2013年2月26日火曜日

遥か遠くの地では残酷な日々が続くのに

確定申告の時期ですね。

去年の転職を期に、
今年からは年末調整で済まさず自分でやります。

そこで寄付金控除を申請します。
先日領収証として寄付証明書が届きました。

まぁ金額自体は少ないんですけどね。
3月から毎月1000円ずつ、合計で1万円でしかありません。
ただ大切な思いを込めたお金です。
自分の信念と志をかけて働いて、大切なお客様より頂いたものですから、
心から共感するところへ託したい。

志だけは富士山よりも高かった元金融マンですから、
お金の流れの意味付けには関しては結構シビアです。


援助先はというと、
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)です。
正確には日本における公式支援窓口となっている国連UNHCR協会です。


UNHCRは1950年に国連によって設立。
スイスのジュネーブに本部を置く、難民の保護と支援を目的とする専門機関です。

以下公式サイトによる説明の抜粋

UNHCRの財政
UNHCRの事業は主に政府による任意拠出金、さらに一般市民や団体などから集められた寄附金により成り立っている。また運営管理費の一部として、限定的ではあるが、国連予算より拠出金を受け取っている。
2012年現在で、追加支援事業も含めたUNHCRの年間予算は30億5900万米ドルである。2011年の主要な拠出国はアメリカ合衆国(6億9800万米ドル)、日本(2億2600万米ドル)、欧州委員会(1億3300万米ドル)、イギリス(1億2000万米ドル)、スウェーデン(1億1800万米ドル)となっている。

UNHCRの現在の活動
2012年現在で、UNHCRは125か国に414の事務所を展開し、7685人の職員が勤務している。そのうち86.8%以上の職員は危険地や遠隔地を含む現場で働いている。
人道危機がさらに複雑になるにつれて、UNHCRは国連諸機関や600を超えるNGOを含む様々な機関と協働関係を拡大している。


第8代国連高等弁務官(1990-2000年)を日本人の緒方貞子さんが勤めていました。辞めた後、外務大臣として各方面から期待されていましたが結局なりませんでしたね。政界は嫌だったんでしょう。ちなみに曾祖父は犬養毅だそうで。



毎月寄付していると、活動報告メールと自宅に紙媒体で「With You」というニュースレターが届きます。ただ公式サイトで同じ情報を閲覧できますし、レターもPDFでダウンロード可能なので、国際紛争や難民、世界の貧困の現実に関心を寄せる人だとしても情報面で特別なメリットは一切ありません。

そもそも、僕は寄付を好みません。
寄付ってバランス悪い気がするんですよね。
一方的で持続性がないから。
お金の使われ方の質、使う人のパーソナリティ、
その事業性をきちんと問う必要があるとも考えます。



さて私たちは、
世界の貧困や暴力の惨事を思って一体何ができるでしょうか。


少なくとも寄付(金の提供)は二の次でいいと思う。

マザーテレサはノーベル平和賞を受賞した際のインタビューで、
「世界平和のために私たちは何ができますか?」と聞かれてこう答えました。

「家に帰って家族を愛して下さい」

What can we do to promote world peace?
Go home and love your family. Mother Teresa


家族サービスでディズニーランドに行って、世界平和のためでもあると胸を張っていい。
世界とは自分であり、
その平和とはあなたの心の平和なのだから。

ディズニーランドで入場料払って飲食して、
帽子かぶって一日中遊び回って、
帰りにプーさんの缶に入ったクッキーを友人や職場にお土産として買って、
合計一人頭10000円使ったっていい。
オリエンタルランドのスタッフのサービスレベルは最高です。


それはそれとして。
例えば難民支援の現場で、
その10000円で何ができるでしょうか。

  自然環境が厳しい中で必要不可欠な毛布7家族分・・・3000円
  避難中も子どもたちが勉強できるように教科書10人分・・・5000円
  毛布やビニールシートなどの緊急避難生活セット10家族分・・・10000円
  厳しい生活を続ける人々の食事66日分・・・20000円
  厳しい自然環境の中、家族が身を寄せ合えるテント1張り・・・36000円


もっというと、
25000人が毎日餓死しています。FAO(国連食糧農業機関)より

夢と魔法のエンターテイメントが繰り広げられている同じ世界の空の下で、
そういう現実も同時に起こっている。

と言われても別に罪悪感を感じる必要はありません。
少なくとも僕は感じません。

ただ私たちの住む人間社会がバランスを大きく欠いている、と感じるのは確かです。

この事実を知ってなお、寄付は気が進みません。
第一に、
世界に最も貢献することとは、
まずは自分が置かれた立場から自立することであり、
自分を中心に幸せの実感が広がることだと信じるから。

第二に、
お金というものは人間社会トータルで健全さを保つ存在であるので、
局所的なアプローチは対症療法であり効果がないから。
稼ぎ方、預け方、使い方、その前後左右の循環のあり方のバランスを捉えた科学的アプローチでないと、現実は変えられないと思う。

バランスを欠いた現実の埋め合わせとして、
バランスを欠いた寄付をし続けてもダメ。

個人の人生も国家財政もまったく同じですけどね。


では何故寄付をしようと思ったのかというと、
駅前でブースを構えて一人寄付を募るNPOスタッフの女性の心意気に感動したから。

彼女は僕よりも2歳ほど年下でした。
大学卒業後に食品の商社に勤めたが、
安全な食と世界の難民に対する関心はずっと高くあり、
本当に自分はこのままで良いのかと考える日々が続いたらしい。
最終的に仕事を辞めてUNHCRのNPOスタッフとなることを選んだ。
自分の思いと感じるものを信じて。
そして世界中の難民キャンプの現地に何度も足を運んでいる。

話を聞くほど、純粋な思いで突き動かされていて、
皆に知ってほしいとの願いが伝わってくる。

「救っているようで、私が救われている。」と言う。

僕はというと転職先の二次面接の帰りでした。
食品の販売、卸、レストラン事業、個人宅配といった食に深く携わる会社です。
彼女の経歴と情熱にとても共鳴してしまったんですね。
応援したくなったんです。心から。
世界を良くしたいと思って行動する同じ仲間として。
だから寄付を決めました。

あれから一年。
名前も忘れてしまったけども、今も元気にしているだろうか。


遥か遠くの地では残酷な日々が続くのに こんな僕達
ちっぽけな壁を目の前に立ちすくんでるような
海の向こうの空 赤く染まる頃 こんな僕達
ちっぽけな壁なんざぶちこわして つぎのこと始めよう さあ
Dragon Ash Viva La Revolution より

高校生の頃聞いたドラゴンアッシュ。
あの頃、降谷建志が格好良く見えてしょうがなかった。
難民や飢餓の現実なんてのを思ってこの詩を書いたんだろうな。

ちっぽけなことに捉われて苦しんでるとき、世界に思いを馳せてみるのもいい。
怖れないで、勇気を持って踏み出そう。
一緒に俺らの時代をつくろうぜ。

っていう若者へのメッセージがある。

僕も今同じことを思っている。

あなたと一緒に次世代の社会を担いたい。

2013年2月24日日曜日

人間を描けているかどうか

ワンピース好きですか? 


今では一巻出るごとに400万部以上販売され、累計では2億8000万部を超えます。
少なくとも記録では断トツで史上最高の漫画、という地位です。

でもそんなことはどうでもよくて、とにかく面白いんです。

で、なんでこんなに魅力的なんだろうって考えてたら思いだしたことがあった。


尾田さんは以前ある雑誌でバガボンドの井上雄彦さんと対談してました。


そのときに井上さんが凄く良いこと言ってまして、


「結局は、人間を描けているかどうかだと思う」


井上さんは人間を描くことを最も重んじて創作活動をしていらっしゃる。

なるほどなーって凄く納得しました。確かにスラムダンクのキャラは人間くさくてイイ。

このヒントをもらってから作品を見る度に確信していったことですが、
アートのクオリティの中で一番パワフルな要素とは、
人間のリアリティ。
人の心を最も強く震わせたり、
奥深い味わいを楽しませてくれるのは、
人間の真実なんだ、と思うようになりました。

今ではシンガーソングライターでもクリエイターでも事業家でも、
本物を見抜く基準になる考え方だと思っています。

上野でやってた「最後の漫画個展」、
バガボンド好きの親父と僕の二人で行きましたが(笑)
ほんとうに天才だなって実感しながら語り合ったのを思い出します。


で尾田さんの話に戻りますね。wikipediaより引用です。

「ONE PIECEというファンタジーの世界で、どこかにリアリティを求めるとすれば、それは人間の感情だと思っている。そこはしっかり守っていかないと、全部嘘っぱちになる」
『ONE PIECE 10th Treasures』(2007)より

『ONE PIECE』は当初5年で完結させる予定だった。新しい島に行けば新しい仲間がいてすぐに仲間になってくれるから、1年半で仲間は全員集まるだろうとゲーム感覚で考えていたからである。ところが、キャラクターたちはゲームではなく、人間だった。麦わら帽子をかぶった手足が伸びる人間が現れて「海賊になろう」と言われても、仲間になってはくれない。相当なエピソードがなければ、仲間になろうとは思えない。そこが大きな誤算だった。
『ONE PIECE ぴあ』(2010)より


要は井上さんと同じで、「人間を描くこと」を最も重んじています。
ストーリーの展開というのは二の次で、
それは人物を描く延長線上に繰り広げられるにすぎないということでしょう。


僕がワンピース作中において、
尾田さんのこだわる人間のリアリティを一番感じるエピソードはロビンの話です。

ウォーターセブン&エニエスロビー編を思い起こして下さい。


ロビンは何故、麦わらの一味を裏切ったのでしょうか。


自分の命を犠牲にしても、仲間であるルフィ達が大切だから。


ではありません。
何度助けに来ても、
それを拒むしか出来なかった本当の理由は、


それほど大切な仲間に、
自分の存在を重荷に思われて捨てられるのが怖かったから。


これが永遠に続けば、どんなに気のいいあなた達だって、いつか重荷に思う!
 いつか私を裏切って捨てるに決まってる!
それが一番怖いの! だから、助けに来て欲しくもなかった!
いつか落とす命なら、私は今!ここで死にたい!

 
それを聞いたゾロが「そういうことか」と納得します。


ルフィ「ロビンの敵はよくわかった」

ルフィがそげキングに世界政府の旗を撃ち抜かせて宣戦布告します。


ロビン!!

まだお前の口から聞いてねェ

「生きたい」と言えェ!!!

世界中の正義であり最高の権力と武力を誇る世界政府に、
ロビンは家族と故郷の人々を見せしめで皆殺しにされています。
その後8歳にして高額の賞金首にされて追われ続けながら、
世界の闇に立ち向かう運命を一人で抱えてきました。

歴史の真実を知りたい。
だってお母さんも博士たちも皆、その為に死んでいったのだから。
世界の真実に近づく者ほど正義の名の下に殺されるのだろう。
もうオハラを背負うのは私しかいない。
でも仲間を巻き込むわけにはいかない。
真実を求めるオハラの精神を背負い、
悪魔の子として孤独に生きざるを得なかった人生を振り返り思う・・・


(生きる…!?

望んではいけない事だと思ってた…

誰もそれを許してくれなかった

もし本当に少しだけ望みを言っていいのなら…私は)


生ぎたいっ!!!

私も一緒に

海へ連れてって!!



サウロがクザンに凍らされる寸前に言ってましたよね。
母を失い、燃え盛る故郷から逃げる絶望の淵で。

よく聞けロビン・・・
今は一人だけどもよ・・・・・・・・!!


いつか必ず
〝仲間〟に会えるでよ


海は広いんだで・・・・・・・・
いつか必ず!!!

お前を守ってくれる〝仲間〟が現れる!!!

この世に生まれて
一人ぼっちなんて事は
絶対にないんだで!!!!


どこかの海で・・・
必ず待っとる
仲間に会いに行け!!!
ロビン!!!!

そいつらと・・・・・・
共に・・・生きろ!!!




何故この人物はそういう生き方を選択せざるを得ないのか、
という理由にこそ、
人間の真実を描くチャンスがあります。


尾田さんがワンピースで過去編を描く理由はそこにあるんじゃないでしょうか。
過去と今をつなげると、人物の信念と生き様を表現できる。
人間性がより深く、よりリアルに描かれて、
話の展開の説得力が大幅に増して面白くなる。


孤独を生きるしかなかったロビンが、ルフィ達の仲間になって初めてそうではなくなった。

一度捨てた命も…!失った心も、途絶えた夢も、みんな掬い上げてくれる。
こんな私を信じてくれる仲間ができた。

自分を本当に受け入れてくれる人。
自分を本当に信じてくれる人。
だからこそ、捨てられたくないロビンの気持ち。

痛いほど分かりますよね。




全てを明かさざるをえないほど、信じて踏み込んでくる仲間。
過去のトラウマも、背負った運命の大きさも知った上で、
助けを拒むのは捨てられることへの怖れであるという本当の理由を知った上で、
仲間であり続けるとは明確に世界を敵に回すことだと理解した上で、
なお一味全員が受け入れてくれることを示してくれた。



だから「仲間」に向かって「(ともに)生きたい」と泣きながら言えたロビン。

良く分かりますよね。その気持ち。


ロビンの真実が明かされて
ルフィ達がそれを全力で受け止めたこの41巻のストーリーを読んで、
僕は泣いてしまいました。ワンピースで唯一泣いた。


ああそうか、書いてて今気付いた。

人が人を救う。
心で心を救う。

僕はそういう人間の真実が大好きなんだ。
このシーンは作中で最も、
人が人を救うというリアリティが表現されているのではないだろうか。

「そういうことか」とつぶやいてゾロが腑に落ちたシーンをわざわざ挿入したのは、
描きたいリアリティのポイントはここだと尾田さんはあえて示しているのだろう。


読者は話の展開を読むのではない。
話を展開させる人物を読んで、創作された世界を体感する。


人間を描けているかどうか。
作品も世の中も、そんな視点で読んでみたらどうでしょう。

2013年2月23日土曜日

あるがままの心で生きられぬ弱さを

ミスチル好きですか?


一番好きな歌はなんですか?


僕は名もなき詩です。

流れるとテンション上がります(笑)


去年妻にCDを焼いてプレゼントした、
「ふたりの思い出の曲集アルバム」の一番目の曲でもあります。


その中に素敵な歌詞があります。


「愛はきっと奪うでも 与えるでもなくて 気がつけばそこにあるもの」

ではありません。


僕はこういうの、なんかダメで。綺麗なフレーズでいいんだけども・・・
だって経験的に、気がつけばあるってほど容易いものじゃないでしょう。
人間関係の最も深いテーマだからね。

そんな悠長なものじゃなくて、はっきりと意識してありうるもの。
ありのままの心地よさと同時に、厳しい信頼と信念に基づいてありうるものだよ、みたいなことをごちゃごちゃ言ったら妻に偉そうだと怒られました(笑)

まぁそういうやり取りが面白くて幸せなんですよね。
欠けがえのないひとときです。

話がそれました。僕がこの歌で一番好きな歌詞は、


「あるがままの心で 生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしている」



すごく本質に迫って、人の弱さが語られているんです。


強い人になりたいと、皆そう思いますよね。

強い人ってどんな人かと言われれば、
一つの答えとして、
あるがままの心で生きている人でしょう。


正直に生きる人。
後ろめたさなく、信念を貫き続ける人。



では弱い人とは、
あるがままの心で生きられていない人のことでしょうか?

そうじゃないと思います。

僕はそこではないと思う。

あるがままの心で生きられないことは嫌というほど経験していきます。
そのたびに、それは自分の弱さゆえであるとして、自己と向き合う人は強いのです。
少なくとも強くなっていく。

しかし自分らしくいられない苦しさを、
自分の弱さだとは認めず、
他人のせいにしてしまう人が弱いのではないでしょうか。

自分の卑怯さを。未熟さを。醜さを。エゴ。依存。
人は都合の悪い自己の真実を見たくないから。

しかしどんなに他人のせいにして避けても、
自分を偽り続けることはできず、
いつか必ず向き合わざるを得ないように人生はなっている気がします。

ミスチルの桜井さんは、人の弱さを知っていて、痛みを共感してくれて、
希望とともに優しく励ますように歌ってくれますね。

「知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中で もがいているなら 誰だってそう 僕だってそうなんだ」


あるがままの心で生きる強い人になりたいと思う。
今それができぬ弱さを、人のせいにしないで、自分と向き合い続けていこう。
誰もがそう。僕もそうなんだ。

桜井さん、素敵なメッセージをありがとう。

2013年2月21日木曜日

背負う覚悟の分だけ可能性を手にしてる

あなたは日々、何を背負っていますか。


仕事で。

家庭で。

人生で。



表題は浜崎あゆみの曲、surrealの歌詞です。

なぜか頭に残ってて、時々思い出してしまうフレーズなんです。



「背負う覚悟の分だけ 可能性を手にしてる」


良い言葉ですね。本当にその通りだなぁって思います。


覚悟なしに可能性は開けませんから。


ただし、大きいものを背負えばいいというわけでもない。

自分以上のことを気負って背負ってしまう人って、
他人に価値観を押し付けたり、善悪を裁いて正当性を強調したり、
余裕のない人になりがちです。

恥ずかしいですが、僕の経験上。ほんと粋じゃない。


背負うときは、重心が大事です。

大きなものを背負って、重心がグラついて歩けないようじゃ元も子もない。
ひっくり返すことになって、大切にしたいものを逆に壊してしまう結果になりかねない。
いや、
壊してしまうことよりも悲惨なのは、
一番重荷を背負ってるのは俺なんだからと、
もっと大義を感じて感謝して俺を認めて支えてくれよって
周囲に正義なるエゴを強いること。

重心は常に、
人に置く。
自分に置く。
今ここに置く。


あなたは何故「それ」を背負うのですか。


この問いを常に自分に向けて、
そして「いま」に突き詰めていれば、
十分なのだと思います。


背負うということ。
うまく書ききれないのはまだまだ自分が未熟だからです。
頑張ります。

今を問う1 教育現場について

産経ニュースより抜粋

「体罰」を考える (2013.2.18 11:00

「ターイバツ、ターイバツ」の連呼が響く教室 苦悩する教育現場

 静岡県の高校教員の男性(26)は、大阪市立桜宮高校の問題が発覚して以降、ささいなことでも生徒たちが「体罰だ、体罰だ」と口を出し、きちんとした指導が行き届かない状況があることに触れていた。

 同様の指摘はほかにもあって、先生がちょっと怒っただけでも「ターイバツ、ターイバツ」と連呼するクラスがあるという話も。戸惑いながら生活指導にあたっている先生たちの様子が浮かぶ。

 「一番懸念するのは、先生たちが問題ある児童生徒の担任を避けることです」山口県の公立小学校教員の意見だ。問題行動を起こす児童や生徒に対する生活指導は苦労が多い。必要な指導であると確信した行為だったとしても、それが「体罰」として露見すれば処分対象になる。

 この先生は指摘している。「誰しも火中の栗を拾って自分の評価を下げたくない。特に小学校では高学年の学級担任は生徒指導上の問題も複雑になり、仕事は大変になる。これからは高学年の担任を希望しなくなるのではないか」






あなたはこのニュースを見てどう思いますか?

誰しも雑感はあることでしょう。「ターイバツ」「ターイバツ」と言って現場の教師を馬鹿にする子どもたちが目に浮かんだことでしょう。

先生の気持ちになると単純に可哀そうだったり、学生に腹を立てたくなったりします。中には体罰の是非や、校則の厳罰化を議論したくなった人もいるでしょう。なかなか上手い切り口の記事です。


ちょっと問題解決を明確な目的として、
真面目に思考してみたいと思いますね。

僕は普段テレビを見ませんがネットニュースは見ています。
いろんなニュースを見るときの視点はいつもこうです。

①つまり何が問題なのか。
②何故そのような問題が起きるのか。根源の根源を探す。
③ではどうすれば(どうあれば)解決するのか。



さて。
このニュースを見て、つまり何が問題だと思いますか?



以下は僕の意見を。

①教育の目的に対して、そもそも学校が機能不全であること。

「体罰」という言葉をタテに生徒が指導を困難にさせているというのは、
体罰事件をきっかけに氷山の一角が見える形で現れたに過ぎない、と思います。

教育の目的は何か。
学校の機能とはそれを合理的に実現することです。

この原点を考えることから問題は解決します。


教育の目的って何だか分かりますか。
実は定義はあります。
昔っからちゃんと法律で決まってます。

教育基本法の第一条【教育の目的】と第二条【教育の目標】です。

第一章 教育の目的及び理念

(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


かなり良いこと書いてありますよね。この文言、僕は大好きです。

先生を含め学校教育の責任者たちにお尋ねしますが、
教育現場において目的と目標をちゃんと共有していますか。

先生同士はもちろん、生徒たちやその親たちとです。できれば地域の大人たちともです。

だって、目的と目標を共有しないで上手くいくことなんて絶対にありませんから。

共有していますよ!と、
胸を張っていえる教育関係者の方々にさらに問います。
教育基本法の第一条、第二条をどう思われますか。

人格の完成ってなんですか。
例えばどんな人ですか。
知人や歴史上の人物でも、具体的なイメージを持っていらっしゃいますか。
生徒に説明できますか。
それをブログで実名で公開できますか。

平和で民主的な社会の形成者として、必要な資質ってなんだと思いますか。
どんな人間社会が健全で望ましいと考えていらっしゃいますか。
平和で民主的な社会の形成者の一人として、自分なりの社会ビジョンがありますか。
心身ともに健康な人って、どう育成するのがよいと考えますか。

真理を求める態度ってなんでしょう。
豊かな情操と道徳心を育むには、どんな経験が有意義でしょうか。
個人の価値を尊重するとはどういうことでしょうか。
創造性ってなんですか。
勤労を重んずる態度はどうしたら備わると思いますか。
良き勤労とは何ですか。

・・・と質問攻めしてごめんなさい。
本当はまだまだ続きますが、それだけ自分の言葉で考え尽くしていましたか。
なお且つ、日々の仕事の質や生徒との接し方に反映させているというのであれば、それは堂々と胸を張ってほしいと思います。

教育基本法の精神を体現している先生ってそんなに多くありませんよね。

ただし基本法の言葉は素晴らしくても、ただの言葉でしかありません。
そこに魂を吹き込んで、生徒の心をふるわせる説得力を生み出せるかどうかは、先生の生き方そのものから伝わる本物さ次第です。教育の目的に対する情熱と生徒への愛が、本物かどうかが問われると思うのですが、いかがでしょうか。

学校制度のデザインの責任者である文科省の方々にもぜひ意見を聴きたいところです。


一番大事なことは目的を徹底的に突き詰めることです。
まず思考で。次に行動で。

毎日そんな孤独な精神作業を積み重ねて、
ビジョンと行動の質をせっせと磨き続け、
仕上げに「流れをいかにつくるか」という合理的な戦略を練っていく。


だから目的を問い続けることです。

あとはさらっと書いていきます。


②問題が起きるのは何故か。
学校教育の本来の目的を遂行する機能を高めれば、体罰のきっかけとなる生徒の問題行動も自ずと消えていきます。逆を言うと、いつまで経っても教育の現場が教育の目的を本気で遂げようとしないのなら、問題は起こり続けます。

身も蓋もない言い方になってしまいますが、「解決すべき問題だ!」と口にすべき問題であっても、自らが解決する問題であると信じてはいないのではないでしょうか。

その状態のまま表面的に体罰を完全に排除すると、
行きつく結論はこうなります。

体罰以外で強制力のある措置が必要であり、ルールの強化と厳罰化をしなければならない。


果たしてその先に教育の目的の実現があるでしょうか。

中には僕の言い方に気を悪くされた方がいるかもしれません。
①で述べたように、大切なことは現場の大人の生き方なんです。
教育の目的と目標の内容を意味のあるレベルで伝えよう共有しようと、
生徒に愛と情熱を本気で傾けているかなんです。
問題があるとされる若者や親たちは、
そんな本気の生き方をしている教育者を目の前にしても、
本当に耳を貸さないものなのでしょうか。

僕の経験上、若者が耳を貸さないのはどこかで見抜いているからです。本気ではないことを。

保身より教育の目的を優先させるかどうかが、問われているのではないですか。

「ターイバツ」と馬鹿にされる時だけではないですよ。
24時間365日問われているということです。


③最後にどうすれば解決するか。
オープンにしたらどうでしょう。

教育現場の不健全さとは、先生と生徒の在り方の不健全さと同義です。
それは隔絶した閉鎖性ゆえの歪みがあるからです。
体罰も、いじめも、
隔離すればするほど自ずと生じやすいんです。人の心が歪むから。

実名で自分のプロフィールをさらしながら、あるいは大勢の不特定多数の大人の前で、
いじめる言動や理不尽なクレームを言う人がどれだけいると思いますか。

公の場に対して実名であるということは、
人として相手を思いやり、責任あるメンバーの一員として全体を思いやる姿勢で、
自己と公共の利益をバランスさせた言動をしなければ道理のないことを皆分かっているんです。
小中学生でもです。

不平不満の感情をそのままぶちまけるクレーム、いじめ、体罰等、
先生も生徒もその親も、おかしな言動の全ては秘匿性に起因します。

もっといえば、企業の不祥事も、政治家の二枚舌も、
あらゆるものをオープンにするそれだけで大幅に減ることでしょう。

大人も子供も同じで、嘘やズルを平然とするのはそれが可能である環境かどうかに左右されます。心理学的にもそのようです。

あらゆるものを実名主義でオープンにしていけば、
生徒、先生、親の在り方だけでなく、
学校という組織の歪みも含めて教育全体が健全なあり方を取り戻すんじゃないでしょうか。


オープンにすることで、
外に向かって自分のあり方を問われるようにするよりも、
内にこもって罰則やルールをこねくり回しがちなのは何故でしょうか。
罰則やルールの方が嘘を許容してくれるから、
という無意識の本音からではないことを願います。

オープンであるほど、保身や自己利益を優先する嘘と争いが生じにくくなる。
個人も集団も、生き方も事業も、
正直であることが目的に対して最も合理的で生産性が高いと僕が考える所以です。

2013年2月19日火曜日

人が人を評価すること

あなたはどんな人を評価しますか。



人が人を評価するっていうのは本当に難しい。
人は多くの面を持っています。
相手次第で見せる面が異なり、立場によって振る舞いを変える。
その時々の気持ちの状態によっても全然違うものです。

あの人の性格はああだこうだといっても、
その個性や感性は、誰にも見せない過去のトラウマが本人すら気付かずに複雑に絡んでいたりもするわけですから、その人の歴史の奥を感じ取らずに分かるともいえません。

夫婦や事業のパートナーとして数年間にわたって運命共同体を続けて、
あぁようやく分かる範疇になれたと思うくらいで丁度いいかもしれません。
経験の共有の積み重ねと、時間経過の熟成過程がどうしても必要です。

ただ評価する目的を限定すれば話は別で、スポーツや仕事のパフォーマンスの高さに限定すれば評価はしやすくなります。結婚でさえも、その目的を機能的に限定するほど、価値基準は明確になりますから評価は簡単になります。お見合い相手の条件検索のように。

ただそれは人ではなく利害を見た関係です。人間関係を目的ではなく手段にする考えなので注意しないと自分に返ってきます。ギブ&テイクの取引関係であるとお互いが自覚している場合なら大人のあり方としていいのかもしれませんが。

相手の評価の範囲を都合よく狭めれば、
強い精神的な絆を求めるほどに矛盾します。
向き合うことよりも評価に関心を向けるなら、
正直な関係性を失っていくでしょう

家庭も会社も国家も世界も、すべての人間関係に共通することです。
パートナーシップを望んでもそれが難しいのは、人物のトータルを見ないと機能しないから。人が人を本当に「見る」とは、赦し受け入れる過程を必ず含みます。

人は、自分の価値観でいっぱいいっぱいの寛容でない人には本音を打ち明けないものです。自己の価値判断をそのまま他者にぶつけるような態度に対して、適当な愛想笑いをしながら心を閉ざします。心をオープンに引き出せないならば人物を評価することは不可能です。人を評価するといっても、見せてもらえるから見えるわけです。本当に深いレベルでは。

人が心を打ち明けたくなるのは、要は大人な人。厳しさと優しさと洞察力を兼ね備えた人。自分のダメさも弱さも良さも、ありのままを見抜きながらもあえて評価を下さず、良く聞いてくれ、良き問いを投げかけてくれる人。そんな人に心を開きたくなるのではないでしょうか。

だから、人を評価することの意味を高めるほど、あるいは深めるほど、
人間的な成熟が肝要なんじゃないかと僕は思うんです。人を見るということを突き詰めれば、相手から真実を見せてもらえるに値するかを問われるということですから。

・・・とここまで言っておいてなんですが、評価という思考スタイルはあんまり使わない方がいい気がします。より大切なのは、どう評価するかではなく、どう信じるかですから。




一方で社会的な評価はどうでしょうか。

人が人を評価するとき、どんなに公正中立であろうとしても現在の自分の投影でしかありません。今の都合でコロコロ変わってしまうものです。リアルタイムで社会が下す評価もそれと同じで、その時々に生きる人々の都合と常識の投影でしかなく、気分や雰囲気でレッテルを貼る場合が多い気はします。少なくとも短期では当てになりません。

例えばホリエモン。新興IT起業ブームに沸く2005年頃、株式分割を繰り返して市場を煽ったり、球団買収やニッポン放送ごとフジテレビ買収を試みたことなどで知名度を爆発させます。マスコミだけでなく政治家もその人気にあやかってました。当時自民党幹事長の武部さんなんて選挙の際に我が息子と称したり・・・。たしか立教大学の尊敬する経営者ランキングで5位以内に入ってましたね。松下幸之助とか錚々たるメンバーと並んで。時代の寵児から一転、粉飾決算等の罪で逮捕されてどん底を経て今に至りますけど、意外にもその人気は復活してたりします。次世代を背負う若き経営者という評価ではなくなりましたが。

磔で死罪になったイエスキリストの評価は言わずもがなですが、天文対話という著書で地動説を唱えたガリレオも宗教の教義と社会秩序を脅かす犯罪者とみなされました。宗教裁判の見直しと謝罪の1965年まで。
彼より社会的な意味で賢かったコペルニクスは、地動説を出版したのは自分が死んでからでした。人生の集大成の所業を生きているうちに発表したかったに違いありませんが、世間は評価するどころか迫害してくるだろうことも分かっていたので、そっと真実を残して後世に託したのでしょう。権力体制の依って立つ世界観を揺るがせば、組織の正当性を失うことを怖れる権力者たちは正義の名の下に暴力に走り、大衆はスルーか体制に迎合するのが普通でしょうから。

ただガリレオの社会的な意味で賢くない生き方も科学の発展に重要で、彼の真理を追究してやまない精神はニュートンを始め多くの科学者に受け継がれたことでしょう。より高い意味では愚かな宗教裁判はその啓示のために必要だったといえます。真実を求め表現しようとする科学者たちの覚悟を問うために。そして真実は社会に貢献して誇らしくあり、虚構は後ろめたく残ったのちに過ちとして認めなくてはならない、という史実を残すためにも。

僕が言いたいのは、社会も長期では人を適切に評価できるということです。それはなぜか。

人は賞賛に値するかどうかを考えるとき、スポーツやビジネスの成果自体の素晴らしさだけではなく、その成功の目的(動機)を問う必要があることを皆なんとなく理解しているからじゃないでしょうか。きっと深いところでは人は人として大事なものを問わずにはいられない。成功を単純にもてはやす反応はしますが、その成功した果てに何を為そうとしているのかを示し続けてもらいたい。社会は成功者の動機を問い続ける、といいましょうか。

結局のところ後世の人々が敬愛するのは、怖れや不安の動機ではなく、真実と愛を動機とした成功者です。出来事はそのどちらを体現するのか、試し続けるように起こります。

見える成果そのもの以上に、それを含めて伝わってくるトータルな人格を評価する傾向は加速しているようです。インターネットで繋がったデジタル情報社会とは、ますます人が人を評価し合う時代だと言えます。



補足。
天動説も地動説も実はどちらも正しいとも言えます。どちらであろうとも太陽は東から西へ沈むという現象は変わらない。地球を中心として捉える見方も、太陽を中心として捉える見方も、観察者の視点の違いだけ。どちらが正しくて、どちらが間違いであるという議論はナンセンスであり、重要な問いは「どちらの解釈がより合理性が高いか」です。選択する世界観が合理的であればあるほど、様々な現象がシンプルに説明できて便利だから採用しましょうよ、という話です。「全てが相対性の宇宙において、地球が動くということは天が動くということ」

2013年2月17日日曜日

現代社会の考察② 生産年齢人口の推移

あなたの世帯で働く人は何割ですか?

独身貴族も、子どもの居ない共働き夫婦も100%となります。

僕の場合3人家族で、妻と娘は働いてないので33%です。
妻は子育てが一段落したら仕事復帰を望んでいるので、いずれは66%になるでしょう。
共同体内の働き手の割合が高くなるほど、
生活水準は高く安定するので楽ですよね。

家計を左右する決定的要因ですが、これは国家経済もまったく同じ。
というわけで前回は「中央年齢」でしたが、今回は「生産年齢」に注目します。
生産年齢人口という言葉を知らない方もいるかもしれませんが、定義はとても簡単で、
15歳~64歳までの人口です。

生産年齢という言葉ですが、
お金を稼いでいるか否か、就業しているか失業中かは脇に置いています。
社会に生産的に関わるであろう人口を年齢だけで切り取る。
一見おおざっぱ過ぎますよね。それでいいんです。それがいい。
ちなみに日本では昔っから使ってる「労働力人口」の方が新聞等の記事でも馴染みがありますが、これは失業者の定義と調査を加味した概念であり、世界共通ではありません。

ここで二つ質問。
日本の働き手の人数はどのくらいか。
総人口に対する割合はどのくらいか。

答え8039万人。62.7%。


さて、詳しく見ていきましょう。

出所:国連 World Population Prospects: The 2010 Revision
生産年齢人口については総務省統計局




2013年2月12日火曜日

感謝ってなんですか。

心から「ありがとう」って思うのは、一体どんな時でしょうか。



少し考えてみてください。



傷ついて悲しみに暮れていたところに、優しい言葉をかけてもらった時。

寂しくて孤独を感じていたところに、暖かく寄り添ってもらった時。

絶望していたところに、救いの手と希望を与えてもらった時。

自己嫌悪になっていたところに、自分のありのままを受け入れてもらった時。

すごく欲しかった物が手に入った時。 バレンタインチョコとか誕生日プレゼントとか確かにありがたい。人によっては昇進や責任ある大きな仕事も、かな。


それぞれありますよね。
感謝にも大小があると思うので、人生で最大級といえるレベルの感謝を思い浮かべて下さい。
それはどんな時だったか。


僕が一番「ありがとう」を感じたのは、
妻から心のこもった感謝と喜びの手紙をもらい、それを読んだ時です。

私はあなたと一緒で幸せです、ありがとう、って言葉をもらって、
これまでの二人の出来事を振り返りながら、「僕も幸せです、ありがとう」ってしみじみ思った時。
涙が止まらないほど嬉しくて、幸せでした。


これまでの深い感謝たちを振り返って思ったんですが、

ひょっとして、

感謝は幸せの実感と同時に出てくるものじゃないでしょうか。


不平・不満を感じている真っ最中に、誰かに「ありがとう」って心を震わせて思えるでしょうか。出来ないですよね。不幸を感じながら感謝は出来ない。
それは、不幸を感じながら幸せを感じる、ということがあり得ないからでしょう。
感謝は幸せから生じる。

ここで感謝とはなんだ?という問いの答えはひとまず、
「今幸せを感じている」という必要条件で成り立つ人間感情である、ということです。

平たく言えば、幸福感の一種です。

しかしそれは感情にとどまらず、
「伝えたくなるもの」
「表現するもの」
という行動を伴う意味合いが含まれます。


さらに考えてみます。

先ほどの手紙の例もそうなのですが、良い感じの感謝ってどうやら、
する方とされる方が「ありがとう」を同時に感じていませんか?

どうぞこれまでの感謝経験を思い出してみてください。

「あなたと一緒で幸せです。ありがとう。」
「こちらこそ。そう思ってくれて嬉しい。僕も幸せだ。ありがとう。」

「先生の指導の下で3年間頑張れて良かったです。ありがとうございました。」
「君たちと一緒にやってこれて本当に良かった。ありがとう。」


本物の感動を伴う感謝は、双方向性と同時性がある。
一方的な関係ではなく、深い人間関係によって生じる感謝の方が、幸福感だけでなく、人生に与える影響度も意味も大きいのではないでしょうか。

お互いが自分の幸せをもって、お互いの存在を喜んでいる。
理屈で評価し合っているのではありません。この場合の感謝ってまさに両思いのような喜びじゃないでしょうか。
頭で互いの関係性を肯定し合うのではない。
ハートで互いの存在を喜びあっている状態。
 

そう思うと、感謝し合っている関係とはやっぱり素敵ですね。

あなたが感謝していると言う時、もし頭で評価している割合が強いならば。
それは損得の域での「感謝」かもしれません。
もちろんそれも重要なことで構わないのですが、
自分の都合が満たされていることに意識の焦点を当てたままの「感謝」では、
受け取った相手が感動することはないでしょう。

なぜならその「感謝」の実態は、自分が得したことへの感謝でしかないからです。
自分の価値観の中で合理的に完結した感情にすぎないのなら、いかに美しく伝えようとも、相手のありのままを喜んでいるという意味はありません。心には届かない。

僕が言いたいのは、心に響く感謝。
幸せの実感をグッとつかんでそのまま直球で相手のありのままへ向けるような感謝。
受け手が直観で真実だと疑いようのない感謝のことです。

感謝をいつも言葉で確認する必要はないと思います。
いつも心に持っているかが大事ですね。
忘れがちですから。
それは必ず人間関係の質に影響します。

そう、感謝を忘れること。
これ、つまりどういうことでしょう?

感謝を忘れるとは、第一に自分が幸せでないこと。第二に、幸せだったとしても、他人の存在は自分の幸せとは関係ない、という意識で過ごすこと。第三に、自己の価値基準を手放さないこと。


妻に。娘に。親に。仕事をさせていただいていることに。押し寄せて起こる出来事に。目の前のチャンスに。縁に。世界を彩るあらゆる存在のすべてに。今ここに。


感謝する自分でいよう。全て繋がっているのだから。



今幸せである実感、
おかげ様という相手の存在に対する喜び、
感動されるほどそれを深く伝えたいという願い、
日常の生活と仕事の積み重ねでそれを表現し続けること。

そんな感謝の生き方をするのは簡単なことではありません。恥ずかしい話、僕がこれを書いたのは、自分自身が感謝の生き方を出来ていないと強く感じたからに他なりません。





最後に。

ありがとうの反対語ってなんだか知ってますか?

「当たり前」

だそうです。なるほど。




あなたは何に感謝していますか?

2013年2月9日土曜日

現代社会の考察① 人口統計が示す社会変化

いきなりクイズです。
日本の総人口って何人くらいでしょう?


これは簡単ですね。
最新の正確な値ですと、1億2746万人。


その全ての日本人を年齢順にずらーっと並べたとき、
ど真ん中の人の年齢っていくつだか分かりますか?


ちなみに・・・ど真ん中の年齢を中央年齢といいます。中央値(median)は平均値(average)と比べてばらつきに左右されにくく、直観的に代表っぽい値を知りたい場合は優れています。国連の世界各国の人口統計ではこちらを使用しています。


答え、44.7歳。


なんと日本は世界一の高齢社会でございます。 ちなみに2位ドイツ44.3歳、3位イタリア40.7歳。


さて、下のグラフを見てください。
1950年から2010年までの中央年齢の推移です。



出所:国連 World Population Prospects: The 2010 Revision
(国連のデータが使い放題の便利な時代ですね。エクセルで自分でつくるのってちょいと大変ですね)


ここから何がわかるでしょうか。いろいろ想像してみてください。

団塊の世代が生まれたのは1950年頃。
日本で最も出生数が多かった時代です。(250万人超。2012年現在は戦後最小103万人)
その頃はなんと22歳。
つまり今の中央年齢の半分の若さ。
大卒年齢ほどの彼らが社会において多数派だったわけです。


そして、僕の親父が生まれたのが昭和36年(1961年)です。
東京タワーはありましたが、東京オリンピックはこれから。
まさに時代は「三丁目の夕日」。このストーリーの舞台は1955~1964年なので。
その頃の中央年齢は25歳。
ざっくり言うと、日本人全体の雰囲気は25歳だったんだろうなーというわけです。
幼少の頃に戦争を体験して青年になった彼らは人口のど真ん中に位置していた。当時の日本の大衆文化と経済において彼らこそ最も勢力を誇って牽引したと想定できます。

そしてその下からは若者がどんどん社会へ出てきて、日本経済は高度成長を謳歌し続ける。そういう空気が、中央年齢のグラフからもなんとなく伝わってきませんか?


そして今。ど真ん中は45歳です。
もう子育てが終わる頃。壮年期が終わり、中年に突入しようかという頃。
人生の酸いも甘いも経験してきた彼らの精神性が今の日本社会の重心です。
彼らの意識が牽引する文化と経済は、かつてと比べると精神年齢が相当高くなっています。

評判の高さではなく本物のクオリティを。
新しさではなく普遍性を。
量よりも質を。
期待よりも誠実と真実による信頼を。
新規開拓で売上拡大ではなくリピーターで安定高収益を。
成長ではなく持続可能な循環を。
物質的豊かさではなく人間関係による豊かさを。


物事のあり方と重んじるべき質が変わって当然なのです。
日本は22歳から45歳になったんですから。

重心に位置する年齢が成熟すれば、社会全体のありとあらゆる雰囲気が成熟します。
豊かさの意味合いが大人になって、
文化も経済もかつてないほど人間性の成熟を問うものが本流になってきています。

僕は早稲田の政治経済学部出身です。
証券会社に勤めていました。その土台の上で、
なお今も経済について誠心誠意考え続けた末の結論として、
もはやGDPを指標にした成長を目指すべきではありません。
ここははっきりと言い切りましょう。
根拠までは示しません。長くなりすぎますので。今回の社会の年齢うんぬんの話は、一部の一部です。

22歳から45歳になった我々の経済活動はもはや量よりも質なんですね。
お金の流れは、
量的に成長しなくていいんです。健全です。
問うべきは流れる量ではなく、流れ方の質にあります。
持続可能な循環、という視点が大事です。

ここを書くとあまりに語りたいことだらけなのですが、別の機会に託します。(僕の人生における最大の関心事の一つなのですが、なんせ資本主義とは?お金とは?という問題に関わり、タイトルのテーマをあまりに広げすぎてしまう。)


さて、話を人口統計に戻します。

100人の村っていう話をご存知でしょうか?

統計的な事実を、もし100人の村だったらそのうち何人はどうである、という表現で語られ、直観でとてもわかりやすいんです。世界中で話題になり書籍もベストセラーになりました。検索すれば出てきますから、ぜひ調べてみてください。

このアプローチは直観的理解を促すのにとても優れています。
次回、100人の村に例えて日本の大問題の一つを語りたいと思います。

2013年2月7日木曜日

コントロールと支配のからくり

仕事における人間関係において、
自分の正直な気持ちを抑え、我慢してまでルールや誰かに従うとき。
それは何故なのでしょうか。

人はなぜ正直でいられないのか。

お金をもらってるんだから当然じゃないか。嫌なら自分で独立すればいいのでは。
そこまで当然視しなくても・・・と。少なくとも僕はそう思わない。

皆が皆思う通りにやったり好き勝手言ってたら、家庭も仕事も社会もまとまるわけないんだから、守るべきルールがあり、立場の違いを重んじるのは当たり前じゃないか。
と思う方も多いでしょう。確かにその通りですが、僕が知りたいのは、何故働くということは正直と相反する必要が頻繁に生じるのか、という問いの答えです。やりたいことをやったり正直でいることが即、ルールや相手の立場を重んじることと相反するわけではないのですから。

むしろ働くこと自体は「社会貢献」のはずで、もしそれが真実ならば、正直でいられない理由の方が極めて特異で例外であってもおかしくないんです。だから論理を飛躍させずに丁寧に考えたい。

社会に役立つことなら胸を張っていたいですから。いつも健全な自分であるために。もっと言えば正直であることが個人の人生においても共同体においても、最も生産性が高いと信ずるからでもあります。だから改めてもう一度。

正直でいられないのは何故でしょうか。

立場のためでもお金のためでもないはずです。それらは手段なので。不平不満をため込みながらも手段を重んじるのは、目的の大切さゆえ。大切な何かを守るためですね。

自分の生命と尊厳を、
大切に思う人々の生命と尊厳を、
彼らとの素朴で豊かな安息の日々を守るため。

多くの人が頑張っている理由は同じ。行きたくない戦争へ行き命を落とす人も同じ。大切な何かを守るため。守ることと切り離せぬ代償として、やりたくないことをやる。やりたいことを我慢する。大義のために嘘もつく。

そういう自己犠牲に100%納得していれば、それは正直であるということなので問題ありません。自由意思の選択の結果であり矛盾がありません。

僕が知りたいのは100%納得していない大半のケースです。
実はその奥にあるのは失うことへの怖れではないかと思うのです。


守るとは、失わないことを意味する。
プライドを守る、家族を守る、会社を守る、国を守る・・・
人が守ると口にするとき、その裏にはどんな怖れがあるでしょうか。
不安や恐れは、何かに依存するほど大きくなります。
会社に生活を依存する。国家や宗教にアイデンティティを依存する。恋人に精神的に依存する場合も同じ。
これが厄介なのは、極めて少しでも失う可能性を感じてしまうと、不安に押しつぶされそうな日々が続く点です。命ほど大事なものならば、失う可能性が1%でもリアリティがあれば、断固回避しなければならない危機だからです。危機の中で穏やかな幸せがあろうはずありません。

守るために何かに依存するほどに、依存する手段を守る必要性は膨大になります。
手段が機能不全に陥っても固執してしまう。
守るとは抽象的で美しいフレーズですが、ほとんどの場合は、
他者と自分に対する不信と不安が根底にあると思います。


そんなの人間であれば当たり前?
確かにそうなのかもしれません。でも違う場合もある。重要な違いが。

失うことを怖れていい。不安でいい。
大切なことは怖れを自覚すること。怖れと向き合うこと。
その上で不平不満の生じ得ない選択をすること。

他人のせいにしない生き方をすると決めて気付いたことは、

怖れは向き合うことで消え、納得のいく正直な選択ができる。
心に不自由を感じるのは、怖れから逃げて依存するから。

続いて、コントロールする側について考えてみます。

組織のリーダーは危機感を訴えます。
このままではいけない。そんな空気が上から流れて充満します。

この危機からこの組織を守れなければ、あなたは大切なものを守れない、というメッセージが頻繁に出されます。

自己犠牲を厭う人は危機感がないか自分勝手だ。そういうムードは閉鎖性の高いコミュニティであるほど止められなくなる。食品偽装や有価証券報告書虚偽記載などの企業不祥事、情報統制の国家内、戦時中の日本を想像すると分かりやすいかもしれません。
もはや竹やりで飛行機を落とす訓練を強いられても大多数が反対しないこともあり得るわけです。

誰かをコントロールするときに有効なのは
怖れと不安の世界観を共有すること。その上で
私はあなたの不安を取り除く能力と術があると思わせること。

そしてアメとムチのばら撒きが効果を発揮します。ルールの厳格化と信賞必罰の見せしめによって、怖れの世界観はますますリアリティを増していき、不安と希望を分かち合う運命共同体の我々、という認識を互いに深め合っていきます。そうして、組織の大義と上の命令に順じて我慢することが自分のためである、という理屈を飲み込んでいく。

不安を取り除く側と見なされれば、あなたは上に立ち、
不安に反応し、不安を取り除いてほしい側であれば、下に立つことになる。

どちらの立場であろうとも、
権力とコントロールは怖れによって成り立ち、不安とともに強化されます。逆を言えば、

手段に依存しなくなったときに正直なれる

インドを植民地支配していたイギリス軍の圧政に対して、ガンジーが一切の暴力という手段を用いないだけでなく、相手の暴力手段をも怖れない精神を見せ続ける社会運動を選択したことは、極めて合理性が高かったんです。インドの独立という歴史が証明しています。支配から救ったのは、怖れない精神です。ガンジーがイギリスに管理統制されていた塩と衣服の生産を国産に戻す運動を起こして成功させたのは、1人1人の国民が依存をやめて自立心を養い、各々の心に抱く怖れの世界観を滅するためです。この辺はぜひ映画ガンジーを見てほしい。その中に非暴力運動について象徴的な台詞があります。

「彼らは死体は手に出来ても、服従は得られないのだ。」


良きリーダーは、自らは不安を感じないので組織に依存せず、他者の不安を取り除くために尽くします。権力は不要で人を動かす。
悪しきリーダーは、自らが不安を感じるため組織に依存し、他者の不安を煽ります。権力を拡大し人を動かす。独裁体制であるほど対外的な敵をつくり危機を煽るのが常套です。

前者は愛のリーダーであり、後者が支配とコントロールのリーダーです。
ガンジーとヒトラー、
キリストとカルト宗教、
リカルドセムラーとブラック企業経営者(セムラーはブラジル人気No1企業セムコの社長です)
自由(愛)か支配(怖れ)か、という真逆のリーダーシップです。

市場であれ会社であれ国家であれ手段です。
手段に依存している限り、手段を目的化せざるを得ない人生になる。

僕はというと、正直な人間関係を目的かつ手段として生活をデザインすると決めました。
正直な人間関係という手段が、目的化することは大変結構で素晴らしいからです(笑)


そろそろ簡潔にまとめをします。

正直でいられない理由は怖れ。
怖れを生じさせているのは依存。
怖れの世界観が支配する人とされる人を生み出す。

依存しなければ怖れがなくなり、
コントロールと支配が成立しなくなり、
正直な生き方が自ずと選択されていく。

2013年2月6日水曜日

情報の質ついて

自分や社会が変わるきっかけとなる質の高い情報ってどんなものでしょう。

もっと理想の自分へ。
もっと理想の社会へ。

どのように変わってほしいかは置いておいて、
「変わりたい」という思いは、個人レベルでも社会レベルでも皆が皆もっていることです。

だから政治家は声高に言います。
「改革なくして成長なし」 「We can change!」

変わること自体は全ての人が賛成ですから、反対のしようがない。

リーダーが本当に問うべき、そして示すべきは、
なぜ変わるか⇒どう変わるか⇒何を変えるか、なのですけどね。(ゴールデンサークル)


話は戻して・・・

人間が変わるとき、
社会が変わるとき、
「情報」は大きなきっかけになる。

何故なら認識を変えるから。

私はこういう人間である、という普段から思考の前提にしている「わたし」が、実はちょっと違うかもしれないと気付く。

私はこういう世界で生きている、という普段から思考の前提にしている「世界」が、実はちょっと違うかもしれないと気付く。

つまり情報が自分を変えるのは、思考・行動・習慣の前提にある自己観と世界観を変えるからです。

現代の政府や大手企業が情報発信とマスメディアを重要視するゆえんです。ヒトラーもその悪例でしょう。

それだけ情報は大事です。
あなたは、なぜ変わりたいのか、どのように変わりたいのか、何を変えたいのか。
社会を、なぜ変えたいのか、どのように変えたいのか、何を変えたいのか。
良くも悪くも、既存の自己と世界の観念を衝撃で壊してくれ、さらに再構築する際の材料になるからです。

良質な情報を貪欲に求めていった方が間違いなく自由で豊かな人生になるでしょう。


周りを見渡してみますと、固定観念に縛られているケースは相当に多い気がします。
~ねばならない、という不安を基盤とした世界観・自己観が現代人の心をガチガチに固定化しているようです。もちろん僕も含めてですが。

認識を改めれば個人も社会も変わります。
封建国家から民主主義の変革はまさにそう。

活版印刷に端を発するメディアの革新は、質の高い情報流通・蓄積・コミュニケーションを加速させ、世界を真実への気付きにいざなってきた。人間社会を発展させてきたのは、
人格を担保にした情報の流通・精査・蓄積でしょう。

今は素晴らしいことに史上最強のメディア、インターネットがある。
「認識を改める」情報の増加は加速し、いずれ臨界点を超えそうです。(ティッピングポイント)
スピリチュアル系で語られるアセンションという言葉と神秘性はあまり好みませんが、情報によって自己と世界の認識は大きく変わり、既存パラダイムのはらむ潜在意識の怖れの克服によって、次世代の生き方と社会モデルがはっきりと開けると思います。
僕には新しい生き方と社会モデルが少し見えています。

自己観と世界観は選択可能である、ということに気付いて実践してきた人は、正直であるがゆえに自由で面白い人生を送ります。自分と世界を問う試みに真っ最中。
彼らの発信する情報は、経験的ゆえに真実の純度が高く、心を動かすパワーがある。
僕はこのような情報を質が高いとみなします。

認識を高めてくれる情報の質は見極めたいものですが、センサーの精度は受け手の生き方によりますので、結局自分が問われるところです。

自分が変われば選択・採用する情報は変わりますし、
選択・採用する情報が変われば、世界と自分の認識変化を通じて自分が変わる。
これは僕の経験的に真です。

あぁ書いてて今気付きました。

情報を求めるとき、
あなたは何を求めていますか?
それは何故?

情報の質の前に、実はその問いの質が問われています。