つい先日もこんなニュースがありました。
人口推計 減少数過去最大に 4月16日 NHKニュースwebより抜粋
総務省が発表した人口推計によりますと、去年10月1日現在の日本の総人口は、1億2751万5000人で、前の年に比べて28万4000人減少し、少子化を反映して減少数、減少率ともに過去最大となりました。
また、65歳以上の「老年人口」は3079万3000人となり、初めて3000万人を超え、0歳から14歳の「年少人口」をすべての都道府県で上回りました。
そもそも、少子化の原因ってなんでしょうか。
理想の子ども数を生まない理由について、国立社会保障・人口問題研究所のアンケート調査によると、ダントツの63%で「子育てと教育にお金がかかりすぎるから」です。
なるほど。確かに妻もそう言っていました。子供はもっと欲しいけど経済的な不安があると。大学卒業まで視野に入れた教育費用を考えると二の足を踏むようです。「子供がやりたいと望むことを、家計が苦しいからさせてあげられないのは嫌だ」と感じる方は多いことでしょう。
で、不思議に思ったんです。
日本は経済的に豊かになったとされています。だとすれば、この理由っておかしくないでしょうか。「お金がかかりすぎる」と口をそろえて言いますが、お金がなくて貧しかった頃の方がずっと子供を産んでいますよね。なぜでしょうか。
戦後における合計特殊出生率と出生数の推移
合計特殊出生率とは、ひとりの女性が一生に生む子供の平均数です。人口を維持する水準は2.1人です。1970年始め頃には2人を下回っています。
日本は経済的に豊かになっていないということでしょうか。いや物質的には遥かに豊かになっている。経済的収入も公的な社会保障も向上しています。年金や医療等の社会保障も1960年前後から発足しています。
では何故「お金がないから子供を産めない」と感じるのでしょうか。すくなとも、子供を生めると思える”豊かさ”は低下し続けているということを意味している気がします。
でも豊かさの本質の議論へいく前に、もう少し現状をありのまま見てみる必要がありますね。
「経済的に豊かだから子供を産める」という認識が、そもそも根本的におかしいと思います。歴史を見ても、世界の現状を見ても、「経済的に貧しいから子供を産んでいた」ケースの方がむしろ一般的ではないでしょうか。
世界の合計特殊出生率 CIA World Factbook's data.
アフリカを中心に貧困地域の方が出生率は高いです。この理由について考えて見ます。
アフリカは今も独裁的な政治、軍事体制の強い地域です。紛争も多い。国家の社会保障なんて民衆は期待できるはずもありません。であるならば、人はどうあろうとするか。
頼れるものは己である。自立して自律することである。
その意識からスタートして、極めて厳しい信頼関係を創っていく。緊密な共同体を創っていく。
一人より二人。二人より三人・・・より確実に、より強く、より深く。自立という状態を高めていくために。日本のように、他者に保障を求めるがごとく依存するためにではありません。個々が己を頼りにするからこその結論です。
貧しさと暴力にあえぐ厳しい環境に置かれた人間は、人間という存在であるという厳しさに向き合うことになります。その結論として、共同体を形成することが理にかなっているからそうする。己を頼るがゆえに共同体を創る。人が人として存在する限り、個の強さと喜びを高める最善は、互いの存在を分かち合う真実の関係性を築くことだと理解しているのではないでしょうか。
だから厳しい環境であるほど、厳しい信頼の輪を創ろうとするのではないでしょうか。
その最も象徴的、普遍的かつ合理的なアプローチが、家族をつくることです。
それは生命が生命として、自立して自律するための営みです。逆にいうと、自律しなくなった人は、「信頼」を己で見極める意思と能力に乏しく、共同体であることの本来の意義を忘れます。共同体による保障とお金があって、初めて安心できる。そのような人は、子供はお金という条件が約束されて存在可能である、という世界観を持っています。なぜなら自分という存在の安定がお金の条件下にあるから。
己を頼むとは、お金や国家よりも、自分で築いた人間関係で助け合うことを自立の根拠として生きることです。お金や国家とは、見極められる信頼の及ばない無数の人々が支える観念であり、これを自立の基盤とするとは自分以外に依存するということです。日本が戦争に負け、内外の国家権力の暴走と欺瞞の記憶も新しい中で、新しく共同体を再生しなければならない頃、頼れるのは自分という所からスタートしました。だから昔の方が家族をつくった。
厳しい環境ほど自立していないものは破綻する、という摂理が機能するのですが、日本を含め資本主義各国は、これが一定期間機能しなかったために認識が倒錯してしまったのではないでしょうか。
家族という共同体を創ることの意味を変えたのが、預金、社会保障制度、年金保険、国債という経済現象であり、つまり資本主義の金融システムです。
経済学では、子供という存在を三つの機能に分けます。
1. 生産財 ・・・ 働いて、親を助けてくれる。
2. 社会保障財・・・ 年老いた親の面倒を見てくれる。
3. 消費財 ・・・ 親に喜びを与えてくれる。
冗談ではありません。厚生白書にも載っています。
家族における子どもの機能は,経済学的には「生産財」から「消費財」へと比重を移してきたといわれる。
農業を中心とする自営業社会では,子どもはまず家業を分担し,そして継承するとともに,最後は老親を扶養することが期待される存在-つまり「生産財」だった。ところが,サラリーマン中心の社会になって,家業の分担・継承という必要性がなくなるとともに,社会保障制度の充実により,老後扶養についての子どもに対する期待感は薄れていった。
子どもの価値としては,「家庭が明るくなる」と考える者が8割以上,「子どもを育てることは楽しい」と考える者が4割以上と高い割合であるのに対し,「老後のたより」と考える者は1割台,「家業・家名・財産をついでくれる」と考える者は1割にも満たない。いまや,子どもは親に喜びや楽しみを与える存在-「消費財」としての存在意義が強くなっている。
厚生白書(平成10年)
人間関係の質の維持と創造の営みによって、その関係性の価値が助け合う現象を生み出していた。それを社会保障が代表する国家権力と資本市場が介入することで、権利と義務の関係に置き換えていったわけですね。
自らを信じる心を起点にした真実の人間関係。その価値が、お金の流れが介入したことで権利と義務の関係になり、権利義務の付加された役割が大量生産され、役割同士の利害に期待と不安を抱く。そうして人々は、己を信じる精神と、人間を見極めて信頼を創りだす意思と力を失っていく。そのように思えます。
この辺りは極めて重要で、「お金がないから子供を産めない」というのはまったくもって客観的な事実ではないにも関わらず、実感する理由としては圧倒的に一番です。大半の人が、その主張にリアリティを持っているんです。この矛盾には、人間とお金の真実を解くカギがあると感じます。、
人がいるからお金は存在します。
お金がなくても、人間関係があれば財の流通は可能です。
「お金」という観念は、人間という存在が現象として生じさせている。
それは間違いありません。おそらく、子供を産むのにお金が必要だという認識そのものが根本的に間違っているのではないでしょうか。お金がないからではなく、人格と向き合って人間関係の質の維持することなく、お金の量の流れに依存しているから産めなくなるのではないでしょうか。
もちろん「産まない」という選択なら問題はありません。しかし「産みたいのに産めない」と考えていて、それがごく少数ではなく6割を超える水準。しかも、お金がない戦前戦後や、日本よりお金のあろうはずもないアフリカ国家の民の方がずっと多く産んでいる事実。にも関わらず「理由はお金がないから」と認識しているんです。
要は自立して自律する精神を起点として、人と向き合うこともせず、自分を中心に生きていないということです。私たちは、共同体もお金も、その機能を選択するのも創り出すのも、すべて自分自身であるという自覚を持てていないのです。
この話は、「赤字国債という経済現象が人間という存在にとってどのような意味を持つのか」という問いに密接であり、こちらの観点からも書くことになります。
まとめると、子供が産みたいのに産めないという問題は、お金がないことではなく、お金に依存するから起きている。
物質的豊かさと自立には関係がない。金銭的に豊かになっても、自立する生き方をしていなければ子供を産もうとは思えない。
ただし少子化という現象と、少子化を問題だと認識することは別です。経済的豊かさ(権利)を維持できないという理由で、義務を担う人口が減っていく少子化を問題だと認識するのは、「お金に依存する心」であり、それこそが問題です。政治家は、個人の依存心を代弁しているに過ぎないのだと思います。権利を手放して、真実が機能する経済へ舵を切るならば、少子化は全く問題ではないという立場があっていいと思います。
しかし少子化という現象そのものの最も本質的要因は、家族をつくらなくても共同体として機能する可能性が大幅に増大したことだと思います。
これはメディアの発展と密接です。
人格に担保された偽りなき言葉が、人格を媒体にして精査・流通・蓄積されていく。そうした機能の発達が、共同体を高い次元にシフトさせてきた気がします。
資本主義システム(お金)とインターネット(情報)は強力です。
ますます自分が自立することに関して、家族という形態にこだわる理由はなくなりました。家族という共同体は、創造する楽しみが第一の理由となりました。
自分という個と全体がダイレクトに繋がってきたからです。
自分のあり方を表現して響かせれば、それと共鳴する人物と物事を引き寄せる時代。私は既に私らしい共同体の一員である、という前提で生きれば社会がそのように機能してくれる。自分に閉鎖性がなく誠実であれば、全体は共同体として機能してくれるということです。
これこそが本質的な理由ではないでしょうか。
そして新しい時代の性質なのだと思います。
今回は触れませんでしたが、減る理由とともに、これまで増え続けた理由も洞察しなければなりません。そもそも人口爆発はなぜ起きたのか。現象には必ず理があるので解き明かして記したい。
人間という存在の一体何が、お金という現象に現れているのか。今後も経済と人間の理を探る問いについて考えていこうと思います。
厚生白書(平成10年)
人間関係の質の維持と創造の営みによって、その関係性の価値が助け合う現象を生み出していた。それを社会保障が代表する国家権力と資本市場が介入することで、権利と義務の関係に置き換えていったわけですね。
自らを信じる心を起点にした真実の人間関係。その価値が、お金の流れが介入したことで権利と義務の関係になり、権利義務の付加された役割が大量生産され、役割同士の利害に期待と不安を抱く。そうして人々は、己を信じる精神と、人間を見極めて信頼を創りだす意思と力を失っていく。そのように思えます。
この辺りは極めて重要で、「お金がないから子供を産めない」というのはまったくもって客観的な事実ではないにも関わらず、実感する理由としては圧倒的に一番です。大半の人が、その主張にリアリティを持っているんです。この矛盾には、人間とお金の真実を解くカギがあると感じます。、
人がいるからお金は存在します。
お金がなくても、人間関係があれば財の流通は可能です。
「お金」という観念は、人間という存在が現象として生じさせている。
それは間違いありません。おそらく、子供を産むのにお金が必要だという認識そのものが根本的に間違っているのではないでしょうか。お金がないからではなく、人格と向き合って人間関係の質の維持することなく、お金の量の流れに依存しているから産めなくなるのではないでしょうか。
もちろん「産まない」という選択なら問題はありません。しかし「産みたいのに産めない」と考えていて、それがごく少数ではなく6割を超える水準。しかも、お金がない戦前戦後や、日本よりお金のあろうはずもないアフリカ国家の民の方がずっと多く産んでいる事実。にも関わらず「理由はお金がないから」と認識しているんです。
要は自立して自律する精神を起点として、人と向き合うこともせず、自分を中心に生きていないということです。私たちは、共同体もお金も、その機能を選択するのも創り出すのも、すべて自分自身であるという自覚を持てていないのです。
この話は、「赤字国債という経済現象が人間という存在にとってどのような意味を持つのか」という問いに密接であり、こちらの観点からも書くことになります。
まとめると、子供が産みたいのに産めないという問題は、お金がないことではなく、お金に依存するから起きている。
物質的豊かさと自立には関係がない。金銭的に豊かになっても、自立する生き方をしていなければ子供を産もうとは思えない。
ただし少子化という現象と、少子化を問題だと認識することは別です。経済的豊かさ(権利)を維持できないという理由で、義務を担う人口が減っていく少子化を問題だと認識するのは、「お金に依存する心」であり、それこそが問題です。政治家は、個人の依存心を代弁しているに過ぎないのだと思います。権利を手放して、真実が機能する経済へ舵を切るならば、少子化は全く問題ではないという立場があっていいと思います。
しかし少子化という現象そのものの最も本質的要因は、家族をつくらなくても共同体として機能する可能性が大幅に増大したことだと思います。
これはメディアの発展と密接です。
人格に担保された偽りなき言葉が、人格を媒体にして精査・流通・蓄積されていく。そうした機能の発達が、共同体を高い次元にシフトさせてきた気がします。
資本主義システム(お金)とインターネット(情報)は強力です。
ますます自分が自立することに関して、家族という形態にこだわる理由はなくなりました。家族という共同体は、創造する楽しみが第一の理由となりました。
自分という個と全体がダイレクトに繋がってきたからです。
自分のあり方を表現して響かせれば、それと共鳴する人物と物事を引き寄せる時代。私は既に私らしい共同体の一員である、という前提で生きれば社会がそのように機能してくれる。自分に閉鎖性がなく誠実であれば、全体は共同体として機能してくれるということです。
これこそが本質的な理由ではないでしょうか。
そして新しい時代の性質なのだと思います。
今回は触れませんでしたが、減る理由とともに、これまで増え続けた理由も洞察しなければなりません。そもそも人口爆発はなぜ起きたのか。現象には必ず理があるので解き明かして記したい。
人間という存在の一体何が、お金という現象に現れているのか。今後も経済と人間の理を探る問いについて考えていこうと思います。
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