2013年9月29日日曜日

次世代の社会を担う者として

ブログタイトルを変えます。


書く意識の起点が「若者」ではなくなりました。


次世代の社会を担う若者として、自分の世界観を前面にして対峙するのではなく、

もっと大きな信頼から、

次世代の社会を担う者として、分かち合う意志と行動で向き合います。



副題であったガンジーの言葉。

Be the change you want to see in the world.

「あなた自身が、この世界で見たいと望んでいる変化そのものであれ」

その精神は、今一度この胸にしまおうと思います。


そして、胸にあったもう一つの言葉を表現していきます。


What would love do, now?

「いま、愛なら何をするだろうか」

2013年9月27日金曜日

分かち合う時代

働くということ。

その心、その冥利、その人生、その意義を拓くこと。

それをライフワークとして情熱的に伝え続けている方がいます。


村山昇さん。


人財教育コンサルタントとして、企業研修や執筆・講演をされています。

ブログにて、ご自身の生み出したコンテンツを惜しみなく公開されています。


働くということの意義を、
強く、高く、深く、広がりをもって考えたいのなら、
そんな方にとって最高のプレゼントであると思います。

『働くこと原論』 〈The Elemental Lecture on Working 〉





社会を切り拓くということ。

そのメカニズム、そのリーダーシップ、そのビジョン、その合理性、その実践。

世界の金融センターである東京とニューヨークを経て、今は沖縄で、
資本主義経済と向きあい続けている方がいます。


樋口耕太郎さん。


経営受託を生業とする事業再生家であると同時に、沖縄大学で講義もしています。

ブログにて、長年に渡り書きとめた現代社会を捉えるための事実と解釈、
そして大学の講義資料を公開されています。

社会問題の根本とは何なのか。
社会の矛盾に真正面から向き合うべく考えたいのなら、
そんな方にとって最高のプレゼントであると思います。

トリニティ アップデイト




TEDをはじめ、世界は無償の高品質コンテンツに溢れていくのでしょう。
人々の意識においてお金が行動の第一動機ではなくなったとき、
お金の数値量が正当性であるという資本の論理は機能しなくなります。
世界は既に、意識や精神の次元においては、取引ではなくなりつつあります。
人物に基づいて分かち合っていく、オープン贈与の時代。

優れた知識、高い技術、的確な情報という質は取引価値を持たなくなります。
それらを分かち合うことが当たり前で、
その上で自分の世界観を描き、それに偽りなく生きる質量が価値となるでしょう。

価値は、その流通は、人物に統合されていく。

このような時代の変化を最も顕しているのはブログだと僕は思っています。


インターネットは、人類が潜在意識で求めつづけた最高峰なのかもしれません。
ワンネスへ、人類が一つとなるための、最後のピース。
それを感じずにはいられません。
自分との対話そのものが、ダイレクトに世界の意識へ伝搬することの意味。
意識の共鳴と和合が、膨大な量とスピードで起きている。



孫正義です。 Twitterで多くの皆さんと時空を超えて、心の繋がりが広がっていく事に感動しています。初めてInternetに出会った時以来の感動です。世界が平和でより多くの人々が、幸福になれる事を心から願っています。
(ソフトバンクの孫さんのTwitter紹介文より)


分かち合う時代になるしかない。
本当は既にそうだったのだけれど、迷いなく確信するという点でまるで変わります。

存在を分かち合う運命を自覚した上での、真実を分かち合う意思。
その世界観と生き方に目覚めた個人が増えています。

偽りが通用しなくなります。
正直に向き合うことが幸せであり、かつ経済合理的になります。

根本から社会は変わるでしょう。


今回は、そんな次世代の生き方を象徴するお二人とそのブログを紹介しました。

2013年9月25日水曜日

自分らしくあること

 たとえば金曜日の夜、いつものように残業を終えて帰ろうとしたら、上司に呼び止められたとする。

「おい、○○くん。ちょっと一杯つきあえよ」

もちろん、あなたに断る権利はない。くたびれたスーツの中年男と一緒に、安っぽい居酒屋に連れ込まれる。そしてビールの泡を舐めながら、上司はとうとうと語り始めるのだ。

「いいか、俺が若いころにはなぁ・・・」
「いいか、人生ってのはなぁ・・・」

この上司は、たぶんブログを書いていない。

――――――――――――

そんな秀逸な書き出しで始まる素敵な記事があります。
みんなブログ書こうぜ

――――――――――――

誰だって自分の話を聞いて欲しいし、自分の人生を肯定してもらいたい。
すごいねって褒めてもらいたい。
しかし、人生を語れば語るほど、相手のテンションは下がっていく。
「この人のようになりたい!」と感じてもらえる可能性は低く、
「この人のようにはなるまい」と感じさせる場合がほとんどだ。
人生は、面と向かって語るもんじゃない。
まして、人生の教訓がどこかの本から借りてきた言葉ならばなおさらだ。
では、どこで語ればいいのか?

ブログだ。


(中略)


すべてのおっさんがくたびれたスーツを着ているわけではないし、
すべての人生論がつまらないわけでもない。
世の中には、自分の人生をおもしろおかしく語れる人がいる。
訊いてみれば、そういう人はたいていライターだったり、出版社の編集部で働いていたり・・・
情報発信する訓練を普段から積んでいる人だ。
そしてブログは、職業も立場も問わない情報発信の場だ。言語化の訓練を積める場だ。
ブログを書き続けていれば、「いくつになっても面白い人」になれる。
ブログを書き続けていれば、思考力を深められる。
人生を、他者の模倣ではなく、自分のものにできる。少なくとも私はそう信じている。

ブログを書いていれば、たぶん、あなたはあなたらしくいられる。
だから、みんなブログ書こうぜ。
―――――――――――――

かなり共感しました。きっとそうですよ。

人生は面と向かって語るもんじゃない。

でも、人生ほど伝えがいのあるもんはない。

だからブログ。(機会があれば面と向かってそれなりに語りますけどね笑)


訪れる読み手の意志にゆだねて、好きに解釈してもらって結構で、
ご自由に捨てるなり活用してくれればいいと思いながら、
自分の信じる世界を思いっきり語らせてもらう。

重んじていることを、感じていることを、伝えたいことを。
つまり何者であるかの粋を、分かち合いたいから。


ブログを書くと自分らしくいられると言いますが、
そもそも、自分らしいとはどういうことか。
そして、自分らしくいられないのは何故か。


人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく


僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで―尾崎豊

たしかに負けられないと思う時はあります。しかし、自分であることが勝ち負けによって左右されると信じ込んでいる時点で上手くいきません。

なぜ「負けられないこと」が健全ではないほど危機的に重要なってしまうのか?

人が最も怖れるのは物理的な死ではなく、
人間関係における存在意義の喪失だから。

自分の存在価値を無条件に信頼できず、
自分の存在意義を他者の認識に依存する心を、存在不安と僕は呼んでいます。

人々がお金や権威ある立場に執着するのは、自己中心的な欲望ではありません。
野心も保身も、動機の源泉は存在不安にあります。

お金の欠乏を怖れるのは何故か。
組織のために自分を犠牲にして勝たねばならないのは何故か。
殺し合って死ぬことよりも非国民と言われることを怖れるの何故か。

子供を守るため、妻に不安を与えないため、自分を信じてくれる従業員を守るため。
彼らの尊厳を守るため。
彼らを守るという自分の人間的存在価値を、死力を尽くして守らねばならないから。

「ねばならない」と言いましたが、
結局守りたいのは、自分の存在価値なのです。

重んじているものを「脅威」から守らねば、自分に存在価値はない。実感できない。
そのような執着は、怖れの世界観を生きる以上は必然です。

存在不安を抱えている限り、
どれほど豊かになっても何かに勝ち続けなければなりません。

だから・・・自分の真実を犠牲にします。素朴な本質を犠牲にします。
嘘や環境破壊や他人の犠牲を、必要悪として正当化します。

おかしいと分かっている立場の理屈、暗黙の了解、常識的観念、時代に流行する社会幻想。大人は角が立たぬようにと放置しっぱなしです。それらがどれほど歪んだ思い込みを与え、自分に嘘をつくことを当たり前にし、お互いに心を病ませる結果になっていようとも、大切なものを守るためといって加担しています。自分の存在価値を守るためではないのですか?と言いたくなるほど都合のよい解釈で。こないだブログに書いた、オリンピック招致のプレゼンとその反応とかまさにそう。もっとも、自分に嘘をついているので無自覚であるかも知れませんが。

たとえ自覚がなかろうと、在り方のメッセージとして強烈に伝搬します。あぁ、立場の利益のために手段を選ばない世の中なんだなーと若者たちは無意識に適応していくわけです。言っていることとやっていることの違う不誠実な大人の姿を観て、それを不誠実ではなくて愛であると解釈するための理屈(正当性や必要性)を取り入れていきます。それが腑に落ちずに嫌だから、自分らしくあるためにオレは野心に生きるぜ、となる。それを諦めたとき、都合のよい観念と解釈を肯定して保身に生きるか、となる。

これもプロセスとしてしょうがありません。
まずは人の心を理解するまで、真実を見破るまで、
社会のど真ん中に飛び込んで、我慢して向きあって飲み込んで、
見よう見まねで「大人」であろうとして、
「大人」の表面を信じて、分かち合うことから始めてみるほかありません。

もはや分かち合えない!と諦めたとき。
つまり「若者」から「大人」になるとき。

自分らしくあるためには・・・
もっともっと勝ち続けなければならないのだと思えてきます。
出過ぎた杭は打たれない、という野心と自己実現の夢を膨らませます。
そういう意識でないと、今の自分に存在価値を実感できなくなってしまったからです。

それを馬鹿らしいとか、自分には向かないといって手放した人達も、
野心的な生き方に徹する人を支えます。どこか憧れたりもしています。

野心と保身は、存在不安を抱えて生きる人たちが、
自分らしくあることを求めた必然的な結果ではないでしょうか。
実は互いに支え合う関係です。と、僕には見えてしまいます。


優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

自己犠牲は、純粋な思いやりではありません。
立場(他者の意味づけ)と同化した上での思いやりです。
そこには存在不安を避けるという本当の動機が隠されています。

自分を偽ってまで取引関係ゲームに応じて、
重んじるものを利害で守るほどに、無力感と無価値感を味わいます。
無条件の信頼と無償の愛を、信じられなくなっていきます。
存在不安は増していきます。

怖れを動機とした人間関係と行動が実現するものなど、儚く脆い。
結局自分を裏切るものは、他者も傷つける結果となります。

自分を偽らずに大切にすることを通じてしか、
他者を大切にすることはできないと気付くことになります。


漫画家矢沢あいさんはNANAでこの真理を描いています。
こんな台詞があります。

「大事なものを犠牲にしてまで何かを手にしても、人は幸せには なれないんですね」―倉田


大事なことを守るという意識でありながら、あるがままの自分と他者を傷つけ、自由と尊厳を奪いあっていた矛盾。分かち合うよりも、偽り合うことを積み上げてしまった現実。
そんな状況は、自分のエゴが創りだしていたのだと、いずれ認めざるを得なくなります。
他者の認識に自尊心を依存し、自分に嘘をついてしまった愚かさに気付き、
絶望したそのあとに、真実への理解が腑に落ちるのではないでしょうか。

正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで


存在意義は、外側のものに勝つか負けるかという小さなものではなかった。
外の脅威を信じ込ませたがる家族愛や愛国心は、
自分の存在価値を守る為の執着と依存であった。

誇りは、自分の怖れとエゴに、向き合うことにあった。

与えられた脅威と正義に反応した自己犠牲ではなく、
あるがままを信頼しながら、人の嘘と弱さを見抜きながら、
自らの心の真実を軸にして献身すること。

それこそ自分らしくあることが人の為でもあるという喜びです。



自分らしくいるための合理的行動とは、自分との対話です。
自分に向き合うことに最も合理的な営みの一つが、
おそらく、実名でブログを書き続けることです。

むっつりと独り静かにオープンに。

湧きあがる想いに純粋に向き合うこと。

自分は何者であるかを描くこと。

自分の信じる世界と対峙すること。

それらが、人としての深みと力強さを与えてくれるのだと思います。



どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために
「好きなモノは好き!」と言えるきもち 抱きしめてたい―槇原敬之

自分の気持ちに嘘をついて、自分を見失うこともあります。
好きなモノを好きと、子供のように言えないのは、
大人には言えないなりの理由があるからです。
それもやはり、自分の中の大切な何かを守るためです。

本当に好きなものを好きと言えないのは何故か。
本当に嫌いなものを嫌いと言えないのは何故か。
自分の正直な思いから逃げている理由は何なのか。

奥底に、最も重んじている価値があるはずです。
自分らしくあるためには、
自分の信念体系のトップにある項目と向き合わねばなりません。
二番目以下の価値ではなく、一番重んじている価値が世界観を司っています。
それが変われば、二番目以下のすべてが変わります。


僕のブログは、「好きなものは好きと言いたい」という衝動ではありません。

好き嫌いの奥にある、
それぞれの願いを本気で分かち合うという意思です。

人の、純粋で素朴な幸せへの願いが、
互いに分かち合えないのはどうしてだろうか。
素朴な願いが素朴に実現しないのはどうしてだろうか。

ひょっとしてこうだからじゃないかな、と僕は感じていて、
こう考えているんだけど、あなたはどう思う?という問いかけです。

一番重んじているモノを、一番重んじているのだと言い、
それが自分ですと表現して、問うているだけです。



重んじているのは、結果ではありません。
目的というほど、正当性や必要性を求めてはいません。

願いです。

真実の願い。

それを分かち合いたい。
そこから始めたい。それが全てだとも思ってる。

僕はその情熱を、抱きしめています。




ブログの愉しさは、
自分を知り、自分に気付き、自分を実感する喜びです。

それは同時に、
他者と自分を分かち合うことであり、
世界と自己を分かち合うことです。

自分らしくある喜びとは、分かち合う喜びと同じ。


結局何が言いたいかというと、

「だから、みんなブログ書こうぜ」ってことです。

2013年9月17日火曜日

父への敬愛

先日、会社の上司と休憩中に話したことが頭に残っている。


僕のいる卸事業部では、社内外への農作物・加工食品の流通センターの役割を担っています。

荷量が少ない日は手が空く時もあって、そんな時は翌日以降の仕事の前倒しをしたり、不足気味の備品や定型書類を補充したり、社内メールや資料を読んだり、その他に普段やりたくてもなかなか出来ていなかったこと・気付いたことを各々の判断でやっています。

その人は空いた時間に取り組む仕事の生産性が驚くほど高い。

センター内の大棚や作業台を自分で作ったり、大がかりな配置変えをする。いつも職人かと思うほどの手際の良さ。

つい先日も、二階から一階への精米室の移動工事に向けてスペースを確保する為に、センター内の棚や机の配置を変えた。見事にすっきりと広くなった。

僕はいつもながら上司の仕事ぶりに感動した。


「いつこれをやろうと考えていたのですか?前からイメージしていたんですか」

「いや今日だよ」

(なぜ今日決めて今日出来るんだろう)

「○○さんなら工務店の仕事も向いてそうですね」

「そういう仕事は嫌いじゃないね」(笑)

「うちが造園業だから。小さい頃から大工が使う道具は全部身近にあって、十代の頃には一通り触ってた。ケガも沢山したけどね。今もノコギリの傷が残ってるよ」

「だからすぐイメージ出来るんですね」

「知らず知らずに、父親の影響って受けてるんだよね。いや俺だけかも知れないけど」

「僕もそうですよ。僕だけじゃなくて、みんな親の影響って自然に受けてると思います」

―――――――――――


たしかに父の影響を受けてきたと思う。


父は工務店で働いています。仕事柄もあって、家の引っ越しでも床の張り替えでも器用にこなし、必要があれば仕事仲間や伯父さんを手伝いに呼んでいた。小さい頃からその手際の良さを間近で見てきました。「仕事は段取り8割」と言われます。段取りの的確さと緻密さのなせる業なのでしょう、僕にはそんな働きぶりは到底出来ません。職人の血をひく会社の上司と同様に、父にも作業工程を具体的にイメージする想定力と、物事の背景と人の心へ想像力が人一倍に働いているとよく感じます。

建設現場には大量の資材と機材そして多くの関係者がいます。人・物・金のまとめ役となる現場監督には繊細かつ逞しい想像力が求められます。実行力に関しては、心から協力してくれる本気の人物が縦・横にどれだけいるかが重要ですが、これは自分の誇りをかけて誠実な行動を積み重ねて培われる信頼関係という財産です。父にはそれがある。父の言葉には人に向き合ってきた重みがあり、お互いを分かち合おうとする人情味があり、人を惹きつける力と姿勢に長けているのだと思います。

・・・親バカならぬ子バカか、というほど褒めていますね(笑)

ベタベタした関係性は全く無いんですけど、ただ掛け値なしにそう思っています。

若くして子供3人を抱えた父はバランスを重んじてきました。マネーゲームに踊り狂ったバブル期の不動産業界、建設業界も経験しています。人に裏切られた経験もある。おかしな社会を恨んだこともあっと思う。1990年代、戦後の55年体制が変わったときは政治に期待したことも、後に失望したこともあったと思う。人の健全さと病み、社会の表と裏、時代の価値観の盛衰。人生を通じて見てきたもの、感じたもの、自身の生き方からの真実をもって、僕に語ってくれます。

「自分の50年前と50年後。100年のバランスを見て生きるのがいい」
「自分のやってきたことが自分だ。それ以上でも以下でもない。おれはやってきたんだ」
「お前の言葉は軽い」

僕は父と話すのが好きです。高校の頃から沢山してきました。仕事のこと。社会のこと。政治経済のこと。母のこと。祖父母のこと。親戚のこと。父の小さい頃や学生の頃のこと。

大学生の時も、社会人になってからも、実家に帰る度によく聞いた。

時には涙が出そうになるほど、いやたまに出てるかも(笑)
それほど、熱い想いが込み上げてくることがある。


ある時あまりに為になることを言ってくれるものだから、
「もっと昔から語ってくれれば良かったのに」と言いました。

「・・・若い時はそんな余裕が無かったからな」と父。

そんな夜もありました。


父は誠実です。そして家族が大好き。趣味は家族。
そして先祖想いでもある。18歳の頃から群馬への墓参りを一度も欠かしたことが無い。

先祖の墓の前で、きっと静かに対話しているのだろう。亡くなった祖父母に、僕や兄や姉のこと、元気に成長している孫娘のことを報告してくれているのだろう。毎年、群馬片品村の自然豊かな山々と畑を眺めながら、家族の素朴な幸せを願い、祈っているのだろう。その道中を、以前は僕ら家族5人みんなで、今は、母と二人で、心から楽しんでいるのだろう。

情のある人だ。

そんな父に、僕は大いに影響を受けている。

想定力と段取り力、信頼を築き人を動かす人間力、几帳面で丁寧、義理人情に厚い・・・という長所は受け継いでいない。父のような優れた特性は今の僕にはない。おそらく潜在的に無いことはないのだが、道筋・アプローチが違っている。

でも深く通じ合います。父とは深いところで共鳴しているのが分かる。

それはきっと、血のつながり故ではなくて、
互いの意識の根底にある世界観が通じているからなのだと思っている。

年を取るにつれて段々と似てくるような気がします。


僕は一人で酒は飲まないけどね。



敬愛しています。



こんなブログを書いたら何を言ってんだと怒られるだろうか。

まぁいいか(笑)

今日が人生最後の日かもしれないから。

ここは僕の遺書でもある。

悔いを残さずに真実を残したい。


だから父へ。

ありがとう。

2013年9月12日木曜日

誠実なリーダーと国家経済の繁栄

オリンピック招致の強い動機としてある、経済繁栄への合理性について考えました。

経済人も一般人もこれを理由に支持するムードは強いようです。
経済効果を見れば単純にプラスでしょう。

しかし豊かさへの合理性で問うべきは、流れる量ではなく、流れ方の質。

経済とは人の心で流れるのであり、
その源流は人の生き方そのもの、人間関係の向き合い方そのものです。

真実を重んじ、分かち合い、自分と人の心に偽らずに向き合う誠実な生き方。
それが経済繁栄の根幹です。政治による策は枝葉です。

そのような保守的な僕の社会観からすれば、

リーダーの生き方そのものがメッセージであり、
人民の心を動かし、自ずと共鳴しあって広がるのであり、
リーダーの人間性そのものが、国家経済の繁栄を導く最大にして唯一の矢です。


どんなに方法や制度を論じようとも、それを動かす人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段の働きである。人物こそ第一の宝であり、我々はみな人物になるよう心がけなくてはならない―西郷隆盛



この件に関する樋口耕太郎さんのツイートを引用します。

昨日の東京オリンピック開催決定の記事()についての補足ですが、私は日本の経済発展に反対しているのではありません。それどころか、純粋な経済発展の議論として、シンプルな質問をしたいだけです。

A国:国家元首が嘘をついてオリンピックを招致し、そのような価値観を肯定する社会。

B国:オリンピックは招致されないが、国家元首は正直であり、リーダーが誠実さ故に支持される社会。


A国、B国、二つの国があったとして、上記以外のすべての条件が同じだったとして、50年後、経済的に栄え、国民がより幸福な国はどちらだろうか?



あなたはどう思いますか?

僕は誠実なリーダーを選択していきたい。自分が誠実なリーダーであることによって。

2013年9月11日水曜日

真実を重んじる姿勢

オリンピック招致のプレゼンを見たんですが、驚きました。

安倍さんの言葉に。


「汚染水による影響は、第一原発の港湾内の0.3平方km範囲内の中で完全にブロックされています」


初耳なんですけど!
いつの間に事態は解決していたんだろう。


安倍首相:汚染水「完全にブロック」発言、東電と食い違い (毎日新聞9/9)

 安倍晋三首相が、7日にアルゼンチン・ブエノスアイレスで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の五輪招致プレゼンテーションで、福島第1原発の汚染水問題をめぐり、「完全にブロックされている」「コントロール下にある」と発言したことについて、「実態を正しく伝えていない」と疑問視する声が出ている。

 9日に開かれた東京電力の記者会見で、報道陣から首相発言を裏付けるデータを求める質問が相次いだ。担当者は「一日も早く(状況を)安定させたい」と応じた上で、政府に真意を照会したことを明らかにするなど、認識の違いを見せた。~以下略~




この状況を安倍さんによる解釈だと、
汚染水は完全にブロックされて、コントロール下にあるそうです。

世界に笑顔で、断定して、そう説明していましたから。
さらにこうも言ってた。


「健康問題については、今までも、現在も、そして将来も、全く問題はない」


あなたは神様なのでしょうか、と言いたくなりました。率直な感想として。

僕は以前に信頼できそうな記事を読みました。

――――――――――――――
福島原発周辺で「動植物異常」相次ぐ (東洋経済4/3)
チョウやニホンザルなどに異常、研究者が被曝影響と指摘  岡田広行:東洋経済記者  


福島市や全村民が避難を余儀なくされている福島県飯舘村など、福島第一原原子力発電所からの放射性物質で汚染された地域で、動物や植物に異常が多く見られることが研究者による調査で明らかになった。

3月30日に東京大学内で開催された「原発災害と生物・人・地域社会」(主催:飯舘村放射能エコロジー研究会)で、東大や琉球大学などの研究者が、ほ乳類や鳥類、昆虫、植物から見つかった異常について報告した。

~中略~

大瀧准教授の研究では、驚くべき結果が判明した。

写真を拡大
羽が伸びきっていない羽化不全個体。口吻も巻かれていない(福島市内で採取したエサを食べた個体。大瀧准教授提供)

2011年5月の採集で、ほかの地域と比べて福島県内のヤマトシジミでは、羽のサイズが小さい個体が明らかに多いことがわかったのだ。「地面の放射線量と羽のサイズを比較したところ逆相関が見られ、線量が上がっていくにつれて羽のサイズが小さくなる傾向が見られた」と大瀧准教授はデータを用いて説明した。

また、捕獲した個体の子どもについて、「福島第一原発に近い地域ほど羽化までの日数が長くなる傾向が見られ、成長遅延が起きていたことがわかった」(大瀧准教授)。「親に異常があった場合、子どもでも異常率が高くなる結果も出た」とも大瀧准教授は語った。ただし、「これだけの実験では、遺伝性(異常がDNA損傷に基づくもの)であると断言するには十分な証拠とは言えない」とも説明した。

~以下略~

―――――――――――――――――

こちらも参考になります。
ドイツZDFテレビ 「福島原発労働者の実態」 (字幕あり)

東電や医師にもインタビューしています。誠実な関心を以て調べてあると思います。




現実はどうだという判断はしかねることですが、
上で紹介した記事内容の認識をもって、少なくとも僕ならこう言うでしょう。

「放射線が人体に有害であることは科学的事実。被ばくによる健康被害の可能性は常にある」

「原発の地域の生態系調査、そして作業員の健康調査を公開することで、国民と世界に真実を分かち合う。それが私の責任である。真実から目を背けずに問題解決に尽くすと約束します」と。



安倍さんによれば、健康被害はこれまでだけでなく、未来においても全く問題ないそうですが、断定的に言い切れるはずありません。

このプレゼンを日本国民と世界はどう感じたのでしょうか。気になります。



沖縄の事業再生家である樋口耕太郎さんのツイートが印象的でした。

「福島第一原発の汚染水が完全にブロックされている」という言葉を本気で信じている人は、殆どいないのではないかと思う。

東京オリンピック開催決定で喜んでいる人は少なくない。その気持ちはもちろん私も理解できるのだが、それは「経済が活性化すれば、すなわちお金が手に入れば、世界中に嘘をついても構わない」という価値観を日本国民が共有しているという意味だろうか?


厳しい一言ですが、至極当然の指摘だと思います。


想像してみて下さい。


もしこれがオリンピック抜きに、

まったく同じ言葉で、

私たち日本人の不安解消に向けてなされた説明だったとしたらどうでしょうか。



なぜそんなこと言い切れるんだ!
公表されている事実やデータと全然違うじゃないか!
なぜ嘘をつくんだ!

と日本中から批判が起きるでしょう。真実を隠蔽せずに言うべき。国民の安全を何だと思っているんだと。


それが一転して、オリンピック招致を目的にした、世界が懸念する不安要素を払拭するためであれば許してしまう。

・・・まぁ誇張して言い過ぎてはいるけど、あえて批判はやめておこうか。オリンピックの為の発言だし。

仮にそんなムードに甘んじているのなら、
私たちは政治家のポジショントークや政局ゲームを正すことはできないでしょうね。
まったく同じことをしているのだから。


僕は日本こそ東アジアの精神的なリーダーを担ってほしいんですけど・・・
発展途上国ならいざ知らず、オリンピック招致に嘘をついてまで執着し、それを経済振興の第四の矢と評しているその姿は、残念ながら世界のリーダーに相応しいとは思えませんでした。

強者がそう振る舞えば、弱者も自己中心的にそう振る舞うものです。


愛国無罪という言葉があります。

国威発揚のためなら、愛国心からなら、嘘をついても構わない。
それはもう国家という観念に精神を依存しきっています。


僕はそういうの嫌いですね。
「君子、和して同せず」の精神が好きですから。




不確実なことについて、断定的に述べて勧誘することを、断定的判断の提供といいます。例えば金融商品取引法38条、商品先物取引法214条1号によって禁止行為として定められており、法律違反となります。

なぜ罪になるかって、詐欺に近いほど自己中心的で不誠実極まりないから。


僕は証券営業で数多くの金融商品をお客さんに提案してきました。株、債券、投信・・・

「絶対儲かります」と言えば金商法違反です。
日本国債すら「絶対に損しない」と言ってはなりません。これは投資に限りませんが、あらゆる提案は、発言者の認識する事実と解釈以上の域を出てはいけませんし、自己責任を負う覚悟と意思を採用する側に問いながらするものです。それが人として誠実だからです。

金商法38条(禁止行為)
顧客に対し、不確実な事項について断定的判断を提供し、又は確実であると誤解させるおそれのあることを告げて金融商品取引契約の締結の勧誘をする行為。

原発汚染水に対する外国の不安に、日本は「断定的な判断の提供」で答えました。

良い悪いをごちゃごちゃと言うつもりはありません。どう感じるのかを問いたいだけです。

僕も日本という共同体の一員です。

世界の不安と良識に向きあった対話において、
その代表者の姿勢があまりにも自分の生き方と信条に反しているだけでなく、
多くの人々に嘘を許容しているムードがあることに気分が悪くなった、
とブログで正直な思いを書き残しておきたくなりました。

あなたはそれでいいのか、と問う意味を込めて。



人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析があります。

オリンピックを喜び、経済効果に期待している気分に同調するほど、自らの嘘をつくことの意味について真剣に捉えにくいと言えます。嘘も方便で、笑顔のポジショントークもむしろ頼りがいがあるようにすら見えるかもしれませんね。

日本人は今後、原発の健康被害の可能性や汚染水に関する事実認識について、首相発言をベースにする気なのでしょうか。

東北の知人や友人が不安そうだったら、安倍さんの言葉を引用して答えようと思いますか?


いろいろ思うところがありますが、トータルで見て、
真実を軽んじる代償は決して小さくないだろうと考えます。


他の人がどうであろうと関係なく、
僕は僕の願う日本の未来のために、真実を重んじて生きていこうと思います。


関連「村上春樹さんの精神と、真実であることを重んじて

2013年9月6日金曜日

思想や世界観を伝えること

社会人における三大タブーってご存知ですか?


僕は証券会社にいた時、多くの方に資産運用のコンサル営業をしてきました。
入社して神戸支店に配属されたばかりの頃、営業部長に教わったことです。

訪問したお客様との会話で、政治、宗教、野球の話題にはあえて触れないこと。


これ、世間では有名のようです。検索するとすぐ出てきます。
社会人としての30の訪問・来客マナー


野球はユーモアでくっつけただけでしょう。今と違って高度成長期のプロ野球の熱狂は半端じゃ無かったので、そのような時代背景を受けて、団塊世代あたりが三大タブーとして広めたんじゃないでしょうか。「仕事の人間関係で安易に政治と宗教の話をすんなよ」という、あえて言うまでも無いほど当たり前なアドバイスが、三つ目の野球というオチが面白いので、あえて言いたくなるアドバイスになってしまったのだと思います。


本題は政治と宗教です。

では何故、安易に口にしてはならないのでしょうか。

それらは、「こうあるべき」「~であってはいけない」という、道徳や善悪の規範、正義(敵や怖れ)についての諸々の観念を束ねているからです。

世界とは?社会とは?自分とは?

そもそも人間とはどういうものなのか。

つまり世界観と信条。

意識的であろうとなかろうと、誰しもがそれを持っています。築きあげている。それは、その人の「今の生き方そのもの」であり、人生を通して培ってきた自我の基盤といっても過言ではありません。

そして政治と宗教は、個々人の世界観と信条に強い影響を及ぼしています。

人の心の有り様は、観念に大きく左右されます。同じような経験であろうと、同じ出来ごとであろうと、その解釈や感情がまったく異なるのは、各々の信じる観念の違いからであるとも言えます。参考「観念の作用


そういう人の心の核となっている事は、あーだこーだと軽いスタンスで話すものではありません。


このブログにはそういう事ばかりを述べていますが、日常生活や仕事において直接的に語る機会はまずありません。

聞きたいと本当に望んだ人にだけ、自身の真実として、そっと伝えてあげるものです。

あるいは語らずに、振舞いの中に滲み出るようにするものであり、
人間性の顕れの中に、そうと気付かせずに、醸し出すようにするもの。

または、歌や詩など、エンターテイメントやアートとして表現するものだと思います。



いくつか例を挙げます。

幼児アニメで人気のアンパンマンは、漫画家のやなせさんの「正義とは何か」という哲学的な問いから生まれました。そのテーマソングは迫力があります。

――――――――――――――
何の為に生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ

今を生きることで 
熱い心 燃える
だから君は行くんだ 微笑んで


そうだ嬉しいんだ 生きる喜び
例え胸の傷が痛んでも

――――――――――――――

やなせさんはこう語っています。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。


メッセージが必要なんです。おもしろくすることばかり考えていると、肝心なものが抜けてしまいます。ただおもしろいというだけではいい作品とはいえません。芸術映画でなくても、見る人の心に残るメッセージは必要不可欠、それが僕の作品を作る上での信念なんです。


この歌を子供の頃からずっと歌っていると、考えることが自然と身に付くような気がするんだ。そしてある時になると、わかる。僕がわかったのはいつかって? 60過ぎてからだな(笑い)。遅いんだよね


娘はアンパンマンが大好きです。テーマソングも流れるたびに大喜び。でも、この作品に込められたメッセージの意味を理解しているわけではありません。だからこそいい。人間として大切なことほど、言葉ではなく、在り方をもって伝え、生き方でもって示す。
参考:正義であること



ジブリの「風立ちぬ」で松任谷由美さんの「ひこうき雲」が採用されました。

―――――――――――――
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲


空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

―――――――――――――


以下は、読売新聞のインタビューから抜粋です。

「ひこうき雲」は大切に封印してきた特別な曲 

―「ひこうき雲」は40年前にリリースされた同名のデビューアルバムに収録された曲ですが、どういうきっかけで作られたのですか。

松任谷 16歳の時、小学校時代のクラスメートが亡くなったんです。お葬式の知らせがきて、お宅に伺ったら遺影の印象がすごく強かった。不思議な感覚でした。本当にこの子だったんだろうかって。早くして亡くなるとはどういうことなんだろうかと、その時に感じた気持ちを自分なりに残しておきたいと思ったんです。

―「ひこうき雲」からは相対するふたつの「死」のモチーフを感じます。一つは「生きたいのに生きられなかった」。もう一つは「生きられるのに生きなかった」。

松任谷 映画のキャッチコピーが「生きねば。」でしょう。「ひこうき雲」は私にとってレクイエム(鎮魂歌)ですが、レクイエムって生きていく者たちに力を与えるものだと思うんです。それでよかったんだって思うことで次に進める。映画もまさにレクイエム的な終わり方。観客も作り手もまだまだ人生は続くんだっていう反転したポジティブで終わっていく。
自分の曲だけど、ラストにふさわしいと思えたのはそこなんです。帰結に役立ったかもしれないと思うと凄く嬉しかったです。

―映画を観てから聴いたら「けれど しあわせ」という歌詞に意志がぐっと込められていることに気づきました。強い気持ちで二郎と自分に向かい合った菜穂子の人生とも重なって。映画を観たことで曲を新鮮に感じる部分はありましたか?

松任谷 「ひこうき雲」は長らく自分の中で封印していたんです。レクイエムだということもあって、自分の中で大切にしたいと思っていたんでしょうね。ライブでも大切なときにしか歌ってこなかった。でも、映画の最後に聴くとすごく力強い歌だと分かった。朗々としている部分があるんだなぁって。気がつかなかった。

***************

歌詞の意味について、具体的な名言は避けていますが、
分別ある大人の聴き手が想像すればすぐ分かりますよね。


けれどしあわせ


そう表現する心は、命への無条件の信頼なのだと思います。
この世界に無駄な命、無意味な生死など一切なく、
悲しみも悲劇も、大きな真実においては、それも祝福されて在る。
だれも分からない。
でも、私はそう信頼している。そう祈っているの。

そんな想いが伝わってくるようです。





先日僕は政治について書きました。
そこで紹介した三宅洋平さんは、演説でこう言っていました。
伝えたいことを伝えるには、とんちとユーモアが大切だと。

それでも議論に熱くなり、感情的になってしまったら。
深呼吸して、景色を見て、心を落ち着かせて。
「一緒に私たちの社会を良くしたい。智恵を貸してほしい。協力してくれませんか」
と、和の精神に立ち戻る姿勢の大切さを述べていました。


世界観、信条を背負って語るときは、成熟した精神性が求められます。

思考や判断の軸となる拠り所であるために、
人のあり方に直結しているので、
「責められている」「馬鹿にされている」「尊厳を否定されている」という不安を与えかねません。怖れを動機にする人には不可能です。

そして言葉はどう頑張っても、個々人の観念とセンスに左右されて誤解を頻繁に生みだします。言葉のコミュニケーションは通訳不可能性に溢れています。慎重であるべきテーマというよりも、言葉だけで伝えようとすることは不可能なのでしょう。

話し手と受け手の生き方が伴っていなければ共鳴しようのない話です。


いかに語らずに、伝えるか。

語らせずに、受け取るか。

いかに受け手の感性から、自ずと生じさせるか。互いに生じさせ合うか。

真実のコミュニケーションであるほど、伝えるための作為は不純物となり、非効率です。

伝えるのではなく、あり方の純粋さから、自ずと伝わってくるものだから。



思想や世界観という、存在や命をめぐるスピリチュアルなメッセージは、
そういうことに気付いている醒めた意識同士でないと意味のある水準とはなりません。

生き様で、あるいは死に様で、伝えあう感覚。

表現で切り取らない、あるがままのコミュニケーションです。


これは難しい話ではなく、老若男女を問わず既に皆やっています。
ただ意識的にしている人が、偉大なリーダーや優れたアーティストであったのだと思います。


自分の、他者の、魂を動かす人たちです。



最後にユーミンの「やさしさに包まれたなら」を。
―――――――――――――
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
おとなにっても 奇蹟はおこるよ


カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今


雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
―――――――――――――――


2013年9月3日火曜日

人をゆるすということ②

先日の参院選では、比例代表候補の三宅洋平さんに投票しました。

以前にも言いましたが選挙は人材採用です。
彼を選んだ大きな理由の一つは、人を裁かないゆるしのリーダーであるからです。


彼の演説動画のリンクです。聞きつつ、読んでみて下さい。

三宅洋平さんの演説
(2013/7/18 選挙フェス@大宮)
―――――――――――――――――――――
甲状腺がんになった福島の子どもが、万人いれば皆同情するのか?って。
じゃあ、たったの20何人なんですか?って。
名古屋で避難した親子が挨拶に来てくれたんだ、4日前。
お母さんも子どももやつれきってた。
「この子、甲状腺がんなんです」って。
中一ぐらいの男の子 「頑張ってください」

もう一人で充分なんだよ。
一人の子の悲劇は、百万人の悲劇と同等なんだよ。

なんでそれが今の日本の政治にはわからないんだろうね。
見てないんだよ、俺たちのこと。
誰が可哀想かって、
それが見えてないことが可哀想だね、俺は。
だからね、教えに行きたいよ。

「もうこうゆう考えの、こうゆう愛に溢れた文化とセンスに従って生きてる人たちが、こんだけいます。皆、あなたのこと応援したいんで仲間に入れてくれませんか?」って。

俺はだから、国会に行きたい。

15日間、喋って歌い続けても、まだこんだけ声が出るね。
国会の会期150日間、俺はでかい声で、声通し続けるよ。

そしてね。
今まで反原発とか、反戦争みたいに、俺もやってきたことなんだ。
想いをぶつけちゃってたんだよね、石みたいに。
「ふざけるな!」っつって。

だけど今度は、自分が立候補してみたらね。
全部の立候補者に頭が下がるんだ。
選挙って、マジで大変!
心身共に限界に追い込まれるんだね。
ま、だからハマっちゃうんだけど(笑)

俺はだから、ワタミの社長の渡邉美樹さんともガッチリ握手した。
※渡邊さんは原発維持の自民党から立候補

「いやあ 大変ですね。ご苦労様です」

あったかかったぜ、あの人の手。

で、ちっさい声で言ったよ。

「私も、本当は、原発反対なんです」

ちっさい声で、ここだけの話ね。
言ってましたよ。

Ustream観てる皆さん。全世界の皆さん。
ここだけ話、言ってましたよ。

 

原発に反対してる人は、自民党の中にもいっぱいいます。
十把一絡げに全員討つような真似するのはやめて。



あとはさ、言いたいことが言えなくなっちゃってんだよ。

借金して首が回んないのも、
カネがありすぎて首が回んないのも、同じ!


何万人ってゆう人を、
自分が、支持者が、
従えて、もう彼らの色んな声、生活を支えてて、抱えてて・・・

「今更 反対とか言えねえよ!」
ってゆう状況でもう、ガチガチなんだよ!
安倍さんとか。

―――――――――――――――――――――

彼はポジショントークを一切しません。
立場に同化せず、立場の争点に訴えません。
同じ人間として心を理解しようとし、伝えようとします。
そして人の弱さをゆるしています。

ここで先日書いた、ピーターラッセルの言葉を再び引用しますね。

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、
きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。


どうでしょうか?


ちなみに、この動画の後半10分くらいからは、民主主義の原点について語られます。
ネイティブ・アメリカンのイロコイ連邦の、部族間の話し合い方です。これは史実です。
その話し合い尽くす姿勢と技術の高さを明解に説明しています。
そして国会は、民主主義の原点である彼らを見習うべきじゃないのか?と問いかけます。

僕が彼を支持した理由の二つ目をあげるなら、
民主主義の本質を理解したリーダーだと考えたからです。



三宅洋平さんの演説 (上で紹介した動画の前にあたります)
(2013/7/18 選挙フェス@大宮)
――――――――――――――――
ファシズムってゆうのは、
国家が皆に押し付ける場合よりも、人々が社会の空気を読んで、

自分の今日の暮らし、
家族の安全、
隣近所2~3件の平穏を守るために、

口をつぐむ。その連鎖が起きていく。
好きにものを言えない空気ができていくことがファシズムだって、
おれは言ってたんだけど、ハベルってゆう大統領も同じこと言ってたらしいんだ。

今日本で起きてるのはさ ”Economic Fascism”(経済ファシズム)だよ!
「経済のためには それ以外の意見は黙ってろ」
「だっておまえ それで食ってんだろ?」
「電気について文句言うなら 電気使うな」

そんな稚拙な論議があるかって話で。

聴衆(ふざけんなー!)

そうなんだよ!
言っていいんだよ、皆もっと大きい声で。「ふざけるな」って。
だけど、俺もいっぱい言ってきた。「ふざけるなー!」って。
国会の前でも、原発の前でも、事故が起きる前から言ってきた。
原発は稼働してるだけで、漏れてんだよね。
再稼働なんか冗談じゃねえよ。
あの頃はさ、これっぽっちのものが漏れてるか漏れてないかで大議論してたんだ。
原発反対してる人と推進の人で。
したら、事故が起きたら、もうこんなのさ、
「いやぁ・・・今こんぐらい出てますけど・・・まぁ、
前からこんぐらいは出てましたから・・・大丈夫ですよ」って。

ちょっと待ってくれよ!って。前は「出てねえ」って言ってたじゃねえか!って。
ベンドの窓もないって言ってたんだよ、電力会社は。
でも俺たちは見に行ったんだよ。ベンドの窓はあるんだよ。 
夜中に開いてんだ。それも「ない」って言うんだ。

「いや、ないって、あるじゃないですか」
「いや ありません」

国会まで行って。院内交渉っていってさ、議員さんが場所作ってくれるんだよ。
環境省の官僚、5人ぐらい呼びつけて。話し合いの場。
そこにデータも、色んな巷の科学者たちが、
顔を全部マスクで隠して、命懸けでデータを提出するんだ。

「バグフィルターは99.9%なんて除去できてません」
「60%ぐらいしか取れてません」
ってゆうデータを叩きつけても、

「持ち帰って検討します」

手紙一つ来ないんだよね。全部チャラ。

じゃ、俺に何が出来んのかなぁって思った。
もう立候補しかなかったんだよね。
――――――――――――――――――

一市民として、あらゆる行動をやり尽くした後。
政治・行政への怒りを、自分の弱さに向けた真の強さ。
これまで人生をかけて築き上げたアーティストである自分を、捨てるという覚悟。

彼を支持した理由の三つ目を挙げるとしたら、自らの真実で献身する気高き強さです。




選挙期間中、彼は言い続けました。

「選挙は戦いじゃないんだよ」


この動画の4分後辺りからは、
「選挙は戦いじゃない」という彼の言葉の心が語られていると思います。
――――――――――――――――――――

俺たちのこと、まだ白い目で見てる人たちに語りかけていこうよ。
絶対ケンカしないでさ。

ケンカってのは、言葉ではしていいけど、
拳とか、あられもない誹謗中傷は、
いくら自分たちがされても、
絶対にそれは返し刀で言葉を返さずに、
ユーモアとトンチ。それからひと呼吸。

どうしても頭にきたらさ。
空見て。景色見て。自分見つめ直して。ふぅーって言ってから、

「でもね」って。
「地球を救いましょうよ」って。

世界から戦争をなくす。脱戦争経済を具体的に考えましょうよ、って。
あなたは僕よりもロジックもあるし、頭がいいのですから、
是非お知恵を貸してくれませんか?って。

俺が教えたいのは、
「世の中はもう変わりましたよ」「時代はもう変わったんですよ」ってことを・・・
色んな事情背負ってきて、プライドも背負ってきて、
たとえば国策で原発を推進してきた背景の中で、
一生懸命それやってきた人たちで「まだ認めらんない!」ってゆう人たちに、
「時代は変わったんですよ!」って、太く強く大きく優しく、教えてあげましょう!

緑の党は世界に90ヵ国のネットワーク持ってます。
まぁブラジルなんかでは大統領選とかでもいい位置を占めてるらしいし、
ヨーロッパではもう、EUの会議の中でも58議席持ってる一つの会派なんです。

日本でも遂に、すぐろ奈緒さんや長谷川ういこさんたちが・・・
すぐろさん34歳。ういこちゃん31歳。8年ぐらい前からずーっと動いて・・・
俺たち23~4の頃何やってたっけね?
頭が下がりますよ、ホント。

おかげで俺はこうやって一緒に今回選挙に出れたし、
その緑の党のこの蠢きを・・・

緑の党が別に”世界を緑色に染める”んじゃないよ?
ただ、世界に400基ある原発を皆で考えてどうにかする。
今まで戦争や原発で食ってきた人たちの生活のシフトも皆でサポートする。
考えるんだよ、皆で話し合って。

一人の落ちこぼれも出さない 優しい革命だよ。
人類史上初の ソフトでスムーズな滑らかな革命!

それは”革命”ですらないかもしれないよね。
もう起きてると思うし、もう変わったんだよ。

で、世界から戦争をなくすって、俺は言ってきて。 
色んなピースソングを聴いてきたけど、

NO WAR! NO WAR!(反戦!反戦!)

でもさ、NO NUKES!(ノー・原子力)って言われると、
やっぱり今まで原発やってきた人たちは傷つくんだよね。


自分を否定されてる気になる。

俺たち、おまえたちのために一生懸命考えて、
危険も顧みずに放射線の高い作業場で仕事してきたのに・・・
事故ったら・・・一回事故ったら・・・手のひら返したように、

NO NUKES! NO NUKES! って、世間中が騒ぎ出した。
たぶん、いじめられてるような気持ちになってる人もいっぱいいると思うんだ。


 で、“NO WAR!” ってのはさ。一緒かもしんないよね。
今まで皆のために命張ってきたつもりだったのに、

NO WAR!って言われたら、もしかしたら傷つくかもしんないなって。
俺の友達にも、自衛隊員もいるしさ。


―――――――――――――

ゆるしとは、愛の意思です。
観念への依存を断ち切り、怖れを動機としない境地です。

このブログで何度も書いてきた、人間の真実を重んじる愛のリーダーシップ。
それを彼は、候補者の中でずば抜けて有していると僕は感じました。
(参考:真実と愛を選択するリーダー経済と人間を理解するリーダー怖れに向き合う愛のリーダー

だから僕は彼を支持しました。



選挙とは?
政治とは?

彼はこう言っています。
――――――――――――――――

皆なんだよ、ホントに。
で、これまでの政治は・・・
たとえば俺が国会に行く。あいつは選挙の時にこんなことを公約で掲げてた。
こんなことを云ってた。

「おいおい、全然できてねえじゃねえかよ」
「俺一票入れたんだぞ、おい!」


みたいな。そうやって政治家を孤独にしてきたんだよね。

一票入れるのって、選挙のね、
この期間中はとても大事なこと。
何よりこれが目的なんだけど、
だけど、よく考えて。

この地球をどうにか今しなきゃいけないという状態の中で、
紙にペンで名前書いただけじゃ、地球はどうにも変わんないんだよ。


一票入れたってのは、
紙にペンで一人の名前を書いただけなんだ。

その議員が言ったことをできてなかったら、
俺ができてなかったら、
俺んちとか、俺の事務所まで来て欲しい。暇な日に。

「ヨーヘイ おまえ何か困ってるだろ?」って。

「やりたいようにできてないよな?」

「俺 今時間あるから手伝うよ」って。

そういうスタンスの支持者がどれだけいるかが、 
その人の政治力だと思うんだ、俺は。
――――――――――――――――

政治家として、国民に問いかけるというよりも、
彼は人間として、人間に問いかけています。

立場ではなく、自分の真実と信念をもって。

だから、人々を、国民や政治家という言葉に同化させない。
権威や権利や義務・・・そういった政治観念と、人間を同化させない。

あるがままを観ています。

ペンで書いただけじゃないかと言って、
依存心から目を覚まさせようとします。

人間として自立した精神であるかを、堂々と人々の心に問う。

演説に大きな説得力があるのは、彼の動機が、偽りのない愛だからです。

多くの人々が、心の深いところで彼の想いが真実だと感じとったから、17万票も集まった。



西郷隆盛はかつて言いました。

命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。
だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。
またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。



*************************


僕は今、東京に住んでいます。
自分と妻だけでなく、まだ幼い娘にも放射線の被害はあるかもしれません。

そうなったとき、関東に住む方々に聴いてみたいのですが、
国や東京電力を責めますか。訴えますか?

もしそういう方がいたら、なぜ引っ越さないのですか?


今後そうなったとしても、僕は、原発を推進した人達を「既に」ゆるしています。


「放射線の健康被害が予想できたはずなのに、後遺症が残ったのはお父さんのせいだよ」

大きくなった娘に、そう言われるかもしれません。
「辛い。死にたい」と言われるかもしれません。

そうだとしても、ここに住むと決めたのであれば、その可能性も受け入れなければなりません。

「ごめん。お父さんもお母さんも、その可能性があると知りながらも、関東に住む決断をした。ごめん。」

そう言う他ありません。生涯、恨まれることになろうとも。

そういう選択を、妻と話し合って決めました。
妻は、そんなこと考えたくない、という反応でした。
それでも幾度と伝えた。

この話の意味を、どれだけ理解してもらえたかは分かりません。


僕らは常に選択しています。
引っ越さないというのも、声をあげないというのも、大いなる意思表示です。

無意識であろうと、意識的であろうと、
人々は互いの存在を、互いの生き様を、どうしようもないほど強力に、
分かち合うことしか出来ません。

言動しないのも、そこで生活しているのなら、それを認めているという行動になります。

ペンで候補者の名前を書くよりも、
東京でただ生活をするというのは、極めて強い影響力を及ぼしている社会参加です。
そこで生きる人々の生き様と因果を受け入れます、という無言の意思表明です。

自分という存在は、個体ではいられず、どこまでも全体と繋がっています。

そういう世界観・人生観を持てば、運命を人のせいにはできません。


なぜなら、人のせいにできないことを完全に理解しているからです。

権利やお金の保証やリスク管理を、いかに効率的にしようとしても、
どう権力を通じて策を練ってあがいても、
存在は自立しかできないし、互いを分かち合うことしかできないんです。

本当は、依存など不可能です。
依存が可能だと思うことが、自身を無力にして、怖れを招きます。
不安から逃避する生き方そのものが、依存のための社会幻想を強化してしまうということに、私たちは気付くべきでしょう。



僕は原発を推進してきた人達をゆるします。

それだけではありません。

生産年齢人口が拡大し続ける間しか機能しないだろう、既存の年金システムを放っておいた人達をゆるします。
赤字国債という世代間格差を強烈にする分配システムに依存する人達をゆるします。

彼らと、存在を分かち合うことしかできないのだから。

ゆるすしかできないんです。

それを理解しているからこそ、捨て身になれるし、全なる個を信頼できます。

そして厳しく言わせてもらう。



公共性の高い人達ほど、実名でオープンに働いて下さい。

原発を推進する人達は、実名で、自分の意見を述べ続けて下さい。自身のブログなどで。
安全だと思う理由を、自分の知見と経験を交えながら語って下さい。

政治家と官僚の方々は、公を司る代表として、ずーと残る形で、実名で、自身の言葉で語り続けて下さい。自分の名に恥じぬようにと。

既存の年金システムが、生産年齢人口が減少しても成り立つと信じる根拠を、語ってください。それが出来ないのなら、勇気を以て「一緒に考えて下さい」とオープンに責任を分かち合って下さい。

公務に携わる方々の、実名主義による意見集約システム。
民衆による、実名・ハンドルネーム・匿名によるパブリックコメント・システム。

それを実現したらどうでしょう。

情報と言論を、人格に担保したまま、発信・流通精査蓄積しつづける社会。



ちなみに・・・その足がかり的なものとして、既に文科省で試みがありました。

熟議カケアイ」・・・学校・家庭・地域の教育現場の方々の声を集め、「熟議」を通じて教育政策を創り出す、文部科学省公式インターネットサイト。


僕が東京選挙区で投票した候補者は、熟議カケアイを起ち上げた鈴木寛さんです。
彼は民主党ですが政党は全く関係ありません。人物しか観ていません。

鈴木さんには、原則的にオープンで実名主義の意見集約システムの構築を期待しました。その重要性を最も理解した政治家の一人と見受けましたので支持しました。



まとめます。

人をゆるすということの本質は、分かち合う意思です。

責められるべき罪人とそれを裁く者に分離して、
上から目線で罪を許してやることにはありません。

罪というレッテルを張ってしまう人々の観念と心を観察します。

人の弱さを理解して、本来の善良さを信頼します。

善良さを信頼して、自分が自立する選択をします。

他者の不安を取り除くために情熱を注ぎます。

だからこそ誇り高い。
裁かない心ゆえに自由。

ゆるしは優しさからではありません。
どうあがいても私たち人間は、存在と生き様を分かち合うことしかできないという諦めです。
諦めに到達した、分かち合う意思です。



若者たちには、大人(社会)をゆるせと言いたい。
ゆるせないのならば、大人(社会)と向き合えと言いたい。

人をゆるさず。人の心と向き合わず。

それは逃避です。少なくとも僕はそういう生き方をしません。

人をゆるす生き方は、自分の潜在力を開花させます。
自由に解放した心は創造力が豊かです。

喜びに溢れた人生へのもっとも近道、そして平和な社会を築く王道は、
自分の依存心と向き合って、人をゆるすことだと思います。


参考:「国家を重んじる、人の心を重んじて」 「今を問う② 選挙と向き合う

2013年9月2日月曜日

人をゆるすということ①

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、
きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。―ピーターラッセル

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ふと振り返ってみたら、結婚して三年目です。

二年半経ちました。

もう三年目かぁって感慨深く、しみじみしていると、
ふとある歌が脳内で流れてきました。


三年目ー 三年目―


三年目の浮気



あったあった、こんな歌。なぜ思い出す(笑)



このブログ、ときどき妻も見るんですが・・・
まぁ気にせず続けましょう。


この歌を初めて聞いたのはいつだったのかは覚えてないのですが、
はっきりと印象に残っているのは小学生のとき。

土日に通っていた少年野球チームの練習合宿にて、
宴会の席で、あるコーチがデュエットで唄っていたんですね。

そのコーチは、スマートな背格好でメガネがよく似合っていて、
スラムダンクの小暮君みたいな優しく落ち着いた雰囲気で接してくれるので好きだったんです。

僕が一時期ピッチャーをやっていた時も、ぜんぜん上手くも速くもなかったんですけど、
「俺が監督なら、あそこでコントロールの良い千明を使ったんだけどなー」
と、試合後にこっそりと言ってくれたことが嬉しかったのを今でも覚えています。

だからなのか、なんなのか。
その時のコーチの映像とともに思い出せちゃうんですよね。この歌。

改めてyoutubeで聴いてみたら、なかなかユーモラスです。
男と女の掛け合う歌詞からは、
昭和らしさが滲み出ています。

当時の男女観(ジェンダー)が垣間見えます。

時期は1982年。
70万枚以上売れました。

昭和を背負った僕の親の世代あたりが、
働く仲間たちや友人らと飲みながら、
笑って歌って楽しんでいた曲なのでしょう。

小林幸子の「もしかしてパートⅡ」とか、「男と女のラブゲーム」だとか、
80年代の歌謡曲デュエットを今聞いてみると面白いですね。
男の世界、女の世界っていう陰陽のコントラストが明瞭です。

古き良き昭和のドラマが眼に浮かびます。


(あくまで一般的にですが)景気が良すぎて経済が急成長している時ほど、
多くの男性は人格が伴わないまま、プライドを高くしてしまうような気がします。

きっと時代に流されたゆえに、
傲慢な男も(一時的に)たくさん増えたでしょうし、
自尊心の低い女性ほど、
そういう男に愛されることに自己肯定の根拠を依存するので、
男女の悲劇(喜劇?)も増えたでしょうね。メディアも煽るもんだから・・・

時は高度成長の絶頂からバブルへ。日本経済が最も強かった時期。

ある意味で、お金ほど世界観や観念を歪ませる劇薬はありません。

後遺症も含めて、
男と女、お互いに”精神的に”苦労したんだろうなぁ・・・とお察しします。



一方不景気になるほど、
既存の枠組みが時代遅れになるほど、
人間として普遍的な、本物の生き方しか輝けません。

インターネットによってますますそうなっていく。

今は良き時代です。



戻ります。

三年目の浮気のサビの抜粋。

3年目の浮気ぐらい 多めにみろよ
ひらきなおる その態度が気にいらないのよ


3年目の浮気ぐらい 多めにみてよ
両手をついてあやまったって 許してあげない



「みろよ」が「みてよ」になってるという細かいユーモアも、
「ゆるしてあげない」の言い回しも絶妙です。
「ゆるさない」や「ゆるせない」にはない決定的な含みがあります。


と、表現の上手さをどうだと取りあげたかったのではなくて・・・



そう。



「ゆるすこと」




人が人をゆるすということについて、真面目に考えたい。


その意義と機能についてです。


僕の考える「ゆるし」とは、自分と世界に対する信頼ゆえの、明晰な意志。

正当性とは無関係であり、

罪を悔いて、精神的に償えば、その罪を外してあげるよ、という要求や取引はありません。



正義に同化して(悪というレッテルを張って)裁かないことについて。

自立への意志と、分かち合う意志によって、本当のゆるしができる、ということについて。

事例をあげながら、真剣に考えてみようと思います。


さらには、
人をゆるすことが、自分を誇り高く自由にする行為であり、
極めて生産性の高い生き方であり、
事業経営においても合理的である、ということも触れたいと思います。