2013年7月27日土曜日

今ここに生きる意味

10人の血の繋がっていない家族がいました。

いつもお互いの存在を分かち合っていた彼らは、心の底から満たされていました。

しかしある時を境に瞬時に記憶が消えて、家族であることを忘れました。不思議のうちに記憶を失いながらも、皆が力を合わせた方が全体として効率が良いことを彼らは知っていました。

「物々交換では駄目だ。全体として上手く機能する仕組みを考えよう」

そうして、取引の世界観に基づき、お金という信用の繋がりを活かすことにしました。


立場が生じました。

10人の消費者。
10人の労働者。
10人の資本家。
10人の国民。

それぞれの立場においては、合意する限りにおいて、
自分の欲求を、他者に要求することが公に認められます。

10人は自分の幸せのために、
ルールとTPOに応じて立場を戦略的に使い分けて、

置かれた立場における利益の最大化と、
コストの最小化と、
リスクの最小化に尽力します。

立場に帰属する権利・義務の不確実性や損得の変動に、
期待と不安を抱きながら、
たくさんルールを勉強して、予測して準備して交渉して合意して管理して、
練った戦略を実行して、その結果に一喜一憂しつつ、
反省と不満を飲み込んでは日々奮闘し、
トータルの自己利益の最大化を目指します。

そうすることが、
自分と皆の幸せの実現に向けて、
ルールに認められた「正当な努力」であり且つ「合理的」だからです。



途中からは、
国民として赤字国債を発行して、皆のためにお金を増やしてばら撒くようになりました。

消費者として、
労働者として、
資本家として、
国民として、

みんな喜びます。

ばら撒かれたお金は個人の貯蓄に回り、
資本家として貯蓄運用するため、銀行等を通じて次年度も赤字国債を買います。


毎年赤字国債を発行しながら、
お金がばら撒かれて、10人皆が喜んで、また貯蓄する。


それを延々と繰り返していくと、

消費者として、
労働者として、
資本家として、
国民として、

立場の利益を最大化することと、

一人の人間として幸せであることが、大きくかけ離れていきます。

自分の利益は、
「消費者」や「労働者」や「資本家」や「国民」に属する利益であって、
状況に合わせていかに質の高い立場を得るかを競わざるを得ません。
同時にそれらには義務や不安が膨大に付きまとっているのであって、
状況に合わせていかに質の低い立場を回避するかを競わざるを得ません。

いかに契約させるか、いかに合意させるか。意識は後ろめたく普請しています。

いつのまにか使いきれない商品とサービス、そして過剰な利便性に溢れています。管理しきれない権利と果たしきれない義務に溢れ、それらを巡って不和と対立が深まっています。

幸せを実感する「わたし」と「みんな」を実現するのに、実に不合理としか思えません。

(おかしい。変わりたい。変えなきゃ。)

そう思う人が大半になります。

しかし。

気付けば、みんな各々の立場に依存してしまっていて、簡単には変えられません。
それらの役割と権利と義務を、手放すことが怖くて、
自分を偽ってまでも執着している人が少なくありません。

自分の感情を押し殺して、他者に「消費者」「労働者」「資本家」「国民」という立場の利害への期待と不安を煽ってしまいます。自我と経済的立場を同化してしまうことで、他者にもそれを強烈に押しつけてしまう。お互い様に、建前と本音を分裂させる利害が一致してしまい、その連鎖によって『自由意思』と『自由競争』の名のもとに、自由を奪い合います。どんなに技術が進歩しても、物質的に豊かになっても、心が豊かになれません。弱者も強者も首が回りません。

そうして、不安と不満の感情エネルギーはたまり続けます。
表面化しない負の感情が、
互いに尊厳と正当性をかけた、精神的な生存競争に拍車をかけます。
政治的にも経済的にもボロボロに疲弊しながら争います。
争いのための仕事や義務は、人を傷つけて自分を偽るため、
自尊心を失わせて、臆病になり、攻撃的になり、人間不信を深めあう。
個人も社会も病んでいき、孤独と格差が激しくなっていっていく。

自分に嘘をつき、健康を害しながら奮闘し、愛を渇望する人だらけになっていく。


みんな、人として、ささやかで素朴な幸せを望んでいるだけなのに。


――――――――――――――――――――――

という、ちょっと救えない話が思い浮かびました。

現代社会の現状を考えると、こんな感じじゃないでしょうか?

少なくとも経済学とその理論が想定している世界は、
各自が立場の利益を競争を通じて最大化することで、最大幸福となる社会です。

その通りに、そっちへ向かっているのではないでしょうか?


あるがままに見れば、そこには最初っから最後まで、10の人間しかいません。
記憶をなくす前、家族として存在を分かち合っていた頃と、なんら変わらないはず。

本当は、消費者も、労働者も、資本家も、国民もいません。
それらはただの言葉、記号です。
そういう観念(フィクション)と自分のアイデンティティの同化を辞めればいいと思います。

そして問うんです。

その観念の、何が幻想で、何が真実であったのかを。

何が幸せの実現に機能するのかを。

観念を否定する必要はありません。

その機能の本質を、見極めて、定義しなおせばいいのではないでしょうか。

そういう提案です。

叡智を尽くして。議論を尽くして。
愛をもって、情熱と言葉の粋を尽くして、
本音で語り合えばいい。

そのプロセスを通じて、

国家が、民主主義の本質を取り戻すこと。
経済が、豊かさの本質を取り戻すこと。

人々が、人間であることの本質に還ること。


それが意識の革命、パラダイム・シフトです。





自分のリアリティと、物理的な現状を、あるがままに観る。

自分を偽らずに、他者の心と向き合う。


明確な信念をもってそのように行動し続けるのは、
利害の観念に依存した意識にとっては大変難しいですが、
エゴを捨てれば誰でもできます。
幼い子供の意識は当然のようにやっていることです。


観念を手放して、内的な意識を統合すれば、
個人としても、社会としても、圧倒的な生産性を取り戻す可能性があります。

自由で、創造的で、
ソフトで優しくて、
分かち合う喜びに満ちた、
誇り高い豊かさを取り戻すことができる。

それが次世代の社会であり、生き方です。



「経済」+「国家」=全体ではありません。

「消費者」+「労働者」+「資本家」+「国民」=自分ではありません。

自分も全体も、もっともっと大きい。

個は、どこまでも全体です。全体は、どこまでも個です。想像以上に。


本来人間という存在は、
やすやすと定義できるものではありません。

どこまでも自由で大きな「それ」に気付いて欲しい。

自分の本質が無条件の自由に在る、「それ」である、という気付きが悟りです。

と、いろんな本やブログや漫画や学問から学んで、僕は結論しました。
参考:バガボンド 「自我を手放すこと


本質を思い出すだけです。

24時間、365日、いかに観念ではなく、リアリティの源泉を軸にして生きるか。

真実を。
行動を。
天地を。
あるがままに観て、その感覚を取り戻すだけです。




戻ります。

「家族であること」を忘れた10人の話。



「家族であること」の本質って何だと思いますか?



血のつながりではない。

と僕は思う。


存在を分かち合う世界観です。


それを前提にするか、
存在を分かち合わないで、
利害取引を前提にするか。


たった、その最初の前提が違っていただけです。

愛か怖れか。
一つか分離か。

人間は、どちらの世界観が合理的なのでしょうか。

国家、資本主義・・・
社会の根幹となるデザインも、
リーダーシップをとる人物も、
どちらの世界観を選択したら機能しそうでしょうか。


本当に理想論なのか。

実は簡単なのではないだろうか。



どちらが現実的なのか。

いや、現実は観念の追随でしかありません。

どちらが真実的なのか。


真実を、現実にすることが、
創造であり、
自立であり、
誇り高き人生であり、
今ここに生きる意味なのではないでしょうか。


僕はそう思います。

みんなも腹の底ではそう思っていると信じています。

2013年7月21日日曜日

国家を重んじる、人の心を重んじて


鏡を見て下さい。

















そこに何が見えますか。

















国民。











ビジネスマン。










男性。












人間。












あなた。










あるがままに見て下さい。












僕の鏡に映っていたのは、



自分です。



男性です。



人間です。



それは感覚的に即答できます。




しかし。



言われてみればビジネスマンです。



言われてみれば国民です。




鏡を見て、


「あ国民だ!」という言葉を発してみて下さい。




しっくり感はどの程度ありますか?




例えば、


「あ私だ!」が100%だとして、



「あ人間だ!」は何パーセントで、



「あ国民だ!」はどのくらい?




・・・10%くらいはしっくりきましたか?





そのリアリティこそ、政治の現実です。




国民。

政治家。

国家。


そういう観念で、社会を機能させようとする営みの本当の実力です。

24時間365日のうち、
自分=国民のリアリティと、同程度の潜在力ということです。


鏡に映った自分を見て、国民の義務と権利を思い起こして下さい。

「国民である自分」をリードする政治に、本当に力がありそうですか?


もし、国家という言葉が強大に感じるならば、
その圧倒するパワーはあなたの潜在力です。


自分の頭の中で、国家という言葉にパワーを与えているに過ぎません。


分裂した意識を、自分の胸に取り戻して下さい。


希望を持つべきも、絶望すべきも、自分にです。


取り戻すべきは、日本ではありません。


自分を生きることです。


国民であると思えば、
たった一人の脆弱な、
1億3000万分の1の存在に思えます。


大丈夫です。
鏡を見て、「国民がいる!」というリアリティを第一に持つ人はいませんから。


国民であることに無力感を感じる必要はありません。

国民ではなく人間だから。在るがままの事実として。

リアリティなき国民という言葉と、
国民に応えようとするリアリティなき政治が機能しないのは、
ある意味で当然だからです。



人間であることに、

自分であることに、

もっともっと絶大な信頼をして欲しい。


国とは人です。

社会とは人です。

世界とは、人間である私たちの投影です。


素朴な日常と同じように、
世界全体の捉え方も、日本の将来のビジョンも、
自分のリアリティに徹底的にこだわってほしい。

国民であることの無力感を打ち消すほどに、人間であることを貫けばいい。


日本に貢献したいと願うのであれば、
ありもしない観念を取り戻そうと同調するのではなく、
24時間365日、リアリティが生じる起点である、今の自分に希望を持つことです。

自分をゆるすことです。
偽らないで生きることです。

簡単なことではありませんが、誰でもできることです。


語られているビジョンは、人間の真実が軸になっているでしょうか。



今度は、子供の視点で自分の住む街を見渡して下さい。
そして自らのリアリティに聞いてみて下さい。


政治家が何を言おうと、
マスメディアが何を言おうと、
この世界には人間がいるだけです。

いつだって、今ここの自分が基準です。



自身の、人間として健全なビジョンとその生き方に向き合う。

日本の、社会の健全なあり方のビジョンとその形成に向き合う。


全く同じことです。僕の感覚では。





選挙は人材採用です。


僕は人物を観ています。



その精神。その情熱。その行動。そのビジョン。

偽りがないのか?

人間の真実を軸にしているのか?

自分のリアリティから生じた言葉なのか?



まずそれが前提です。



国家を重んじるのではなく、

国家を重んじる、人の心を重んじているのか。



今日は次世代の社会を担う若者として参院選に投票してきます。

2013年7月19日金曜日

余白があるという質

妻が朝井リョウ君の作品にハマってます。先日は新作『世界地図の下書き』のサイン会に行ってきて、激励の熱い手紙を渡してきたそうです。彼の女性的な感性で綺麗に流れる文章がツボらしい。また直木賞をとった『何者』の、心の裏側をぐいぐいと抉るカンジも堪らなくイイらしい。

『何者』について詳しく内容を聞くと、とっても面白そう。

インターネットが普及したことで、学生はキャンパスライフの充実度の差を、恣意的にであれ、互いに認識できるようになりました。いまやmixiやtwitterやフェイスブックの繋がりと、その活用状況をリアルタイムで観察できます。学生起業、NPO創立、ビジネスプランコンテスト、政策提案コンテスト、企業協賛金を巻き込んだ巨大イベント運営、カリスマブロガー・・・。学園祭や部活やサークル活動やボランティアもある。やりたいことを見つけて頑張る機会はいくらでも見つかります。望んで行動するかしないかだけです。学びも、成長も、よき仲間づくりも自分次第。それらが反映されるSNSやブログというメディアには、大学生活の充実度が如実に顕れる(と感じられます)。

そんな環境下で、就職活動の成果は決定的なパワーを持ちます。それ一つの失敗で台無しになるくらいのインパクトがある(と最中は感じられます)。自分の生き方の集大成と、社会からの評価の接点ですから、誰にとっても大学生活における最重要事項なわけです。

もちろんそんなこと気にしなきゃいいのですが、若者は自信がありません。ずっと受け身の枠の中で評価され続けて、自己重要感が健全に育まれていないことが多い。大人からの承認欲求が強いし、他者と比較して劣等感に苛まれやすいので、嫉妬やコンプレックスを回避するためには、どこかで優越感を必要とするかもしれません。そんな若者の性を刺激する最たるステージが就活(シューカツ)です。内定がいつ決まるか、どこに決まるか。虚栄心や自尊心がガンガン揺さぶられます。

今時の大学生の就活事情を背景にして描かれる感情のリアリティ。焙り出される人間の毒気。朝井リョウ君の体験と実感が込められて、ラストの展開は血の気の引くような迫力があるとのこと。

ほんと面白そう。背景の選択と視点が素晴らしい。
当時の自分を振り返りつつ、読んでみたい作品です。


妻と話していると、同じ文系でも考え方が違って楽しいです。国語のセンター試験でいうと、小説と論説文が語り合っているような感じ。あるいは、そのまんまですが、文学部と政治経済学部が談義してる感じです。


直観が鋭いです。頭でっかちな僕と違って。


オノナツメ、NANA、宇多田ヒカルについて。
お気に入りのレストランについて。
漫画や映画やドラマについて。

あれこれシェアして語り合います。互いの直観が言語化されていくのは楽しいし、視点や解釈の違いはよき学びになっています。

人物を描くこと、作品の味わい、レストランのサービス・・・
それらに共通して僕らが好む要素があります。


押しつけがましくないこと。


確かな上質さを、野暮にひけらかすことはしない。粋に在る。秘めている。
微笑み一つで通じあうような、伝えるのではなく伝わるというスタンス。
時には世界観を表現によって切り取ってしまうことを避け、全体の在るがままにして置く。
そして説明しないままが、最も純度の高い明示になりえることを知っている。
観るほどに、繊細、緻密。奥行きが広がる。
感性が自由に働く空白をプレゼントしている。
伝わることへの喜びは、既に自己完結している。信頼して、全く求めない。
作り手からの作為が迫ってくる感じはしない。
受け手が自ら選択する世界観と、自由な解釈プロセスに価値があると信じている。
創造という自由への喜びのままに。

ここまでくどくど口にしたことはありませんでしたが、言葉にすればそんな質感を僕らは、

「余白がある」と言っています。



改めてこのブログを自己評価すると、

・・・余白がありません。


一流のアーティストやリーダーには必ずそれがあります。


例えばガンジー。
世界大戦と植民地支配の時代。インド独立に向けて、非暴力主義の精神を掲げました。

「私には命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」

これはアンパンマンの「愛と勇気だけが友達さ」の歌詞に込められた、やなせたかしさんの正義哲学と全く同じです。参考:正義であること

彼は、自分の真実を行動で示し続けました。
敵にも味方にも、暴力の支配は幻想であり本質的には無力である、ということを。

「彼ら(イギリス軍)は、死体は手に入れても服従は得られないのだ」

パワーに対抗してもパワーで返ってきます。その連鎖に解決はありません。
かといって無抵抗は支配の肯定であり、事態を悪化させるだけ。

暴力に対する最善は、それを生み出してしている源泉と向き合うことです。
この場合、イギリスとインドの人々双方が抱いている、暴力への怖れです。

支配も服従も暴力それ自体の結果ではなく、心が生じさせた現象だとガンジーは見抜いた。彼の唱えた非暴力主義は、敵味方関係なく、各自が内的な怖れと向き合うように促す啓示として機能しました。
「余白がある」という質は、リーダーシップ論の文脈で言うと、
メッセージの受け手が、自らのリアリティを起点に自分に問いかけて、怖れの観念を幻想と見抜き、主体的な理性で世界と自己を解釈し直し、新たなあり方を選択する、というプロセスを生み出します。参考:真実と愛を選択するリーダー

自らの生き方を以てこのプロセスを起爆すれば、コントロールする必要なく人は動きます。インドを独立に導いたガンジーのリーダーシップは、時代を超えた普遍性がある。


真、善、美。

リーダーシップもアートも、高い喜びに導く本物には類似性がある。

押しつけがましくない。

自分の真実から創られた質が、他者の真実からも創られていく。
共鳴する音叉のごとくです。
自由な共同創作の分かち合いが広がり、高い喜びの現実が「自ずと」生み出される。


改めて考えてみると、
この「余白がある」というのは、愛の質感であるような気がします。

だとしたら、
押しつけがましさを嫌う妻の直観と指摘は、
肝心なところでは、やはり的を得ている気がしてなりません。

「あなたの言っていることは間違っていない。でも冷たい。優しくない」

そんな風に言われたとき、たしかに愛の質感がなかった自分がいます。


僕の課題です。


信頼のなかで、自由の喜びのままに余白をプレゼントしていきたい。

余白こそが、真実に問いかける力があると信じるから。

2013年7月6日土曜日

正義の自己犠牲ではなく、愛の献身が機能する経済へ

人は、何があれば幸せと言えるでしょうか。


あなたは、何があれば幸せですか?


僕は三つです。

①正直な人間関係。
②自分が価値があると信じられる仕事。
③美味しくて安全な食事。

それで十分です。きっと時代や地域を問わず、社会に生きる人間であれば、幸せな人生のあり方に大差はないのではないでしょうか。

確かに人間関係は多様です。人は個性豊かです。
価値観も様々。何を信じるかも、何を生業とするのかも其々。
食べ物の好き嫌いも千差万別。

しかし、バリエーションがあるだけです。
「What」や「how」や「do」や「be somebody(~なりたい)」が沢山あるだけ。

なぜやりたいのか。偉くなりたいのか。お金が欲しいのか。結婚したいのか。独立したいのか。

それは何故か。

動機を突き詰めれば、やりたいこと・なりたいことは手段であって目的ではありません。目的は、自由でありたいからであり、自分らしくありたいからではないでしょうか。あるがままの自分であるほど、他者と存在を分かち合う喜びを感じる。それが至福です。人間が幸せであるために求めている本質は、時代や文化を問わず普遍であり、変わらないのだと僕は思います。


「逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること」

アンパンマンのやなせたかしさんは、戦争体験を経て、正義とは何かを数十年考え続け、そのように結論しました。同感です。参考「正義であること


僕の考える愛とは、

①正直な人間関係、②自分が価値あると信じられる仕事、③美味しくて安全な食事

この三つを、他者が得られるようにサポートして喜ぶことです。
同時に、他者からそれらを頂いて喜ぶことです。

そうして献身の循環を機能させて、
自由に存在を分かち合う経済の形成に勤めることです。


たとえ100人の村で、500人分の食糧生産力を有していたとしても、競争に負けないという怖れからの保身を正当化しあう社会では人は豊かになれません。何かを守るという正義のプロセスは、嘘と争いと人間不信を深めあい、経済という人間関係の生態系が匿名と役割だらけになります。正義を前にして、分かち合うべきは利害に基づく役割となると、ありのままの自分という存在は犠牲にすべき対象となります。「みんな自分を犠牲にしている。私もそうあるべきだ」という道徳規範の観念体系を漠然とつくり、他者の正義の目を気にして、自分に嘘をつき始める。すると、心が不安定になり、自尊心を失い、怖れとエゴを膨張させることに繋がっていくように思えます。役割や立場に陶酔したり、権利に依存したり、義務に反抗したりと、自我(アイデンティティ)が一貫性を失ってしまう。あれもこれも守る必要だらけに思え、言っていることとやっていることを立場で変えて、それを演じる関係性に疲れ果てながら、ありのままの自分に無力感を抱えることになります。物事や人間関係に過剰に執着するのは、自分を偽ることで、自分の存在意義を自分で殺しているからではないでしょうか。

不自由さというのは、自分の怖れと弱さを、正義という他責の観念でごまかすことから生じていることに気付かなければなりません。自分が正義に反応する「弱者」として生きることで、他者にも「弱者」の生き方を強いることがあります。このことは、組織のリーダーや子を持つ親は憂慮すべきだと思います。

だから本当の正義とは、やなせさんの言うとおり、愛と献身です。正義の自己犠牲と、愛の献身は似て非なるものです。

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地獄と極楽のお話
ある人が地獄と極楽の見物に出かけようと思い立ちました。まず地獄へ行きました。そこではちょうど大きな円卓を囲んで、大勢の人たちが食事をするところでした。その人々の姿は娑婆(しゃば)に住む私共と変りありませんでした。大きな円卓の真ん中にご馳走が山と盛られてあるので、普通の箸では届きません。皆がそれぞれに五、六尺(2メートル弱)もあるような長い箸を持っています。ところが箸があまりにも長すぎて、折角挟んでも自分の口に運ぶことができない。持ってくるまでに人の口に入ってしまうのです。人に食べられてなるものかとみんな我れ一になって、自分の食べることばかり考えるものですから、長い箸と箸が音をたてて交錯し、結局、ご馳走は卓上に散乱して、誰一人として満足に食べることができないのです。食べようとして食べ得ざる時、人の心は焔となって怒りの火を発するのです。
ところでその人は次に極楽を見に行きました。極楽も地獄も人そのものの姿には、全く相違はありませんでした。食事の時になりました。大きな円卓の真ん中にご馳走が山のように盛られてあり、人々は長い箸を持っている。それもまた地獄と全く同じことでした。ところが、ここではその人々がそれぞれ、自分のお箸に挟んだご馳走を「これはおいしそうでございます。お一つ如何ですか」と人の口へ運んであげています。「結構なお味でございます。あなたさまも如何ですか」とお互いがお互いに食べさせあっているのです。有難うございます。おお勿体ないことと食事は実に和やかに進んで、みるみるうちにご馳走はなくなってゆき、最後には「ありがとうございました。ご馳走さまでございました」とみんな喜び合い、感謝し合いながら終わったというのです。
(高田好胤著『己に克つ』より)
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現代の資本主義社会は、素朴で本質的な豊かさ(①②③)の実現と分かち合いには不向きです。広告・営業経費をふんだんに使っては、付加価値という名の娯楽や利便性を過剰に溢れさせて競争します。500人分の食糧生産力を有する100人の村で、200人分の食料を生産して、300人分の労力を賭して管理しながら奪い合い、余った食糧を廃棄します。
一方で、隣の村は貧しいままです。そんな彼らには、私たちのように豊かに発展するためには、資本を受け入れて、競争することが合理的なのだと説きます。そうして、資本を受け入れた彼らから、多くの労力と資源を「競争に生き残るため」に利用しています。しかし自分たちの村も実は、物質的に食糧や娯楽に溢れているだけで、本当に豊かさ(①②③)を実感しているわけではありません。利害を優先して存在を分かち合わないのですから、①正直な関係と②正直な仕事と③質の高い食事、という人間として尊い豊かさを犠牲にしているからです。

正義の観念は犠牲を求めます。自分という存在を手段にして、結果的にあらゆる事と時間を手段にします。今ここ(存在)にはない目的を永遠に追いかけます。
人間としての豊かさを定義しないままに、経済成長を永遠に目指して、消費者の期待と不安を煽りつづける社会。矛盾の辻褄を合せるがごとく、国民が国民に借金してお金の総量を膨らませ、循環しない資産を永遠に築き続ける資本主義。

それをいつまで、正義として祭り上げておくのでしょうか。

経済の本質を、
お金の本質を、
生産性の本質を、
人間という存在から洞察するべきではないでしょうか。

真実は、消費者ではなく、国民ではなく、人間がいるだけだからです。それらの観念の、何が真実で、何が幻想なのかを、見破る必要があると思います。

逆説的ですが、だからこそ愛を経済合理性という観点で読み解くことが意味を持ちます。

競争合理主義を覆す生産性を実現するヒントは、地獄と極楽の話にあります。次世代へのイノベーションは、技術革新でもグローバリゼーションでもありません。人間関係とお金のパラダイムシフトです。

新たな社会ビジョンが示され、その事例が一つまた一つと実現していった時、世界は変わるでしょう。既に変わらなければならないことは皆分かっています。しかし、どう変われば良いのかが分からなければ人は動けません。それを自らの生き方とビジョンで示し、情熱と理性で導く次世代のリーダーが必要です。

僕が次世代の社会を語る目的とは、
人間であるとは何か?幸せであるとはどういうことか?という考察を軸に、
愛であることの合理性と、経済活動とお金のシステムの合理性を統合することです。
それを実現する生き方と社会ビジョンを、自ら実践して、伝えることです。


正義の自己犠牲ではなく、愛の献身が機能する経済へ。


自分を偽らないこと。
他者に、自分を偽らないでほしいと願うこと。

きっとそこからです。

2013年7月5日金曜日

人生の決算

去年は父になった喜びの年であり、転職をして仕事人生の転機の年でもあった。
妻や家族に辛い思いを何度もさせた。
家庭と向き合う自分、そして社会と向き合う自分を再定義した。
人生の基礎を作りなおして、今年は飛躍する。
生まれてから28年間の総決算の年とする。

年初の決断でした。このブログも総決算の一つです。
人生の基礎を創りなおした今。
目に見える行動として、他者との関わりあいを通じて、
培ったものを顕す段階です。

心のあり方と、その土台の精神と、現実を象る世界。
それらの関係がようやく分かりました。だからこそ、
人の生き方を理解すること、そして社会と向き合うことに、ずっと誠実になれる。

時が来た思いです。
いまの自分が社会に役立つことの、考えうる最高を現実化する。

総決算ですからね。


僕の頭には、もう何年もずっと渦巻いている言葉があります。

Be the change you want to see in the world.

「あなた自身が、この世界で見たいと望んでいる変化そのものであれ」


胸に宿った精神を、自分の命という真実を、形なき形へ。


参考:次世代の社会を担う若者として

2013年7月4日木曜日

赤字国債と世代間格差のメカニズム

ある小さな島の話。

一人の偉大なお祖父ちゃんがいました。

「家族・親族、いや島中の全員からお金を集めて、毎年数億円の借金をし続けよう!」

何を言い出すんだ!?借金ほど怖いものはない。収支は均衡を保たなければ大変なことになる。そう考えていた人々は驚きます。

しかし彼には壮大なビジョンがあったのです。

全ての家族に家を立てよう。道路や上下水道や公共施設を整備しよう。
老後の生活は、皆でお金を配って保証する制度にしよう。
すべては島の将来のため。夢と安心を分かち合おう。
私たちはもっと発展できる。所得は倍になる。借金は投資なのだ。

語られたビジョンと情熱に、島民は納得しました。数億円の借金は、お祖父ちゃんのためでも、誰のためのものでもなく、皆の将来のため。だから債務の名義は「島のみんな」でした。

お祖父ちゃんは島の首長として、島民会議にてリーダーシップを発揮し、各々の家族や個々人に仕事を割り振っていきました。皆もよく働きました。毎年多くのお金が、「島のみんな」会計から報酬として個々人に支払われます。

島はどんどん豊かになりました。確かに収入は倍になりました。

お祖父ちゃんの子供達はとても喜びました。
「本当に沢山の仕事をもらった。多くの財産を築けた。老後の保障も手厚い。なんてありがたいのだろう」と、父と島民の偉大さを誇らしく思って感謝しました。

皆も同様の想いで自分たちの発展を喜び称えました。


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そして数十年後

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当時の孫・ひ孫の世代が20~40歳になり、働く現場の中心は彼らとなっていました。新しい世代は、お祖父ちゃんと当時の大人達に、感謝の気持ちがさほど湧きませんでした。

返せないほどの膨大な借金が、「島のみんな」名義で残されました。それは新しい世代が返済しなければならない義務でした。

旧世代は言います。
きちんと働けば、私たちのように豊かに安心して暮らせる。「島のみんな」を信じなさい。老後の生活保証の制度を信じなさい。豊かに発展した私たちの力を誇りなさい。

かつて建てた住宅やマンション、整備した道路や施設の数々は古くなり、更新とメンテナンスの費用は膨大にかかります。それらの仕事は、昔ほど島民から必要とされることも喜ばれることもなくなりました。以前に比べて受注の競争は激しく、低賃金かつ夢のない仕事でした。

そもそも島の人口は減る一方です。空家と遊休の施設は増えるばかりです。そのような現状を目の前にして、旧世代が残した有形無形の財産を引き継ぐことに対して、誇りや喜びの実感が伴いません。むしろ資産というより負債に思えてきます。新しい世代には、旧世代が築いた島民のための富を引き継ぐことに、権利よりも義務の方が強いと感じる人も少なくありません。

その象徴が、老後の安心のためにつくったお金を配る制度です。新しい世代は、どうやら旧世代の数分の一しか貰えないようです。この世代間の助け合いと称される制度の矛盾について、納得できる説明はありません。不信感と経済的な余裕のなさによって、やがて新しい世代においてこの制度への納入率が半分になります。これを問題視する旧世代の人たちの中には、「子供を産まないのが悪い」「伝統的な家族観や島民意識が失われている」と、人間性や公共意識の低下が原因かのように危機感を訴える人たちがいるようです。


ある若者は思いました。


なぜ、こうなってしまったのだろうか。

ここだけではない。隣の島も、その隣の島も同じだ。
経済的に豊かになった後に、強烈な世代間格差が起こっている。

それは一体何故なのだろうか。




つづく。

財務省 少子高齢化の進展より


(出所) Kotlikoff et al. (1999) Generational Accounting Around the World
※各国別・年齢別の生涯純受益を算出した上で、1995年時点での0歳世代の生涯負担に対する将来世代の生涯負担の比率を計算したもの。