の割合はますます増え続けていきます。
余剰マネーは富の増殖と保全を求め、一過性のバブルと金融危機を起こすが、
金融緩和という対症療法によって量的な辻褄が繕われ、
循環しないマネーによる人間関係の質の低下という問題は先送りにされる。
危機の度に余剰マネーの総量は増加し、
相変わらず延々と数値の増殖を機械的に追い求めている。
この流れに人間の理性は働いていないように見えます。
利息を追い続けるプログラムのみが機能している、
といっても過言ではない気がします。
そのプログラムが、数十年ものあいだ世界で通用していたのは、
人口爆発を背景にした生産年齢人口の増加期間だったから
に過ぎないのではないでしょうか。
それが終焉した日本は、今後の世界に先駆けて、
お金の流れ方の質を真摯に問い、お金のあり方を定める
という叡智が試されていると僕は思うのです。
これまでもこれからも、
富の価値とは人間関係の価値であったのですが、
この真実を捻じ曲げていた世界観は、
限界に達し始めているということなのだと思います。
日本も米国も、
戦後資本主義の初期から中期にかけて生み出されていた生産性は、
競争の合理性などではなく、
分かち合いの合理性だったのでしょう。
資本主義の真価は、
お金の量でコントロールするという主義ではなく、
お金の流れを共有するという主義だったのではないでしょうか。
今も昔も
お金の真実は、
分かち合う人間関係の喜びに裏付けられた、
共同体への信頼が、
お金の価値として生じているのではないでしょうか。
お金の理解が深まれば深まるほど、
お金とは極めて人間を顕す現象なのだと感じます。
お金の生産性が依って立つのは、
「物々交換を効率化する」などという、利害取引の世界観ではありません。
それは嘘です。
「互いの存在を分かち合う」という愛の世界観です。
真の金融は、虚業ではありません。
真の資本主義は、所有の取引ゲームではありません。
人間関係の喜びと共同体の生産性を創造するという、最も人間的な営みです。
以上が、
新たな時代を切り開く次世代の金融が必要だと、僕が考える所以です。
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