2013年11月16日土曜日

娘へ贈る言葉 

もし今日が人生最後の日だとしたら。

自分の子に言い残したいのはどんな言葉だろうか。

人生を振り返って、娘を想って、
贈りたいメッセージが浮かびました。

――――――――――

29年の人生で、大切だと気付いた三つのことがある。

偽らないこと。
分かち合うこと。
信じること。

でも、考えてみると面白いんだ。
実は1歳半の今のあなたは、既にそれを全力でしている。
お父さんよりも。他のどの大人よりもね。
だから、あなたはそんなに小さくても、ほとんど言葉が話せなくても、
多くの人を幸せにする力がある。
あなたを中心にして、皆が明るく微笑んでいる。
あなたの存在を分かち合うことに、暖かい喜びと生きがいを感じている。
本当に凄い力を持っているんだよ。
いつの時代も、どんな社会も、その三つを全力でする人が愛されるんだ。
今あなたが無心にしていること。
それが愛するということなんだ。
これからもそのままでいい。正直であればいい。

だけど、人として生きるには、もう一つ大切なことを学ばなければならない。

偽らないこと。分かち合うこと。信じること。

自分がそうあるだけでは駄目なんだ。
それが出来ない人を、ゆるして生きるということ。

これから先、あなたは多くの人の人生と出会います。
そのなかで、人の弱さと自分の弱さを知る。
その弱さを、裁き責める心に憑かれてはいけない。
覚えていて欲しい。
問題も答えも、自分の心の中にあるということ。
そして自分自身の不安を取り除くのは、
目の前の人間関係と社会全体に、真っ向から向き合うことでしかありえないということ。

人は、自分と向き合うほどに強くなる。
他者と向き合うほどに優しくなる。
現実に向き合うほどに賢くなる。
願わくば、あなたには強く優しく賢くあってほしい。
そうであるほど、人をゆるすことができるから。

偽らないこと。分かち合うこと。信じること。

大人になっても純粋に人を愛したいと願うのなら、
ゆるす意志をもって行動する人生を選択することになる。

人は、ゆるすほどに自分を気高く解放することができる。
その自由な喜びの中で、思うままに、人生を愉しんでほしい。
それが父としての願いです。

何があっても大丈夫だから。
心配しなくていい。

生まれてきてくれたあなたに感謝しています。
人生で一番の幸せを今感じられているのは、あなたの存在のおかげです。

PS:
命日に墓参りも線香も要らないから、
ブログを読んでちょっと思い出してくれると嬉しいよ。
千明公司 あなたの父として 

――――――――――

2013年11月13日水曜日

自分を信じて歩んだ道の果て

それぞれの生きる道は天によって完璧に決められていて

それでいて完全に自由だ

根っこのところを天に預けている限りは― バガボンド 沢庵 (井上雄彦)



バガボンド36巻が出ましたね。


最高です、ほんと。
井上さんの人間への哲学的洞察力とその表現力には脱帽です。この巻では以前ブログに書いた、武蔵が自我を手放すシーンが描かれています。
自我を手放すこと

バガボンドという物語における最重要シーンです。ご覧になったことの無い方はぜひ読んでみてほしい。


武蔵は孤高に強さを求め、命がけで天下無双の道を歩んできました。その果てに京最強の吉岡清十郎を破り、さらに吉岡道場一門70名を迎え討って切り殺した。名実ともに最強の名を手にしたにも関わらず、喜べぬ自分がいる。殺してしまった者たちが頭によぎっては、自分のあり方と生き方に迷いが生じる。そして剣も迷い、堅く鈍っていく。


冒頭の文句は、そんな武蔵に再会した沢庵が伝えた言葉です。

――――――

(・・・腹に呑み込んだ鉛。鉛のような重さを抱えて生きる。

今も―
闘いは続いているということ。

あいつら(武蔵が殺した者たち)は赦され、俺にとってだけ続いている・・・)


「勝ったのはどっちだ?」


沢庵「勝った者はいない。そうじゃないかね?」


「わからねぇ」


沢庵「お前の芯はわかっている。その重さが何よりの証」

――――――――――――――――

沢庵は武蔵の心を見抜いて語ります。

沢庵はストーリー序盤から武蔵の精神的成長を導いています。幼馴染のおつう以外で、武蔵を怖れずに向き合おうとする唯一の人物です。その沢庵がこの時、悟りを開いたときに得た言葉を武蔵に伝えました。なぜか。


「苦しみを知る今のお前には伝わると思ったんだ・・・武蔵」


自分を信じて、辿り着いた道の果て。
人はきっと、願望が実現した先に、本当の自分と向き合うことになる。
成りたいものに成った時。得たいものを得た時。あるいは、捨てたいものを捨てた時。願いがかなった先に、はじめて自分の真実が問われる。問わずにはいられなくなる。

満たされぬ自分がいる。誰も理解できぬ、鉛のような重さを孤独に抱える。
それは、何かが間違っていたのだという、芯の部分からのサインです。

沢庵の言葉の真意を得たのが、36巻の最後に描かれている「水ぬるむ頃」です。

飢饉の村を思い、田の土に祈った武蔵。
収穫期まで乗り越えられぬ飢えの現実と、衰弱する伊織を目の当たりにし、
自分が揺さぶられる。


どうありたいのだ

強く―

俺がおれらしく―

・・・手足がなくても、それは残るはず

俺は

何だ?


自問が極まったその時、思い出した言葉。

(優しいんだよ、あんたは)



「手足がなくても」のくだり。つまりそれは、最強である自分が子供にも劣る最弱な人間になったとしても、おれはおれだと武蔵は受け入れることができるということ。自尊心を守らねばいられない実存的怖れを超えたということ。

強さに執着するエゴが外れ、人を救いたいという素直な一心で、役人に頭を下げて助けを乞うた。

これまでの武蔵では考えられなかった行動です。そのように至るまでの人間の成長と変化が、15年の連載を通じて描かれたのだと思うと感嘆します。


人間を描くということ。

自分を信じて歩んだ道の果てに、独り自問して辿り着くのは、愛であるということ。

バガボンドで、アーティストとして、
井上さんが最も伝えたかったテーマが、ここに結実してある。

天によって定められた人の道は、愛すること。

そう思いました。

井上さん、ありがとう。

2013年11月8日金曜日

問題解決の心

私たちの問題は人間がつくったものだ。
だから人間によって解決できる。 ―ジョン・F・ケネディ
Our problems are man‐made, therefore, they can be solved by man. 
――――――――――


外側の問題を自分の内側の問題として受容し、自己欺瞞へ逃げない。
そして赦しながら、問題解決へと進む。


その姿勢をさらに考えました。


私が問題解決にこだわり、それを目的とするのは何故だろう。


自分の心と他者の心に、正直に向き合う為だったんだと気付きました。
心を感じあって、応じあって、純粋に分かち合う喜びのため。

そのように生きるなら、結果として問題は、問題を現実たらしめている私たちの意識のあり方が変わることで消えます。 各々が純粋に心と向き合う中で、心と心を分かち合う喜びと自由を確信する。人であるゆえの信頼と叡智が集合的に発揮されていく。

問題を現実へと象っていた、閉鎖的に抱え込まれていた世界観と信念は、
開き、和して同せず通じあい、一体となって機能しはじめ、自ずと変わっていく。
問題は必然に消えます。

問題解決の為に、問題に対する相手の意識を変えようとする必要はありません。決して認識の正当性を争うのではない。それは自分の怖れを動機にしているに過ぎません。

自分の願いをオープンに開き、もっと全体の流れの理と自分の根源を信頼して、
傷つき騙される覚悟をもって、
相手の懐に愛を携えて踏み込んでいく。全体の流れに身を投じていく。

私たちはもっと、信じる理性と、込み上げる情熱を、純粋に生きるべきなんだと思う。

問題とは「観念」であり「解釈」です。つまり自分の観念と自分の解釈、あるいは自分の解釈と他者の解釈、その思いこんでいる思考と思考同士の矛盾のことです。その矛盾に、不信ゆえの怖れと現実への不満を詰め込んでしまう。すると矛盾は、相いれない解釈と不安を巻き込み続け、感情的に連鎖拡大していく。

向き合うべきは、観念の対立や摩擦ではない。その源泉である、あるがままの、いまの意識であり、いま感じている自分と相手の心ではないでしょうか。

あらゆる問題は在るのではない。在らしめているに過ぎない。
いま、私たちの心が生じさせ続けています。

問題解決とは、観念で観念に打ち勝つものではなく、
純粋に、心で心に向き合った先に在るもの。
いま在る心を、分かち合った先に訪れるもの。

意図を超えた信頼によって、意図しつつも、決して執着しない精神。

そのような心で、相手の心と向き合おうと臨むのであれば、
解決できない問題など存在しないと思います。


人と向き合いたいなら、問題の解決へと自ら進むことであり、
問題を解決したいなら、自ら人の心と向き合うことが、理に適っている。

人の人生は、運命は、
そのように出来ているのでしょうね。素敵なことに。

2013年11月2日土曜日

証券会社を辞めた理由

「証券会社 志望動機」と検索して、このブログに来られる方が結構います。

証券会社を志望した理由

就活中の大学生なのかもしれませんね。
面接で志望動機は必ず聞かれますから、参考になる文章を探していたのでしょう。

続きを書いてみます。

そこで何を思い、なぜ辞めたのか。


以下は、当時から今に至るまでを振り返って語った私のツイートです。

証券営業をしていた頃。支店で一番出来る先輩に聞いた。「自分が本当に良いと思えない金融商品を、どうやって勧められるのですか?それとも、上司の意向とズレがあっても自分が素晴らしいと信じられるものだけにこだわっているのですか?」・・・答え。「良いと信じ込むんだよ」

その人は責任感が強く、家族思いで、後輩思いで、尊敬できる優しい先輩だったから、悲しくなった。自分の仕事にプライドを持つとは、プロとは、そういうことなのか。そうじゃないんじゃないか。俺が甘いだけなのか。社会に、会社に尽くすとはそういうことなのか。そう悩んだ時期もあった。

セールスで結果を残せない奴が何を言えるのか?その先輩ですら、そうやって歯を食いしばってやっているのに。そう思って、セールス技術とマインドを磨くためにセミナーに行ったり、本やDVDを買ったこともあった。

金融の本質、経営の王道、社会の健全なビジョン、自分のありたい姿・・・それらも追求し続けていた。プロとしてセールス力を向上させることと、自分の心からの願いの追求。そのギャップは乖離していくばかり。

バフェットの言葉がたまに突っ込んでくる。 「やる価値のないことを、いくら上手くやっても価値はないのだ」 先輩のようには無理だ。先輩のやり方ではまるで情熱を持てない。思い込めるか!結局、迷いの果てに自分に正直になる方向しかないという確信を深めた。心の赴くまま、手さぐりで本質を追求。

魂を揺さぶられるほど本物を感じた人に会いに行った。話を聞くために沖縄まで。本も読んだ。二宮金次郎、リカルドセムラー、神との対話、物理学など。地域の経済人が集まる倫理法人会、ロータリークラブに支援された青年組織のローターアクトクラブに入った。多くの知識・人に出会って見識を磨いた。

経済を、地域社会を、人の心が象っているというリアリティが深まる。知識主導で、政治経済学部で習った社会学の世界観も、金融の専門書と現場で覚えた資本主義経済の世界観も、偏った観念的な見方だった。怖れることはない。心を持った人間同士の社会。ビジネスを戦略ゲーム的に語る愚かさに気付いた。

そんな中で思うような結果は出なかったが、スタンスに迷いが消えていたので精神的には健全で前向きだった。現場から疎まれたのか、人事に評価されたのかは分からないが、本社に異動が決まる。本社の人達は実力を買われた中途採用が多いし、新卒入社組は特に期待されたエリート。

プロフェッショナル意識と自負が強い。話を聞いていても、メールを読んでいても、実にスマートだ。機関投資家の為替・金利・オプション取引、取引所とのやり取り。分からないことは多い。本社を知り、ここで専門性を身につけ、英語を学んで海外に行くのも面白い。そう思ったこともあった。

結局数カ月でやめることになる。どうしても目の前の業務に情熱が持てなかったのだ。持とうとするほど、金融の本質を学ぶことの方への衝動に駆られた。葛藤は異動前よりも深刻になった。本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。

そして自然栽培農産物の流通卸、宅配、販売、レストラン事業の会社に転職して今に至る。振り返ってみて思う。迷いも出会いも絶望も、全てが必然であったということだ。怖れを手放して自分に正直に生きることによって、それらのドットは繋がっていき、精神が再生される。人生のビジョンが見え始める。

そしてそれは生まれ変わったような、もともとそうであった自分に還ったという感覚。いろんな観念、意味づけが剥がれ落ちて、意識が明晰になった。曇りなく物事を観ることができるようになったのが分かる。自分の弱さ(観念との同化)と向き合い続けて、丁度1年を過ぎた辺りからだろう。

自分に起こった現象を知るために、心理学や悟りやスピリチュアルについても一通り学んだ。そうして人間という存在に対する理解も深まった。人生の決算となる今年。20代最後。これまでの全てに感謝し、どんどん手放していこうと、分かち合っていこうと思う。

(Twitter 2013/9/7より)

これを読んで、どのように感じるかは読み手の自由です。
しかし誤解のないように補足します。


まず、これは私個人が経験した事実と解釈でしかないということ。
決してそれ以上ではありません。証券営業の仕事は嘘が必要である、という話では全くないし、金融とは誰かに嘘をつかねばならない職業だ、と主張したいわけでもありません。

ただ千明という個人にとっては、既存の金融の世界観を前提する限り、自分の信念に嘘をつかねば成り立たない仕事であるという結論に至った、という事実を伝えているだけです。その経験を、ブログを通じて率直に分かち合うことを意図しているに過ぎません。既存の金融とは何か?という認識が違えば、あるいは、人それぞれの抱いている信念が異なれば、まったく成り立つことのない事実と解釈です。あくまで私という人間の主観的なリアリティありきで語っています。



次に、感謝しているということ。
辞める前も、辞めた後もですが、携わった仕事にも、組織とその人間関係にも、金融業界にも、恨みつらみは一切ありません。

神戸支店。金沢支店。そしてデリバティブ業務室。そこで出会った人達は皆、責任感をもって仕事に取り組んでいる方ばかりでした。確かに私は、既存の金融は大いに問題であると思いますが、何もそこに悪人がいるわけでも、悪い心が蔓延っているわけでもありません。それぞれが与えられた立場と関係性に精いっぱいに適応し、各々の価値観に照らし合わせ、自分の幸せと社会貢献を両立させようと頑張っています。それはどこの職場でも同じ光景であり、その当たり前の事実を十分に理解した上で私は金融について言及しています。

最終的に、信じる世界観が私と違っていた。それだけです。
非難すべきことなど一つもありません。

だから、縁あってお世話になり、育ててくれたみずほ証券には感謝しています。入って良かったと心から思いますし、ここだからこそ、自分の本当にやりたいことをやらせてもらえたのだと思っています。

それは、ずっと小さい頃から、無意識に自分が求めてやまなかったことです。

自分の頭と心で、
この生きる世界を、人間社会の真実を、腑に落とすこと。


さらにもう一つ。新たな時代の金融が見えたということ。

私は金融が嫌いになったわけではありません。本当に幸福に合理的な、そして持続可能な、人間の真実に基づいた金融とは何だろうか。その答えを見出せただけです。

そのビジョンの一つが、江戸後期に600以上の農村に経済再生のために施した、二宮金次郎の報徳金です。さらに、現代社会において即実践可能であり汎用性を持っているのが、樋口耕太郎さんが試みた次世代援農プロジェクトです。

しかしこの真髄は、
人間関係の向き合い方であり、事業のあり方であり、共同体のあり方であり、
それを総合する個人の生き方そのものでした。

まずもって既存の金融が強いる資本の論理では実現不可能な合理性です。

これを確信したとき、あゆむべき道が途絶えました。絶望と同時に、依存心を断ち切って、自らの足で立ちあがったら、新たな道のスタートラインに立っていました。

次の社会を築く道を歩もう。
その決意によって、一つのロールモデルが消えました。

最大の資本家。最も偉大な投資家。
資本主義経済の王道を偽らずに貫いたオハマの賢人、ウォーレン・バフェットです。

私は証券営業・資産運用コンサルティングにおいて、企業価値と経営する人物を重んじるバフェットの投資哲学を最も参考にしていました。とにかく分かりやすく、その投資の本質と心と社会的意義を伝えたいと望んだ。お客さんには投機ではなく、投資の王道を以て、利益をあげて欲しかった。バフェットの投資こそが、資本主義が機能する正当な根拠であるように考えていました。

だからこだわった。仕事のプライドはそこにあった。
大切な資産を預かって、公共性と社会貢献を謳いながら、運用のプロとしての対価を手数料として貰うのであれば・・・自分自身でバリュエーション(企業価値評価)が出来なきゃ駄目だろう。胸を張って証券マンであるために、専門的な分析が出来るようになるための合宿セミナーを受けにも行きました。30万近いお金を払って。バフェットを敬愛している板倉雄一郎さんという方が主催していたものです。彼のブログと書籍は大学生の頃から読んでいました。

金融業界において志を高く抱いてる人なら、バフェットの投資哲学にこだわり続けた私の想いは伝わるかもしれませんね。

しかし、それほどの思いもさっぱり消えた。

向き合うべき問題は外にはなかった。
いかに理想の証券金融のあり方に貢献するかではない。


自分は人間としてどうありたいのか。
人間社会とどう向き合いたいのか。
偽らずに今を生きているのか。
自分は何者であろうとしているのか。

自分の何を信じるのか。
世界の何を信じるのか。

信じたそれと、どう対峙していくのか。

自分の心と、人の心。
それにどのように向き合うのか。

それは何故か。

愛か。怖れか。


本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。


上司に告げました。

「この会社、そして金融業界において、働く意味を見出せなくなりました」




・・・この人は何を言っているのだろう?と不思議に思われる方もいるかも知れません。

何をそこまで考えすぎているの??
もっと気楽に考えれば?
割り切れないの?不器用なの?


普段は人一倍に気楽ですよ。
しかし、自分のあり方の意味についてだけは、考えることを辞められません。

お金という観念が、人の意識と行動とネットワークに作用することによって、人の尊厳を失わせている膨大な可能性を理解したとき。

人の価値観・世界観にどのように作用しているのかを想像して、肌感覚で、自分のやっていることの真の意味合いを自覚したとき。

必死で掴んでいたものを、逆に、思いっきり手放すしかできませんでした。


もう一度言います。

何度振り返っても、悪い人などいませんでした。日本の資本主義経済を支えるグローバルな大手金融会社。支店も本社も、私が見る限り、一人も責めるべき悪人などいませんでした。社会が健全に機能していないのは、金融を担う人のせいではありません。決して道徳心や公共心がないのではありません。金融業を含めた共同体のメンバーの大半の人が、それらを制限する観念に望んで同化するせいです。

不安と不信感から、消費者・労働者・資本家・経営者・国民として、割り切って自分に嘘をついて振舞うこと。それらの立場に押し込めるように、他者に嘘をつかせてしまうこと。そのような私たち一人ひとりの矛盾した意識の集積が問題となって顕れるのではないでしょうか。金融がもたらす現実とは、私たちのお金への信念と行動が、過不足なく表現された結果に過ぎません。


地獄への道は善意で敷き詰められている。


その言葉を幾度と思います。

たとえ善意であろうとも、自身の怖れを動機にしている意識と行動のあり方であるのなら、社会は地獄へと望んで向かっていくということです。

それが家族愛でも、愛社精神でも、愛国心でも、規模に関係なく同じ。
怖れと不信の善意が、善意を道連れていく。

だからまず、自分の怖れを取り除くこと。
そうして自立した上で、他者の怖れを取り除くこと。

怖れではなく、愛を動機とする個の意識と行動。
それが重心にあって、初めて、本物の金融がある。
本物の企業経営がある。本物の政治経済の共同体がある。

そのような真実を心で理解したから、もう続けることが出来なくなりました。

いや続け方が変わったのです。次世代のそれへと。

だから私は証券会社を辞めました。


***


今、証券会社を志望している方。
今、そこで働いている方。

私はまったく否定しません。

自分の信念に、誇らしく真っすぐに突き進んでほしいと願っています。
ただその善意と行動の起点が、怖れではなく、信頼であり続けてほしいと思います。

2013年10月27日日曜日

世界の変え方は自分の生き方

信念を変えられれば、行動は自然に変わってくる。
自分の世界観に照らして不適切なことは、誰もしない。

あなたが行動すれば、彼らも行動する。まず、あなたから始まる。
何もかも、すべてがあなたから始まるのだ ―二ール・ドナルド・ウォルシュ




今朝、学びについて思ったこと。

人生の基盤となる学びは、いま佳境に入っています。振り返れば、政治、経済、金融、経営、科学、哲学、宗教、スピリチュアル、文学。この10年を通してリベラルアーツを深めてきた思いです。

今は、自分の考えと行動をオープンにすること、自ら意味を見出して働くこと、人間関係に向き合うことに、まっすぐ取り組んでいるという自覚があります。自分の真実を偽らず、何者であるかを世に表現する段階へとシフトしていることを実感しています。

より美しく共鳴しあうように表現の質を高める。
自分と他者の存在を分かち合う。その方向性に迷いはありません。

もっと人の心に響く表現者でありたい。
一瞬一瞬を人の心と正直に向き合っていたい。
だから、自分であることへの学びは終えても、自分である故の学びは終わりません。



明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ - ガンジー
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.


****


今朝、自由の質について思ったこと。

自由競争という言葉があります。
しかし自由な存在は競争しない。彼らは分かち合うだけです。この概念の主役は、自由そのものではなく、競争です。競い争う。争い競う。自由競争の自由とは、「国家権力から管理強制されない」という意味で「自由」と定義しています。

人間の存在として、普遍的かつ無条件に在る自由。それを前提しているのではありません。組織権力の必要性を前提に、それから解放された状態を「自由」と言っているに過ぎません。既存の資本主義を擁護する文脈における「自由」とは、義務と犠牲に支えられた権利に過ぎず、それは他者に与えられて成り立つものです。自由が、個の精神と生き方から生じるのではなく、組織権力というフィクションへの依存心から発露されている限り、本当の意味の自由は実現しないと思います。既存社会の自由の大半は、つきつめれば「管理」という意味です。

現代社会の最大の組織概念である、国民国家という観念から自由にならなければ、弊害だらけの資本主義経済の競争からの自由もあり得ないと考えます。このような私の認識は、共同体とはいかにして機能し、いかにして創造され続けるか、という問いに繋がっていきます。

なにやら話は壮大ですが、話が大きいのではなく、たった一人の自分という存在が、世界を変えるほどに大きいということです。

人間という存在にとって、自由は無条件に在る。自由とは人間の本質である。
この真実を、生き方へ、そして社会へと展開するだけいい。

答えはシンプルです。既存の世界観の真逆を不退転で進んでみればいい。
個であること。一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
それで生活が成り立つのか。それで幸福な人生が成り立つのか。試してみればいい。

さらに、共同体が成り立つのか。社会は機能するのか。もっと言うと、これまでを遥かに上回る生産性、安定性、協調性、平和と健康、自由と幸福。
もしそれら全てを可能とするモデルが、一つ実現したら。

世界が変わります。


個であること。 一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
これは表面的な話ではありません。 偽りのない精神から生ずる行動であるか否か、という実質的な意味においてです。独立起業せよとか、NPOをつくれとか、無償で働けとか、寄付やボランティアをせよという話ではありません。それらの外形は全く関係ありません。内的な意味においてです。


分かち合って取引せず。
信頼して期待せず。
和して同化せず。
愛して執着せず。


恐れず、正直な願いを、行動にしていく。

自分の真実を生きて、その想いとプロセスを、互いに分かち合っていく。

それだけです。

世界とは、自分の生き方そのものです。

2013年10月25日金曜日

前澤さんの決意を思う


樋口さんに当社でお話をしていただいた。
心の声が心の深くに入ってきた。
37年間の人生と15年間の経営者人生を振り返ると、そこには常に嘘があったと思う。
嘘のない人生を送りたい、愛のある人生を送りたい。
自分にとって一番大事なことは「愛」だと強く思った。

スタート・トゥデイ代表 前澤友作さんのtwitterより。


以下、樋口耕太郎さんのtwitterより。

スタートトゥデイの皆さんから、心のこもったメッセージを頂戴しました。
以下は、私からの返信です。

アインシュタインが洞察したように、
時間と空間は幻想で、 人は誰でも、時空を変化させる力を持っていると思います。

一昨日、昨日と、たった2日のことですが、人生の中のほんの数時間が、
その後の生き方、そしてその後、その人に触れるすべての人の人生を
永遠に変えるということは、ほぼ毎日、どの瞬間にも生じていることなのですが、

私たちは、その内なる偉大な力に目を向けず、自分の外側の何か、
お金だったり、仕事だったり、衣服だったり、
人からの注目だったり・・・が必要なんだと言う思い込みの中に生きています。

私はその社会常識の反対を生きたいと心から望んでいます。
それは、ご縁のある方のすべての接点において、
「いま、愛なら何をするだろうか?」を心に留め、
人と接するその瞬間に人生のすべてを凝縮するということです。

そのような素敵な瞬間に、皆さんとご一緒できて、幸福でした。

これもまた、私独特の考え方かもしれませんが、
私は、人を傷つけても構わないし、 人とどれだけケンカしても構わないと思っています。
もちろん、自分の不安を 相手に押し付けるような、
相手をいたずらに苦しめるような傷つけ方は論外ですが、

複数の人間が接点を持つとき、特に自分に正直に、人の懐に飛び込もうとすれば、
お互いの心に擦り傷ができるのは、当然のことだと思います。

それよりも、その後で、人と仲直りできること、それをきっかけに、
真に理解し合えること、心を共振させることの方が、遥かに重要で、
そこには、本当の勇気がいることだと思うのです。

逆に、相手を傷つけること、それ以上に自分が傷つくことを怖れて生きる人生は、
結局、肉体が物理的に接しているだけで、心は固い鎧の中。
本当の意味で、そこには 人間関係など存在しないのだと思うのです。

そのような視点で考えると、 職場であれ、夫婦であれ、親子であれ、
現代社会は人間関係がほとんど存在しません。

私は、心から人と接したいと望んでいます。
自分の鎧を捨てて、 覚悟を持って、勇気を振り絞って、
ご縁のあるすべての人に接しようと、 精一杯の努力を続けています。
それは、相手がどんなに「地位のある」人間であれ、 どれだけ「小さな」人であれ、
誰であれ、私にとってはまったく同じです。

ある人は自分が社長である、あるいは、母親である、と思っていますが、
それは単なる衣装にすぎません。私は、衣装にではなく、人と話がしたいのです。
それが私が人生に望むことのすべててで、そのような時間を過ごすことができて、
皆さんとご一緒できて、幸福でした。

人は誰でも、幸せになるために生きています。
そして、誰にとっても、 幸福になれる瞬間は、「いま」以外に存在しません。
幸福を先延ばしせず、 たったいま、人と向き合って、この瞬間に幸福である。
そんな生き方を これからも続けて行きたいと思っています。

お招き頂き、ありがとうございました。

――――――――――――――――

前澤さんは東証一部上場企業の経営者です。(スタート・トゥデイwikipediaリンク)
WBG Building Makuhari 2.jpg
(本社機能はワールドビジネスガーデン。
幕張に18年間住んでいたのでとても懐かしい光景です。

売上300億。社員350人。株式時価総額3000億。
そのリーダーである方の発言は社会的影響力のある重いものです。

37年間の人生と15年間の経営者人生を振り返ると、そこには常に嘘があったと思う。
嘘のない人生を送りたい、愛のある人生を送りたい。
自分にとって一番大事なことは「愛」だと強く思った。

人生を生き抜いた人間として、
志とプライドを以て挑戦し続けた経営者として、
資本主義経済における一流の成功を収めた事業家として、振り返って、
「そこには常に嘘があった」と公言するのは、一体どれほどの思いがあったのでしょうか。

これは、ただの反省のような言葉ではありません。
前澤さんの言葉には、もっと重く、深い決意がある。

上場企業としてのあり方と人間のあり方との矛盾。
これに、根本から、真っ向から、向き合いたいということ。
現に、上場企業経営者でありながら。


なぜそう言えるのか。

樋口さんは野村證券とレーサムリサーチで働いていました。
投資銀行部門のプロフェッショナルであり、上場企業の共同経営者でもありました。
そのキャリアを持ちながら、なぜ金融の道を辞め、沖縄で事業再生家を始めたのか。

その理由の一つが、上場という金融システムと資本の論理は、人間社会として持続性がないという理解と確信です。

この問題を論理的に説明したツイートがあります。
樋口さんのツイートの中で、最も多く(5万回以上)見られているものです。

企業最大の費用は人件費ではありません


―――以下はトリニティアップデイトの記事より引用―――

企業最大の費用は人件費ではありません。経営者のエゴです。
企業最大の費用(経営者のエゴ)が、一般的な企業金融論で全く語られていないのは、とても不幸なことです。

ホテル売買と企業金融
例えば、私が04年に買収したサンマリーナホテルは、当時築20年。建物躯体の経済耐用年数が仮に40年とすると、ホテルとして経営できるのはその時点であと20年ということになります。当時の取得額は約30億円。単純計算で、この投資額を経済耐用年数で回収するためには、少なくとも年間1.5億円(30億円÷20年)の税引後利益を生み出さなければ、事業そのものが持続性を持ちません。したがって、事業再生の第一のハードルはこの利益水準をいかに確保するかということでした。実質的に10年以上赤字経営だったサンマリーナは1年そこそこで2.3億円のキャッシュフロー(経常利益1.3億円)を生み出すようになり、巡航速度を取り戻し、「本当にいい会社」になるための第一歩を踏み出します。ところが、資本の原理に基づくと、2.3億円のキャッシュフローを生む「金融資産」は、とてもいい値段で転売可能です。私はホテルの売却に反対したため、臨時株主総会で解任され、サンマリーナは買収から僅か2年、約60億円で外資系に転売されました。問題はその顛末よりも、その後の従業員です。

同じ部屋数、同じ従業員、同じレストランで同じ顧客にサービスを提供し続けることに全く変化はありませんが、60億円で売却されたその日から、投資家が回収しなければならない資本の額は倍増します。すなわち年間3億円の利益を回収しなければ、いずれどこかで持続性を失うということです。年間1.5億円を稼ぐための売上が20億円だとすると、年間3億円を稼ぐために売上を40億円にすることは不可能ですので、当然にして人件費が徹底的に削られます。資本家にとっての事業再生は、従業員にとっての悪夢以外の何者でもありません。資本家は、30億円の利益を何の疑いもなく、「事業再生」の対価として自分の懐にするのですが、その本質は、250人の従業員が今後「20年」、(年間14万人として)280万人のお客様にお仕えすることの対価を現在価値にしたものだという真実は全く語られることはありません。事業が成功するほど回収するべき簿価が上がり、従業員の負担が増す。とても皮肉なことですが、ホテルの従業員は(ホテルに限りませんが)、自分と仲間の報酬と職を減らすために、日々相当な努力を強いられるという構造の元におかれているのです。

経営者のエゴは企業最大の費用
ホテルの事例はとてもわかりやすいのでよく引用するのですが、企業の株式上場における企業金融的なメカニズムはこれと全く同じです。株式上場は経営者の夢かもしれませんが、従業員にとっては「仕事のハードルが著しく高められる恣意的なイベント」以外の何者もありません。新規上場の注目株、高い初値、盛んな出来高、飛躍的な利益成長予想。これらはすべて、30億円のサンマリーナホテル(未公開企業)を60億円で売却(株式上場は実際、自分の会社を株式市場を通じて他人に売るということです)する経済効果と全く同じです。経営者は創業者「利得」を手にして、成功者として讃えられ、車を買い替え、銀座に繰り出し、自分の写真が表紙になった本を出し、雑誌のインタビューに頻繁に登場しますが、この人のエゴを満たすために何百という従業員が負担している莫大なコストを自覚するべきでしょう。

経営者のエゴが企業にとってどれだけ大きな費用であるか、簡単に計算できます。例えば、5億円の当期利益の企業がPER20倍、益利回り5%(当期利益÷時価総額)で上場すると、時価総額は100億円。投資家がこの会社に求める総合利回りが10%だとすると、経営者は(自覚しているか否かに関わらず)毎年5%の成長(5%成長+5%益利回り=10%総合利回り)を株式市場に約束して上場していることになります。この経営者のナイーブな「約束」によって、従業員が将来30年間で生み出すことを運命付けられた利益の合計額は、332億円。経営者が恣意的に決めた「5%成長」の一言には332億円の値札が付いているのです。
さて、時計の針を1月戻します。上場を控えた経営者に、証券会社の担当者が「アドバイス」しています。
「社長の実力を持ってすれば、5%成長なんて余りに弱気じゃないですか。御社のビジネスは時流に乗っていますし、他社よりずっと競争力があります。もっといい値段で上場しましょう。」「社長、それよりもなによりも、社員が上場を決断したのは、従業員のためだとおっしゃっていたじゃないですか。懸命にがんばっている従業員に報いるためにも、彼らがこの会社を誇りに思うためにも、この程度の株価ではだめです。」
かくして、この経営者は企業の事業計画を2.5%強気に修正して、成長予測を7.5%に書き換えます。同じ企業、同じ経営者、同じ従業員、同じ顧客。投資家の期待利回りが同じ10%(成長率7.5%+益利回り 2.5%)だとすると、上場株価は200億円(5億円の当期利益÷益利回り2.5%)と評価されます。社長は創業者利得を倍増させ、証券マンは社長から感謝され、社内では出世して行きます。さて、この経営者が「従業員の誇りのために」行った利益予測の「上方修正」によって、従業員が将来30年間で生み出すことを運命付けられた利益の合計額は、332億円から、実に517億円に上昇します。「誇り」のコストは185億円なのです。

――――――――――――――

樋口さんは自身の経験から、資本主義経済を知り尽くしています。
資本の論理の枠組みが、人の無意識と心と行動にどのように機能しているのかを理解しています。だからこそ、自らの使命として、新たな時代の金融のあり方、企業経営のあり方、共同体のあり方について、ビジョンと行動を示し続けているのだと思います。


そのような生き方と主張をし続けている人物に共鳴し、
上場企業経営者という立場を背負っていながら、
これまでの生き方を変えると公言したことの意味。


わかるでしょうか。

前澤さんの捨てる覚悟が。

何年も考え続けて(前澤さんは樋口さんと以前から面識がありますし、数年来のフォロワーでもあります)、自問自答をし続けて、内なる怖れと戦って、人生最大の決断をしたのだと思います。

生き方を変えるか否か。
自分の心に決着をつける為に、会社に樋口さんをお呼びしたのでしょう。そして同志であるスタートトゥデイの役員と社員にも聞いてもらったのでしょう。
これからの会社のあり方を、再び分かち合うために。


なぜ、それが分かるのか。


私もそうだったから。

私は、樋口さんに二度お会いしています。


一度目は、妻と結婚する前。
仕事について、生き方について、これで良いのかと考え続けていた。
辿り着いたブログは向かうべき道を示していた。一度会わねばならないと思った。
初めて会った未熟な若者に、快く時間をつくって下さり、
末金さんの麗王という店で朝まで話した。

金融という分野に、いま置かれている会社のこの立場で、自分を偽らずに挑むと決めた。


二度目は、本社に転勤後。子供が生まれる前。
一層に決めねばならなくなっていた。
自分と向き合い続けるほどに。既存の金融を肌で理解するほどに。
人生を変えるのか。変えないのか。
偽るのか。真実に生きるのか。
もう一度、会わねばならないと思った。

その後の、メールの返信の言葉は決して忘れません。
本当に厳しい言葉だった。しかしすぐに腑に落ちた。
そこから、あらゆる依存心を断ち切る生き方へと舵を切った。
自らの意志で。

人生で最も苦しい時期が続いた。
おかしくなったと思われもしたが、それでも迷いは無かった。

でも最後には、
支えてくれる家族がいた。
理解してくれる妻がいた。
愛してくれる子供がいた。

感謝しかない。幸せしかない。
それが今の心境です。

自分を偽らないこと、そして人間関係に向き合うことは、本当に勇気がいる。
傷つく。傷つけてしまう。
でもだからこそ、そこから逃げないことが、本当に生きるということなのだと思います。


今日は、樋口さんのツイートと前澤さんの決意を読んで、私自身の再生を振り返りました。

2013年10月23日水曜日

お金とは人間であることの何か

お金は物々交換を効率化する道具ではありません。

それは誤った説です。

もっと深く考えるべきだと思います。

お金は人間が創った観念であり、社会機能です。

つまり、お金とは人間です。



お金とは、人間であることの何なのか。

利害関係を回転させる、権利と義務か?

信頼関係の循環に委ねる、贈与と分かち合いの意志か?


どちらの世界観を人間の真実だと信じますか。


どちらの生き方が、幸福であり、生産性が高いと思いますか。


試してみればわかることです。

日本社会は、もう十分試したのではないでしょうか。

結論が出ている人は少なくないはずです。


あとは自らに決心することです。

捨てる覚悟を。

踏み出す勇気を。

信頼する愛を。

2013年10月9日水曜日

小さな世界

なりたいものがあったんじゃないなりたくないものがあっただけなんだ。

 
なりたい夢も、どんな成功願望も野心も、結局それは自分らしくありたいという願いです。人は皆、自分に嘘をついて生きたくありません。ありのままの自分を他者と分かち合いたいというのは、本来とても人間的で素朴な望みです。

現代人は拝金主義だなんてお互いを批判し合うこともありますが、怖れと必要性を取り除けば、本当の悪人などいません。自分に嘘をつくようになってしまった人がいるだけではないでしょうか。誰もが小さい頃、自分と世界のすべてを信頼していました。それが成長するにつれて、傷つき、怖れ、信じられなくなって、偽ることを覚え、嘘に依存していきます。

社会全体が嘘をつく生き方に溢れて、偽りへの依存だらけになったとき。
精神は閉塞し、停滞し、病んでいき、その生活と文化は人間の生理的限界を超えます。
まさに日本社会の現状です。

いつの時代も、社会を切り開くリーダーは人民の怖れを取り除きました。真実を語り歩き、人々とありのままに分かち合う運命を純粋に愛した。彼らは自分に嘘をつかず、心の真実を生きて、誇り高く生きざまを示します。その魂を揺さぶるメッセージによって、社会幻想を解き、嘘をつく必要性と怖れから解放していく。ばらばらに分断されていた人々の望みを、純粋な願いへと還らせる。

それが社会の再生です。

人々の本来の願いを信頼し、偽りの社会幻想を見抜き、
妥協せずに人の怖れと向き合って、純粋な生き方をする。

それがリーダーの生き方です。

だから西郷隆盛の言うとおり、まず人物、次が手段の働きである。人物こそ第一の宝であり、我々はみな人物になるよう心がけなくてはならない」ということなのでしょう。

向き合うべき相手は不満ではない。
取り組むべきは、不満を取り除く対症ではなく、不安を取り除く根治。

それを理解し尽くした者が、本物の勇気と叡智が試される生き方に挑むのだと思います。

***************

世界には

笑顔もあれば 涙もある

希望もあれば 恐怖もある

僕らが分かち合うものはたくさんある

みんなもう気付く時なんだよ

結局世界は小さいってことに


やっぱり世界は小さいんだ

小さな小さな世界なんだよ



月はたった一つ 黄金の太陽も一つ

笑顔は誰にとっても 友好を意味するんだ

山が割れたって 海は広大だ

小さな小さな世界なんだよ


IT'S A SMALL WORLD (AFTER ALL) (Richard M. Sherman / Robert B. Sherman)

It's a world of laughter, a world of tears 
It's a world of hopes, a world of fear 
There's so much that we share 
And it's time we're aware 
It's a small world after all 

It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small small world 

There is just one moon and one golden sun 
And a smile means friendship to everyone 
Though the mountains divide and the oceans are wide 
It's a small world after all 

It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small small world 

2013年10月7日月曜日

子供に無償の愛をみる

脅威を前提にして、自分の正義を伝えたい。
なぜなら依存し、怖れているからです。

信頼を前提にして、自分の願いを伝えたい。
なぜなら自立し、愛しているからです。

二つの情熱は似て非なるものです。それは怖れと愛の生き方の違いです。
人は、愛の質感を心で感じとれるようになっています。
理屈がどうであろうと、ハートが感じてしまうものです。


赤子や小さな幼子は、最も大きな意味では自立しているのだと私は思っています。

彼らは怖れないゆえに物事に執着しません。依存していません。
彼らほど「生きる力」に溢れた存在はありません。

例え親が守らなくても、ほとんどの社会・時代を問わず、生きていけます。
人々に愛される力によって。

深く愛されるのは、
小さな子供が無償で目の前の人を愛するから。

彼らは信頼しないということを知りません。
親、世界、自分への無心の信頼。

たとえ親が犯罪者であろうと、何者であろうとも、無償に、無条件に、信じています。

笑顔で、純粋な関心の眼差しを向けてくれます。
肌の触れ合いを求めてくれます。
あるがままの心で向き合ってくれます。
いまを分かち合いたいと願ってくれます。

小さな幼子と向き合うことは、
心が安らぎ、微笑ましく愉しくて、暖かくて、本当に幸せなこと。

子供の生き様から学ぶことは大きいです。

核家族が当たり前である日本社会の現状は、大人にとっても子供にとっても健全ではないのではないでしょうか。大人の人生にとって、子育てのプロセスは分かち合った方がずっと良い。子供にとっても、成長のプロセスを皆で分かち合ってもらった方がずっと良い。

そう思っています。


昨日の樋口耕太郎さんのツイートを紹介します。
(いつもこの方の言葉を引用してばっかりです。表現者としてもっと自立しないと笑)



僕の自慢の妹が長女を出産しました。
私からの、彼女へのメッセージです。

****

僕に子供が生まれたとき、なぜこれほど子供に愛情を感じるのか、とても不思議に思いました。その理由を5年間考え続けて、自分なりの答えが見つかりました。

確かに自分は子供を愛してるのだけれど、それは、そもそも、「子供が親を無償に愛しているからなのだ」、というのがそのときの結論です。子供は、親がダメ人間でも、嘘つきでも、犯罪者でも、それどころか、子供を虐待していても、無心で信じ、愛する存在です。

私たちが一生の間、これほどの愛情を受けることは、親からも、配偶者からも、その他の誰からも、殆どあり得ないことでしょう。

そんなわけで、子供は誰でも、生まれてからの5年間で、一生分の親孝行をするのだと思っています。子供は親に恩返しをするべきだという考え方が一般的かも知れませんが、私は、親こそが一生かけて子供に恩返しをするべきなのではないかと思うのです。

****

よく頑張ったね。おめでとう。


この視点が妥当かどうかの議論は別にして、大切なのはどう感じたかです。
愛について考えさせられるのではないでしょうか。

冒頭であげた私の「愛と自立の生き方」の考えからすると、樋口さんの見方はその通りだなぁと共感します。もちろん、経験的にはまだ子育て初心者であるので、ベテランで孫持ちのお爺さん御婆さんの方々にも聞いてみたいところです。


大人が、社会が、
自分らしく生きられなくなってしまっているのは、
子供の頃の生き方を忘れてしまったからだと思っています。

自分らしくあること。愛。自立。分かち合うこと。

それらは大人が必死で求めてやまない目的ですが、実は過去既に、誰もが実現していたのだと思います。子供が生き様で見せてくれている「無条件の信頼」こそが、その源であったのではないかと私には思えるのです。

それを取り戻すことが、個人の人生と社会の在り方のすべてに繋がるのでしょう。


なぜ信頼できないのか。
自分の心に向き合っていくしかありません。


僕は全てを信頼しています。信頼ゆえの願いをブログに書いています。
これからもそれを伝えていきます。


小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた

心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今   ―
やさしさに包まれたなら

2013年10月5日土曜日

人間関係に向き合うということ

こうであるべきだ!という正義を主張する心は、依存的な精神である場合が多い。
置かれた状況に対して無力な善人の弱者である、という自己意識を前提にしてしまうと、自らのあり方に隠されているエゴと不安に向き合わず、目の前の不都合を他者のせいにする。

そんな時こそ本当は、
「何故その必要性に焦燥しているのか。何故その正当性を訴えたがる自分がいるのか」
と深く自分に問うてみた方がいい。


根深い怖れ。
そこから逃避する依存心。
それを正当化したいエゴ。
都合のよい観念と同化したアイデンティティ。それを防衛するための正義。

そのような感情と思考パターンを観ることが、自分と向き合うということだ。

向き合った果てに、弱さゆえに自分を偽ってきたことに気付く。
真実を重んじて生きる尊さを知り、本当の強さを理解する。
そして過去の自分と、人の心の弱さを、ゆるすことができるようになる。

信頼するということ。思いやるということ。
執着ではなく、愛するということ。
自分とは何者か。人間であるとはどういうことか。
そういうことが、人をゆるすほどに腑に落ちていく。

世界観が変わる。

意識も行動も、人間関係の向き合い方も、働き方も生き方も、大きく変わる。
人生は自ずと変わるものだ。人のせいにせずに自分と向き合えば。

宗教やスピリチュアルが伝えたいこととは、そういう教えだろう。
宗教の意義とは、神秘性や天国や救いなどではなく、
自分と向き合うことを通じて人間であることの本質を悟ることではないだろうか。


健全な主張は、その重心に毅然と、嘘のない開かれた願いがある。
必要性や正当性や妥当性を引き合いに出す前に、まず偽りのない願いを伝えた方がずっといい。その願いは、愛か怖れのどちらかであるが、突き詰めれば、互いの存在を正直に分かち合いたいという愛ゆえの願いのはず。

立場や理屈ではなく、自ら心を開いて、ハートで真実の願いを伝える。そのような自立した精神で語りかけるのであれば、「あなたはこうあるべきだ」と正当性をぶつけ合うことはない。「私はこうありたい。私たちはこうありたい。あなたはどうありたい?」と徹底的に願いとビジョンを語ることになる。純粋に、誠実な関心を抱いて、目をみて、心を感じて、尊重して、向き合うことができる。建設的に事が進まないはずがない。

問題は、双方の立場や理屈を捨てられない原因である、心に巣くっている怖れだ。それを取り除かなくてはならない。しかし本人に自分と向き合う意志がなければ取り除くことはできない。人間自分の弱さを突き付けられるほど辛いものはない。人は、怖れによって自分を偽ってきたことなど認めたくないのだ。

人の心と向き合うには、立場や理屈を重んじるだけでは駄目だ。
その奥に踏み込む覚悟はあるか。真実の願いを分かち合う意志とゆるしがあるか。
立場や理屈にしがみついて自己を守っている人に、自分と向き合えと、厳しく接することも厭わない執着なき信頼を向けているか。

私の言う人間関係に向き合うとは、そういうことだ。

2013年10月3日木曜日

次のリーダー

もし世界の人々の大半が。

国家の軍事力と権威、
神にそむくという罪悪、
お金の欠乏、
それらに不安を抱きながら、正直に生きることが出来ないのだとしたら。

次世代のリーダーは、それらを全く怖れない人物。


なぜ、怖れないのか。


人間とは何か。自分とは何者か。
そういうことと向き合った果てに、怖れる必要がないということを理解したから。


政治家か、宗教家か、事業家か。

それらのどれでもあるようで、
怖れを利用せずに取り除くという意味で、既存のどれでもない。

人間であることを信頼し、純粋に人と向き合う。

理性でビジョンを示し、情熱で誇りを分かち合う。

真実を生きることで、本来の道へと社会を拓く。

教育の最大の問題は大人の怖れ

最も合理的な教育とは、自分がロールモデルとなることです。
つまりそれは自分の生き方そのものであり、
人間関係の向き合い方そのものであり、
社会に誠実に貢献せんとする働きざまそのもので、自ずと伝わるものだということです。

個人的にも、社会的にも、お金をかける必要はほとんどないと思っています。むしろ、ある一定以上の年齢になれば、親だけでなく子供だって公共性を担うことが出来ます。公共の精神を担う気概をもって、自分の価値観と向き合いながら自発的に働きかけること。それを親と子が共同体に対してオープンに実践しているのであれば、その地域において善き学ぶ機会、善き勤労の機会、善き人の縁を得る機会に恵まれないことの方が考えにくいのではないでしょうか。

図書館に行けば、インターネットを開けば、いくらでも知識はタダで学べる時代。
真に得難きは、志をもって誠実に実践している人物=ロールモデルに触れる機会です。これですら、親自身がそうあれば良いだけであり、親がそのような人物と繋がっていればなお良いのであり、親の背中を見て子供は勝手に学びたくなって学んでいきます。

小さな子供を観てれば分かります。

人は本来、人と世界への好奇心に満ち溢れています。知りたくて、見たくて、触れたくて、味わいたくて、感じたくて、心を通わせたい。純粋な興味に突き動かされ、あらゆる素敵な経験をしたがる生き物です。怖れを覚えるまでは。

学びは、作為的に刺激せずとも、本来の人間性を活かせば良いだけです。怖れを取り除くことで。といってもこれが難しい。それは親自身に怖れがあるからです。

不安を動機にして「お金を稼ぐこと」「勉強すること」をしている以上、学びの意欲は、野心や保身やプライドのような、外発的な動機に根っこの部分を占められしまいます。親も学校の大人も、子供に膨大な必要性と期待そして競争環境と評価を与えることで存在不安を覚えさせ、外発的なインセンティブに反応する行動パターンを訓練します。悪気はありません。自分がそのような怖れを理由にした行動を中心に生きているので、どれほど善意であろうとも、そうすることでしか学びの意味付けに説得力をもたせることができないだけです。

自分の生き方以上のことは伝えられないのです。

そうして子供は、大人によって怖れを教わり、
情熱的で純粋で、楽しくてしょうがない体験に溢れた学び方を失っていく。


教育について考えたとき、真に問うべきは「教育」ではなく、大人の生き方であるということです。お金をかけずに出来ることで、最高品質の教育は十分過ぎるほど可能だと私は考えます。むしろ大半の大人がお金への観念によって、子に不安を与えているのであれば、お金をかけない教育によって「人間とは何か」を伝えることの方が合理的であろうと思います。子の人格形成において、第一の栄養が大人の生き方そのものだとしたら、それが教育機能を果たしていない以上、第二以下の栄養について一生懸命に頑張ったとしても上手くいかないのではないでしょうか。

現代教育は、公的費用も家庭の経済的負担も大きすぎると言われます。
「子供の教育にお金がかかりすぎる」という理由で望む子供数を産めないと考える夫婦は少なくありません。教育は子育てにおける最大の経済コストであり、そしてお金の欠乏こそが大人の生活不安に最も直結します。「教育にはお金がかかり、子供に満足な教育費用を出せる自信がない」という心理的障壁が、少子化の原因の大きな一つとなっています。

私はそういう方々に役立ちたいと思っています。

第一に、善き教育は全くお金がかからないということ。
第二に、お金の欠乏を怖れる人生であるのは何故か?という問いに、真正面から向き合うこと。

それらを真摯に考えていきたい。

教育のあり方を問うとき、不安を動機とした教育の世界観が既に合理的ではないのではないでしょうか。怖れを起点としている時点で、依存的かつ無力感を伴った受け身の精神を伝えてしまいます。教育を担う人々がそのような生き方を通じて、不安を核としたメッセージをあり方で伝え続けている以上、精神的な自立へ向けた教育機能は果たせないのではないかと思うのです。

自分の存在が唯一のメッセージ。

ブログではこのような問題意識をもって、善き教育について語っていこうと思います。

2013年9月29日日曜日

次世代の社会を担う者として

ブログタイトルを変えます。


書く意識の起点が「若者」ではなくなりました。


次世代の社会を担う若者として、自分の世界観を前面にして対峙するのではなく、

もっと大きな信頼から、

次世代の社会を担う者として、分かち合う意志と行動で向き合います。



副題であったガンジーの言葉。

Be the change you want to see in the world.

「あなた自身が、この世界で見たいと望んでいる変化そのものであれ」

その精神は、今一度この胸にしまおうと思います。


そして、胸にあったもう一つの言葉を表現していきます。


What would love do, now?

「いま、愛なら何をするだろうか」

2013年9月27日金曜日

分かち合う時代

働くということ。

その心、その冥利、その人生、その意義を拓くこと。

それをライフワークとして情熱的に伝え続けている方がいます。


村山昇さん。


人財教育コンサルタントとして、企業研修や執筆・講演をされています。

ブログにて、ご自身の生み出したコンテンツを惜しみなく公開されています。


働くということの意義を、
強く、高く、深く、広がりをもって考えたいのなら、
そんな方にとって最高のプレゼントであると思います。

『働くこと原論』 〈The Elemental Lecture on Working 〉





社会を切り拓くということ。

そのメカニズム、そのリーダーシップ、そのビジョン、その合理性、その実践。

世界の金融センターである東京とニューヨークを経て、今は沖縄で、
資本主義経済と向きあい続けている方がいます。


樋口耕太郎さん。


経営受託を生業とする事業再生家であると同時に、沖縄大学で講義もしています。

ブログにて、長年に渡り書きとめた現代社会を捉えるための事実と解釈、
そして大学の講義資料を公開されています。

社会問題の根本とは何なのか。
社会の矛盾に真正面から向き合うべく考えたいのなら、
そんな方にとって最高のプレゼントであると思います。

トリニティ アップデイト




TEDをはじめ、世界は無償の高品質コンテンツに溢れていくのでしょう。
人々の意識においてお金が行動の第一動機ではなくなったとき、
お金の数値量が正当性であるという資本の論理は機能しなくなります。
世界は既に、意識や精神の次元においては、取引ではなくなりつつあります。
人物に基づいて分かち合っていく、オープン贈与の時代。

優れた知識、高い技術、的確な情報という質は取引価値を持たなくなります。
それらを分かち合うことが当たり前で、
その上で自分の世界観を描き、それに偽りなく生きる質量が価値となるでしょう。

価値は、その流通は、人物に統合されていく。

このような時代の変化を最も顕しているのはブログだと僕は思っています。


インターネットは、人類が潜在意識で求めつづけた最高峰なのかもしれません。
ワンネスへ、人類が一つとなるための、最後のピース。
それを感じずにはいられません。
自分との対話そのものが、ダイレクトに世界の意識へ伝搬することの意味。
意識の共鳴と和合が、膨大な量とスピードで起きている。



孫正義です。 Twitterで多くの皆さんと時空を超えて、心の繋がりが広がっていく事に感動しています。初めてInternetに出会った時以来の感動です。世界が平和でより多くの人々が、幸福になれる事を心から願っています。
(ソフトバンクの孫さんのTwitter紹介文より)


分かち合う時代になるしかない。
本当は既にそうだったのだけれど、迷いなく確信するという点でまるで変わります。

存在を分かち合う運命を自覚した上での、真実を分かち合う意思。
その世界観と生き方に目覚めた個人が増えています。

偽りが通用しなくなります。
正直に向き合うことが幸せであり、かつ経済合理的になります。

根本から社会は変わるでしょう。


今回は、そんな次世代の生き方を象徴するお二人とそのブログを紹介しました。

2013年9月25日水曜日

自分らしくあること

 たとえば金曜日の夜、いつものように残業を終えて帰ろうとしたら、上司に呼び止められたとする。

「おい、○○くん。ちょっと一杯つきあえよ」

もちろん、あなたに断る権利はない。くたびれたスーツの中年男と一緒に、安っぽい居酒屋に連れ込まれる。そしてビールの泡を舐めながら、上司はとうとうと語り始めるのだ。

「いいか、俺が若いころにはなぁ・・・」
「いいか、人生ってのはなぁ・・・」

この上司は、たぶんブログを書いていない。

――――――――――――

そんな秀逸な書き出しで始まる素敵な記事があります。
みんなブログ書こうぜ

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誰だって自分の話を聞いて欲しいし、自分の人生を肯定してもらいたい。
すごいねって褒めてもらいたい。
しかし、人生を語れば語るほど、相手のテンションは下がっていく。
「この人のようになりたい!」と感じてもらえる可能性は低く、
「この人のようにはなるまい」と感じさせる場合がほとんどだ。
人生は、面と向かって語るもんじゃない。
まして、人生の教訓がどこかの本から借りてきた言葉ならばなおさらだ。
では、どこで語ればいいのか?

ブログだ。


(中略)


すべてのおっさんがくたびれたスーツを着ているわけではないし、
すべての人生論がつまらないわけでもない。
世の中には、自分の人生をおもしろおかしく語れる人がいる。
訊いてみれば、そういう人はたいていライターだったり、出版社の編集部で働いていたり・・・
情報発信する訓練を普段から積んでいる人だ。
そしてブログは、職業も立場も問わない情報発信の場だ。言語化の訓練を積める場だ。
ブログを書き続けていれば、「いくつになっても面白い人」になれる。
ブログを書き続けていれば、思考力を深められる。
人生を、他者の模倣ではなく、自分のものにできる。少なくとも私はそう信じている。

ブログを書いていれば、たぶん、あなたはあなたらしくいられる。
だから、みんなブログ書こうぜ。
―――――――――――――

かなり共感しました。きっとそうですよ。

人生は面と向かって語るもんじゃない。

でも、人生ほど伝えがいのあるもんはない。

だからブログ。(機会があれば面と向かってそれなりに語りますけどね笑)


訪れる読み手の意志にゆだねて、好きに解釈してもらって結構で、
ご自由に捨てるなり活用してくれればいいと思いながら、
自分の信じる世界を思いっきり語らせてもらう。

重んじていることを、感じていることを、伝えたいことを。
つまり何者であるかの粋を、分かち合いたいから。


ブログを書くと自分らしくいられると言いますが、
そもそも、自分らしいとはどういうことか。
そして、自分らしくいられないのは何故か。


人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく


僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで―尾崎豊

たしかに負けられないと思う時はあります。しかし、自分であることが勝ち負けによって左右されると信じ込んでいる時点で上手くいきません。

なぜ「負けられないこと」が健全ではないほど危機的に重要なってしまうのか?

人が最も怖れるのは物理的な死ではなく、
人間関係における存在意義の喪失だから。

自分の存在価値を無条件に信頼できず、
自分の存在意義を他者の認識に依存する心を、存在不安と僕は呼んでいます。

人々がお金や権威ある立場に執着するのは、自己中心的な欲望ではありません。
野心も保身も、動機の源泉は存在不安にあります。

お金の欠乏を怖れるのは何故か。
組織のために自分を犠牲にして勝たねばならないのは何故か。
殺し合って死ぬことよりも非国民と言われることを怖れるの何故か。

子供を守るため、妻に不安を与えないため、自分を信じてくれる従業員を守るため。
彼らの尊厳を守るため。
彼らを守るという自分の人間的存在価値を、死力を尽くして守らねばならないから。

「ねばならない」と言いましたが、
結局守りたいのは、自分の存在価値なのです。

重んじているものを「脅威」から守らねば、自分に存在価値はない。実感できない。
そのような執着は、怖れの世界観を生きる以上は必然です。

存在不安を抱えている限り、
どれほど豊かになっても何かに勝ち続けなければなりません。

だから・・・自分の真実を犠牲にします。素朴な本質を犠牲にします。
嘘や環境破壊や他人の犠牲を、必要悪として正当化します。

おかしいと分かっている立場の理屈、暗黙の了解、常識的観念、時代に流行する社会幻想。大人は角が立たぬようにと放置しっぱなしです。それらがどれほど歪んだ思い込みを与え、自分に嘘をつくことを当たり前にし、お互いに心を病ませる結果になっていようとも、大切なものを守るためといって加担しています。自分の存在価値を守るためではないのですか?と言いたくなるほど都合のよい解釈で。こないだブログに書いた、オリンピック招致のプレゼンとその反応とかまさにそう。もっとも、自分に嘘をついているので無自覚であるかも知れませんが。

たとえ自覚がなかろうと、在り方のメッセージとして強烈に伝搬します。あぁ、立場の利益のために手段を選ばない世の中なんだなーと若者たちは無意識に適応していくわけです。言っていることとやっていることの違う不誠実な大人の姿を観て、それを不誠実ではなくて愛であると解釈するための理屈(正当性や必要性)を取り入れていきます。それが腑に落ちずに嫌だから、自分らしくあるためにオレは野心に生きるぜ、となる。それを諦めたとき、都合のよい観念と解釈を肯定して保身に生きるか、となる。

これもプロセスとしてしょうがありません。
まずは人の心を理解するまで、真実を見破るまで、
社会のど真ん中に飛び込んで、我慢して向きあって飲み込んで、
見よう見まねで「大人」であろうとして、
「大人」の表面を信じて、分かち合うことから始めてみるほかありません。

もはや分かち合えない!と諦めたとき。
つまり「若者」から「大人」になるとき。

自分らしくあるためには・・・
もっともっと勝ち続けなければならないのだと思えてきます。
出過ぎた杭は打たれない、という野心と自己実現の夢を膨らませます。
そういう意識でないと、今の自分に存在価値を実感できなくなってしまったからです。

それを馬鹿らしいとか、自分には向かないといって手放した人達も、
野心的な生き方に徹する人を支えます。どこか憧れたりもしています。

野心と保身は、存在不安を抱えて生きる人たちが、
自分らしくあることを求めた必然的な結果ではないでしょうか。
実は互いに支え合う関係です。と、僕には見えてしまいます。


優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

自己犠牲は、純粋な思いやりではありません。
立場(他者の意味づけ)と同化した上での思いやりです。
そこには存在不安を避けるという本当の動機が隠されています。

自分を偽ってまで取引関係ゲームに応じて、
重んじるものを利害で守るほどに、無力感と無価値感を味わいます。
無条件の信頼と無償の愛を、信じられなくなっていきます。
存在不安は増していきます。

怖れを動機とした人間関係と行動が実現するものなど、儚く脆い。
結局自分を裏切るものは、他者も傷つける結果となります。

自分を偽らずに大切にすることを通じてしか、
他者を大切にすることはできないと気付くことになります。


漫画家矢沢あいさんはNANAでこの真理を描いています。
こんな台詞があります。

「大事なものを犠牲にしてまで何かを手にしても、人は幸せには なれないんですね」―倉田


大事なことを守るという意識でありながら、あるがままの自分と他者を傷つけ、自由と尊厳を奪いあっていた矛盾。分かち合うよりも、偽り合うことを積み上げてしまった現実。
そんな状況は、自分のエゴが創りだしていたのだと、いずれ認めざるを得なくなります。
他者の認識に自尊心を依存し、自分に嘘をついてしまった愚かさに気付き、
絶望したそのあとに、真実への理解が腑に落ちるのではないでしょうか。

正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで


存在意義は、外側のものに勝つか負けるかという小さなものではなかった。
外の脅威を信じ込ませたがる家族愛や愛国心は、
自分の存在価値を守る為の執着と依存であった。

誇りは、自分の怖れとエゴに、向き合うことにあった。

与えられた脅威と正義に反応した自己犠牲ではなく、
あるがままを信頼しながら、人の嘘と弱さを見抜きながら、
自らの心の真実を軸にして献身すること。

それこそ自分らしくあることが人の為でもあるという喜びです。



自分らしくいるための合理的行動とは、自分との対話です。
自分に向き合うことに最も合理的な営みの一つが、
おそらく、実名でブログを書き続けることです。

むっつりと独り静かにオープンに。

湧きあがる想いに純粋に向き合うこと。

自分は何者であるかを描くこと。

自分の信じる世界と対峙すること。

それらが、人としての深みと力強さを与えてくれるのだと思います。



どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために
「好きなモノは好き!」と言えるきもち 抱きしめてたい―槇原敬之

自分の気持ちに嘘をついて、自分を見失うこともあります。
好きなモノを好きと、子供のように言えないのは、
大人には言えないなりの理由があるからです。
それもやはり、自分の中の大切な何かを守るためです。

本当に好きなものを好きと言えないのは何故か。
本当に嫌いなものを嫌いと言えないのは何故か。
自分の正直な思いから逃げている理由は何なのか。

奥底に、最も重んじている価値があるはずです。
自分らしくあるためには、
自分の信念体系のトップにある項目と向き合わねばなりません。
二番目以下の価値ではなく、一番重んじている価値が世界観を司っています。
それが変われば、二番目以下のすべてが変わります。


僕のブログは、「好きなものは好きと言いたい」という衝動ではありません。

好き嫌いの奥にある、
それぞれの願いを本気で分かち合うという意思です。

人の、純粋で素朴な幸せへの願いが、
互いに分かち合えないのはどうしてだろうか。
素朴な願いが素朴に実現しないのはどうしてだろうか。

ひょっとしてこうだからじゃないかな、と僕は感じていて、
こう考えているんだけど、あなたはどう思う?という問いかけです。

一番重んじているモノを、一番重んじているのだと言い、
それが自分ですと表現して、問うているだけです。



重んじているのは、結果ではありません。
目的というほど、正当性や必要性を求めてはいません。

願いです。

真実の願い。

それを分かち合いたい。
そこから始めたい。それが全てだとも思ってる。

僕はその情熱を、抱きしめています。




ブログの愉しさは、
自分を知り、自分に気付き、自分を実感する喜びです。

それは同時に、
他者と自分を分かち合うことであり、
世界と自己を分かち合うことです。

自分らしくある喜びとは、分かち合う喜びと同じ。


結局何が言いたいかというと、

「だから、みんなブログ書こうぜ」ってことです。

2013年9月17日火曜日

父への敬愛

先日、会社の上司と休憩中に話したことが頭に残っている。


僕のいる卸事業部では、社内外への農作物・加工食品の流通センターの役割を担っています。

荷量が少ない日は手が空く時もあって、そんな時は翌日以降の仕事の前倒しをしたり、不足気味の備品や定型書類を補充したり、社内メールや資料を読んだり、その他に普段やりたくてもなかなか出来ていなかったこと・気付いたことを各々の判断でやっています。

その人は空いた時間に取り組む仕事の生産性が驚くほど高い。

センター内の大棚や作業台を自分で作ったり、大がかりな配置変えをする。いつも職人かと思うほどの手際の良さ。

つい先日も、二階から一階への精米室の移動工事に向けてスペースを確保する為に、センター内の棚や机の配置を変えた。見事にすっきりと広くなった。

僕はいつもながら上司の仕事ぶりに感動した。


「いつこれをやろうと考えていたのですか?前からイメージしていたんですか」

「いや今日だよ」

(なぜ今日決めて今日出来るんだろう)

「○○さんなら工務店の仕事も向いてそうですね」

「そういう仕事は嫌いじゃないね」(笑)

「うちが造園業だから。小さい頃から大工が使う道具は全部身近にあって、十代の頃には一通り触ってた。ケガも沢山したけどね。今もノコギリの傷が残ってるよ」

「だからすぐイメージ出来るんですね」

「知らず知らずに、父親の影響って受けてるんだよね。いや俺だけかも知れないけど」

「僕もそうですよ。僕だけじゃなくて、みんな親の影響って自然に受けてると思います」

―――――――――――


たしかに父の影響を受けてきたと思う。


父は工務店で働いています。仕事柄もあって、家の引っ越しでも床の張り替えでも器用にこなし、必要があれば仕事仲間や伯父さんを手伝いに呼んでいた。小さい頃からその手際の良さを間近で見てきました。「仕事は段取り8割」と言われます。段取りの的確さと緻密さのなせる業なのでしょう、僕にはそんな働きぶりは到底出来ません。職人の血をひく会社の上司と同様に、父にも作業工程を具体的にイメージする想定力と、物事の背景と人の心へ想像力が人一倍に働いているとよく感じます。

建設現場には大量の資材と機材そして多くの関係者がいます。人・物・金のまとめ役となる現場監督には繊細かつ逞しい想像力が求められます。実行力に関しては、心から協力してくれる本気の人物が縦・横にどれだけいるかが重要ですが、これは自分の誇りをかけて誠実な行動を積み重ねて培われる信頼関係という財産です。父にはそれがある。父の言葉には人に向き合ってきた重みがあり、お互いを分かち合おうとする人情味があり、人を惹きつける力と姿勢に長けているのだと思います。

・・・親バカならぬ子バカか、というほど褒めていますね(笑)

ベタベタした関係性は全く無いんですけど、ただ掛け値なしにそう思っています。

若くして子供3人を抱えた父はバランスを重んじてきました。マネーゲームに踊り狂ったバブル期の不動産業界、建設業界も経験しています。人に裏切られた経験もある。おかしな社会を恨んだこともあっと思う。1990年代、戦後の55年体制が変わったときは政治に期待したことも、後に失望したこともあったと思う。人の健全さと病み、社会の表と裏、時代の価値観の盛衰。人生を通じて見てきたもの、感じたもの、自身の生き方からの真実をもって、僕に語ってくれます。

「自分の50年前と50年後。100年のバランスを見て生きるのがいい」
「自分のやってきたことが自分だ。それ以上でも以下でもない。おれはやってきたんだ」
「お前の言葉は軽い」

僕は父と話すのが好きです。高校の頃から沢山してきました。仕事のこと。社会のこと。政治経済のこと。母のこと。祖父母のこと。親戚のこと。父の小さい頃や学生の頃のこと。

大学生の時も、社会人になってからも、実家に帰る度によく聞いた。

時には涙が出そうになるほど、いやたまに出てるかも(笑)
それほど、熱い想いが込み上げてくることがある。


ある時あまりに為になることを言ってくれるものだから、
「もっと昔から語ってくれれば良かったのに」と言いました。

「・・・若い時はそんな余裕が無かったからな」と父。

そんな夜もありました。


父は誠実です。そして家族が大好き。趣味は家族。
そして先祖想いでもある。18歳の頃から群馬への墓参りを一度も欠かしたことが無い。

先祖の墓の前で、きっと静かに対話しているのだろう。亡くなった祖父母に、僕や兄や姉のこと、元気に成長している孫娘のことを報告してくれているのだろう。毎年、群馬片品村の自然豊かな山々と畑を眺めながら、家族の素朴な幸せを願い、祈っているのだろう。その道中を、以前は僕ら家族5人みんなで、今は、母と二人で、心から楽しんでいるのだろう。

情のある人だ。

そんな父に、僕は大いに影響を受けている。

想定力と段取り力、信頼を築き人を動かす人間力、几帳面で丁寧、義理人情に厚い・・・という長所は受け継いでいない。父のような優れた特性は今の僕にはない。おそらく潜在的に無いことはないのだが、道筋・アプローチが違っている。

でも深く通じ合います。父とは深いところで共鳴しているのが分かる。

それはきっと、血のつながり故ではなくて、
互いの意識の根底にある世界観が通じているからなのだと思っている。

年を取るにつれて段々と似てくるような気がします。


僕は一人で酒は飲まないけどね。



敬愛しています。



こんなブログを書いたら何を言ってんだと怒られるだろうか。

まぁいいか(笑)

今日が人生最後の日かもしれないから。

ここは僕の遺書でもある。

悔いを残さずに真実を残したい。


だから父へ。

ありがとう。

2013年9月12日木曜日

誠実なリーダーと国家経済の繁栄

オリンピック招致の強い動機としてある、経済繁栄への合理性について考えました。

経済人も一般人もこれを理由に支持するムードは強いようです。
経済効果を見れば単純にプラスでしょう。

しかし豊かさへの合理性で問うべきは、流れる量ではなく、流れ方の質。

経済とは人の心で流れるのであり、
その源流は人の生き方そのもの、人間関係の向き合い方そのものです。

真実を重んじ、分かち合い、自分と人の心に偽らずに向き合う誠実な生き方。
それが経済繁栄の根幹です。政治による策は枝葉です。

そのような保守的な僕の社会観からすれば、

リーダーの生き方そのものがメッセージであり、
人民の心を動かし、自ずと共鳴しあって広がるのであり、
リーダーの人間性そのものが、国家経済の繁栄を導く最大にして唯一の矢です。


どんなに方法や制度を論じようとも、それを動かす人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段の働きである。人物こそ第一の宝であり、我々はみな人物になるよう心がけなくてはならない―西郷隆盛



この件に関する樋口耕太郎さんのツイートを引用します。

昨日の東京オリンピック開催決定の記事()についての補足ですが、私は日本の経済発展に反対しているのではありません。それどころか、純粋な経済発展の議論として、シンプルな質問をしたいだけです。

A国:国家元首が嘘をついてオリンピックを招致し、そのような価値観を肯定する社会。

B国:オリンピックは招致されないが、国家元首は正直であり、リーダーが誠実さ故に支持される社会。


A国、B国、二つの国があったとして、上記以外のすべての条件が同じだったとして、50年後、経済的に栄え、国民がより幸福な国はどちらだろうか?



あなたはどう思いますか?

僕は誠実なリーダーを選択していきたい。自分が誠実なリーダーであることによって。

2013年9月11日水曜日

真実を重んじる姿勢

オリンピック招致のプレゼンを見たんですが、驚きました。

安倍さんの言葉に。


「汚染水による影響は、第一原発の港湾内の0.3平方km範囲内の中で完全にブロックされています」


初耳なんですけど!
いつの間に事態は解決していたんだろう。


安倍首相:汚染水「完全にブロック」発言、東電と食い違い (毎日新聞9/9)

 安倍晋三首相が、7日にアルゼンチン・ブエノスアイレスで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の五輪招致プレゼンテーションで、福島第1原発の汚染水問題をめぐり、「完全にブロックされている」「コントロール下にある」と発言したことについて、「実態を正しく伝えていない」と疑問視する声が出ている。

 9日に開かれた東京電力の記者会見で、報道陣から首相発言を裏付けるデータを求める質問が相次いだ。担当者は「一日も早く(状況を)安定させたい」と応じた上で、政府に真意を照会したことを明らかにするなど、認識の違いを見せた。~以下略~




この状況を安倍さんによる解釈だと、
汚染水は完全にブロックされて、コントロール下にあるそうです。

世界に笑顔で、断定して、そう説明していましたから。
さらにこうも言ってた。


「健康問題については、今までも、現在も、そして将来も、全く問題はない」


あなたは神様なのでしょうか、と言いたくなりました。率直な感想として。

僕は以前に信頼できそうな記事を読みました。

――――――――――――――
福島原発周辺で「動植物異常」相次ぐ (東洋経済4/3)
チョウやニホンザルなどに異常、研究者が被曝影響と指摘  岡田広行:東洋経済記者  


福島市や全村民が避難を余儀なくされている福島県飯舘村など、福島第一原原子力発電所からの放射性物質で汚染された地域で、動物や植物に異常が多く見られることが研究者による調査で明らかになった。

3月30日に東京大学内で開催された「原発災害と生物・人・地域社会」(主催:飯舘村放射能エコロジー研究会)で、東大や琉球大学などの研究者が、ほ乳類や鳥類、昆虫、植物から見つかった異常について報告した。

~中略~

大瀧准教授の研究では、驚くべき結果が判明した。

写真を拡大
羽が伸びきっていない羽化不全個体。口吻も巻かれていない(福島市内で採取したエサを食べた個体。大瀧准教授提供)

2011年5月の採集で、ほかの地域と比べて福島県内のヤマトシジミでは、羽のサイズが小さい個体が明らかに多いことがわかったのだ。「地面の放射線量と羽のサイズを比較したところ逆相関が見られ、線量が上がっていくにつれて羽のサイズが小さくなる傾向が見られた」と大瀧准教授はデータを用いて説明した。

また、捕獲した個体の子どもについて、「福島第一原発に近い地域ほど羽化までの日数が長くなる傾向が見られ、成長遅延が起きていたことがわかった」(大瀧准教授)。「親に異常があった場合、子どもでも異常率が高くなる結果も出た」とも大瀧准教授は語った。ただし、「これだけの実験では、遺伝性(異常がDNA損傷に基づくもの)であると断言するには十分な証拠とは言えない」とも説明した。

~以下略~

―――――――――――――――――

こちらも参考になります。
ドイツZDFテレビ 「福島原発労働者の実態」 (字幕あり)

東電や医師にもインタビューしています。誠実な関心を以て調べてあると思います。




現実はどうだという判断はしかねることですが、
上で紹介した記事内容の認識をもって、少なくとも僕ならこう言うでしょう。

「放射線が人体に有害であることは科学的事実。被ばくによる健康被害の可能性は常にある」

「原発の地域の生態系調査、そして作業員の健康調査を公開することで、国民と世界に真実を分かち合う。それが私の責任である。真実から目を背けずに問題解決に尽くすと約束します」と。



安倍さんによれば、健康被害はこれまでだけでなく、未来においても全く問題ないそうですが、断定的に言い切れるはずありません。

このプレゼンを日本国民と世界はどう感じたのでしょうか。気になります。



沖縄の事業再生家である樋口耕太郎さんのツイートが印象的でした。

「福島第一原発の汚染水が完全にブロックされている」という言葉を本気で信じている人は、殆どいないのではないかと思う。

東京オリンピック開催決定で喜んでいる人は少なくない。その気持ちはもちろん私も理解できるのだが、それは「経済が活性化すれば、すなわちお金が手に入れば、世界中に嘘をついても構わない」という価値観を日本国民が共有しているという意味だろうか?


厳しい一言ですが、至極当然の指摘だと思います。


想像してみて下さい。


もしこれがオリンピック抜きに、

まったく同じ言葉で、

私たち日本人の不安解消に向けてなされた説明だったとしたらどうでしょうか。



なぜそんなこと言い切れるんだ!
公表されている事実やデータと全然違うじゃないか!
なぜ嘘をつくんだ!

と日本中から批判が起きるでしょう。真実を隠蔽せずに言うべき。国民の安全を何だと思っているんだと。


それが一転して、オリンピック招致を目的にした、世界が懸念する不安要素を払拭するためであれば許してしまう。

・・・まぁ誇張して言い過ぎてはいるけど、あえて批判はやめておこうか。オリンピックの為の発言だし。

仮にそんなムードに甘んじているのなら、
私たちは政治家のポジショントークや政局ゲームを正すことはできないでしょうね。
まったく同じことをしているのだから。


僕は日本こそ東アジアの精神的なリーダーを担ってほしいんですけど・・・
発展途上国ならいざ知らず、オリンピック招致に嘘をついてまで執着し、それを経済振興の第四の矢と評しているその姿は、残念ながら世界のリーダーに相応しいとは思えませんでした。

強者がそう振る舞えば、弱者も自己中心的にそう振る舞うものです。


愛国無罪という言葉があります。

国威発揚のためなら、愛国心からなら、嘘をついても構わない。
それはもう国家という観念に精神を依存しきっています。


僕はそういうの嫌いですね。
「君子、和して同せず」の精神が好きですから。




不確実なことについて、断定的に述べて勧誘することを、断定的判断の提供といいます。例えば金融商品取引法38条、商品先物取引法214条1号によって禁止行為として定められており、法律違反となります。

なぜ罪になるかって、詐欺に近いほど自己中心的で不誠実極まりないから。


僕は証券営業で数多くの金融商品をお客さんに提案してきました。株、債券、投信・・・

「絶対儲かります」と言えば金商法違反です。
日本国債すら「絶対に損しない」と言ってはなりません。これは投資に限りませんが、あらゆる提案は、発言者の認識する事実と解釈以上の域を出てはいけませんし、自己責任を負う覚悟と意思を採用する側に問いながらするものです。それが人として誠実だからです。

金商法38条(禁止行為)
顧客に対し、不確実な事項について断定的判断を提供し、又は確実であると誤解させるおそれのあることを告げて金融商品取引契約の締結の勧誘をする行為。

原発汚染水に対する外国の不安に、日本は「断定的な判断の提供」で答えました。

良い悪いをごちゃごちゃと言うつもりはありません。どう感じるのかを問いたいだけです。

僕も日本という共同体の一員です。

世界の不安と良識に向きあった対話において、
その代表者の姿勢があまりにも自分の生き方と信条に反しているだけでなく、
多くの人々に嘘を許容しているムードがあることに気分が悪くなった、
とブログで正直な思いを書き残しておきたくなりました。

あなたはそれでいいのか、と問う意味を込めて。



人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析があります。

オリンピックを喜び、経済効果に期待している気分に同調するほど、自らの嘘をつくことの意味について真剣に捉えにくいと言えます。嘘も方便で、笑顔のポジショントークもむしろ頼りがいがあるようにすら見えるかもしれませんね。

日本人は今後、原発の健康被害の可能性や汚染水に関する事実認識について、首相発言をベースにする気なのでしょうか。

東北の知人や友人が不安そうだったら、安倍さんの言葉を引用して答えようと思いますか?


いろいろ思うところがありますが、トータルで見て、
真実を軽んじる代償は決して小さくないだろうと考えます。


他の人がどうであろうと関係なく、
僕は僕の願う日本の未来のために、真実を重んじて生きていこうと思います。


関連「村上春樹さんの精神と、真実であることを重んじて

2013年9月6日金曜日

思想や世界観を伝えること

社会人における三大タブーってご存知ですか?


僕は証券会社にいた時、多くの方に資産運用のコンサル営業をしてきました。
入社して神戸支店に配属されたばかりの頃、営業部長に教わったことです。

訪問したお客様との会話で、政治、宗教、野球の話題にはあえて触れないこと。


これ、世間では有名のようです。検索するとすぐ出てきます。
社会人としての30の訪問・来客マナー


野球はユーモアでくっつけただけでしょう。今と違って高度成長期のプロ野球の熱狂は半端じゃ無かったので、そのような時代背景を受けて、団塊世代あたりが三大タブーとして広めたんじゃないでしょうか。「仕事の人間関係で安易に政治と宗教の話をすんなよ」という、あえて言うまでも無いほど当たり前なアドバイスが、三つ目の野球というオチが面白いので、あえて言いたくなるアドバイスになってしまったのだと思います。


本題は政治と宗教です。

では何故、安易に口にしてはならないのでしょうか。

それらは、「こうあるべき」「~であってはいけない」という、道徳や善悪の規範、正義(敵や怖れ)についての諸々の観念を束ねているからです。

世界とは?社会とは?自分とは?

そもそも人間とはどういうものなのか。

つまり世界観と信条。

意識的であろうとなかろうと、誰しもがそれを持っています。築きあげている。それは、その人の「今の生き方そのもの」であり、人生を通して培ってきた自我の基盤といっても過言ではありません。

そして政治と宗教は、個々人の世界観と信条に強い影響を及ぼしています。

人の心の有り様は、観念に大きく左右されます。同じような経験であろうと、同じ出来ごとであろうと、その解釈や感情がまったく異なるのは、各々の信じる観念の違いからであるとも言えます。参考「観念の作用


そういう人の心の核となっている事は、あーだこーだと軽いスタンスで話すものではありません。


このブログにはそういう事ばかりを述べていますが、日常生活や仕事において直接的に語る機会はまずありません。

聞きたいと本当に望んだ人にだけ、自身の真実として、そっと伝えてあげるものです。

あるいは語らずに、振舞いの中に滲み出るようにするものであり、
人間性の顕れの中に、そうと気付かせずに、醸し出すようにするもの。

または、歌や詩など、エンターテイメントやアートとして表現するものだと思います。



いくつか例を挙げます。

幼児アニメで人気のアンパンマンは、漫画家のやなせさんの「正義とは何か」という哲学的な問いから生まれました。そのテーマソングは迫力があります。

――――――――――――――
何の為に生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ

今を生きることで 
熱い心 燃える
だから君は行くんだ 微笑んで


そうだ嬉しいんだ 生きる喜び
例え胸の傷が痛んでも

――――――――――――――

やなせさんはこう語っています。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。


メッセージが必要なんです。おもしろくすることばかり考えていると、肝心なものが抜けてしまいます。ただおもしろいというだけではいい作品とはいえません。芸術映画でなくても、見る人の心に残るメッセージは必要不可欠、それが僕の作品を作る上での信念なんです。


この歌を子供の頃からずっと歌っていると、考えることが自然と身に付くような気がするんだ。そしてある時になると、わかる。僕がわかったのはいつかって? 60過ぎてからだな(笑い)。遅いんだよね


娘はアンパンマンが大好きです。テーマソングも流れるたびに大喜び。でも、この作品に込められたメッセージの意味を理解しているわけではありません。だからこそいい。人間として大切なことほど、言葉ではなく、在り方をもって伝え、生き方でもって示す。
参考:正義であること



ジブリの「風立ちぬ」で松任谷由美さんの「ひこうき雲」が採用されました。

―――――――――――――
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

―――――――――――――


以下は、読売新聞のインタビューから抜粋です。

「ひこうき雲」は大切に封印してきた特別な曲 

―「ひこうき雲」は40年前にリリースされた同名のデビューアルバムに収録された曲ですが、どういうきっかけで作られたのですか。

松任谷 16歳の時、小学校時代のクラスメートが亡くなったんです。お葬式の知らせがきて、お宅に伺ったら遺影の印象がすごく強かった。不思議な感覚でした。本当にこの子だったんだろうかって。早くして亡くなるとはどういうことなんだろうかと、その時に感じた気持ちを自分なりに残しておきたいと思ったんです。

―「ひこうき雲」からは相対するふたつの「死」のモチーフを感じます。一つは「生きたいのに生きられなかった」。もう一つは「生きられるのに生きなかった」。

松任谷 映画のキャッチコピーが「生きねば。」でしょう。「ひこうき雲」は私にとってレクイエム(鎮魂歌)ですが、レクイエムって生きていく者たちに力を与えるものだと思うんです。それでよかったんだって思うことで次に進める。映画もまさにレクイエム的な終わり方。観客も作り手もまだまだ人生は続くんだっていう反転したポジティブで終わっていく。
自分の曲だけど、ラストにふさわしいと思えたのはそこなんです。帰結に役立ったかもしれないと思うと凄く嬉しかったです。

―映画を観てから聴いたら「けれど しあわせ」という歌詞に意志がぐっと込められていることに気づきました。強い気持ちで二郎と自分に向かい合った菜穂子の人生とも重なって。映画を観たことで曲を新鮮に感じる部分はありましたか?

松任谷 「ひこうき雲」は長らく自分の中で封印していたんです。レクイエムだということもあって、自分の中で大切にしたいと思っていたんでしょうね。ライブでも大切なときにしか歌ってこなかった。でも、映画の最後に聴くとすごく力強い歌だと分かった。朗々としている部分があるんだなぁって。気がつかなかった。

***************

歌詞の意味について、具体的な名言は避けていますが、
分別ある大人の聴き手が想像すればすぐ分かりますよね。


けれどしあわせ


そう表現する心は、命への無条件の信頼なのだと思います。
この世界に無駄な命、無意味な生死など一切なく、
悲しみも悲劇も、大きな真実においては、それも祝福されて在る。
だれも分からない。
でも、私はそう信頼している。そう祈っているの。

そんな想いが伝わってくるようです。





先日僕は政治について書きました。
そこで紹介した三宅洋平さんは、演説でこう言っていました。
伝えたいことを伝えるには、とんちとユーモアが大切だと。

それでも議論に熱くなり、感情的になってしまったら。
深呼吸して、景色を見て、心を落ち着かせて。
「一緒に私たちの社会を良くしたい。智恵を貸してほしい。協力してくれませんか」
と、和の精神に立ち戻る姿勢の大切さを述べていました。


世界観、信条を背負って語るときは、成熟した精神性が求められます。

思考や判断の軸となる拠り所であるために、
人のあり方に直結しているので、
「責められている」「馬鹿にされている」「尊厳を否定されている」という不安を与えかねません。怖れを動機にする人には不可能です。

そして言葉はどう頑張っても、個々人の観念とセンスに左右されて誤解を頻繁に生みだします。言葉のコミュニケーションは通訳不可能性に溢れています。慎重であるべきテーマというよりも、言葉だけで伝えようとすることは不可能なのでしょう。

話し手と受け手の生き方が伴っていなければ共鳴しようのない話です。


いかに語らずに、伝えるか。

語らせずに、受け取るか。

いかに受け手の感性から、自ずと生じさせるか。互いに生じさせ合うか。

真実のコミュニケーションであるほど、伝えるための作為は不純物となり、非効率です。

伝えるのではなく、あり方の純粋さから、自ずと伝わってくるものだから。



思想や世界観という、存在や命をめぐるスピリチュアルなメッセージは、
そういうことに気付いている醒めた意識同士でないと意味のある水準とはなりません。

生き様で、あるいは死に様で、伝えあう感覚。

表現で切り取らない、あるがままのコミュニケーションです。


これは難しい話ではなく、老若男女を問わず既に皆やっています。
ただ意識的にしている人が、偉大なリーダーや優れたアーティストであったのだと思います。


自分の、他者の、魂を動かす人たちです。



最後にユーミンの「やさしさに包まれたなら」を。
―――――――――――――
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
おとなにっても 奇蹟はおこるよ


カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今


雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
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2013年9月3日火曜日

人をゆるすということ②

先日の参院選では、比例代表候補の三宅洋平さんに投票しました。

以前にも言いましたが選挙は人材採用です。
彼を選んだ大きな理由の一つは、人を裁かないゆるしのリーダーであるからです。


彼の演説動画のリンクです。聞きつつ、読んでみて下さい。

三宅洋平さんの演説
(2013/7/18 選挙フェス@大宮)
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甲状腺がんになった福島の子どもが、万人いれば皆同情するのか?って。
じゃあ、たったの20何人なんですか?って。
名古屋で避難した親子が挨拶に来てくれたんだ、4日前。
お母さんも子どももやつれきってた。
「この子、甲状腺がんなんです」って。
中一ぐらいの男の子 「頑張ってください」

もう一人で充分なんだよ。
一人の子の悲劇は、百万人の悲劇と同等なんだよ。

なんでそれが今の日本の政治にはわからないんだろうね。
見てないんだよ、俺たちのこと。
誰が可哀想かって、
それが見えてないことが可哀想だね、俺は。
だからね、教えに行きたいよ。

「もうこうゆう考えの、こうゆう愛に溢れた文化とセンスに従って生きてる人たちが、こんだけいます。皆、あなたのこと応援したいんで仲間に入れてくれませんか?」って。

俺はだから、国会に行きたい。

15日間、喋って歌い続けても、まだこんだけ声が出るね。
国会の会期150日間、俺はでかい声で、声通し続けるよ。

そしてね。
今まで反原発とか、反戦争みたいに、俺もやってきたことなんだ。
想いをぶつけちゃってたんだよね、石みたいに。
「ふざけるな!」っつって。

だけど今度は、自分が立候補してみたらね。
全部の立候補者に頭が下がるんだ。
選挙って、マジで大変!
心身共に限界に追い込まれるんだね。
ま、だからハマっちゃうんだけど(笑)

俺はだから、ワタミの社長の渡邉美樹さんともガッチリ握手した。
※渡邊さんは原発維持の自民党から立候補

「いやあ 大変ですね。ご苦労様です」

あったかかったぜ、あの人の手。

で、ちっさい声で言ったよ。

「私も、本当は、原発反対なんです」

ちっさい声で、ここだけの話ね。
言ってましたよ。

Ustream観てる皆さん。全世界の皆さん。
ここだけ話、言ってましたよ。

 

原発に反対してる人は、自民党の中にもいっぱいいます。
十把一絡げに全員討つような真似するのはやめて。



あとはさ、言いたいことが言えなくなっちゃってんだよ。

借金して首が回んないのも、
カネがありすぎて首が回んないのも、同じ!


何万人ってゆう人を、
自分が、支持者が、
従えて、もう彼らの色んな声、生活を支えてて、抱えてて・・・

「今更 反対とか言えねえよ!」
ってゆう状況でもう、ガチガチなんだよ!
安倍さんとか。

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彼はポジショントークを一切しません。
立場に同化せず、立場の争点に訴えません。
同じ人間として心を理解しようとし、伝えようとします。
そして人の弱さをゆるしています。

ここで先日書いた、ピーターラッセルの言葉を再び引用しますね。

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、
きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。


どうでしょうか?


ちなみに、この動画の後半10分くらいからは、民主主義の原点について語られます。
ネイティブ・アメリカンのイロコイ連邦の、部族間の話し合い方です。これは史実です。
その話し合い尽くす姿勢と技術の高さを明解に説明しています。
そして国会は、民主主義の原点である彼らを見習うべきじゃないのか?と問いかけます。

僕が彼を支持した理由の二つ目をあげるなら、
民主主義の本質を理解したリーダーだと考えたからです。



三宅洋平さんの演説 (上で紹介した動画の前にあたります)
(2013/7/18 選挙フェス@大宮)
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ファシズムってゆうのは、
国家が皆に押し付ける場合よりも、人々が社会の空気を読んで、

自分の今日の暮らし、
家族の安全、
隣近所2~3件の平穏を守るために、

口をつぐむ。その連鎖が起きていく。
好きにものを言えない空気ができていくことがファシズムだって、
おれは言ってたんだけど、ハベルってゆう大統領も同じこと言ってたらしいんだ。

今日本で起きてるのはさ ”Economic Fascism”(経済ファシズム)だよ!
「経済のためには それ以外の意見は黙ってろ」
「だっておまえ それで食ってんだろ?」
「電気について文句言うなら 電気使うな」

そんな稚拙な論議があるかって話で。

聴衆(ふざけんなー!)

そうなんだよ!
言っていいんだよ、皆もっと大きい声で。「ふざけるな」って。
だけど、俺もいっぱい言ってきた。「ふざけるなー!」って。
国会の前でも、原発の前でも、事故が起きる前から言ってきた。
原発は稼働してるだけで、漏れてんだよね。
再稼働なんか冗談じゃねえよ。
あの頃はさ、これっぽっちのものが漏れてるか漏れてないかで大議論してたんだ。
原発反対してる人と推進の人で。
したら、事故が起きたら、もうこんなのさ、
「いやぁ・・・今こんぐらい出てますけど・・・まぁ、
前からこんぐらいは出てましたから・・・大丈夫ですよ」って。

ちょっと待ってくれよ!って。前は「出てねえ」って言ってたじゃねえか!って。
ベンドの窓もないって言ってたんだよ、電力会社は。
でも俺たちは見に行ったんだよ。ベンドの窓はあるんだよ。 
夜中に開いてんだ。それも「ない」って言うんだ。

「いや、ないって、あるじゃないですか」
「いや ありません」

国会まで行って。院内交渉っていってさ、議員さんが場所作ってくれるんだよ。
環境省の官僚、5人ぐらい呼びつけて。話し合いの場。
そこにデータも、色んな巷の科学者たちが、
顔を全部マスクで隠して、命懸けでデータを提出するんだ。

「バグフィルターは99.9%なんて除去できてません」
「60%ぐらいしか取れてません」
ってゆうデータを叩きつけても、

「持ち帰って検討します」

手紙一つ来ないんだよね。全部チャラ。

じゃ、俺に何が出来んのかなぁって思った。
もう立候補しかなかったんだよね。
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一市民として、あらゆる行動をやり尽くした後。
政治・行政への怒りを、自分の弱さに向けた真の強さ。
これまで人生をかけて築き上げたアーティストである自分を、捨てるという覚悟。

彼を支持した理由の三つ目を挙げるとしたら、自らの真実で献身する気高き強さです。




選挙期間中、彼は言い続けました。

「選挙は戦いじゃないんだよ」


この動画の4分後辺りからは、
「選挙は戦いじゃない」という彼の言葉の心が語られていると思います。
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俺たちのこと、まだ白い目で見てる人たちに語りかけていこうよ。
絶対ケンカしないでさ。

ケンカってのは、言葉ではしていいけど、
拳とか、あられもない誹謗中傷は、
いくら自分たちがされても、
絶対にそれは返し刀で言葉を返さずに、
ユーモアとトンチ。それからひと呼吸。

どうしても頭にきたらさ。
空見て。景色見て。自分見つめ直して。ふぅーって言ってから、

「でもね」って。
「地球を救いましょうよ」って。

世界から戦争をなくす。脱戦争経済を具体的に考えましょうよ、って。
あなたは僕よりもロジックもあるし、頭がいいのですから、
是非お知恵を貸してくれませんか?って。

俺が教えたいのは、
「世の中はもう変わりましたよ」「時代はもう変わったんですよ」ってことを・・・
色んな事情背負ってきて、プライドも背負ってきて、
たとえば国策で原発を推進してきた背景の中で、
一生懸命それやってきた人たちで「まだ認めらんない!」ってゆう人たちに、
「時代は変わったんですよ!」って、太く強く大きく優しく、教えてあげましょう!

緑の党は世界に90ヵ国のネットワーク持ってます。
まぁブラジルなんかでは大統領選とかでもいい位置を占めてるらしいし、
ヨーロッパではもう、EUの会議の中でも58議席持ってる一つの会派なんです。

日本でも遂に、すぐろ奈緒さんや長谷川ういこさんたちが・・・
すぐろさん34歳。ういこちゃん31歳。8年ぐらい前からずーっと動いて・・・
俺たち23~4の頃何やってたっけね?
頭が下がりますよ、ホント。

おかげで俺はこうやって一緒に今回選挙に出れたし、
その緑の党のこの蠢きを・・・

緑の党が別に”世界を緑色に染める”んじゃないよ?
ただ、世界に400基ある原発を皆で考えてどうにかする。
今まで戦争や原発で食ってきた人たちの生活のシフトも皆でサポートする。
考えるんだよ、皆で話し合って。

一人の落ちこぼれも出さない 優しい革命だよ。
人類史上初の ソフトでスムーズな滑らかな革命!

それは”革命”ですらないかもしれないよね。
もう起きてると思うし、もう変わったんだよ。

で、世界から戦争をなくすって、俺は言ってきて。 
色んなピースソングを聴いてきたけど、

NO WAR! NO WAR!(反戦!反戦!)

でもさ、NO NUKES!(ノー・原子力)って言われると、
やっぱり今まで原発やってきた人たちは傷つくんだよね。


自分を否定されてる気になる。

俺たち、おまえたちのために一生懸命考えて、
危険も顧みずに放射線の高い作業場で仕事してきたのに・・・
事故ったら・・・一回事故ったら・・・手のひら返したように、

NO NUKES! NO NUKES! って、世間中が騒ぎ出した。
たぶん、いじめられてるような気持ちになってる人もいっぱいいると思うんだ。


 で、“NO WAR!” ってのはさ。一緒かもしんないよね。
今まで皆のために命張ってきたつもりだったのに、

NO WAR!って言われたら、もしかしたら傷つくかもしんないなって。
俺の友達にも、自衛隊員もいるしさ。


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ゆるしとは、愛の意思です。
観念への依存を断ち切り、怖れを動機としない境地です。

このブログで何度も書いてきた、人間の真実を重んじる愛のリーダーシップ。
それを彼は、候補者の中でずば抜けて有していると僕は感じました。
(参考:真実と愛を選択するリーダー経済と人間を理解するリーダー怖れに向き合う愛のリーダー

だから僕は彼を支持しました。



選挙とは?
政治とは?

彼はこう言っています。
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皆なんだよ、ホントに。
で、これまでの政治は・・・
たとえば俺が国会に行く。あいつは選挙の時にこんなことを公約で掲げてた。
こんなことを云ってた。

「おいおい、全然できてねえじゃねえかよ」
「俺一票入れたんだぞ、おい!」


みたいな。そうやって政治家を孤独にしてきたんだよね。

一票入れるのって、選挙のね、
この期間中はとても大事なこと。
何よりこれが目的なんだけど、
だけど、よく考えて。

この地球をどうにか今しなきゃいけないという状態の中で、
紙にペンで名前書いただけじゃ、地球はどうにも変わんないんだよ。


一票入れたってのは、
紙にペンで一人の名前を書いただけなんだ。

その議員が言ったことをできてなかったら、
俺ができてなかったら、
俺んちとか、俺の事務所まで来て欲しい。暇な日に。

「ヨーヘイ おまえ何か困ってるだろ?」って。

「やりたいようにできてないよな?」

「俺 今時間あるから手伝うよ」って。

そういうスタンスの支持者がどれだけいるかが、 
その人の政治力だと思うんだ、俺は。
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政治家として、国民に問いかけるというよりも、
彼は人間として、人間に問いかけています。

立場ではなく、自分の真実と信念をもって。

だから、人々を、国民や政治家という言葉に同化させない。
権威や権利や義務・・・そういった政治観念と、人間を同化させない。

あるがままを観ています。

ペンで書いただけじゃないかと言って、
依存心から目を覚まさせようとします。

人間として自立した精神であるかを、堂々と人々の心に問う。

演説に大きな説得力があるのは、彼の動機が、偽りのない愛だからです。

多くの人々が、心の深いところで彼の想いが真実だと感じとったから、17万票も集まった。



西郷隆盛はかつて言いました。

命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。
だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。
またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。



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僕は今、東京に住んでいます。
自分と妻だけでなく、まだ幼い娘にも放射線の被害はあるかもしれません。

そうなったとき、関東に住む方々に聴いてみたいのですが、
国や東京電力を責めますか。訴えますか?

もしそういう方がいたら、なぜ引っ越さないのですか?


今後そうなったとしても、僕は、原発を推進した人達を「既に」ゆるしています。


「放射線の健康被害が予想できたはずなのに、後遺症が残ったのはお父さんのせいだよ」

大きくなった娘に、そう言われるかもしれません。
「辛い。死にたい」と言われるかもしれません。

そうだとしても、ここに住むと決めたのであれば、その可能性も受け入れなければなりません。

「ごめん。お父さんもお母さんも、その可能性があると知りながらも、関東に住む決断をした。ごめん。」

そう言う他ありません。生涯、恨まれることになろうとも。

そういう選択を、妻と話し合って決めました。
妻は、そんなこと考えたくない、という反応でした。
それでも幾度と伝えた。

この話の意味を、どれだけ理解してもらえたかは分かりません。


僕らは常に選択しています。
引っ越さないというのも、声をあげないというのも、大いなる意思表示です。

無意識であろうと、意識的であろうと、
人々は互いの存在を、互いの生き様を、どうしようもないほど強力に、
分かち合うことしか出来ません。

言動しないのも、そこで生活しているのなら、それを認めているという行動になります。

ペンで候補者の名前を書くよりも、
東京でただ生活をするというのは、極めて強い影響力を及ぼしている社会参加です。
そこで生きる人々の生き様と因果を受け入れます、という無言の意思表明です。

自分という存在は、個体ではいられず、どこまでも全体と繋がっています。

そういう世界観・人生観を持てば、運命を人のせいにはできません。


なぜなら、人のせいにできないことを完全に理解しているからです。

権利やお金の保証やリスク管理を、いかに効率的にしようとしても、
どう権力を通じて策を練ってあがいても、
存在は自立しかできないし、互いを分かち合うことしかできないんです。

本当は、依存など不可能です。
依存が可能だと思うことが、自身を無力にして、怖れを招きます。
不安から逃避する生き方そのものが、依存のための社会幻想を強化してしまうということに、私たちは気付くべきでしょう。



僕は原発を推進してきた人達をゆるします。

それだけではありません。

生産年齢人口が拡大し続ける間しか機能しないだろう、既存の年金システムを放っておいた人達をゆるします。
赤字国債という世代間格差を強烈にする分配システムに依存する人達をゆるします。

彼らと、存在を分かち合うことしかできないのだから。

ゆるすしかできないんです。

それを理解しているからこそ、捨て身になれるし、全なる個を信頼できます。

そして厳しく言わせてもらう。



公共性の高い人達ほど、実名でオープンに働いて下さい。

原発を推進する人達は、実名で、自分の意見を述べ続けて下さい。自身のブログなどで。
安全だと思う理由を、自分の知見と経験を交えながら語って下さい。

政治家と官僚の方々は、公を司る代表として、ずーと残る形で、実名で、自身の言葉で語り続けて下さい。自分の名に恥じぬようにと。

既存の年金システムが、生産年齢人口が減少しても成り立つと信じる根拠を、語ってください。それが出来ないのなら、勇気を以て「一緒に考えて下さい」とオープンに責任を分かち合って下さい。

公務に携わる方々の、実名主義による意見集約システム。
民衆による、実名・ハンドルネーム・匿名によるパブリックコメント・システム。

それを実現したらどうでしょう。

情報と言論を、人格に担保したまま、発信・流通精査蓄積しつづける社会。



ちなみに・・・その足がかり的なものとして、既に文科省で試みがありました。

熟議カケアイ」・・・学校・家庭・地域の教育現場の方々の声を集め、「熟議」を通じて教育政策を創り出す、文部科学省公式インターネットサイト。


僕が東京選挙区で投票した候補者は、熟議カケアイを起ち上げた鈴木寛さんです。
彼は民主党ですが政党は全く関係ありません。人物しか観ていません。

鈴木さんには、原則的にオープンで実名主義の意見集約システムの構築を期待しました。その重要性を最も理解した政治家の一人と見受けましたので支持しました。



まとめます。

人をゆるすということの本質は、分かち合う意思です。

責められるべき罪人とそれを裁く者に分離して、
上から目線で罪を許してやることにはありません。

罪というレッテルを張ってしまう人々の観念と心を観察します。

人の弱さを理解して、本来の善良さを信頼します。

善良さを信頼して、自分が自立する選択をします。

他者の不安を取り除くために情熱を注ぎます。

だからこそ誇り高い。
裁かない心ゆえに自由。

ゆるしは優しさからではありません。
どうあがいても私たち人間は、存在と生き様を分かち合うことしかできないという諦めです。
諦めに到達した、分かち合う意思です。



若者たちには、大人(社会)をゆるせと言いたい。
ゆるせないのならば、大人(社会)と向き合えと言いたい。

人をゆるさず。人の心と向き合わず。

それは逃避です。少なくとも僕はそういう生き方をしません。

人をゆるす生き方は、自分の潜在力を開花させます。
自由に解放した心は創造力が豊かです。

喜びに溢れた人生へのもっとも近道、そして平和な社会を築く王道は、
自分の依存心と向き合って、人をゆるすことだと思います。


参考:「国家を重んじる、人の心を重んじて」 「今を問う② 選挙と向き合う