2013年6月30日日曜日

本当の強さ

不安の原因は依存。

自分の内にある怖れと向き合わずに、依存を正当化する観念を採用すると、心が不安定になる。自己(と同一化した観念)を守る必要が膨大になるからだ。

内的な弱さから観念と同一化した自我(エゴ)は、自意識過剰の防衛本能で反応ばかりする。怯えやすく、怒りやすく、傷つきやすい。比較と優越によるプライドにアイデンティティを求めがちで、本物の自尊心はない。

外側の比較優位を所有しても問題は解決しない。先延ばしでしかない。何を目指しても、あり方が既に逃避していることを本当の自分は知っているからだ。結局自分を偽ることはできない。必ず怖れと向き合うときが来る。

弱さとは、自分の依存心(執着)を正当化するために自分を偽ることだ。そうして観念と同化するほど、観念を守る必要が生じて、怖れも増大する。その怖れから逃げる自分を正当化するために、また観念との一体化を強化する。同化も反抗も同じメカニズムだ。

本当の強さとは、単純に怖れないことではない。怖れとエゴの関係を見破り、自分を偽らないこと。そして他者にも、弱さから逃避して自分を偽らないでほしいと願い行動すること。

それが精神の自立。自分と同一化した観念は外され、エゴは消え、不安感は驚くほどなくなる。つまり、人間として強さを突き詰めれば、真実と愛を選択する生き方になるということだ。

自分の弱さを、自分に偽ることをやめる。

そこから人生は変わるんだと僕は思う。

それがこのブログの起点の精神となっている。

2013年6月29日土曜日

働くということ

働くということの本質を考察します。


以下は、動画「レジ打ちの女性」のテキストです。

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あるところに

何をしても長続きしない女性がいました

つまらない
やりたくない
私のやりたかったことじゃない
言い訳ばかり

大学のサークルも
就職してからの仕事も
すぐ辞めてしまう

気付けば彼女の履歴書には
たくさんの職歴が並ぶようになった


「どうせすぐ辞めるんじゃない?」

「ちょっと今回はねぇ・・・」

「これじゃあ信用できないな」


いつしか正社員として彼女を雇う会社は無くなっていった・・・

その後、派遣社員となるも
やはりすぐ辞めてしまうのだった



こんな私じゃだめだ
ガマン強くなりたい

でもどうがんばっても
なぜか続かない・・・

そんな時にきた仕事が
スーパー
のレジ打ちだった

しかし数週間後
単純作業がイヤになり
結局また辞めたい衝動が
彼女の心を襲う

そんな矢先 電話が鳴る
田舎の母からだった



「もう、帰っておいで」



母の一言に心を固め
辞表を書き
荷物をまとめだした時
あるものを見つける



それは子どもの頃の日記だった


「ピアニストになりたい」


はっきりとそう書かれていた

唯一 長く続けられたもの
それがピアノだった・・・

彼女の中で
静かな変化が起こった


 

もう逃げるのはやめよう


お母さん、私
もうちょっと頑張ってみる


決意の証が
雫となって頬をぬらした


ピアノも練習するうちに
鍵盤を見ずに弾けるようになった


ひょっとしたらレジ打ちも・・・


彼女は特訓をはじめた

大好きだったピアノを弾くように


彼女はいつの間にか
レジ打ちの達人となっていた


変化はすぐにあらわれた
お客様の顔を見る余裕ができ、
次第に覚え、
話しかけることができるようになった


「あら?鯛ですね!
 いいことがあったんですか?」

「わかる?
 孫が水泳で賞をとったの!」

「それはよかったですね!
 おめでとうございます!」


彼女は
たくさんのお客様と
お話ができるようになった

そんな時、ある事件が起こる

それは店内アナウンスが
何度も流れるほど忙しい日だった


「お客様、 どうぞ空いてるレジにお回りください」

「重ねて申し上げます。どうぞ空いてるレジにおまわりください」


彼女が見回してみると
彼女のレジにだけお客様の長い列が・・・


「お客様、どうぞあちらのレジへ」

「イヤよ
 私は彼女と話をしにここに来てるの」

「私も同じよ
 だからこのレジに並ばせておくれよ」


この光景を目にして
彼女は手を思わず止めた
あふれる想いは
歓喜の雫となり
その場に泣き崩れた

その後も
レジからは会話が途絶えなかった



ほどなくして彼女はレジの主任となった

そのまま新人教育も担当する


彼女の履歴書がその後どうなったかは誰も知らない

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木下晴弘著「涙の数だけ大きくなれる!」より



僕が証券会社勤務時代、社員研修にて紹介されたストーリームービーです。結構有名なようなので、ご存じの方も多いかもしれません。


あなたはこの話をどのように感じて、どう捉えましたか。

彼女は仕事をずっと好きになれませんでした。しかし大きく変わった。なぜでしょうか。

やりたいことでなければ本気になれない、という観念を捨てたから。
自分の弱さから逃避する言い訳として機能しつづけていた、自分と同化していた観念を外すことができたのは、「もう逃げるのはやめよう」と決断したからです。弱い心と向き合って、自分のあるがままに目を背けなければ、幻想は消えていきます。すると、本当の自分の可能性が見えてきます。

「ピアニストになりたい」と綴っていた過去の自分に見出したもの。それはきっと、ピアニストを目指していたときの自分のあり方です。ピアノが続いたのは、確かにピアノが好きだったからでしょう。しかし、ずっと重要な真実は、本気でぶつかっていたから楽しかったということ。そして何より、そんな自分が好きだったということです。

ピアノの意味を輝せていたのは、好きなピアノをするという行為ではなく、ピアノを通じて「最高の自分を目指すというあり方」です。情熱をもって最善を尽くし、偽りなく自己と向き合う。だから、誇らしい喜びが創造される。自分の存在に誇りと喜びを持てる行為となれば、好きになるのも成果が出るのも継続するのも必然です。

ピアノも練習するうちに
鍵盤を見ずに弾けるようになった

ひょっとしたらレジ打ちも・・・

逃げないと決めたから、観念が外れ、自分を信じて進むことができます。


「どんな職場にもつまらない仕事はあるだろう。しかし重要なのは逃げないことだ。退屈で嫌いな仕事にも、不合理にみえる環境にも、大きな意味を見出すことはできる。すべては自分のあり方次第だ。接する人はあなたを見ている。あなたの心が伝われば、環境は変わっていく。だから自分に言い訳をしてはならない。」

そういうメッセージです。証券営業マンへの新人研修には相応しいかもしれませんね。当時の僕は、確かにそれなりに感動してモチベーションが上がったのを覚えています。


ただ・・・根本的に重要なことを指摘します。

この話は、レジ打ちの達人になって正社員になった、というオチでは感動しません。彼女が素晴らしかったのは、逃げないと決め、レジ打ちの達人になった、さらにその後です。

お客様の顔を見る余裕ができ、
次第に覚え、
話しかけることができるようになった


彼女は、人の心に関心を寄せました。小さい接点の中に、心を通わせることで、互いを分かち合う関係を築きました。彼女のレジにだけ長い列をなしたシーンでは、彼女が創りだしていた本質が顕在化しました。

働くことの真価は、人間関係に向き合うことです。労働者という義務と、消費者という権利に反応しあう間柄には、人間としての喜びは生じません。

働くということは、存在を分かち合うことです。取引ではありません。

人間の尊厳にとって必要なのは、労働者の権利を守ることでも、消費者の権利を守ることでもありません。人の心に関心を寄せて、存在を分かち合うために働くことです。


レジ打ちの物語は、たしかに感動的で示唆に富みます。しかし所詮はフィクションです。というのも、話の裏付けとなる人物が明確な形で実在していません。働くことの意味を伝える、というには役不足です。メッセージを担保する信念をもった本人がいないのですから。

ここで、働くということについての信念の言葉を引用します。

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「好きな仕事」について考える ―沖縄の事業再生家 樋口耕太郎さんのツイッターより

誰しもが「自分の好きなことをせよ」という。しかし、このシンプルなメッセージの意味するところは深い。例えば、自分の今までを振り返って、「好きだから」という理由で何かを選択したことがあっただろうかと考えるのだが、実は一つもなかったということに気がついて、驚いている。

確かに、自分は、100%自分のしたいことを選んで来たと思う。そして、選んだことの殆どを、心から愛したと思う。しかし、好きだから、という理由で選択したことは、一度もないのだ。

大学を選んだときも、その他の殆どの学生と同様、実は中身などよく解らなかったし、卒業後の就職先に野村證券を選んだ理由も、当時日本でもっとも厳しい会社だとされていたからだ。(想像を超える厳しい仕事の詳細を事前に知っていたら、選んでいなかったかもしれない)

ウォール街に勤務することになったときも、不動産金融という分野に、特段の関心はなかった。今でこそ花形という見方も可能だが、当時、投資銀行の社員が不動産ファイナンスなど、亜流のビジネスを担当している、と悩んだものだ。

12年間お世話になった野村を離れて移籍したレーサムも、私が共同経営を担当した4年間は、日本の不動産流動化ビジネスの先端を走った時期があったが、当時は中古マンションのセールス会社の域を出ず、随分垢抜けない会社に加わったなという気分を味わったりもした。

自己資金で取得したサンマリーナホテルも、別にホテルを所有することや運営することが好きだったわけではない。むしろ、ホテルに強いエゴやこだわりがあり、ホテル事業を好きな人が投資したら、きっと失敗するだろうと思っていた。

多くの人が、「大好き」という理由で訪れる沖縄も、私の場合、好きだという理由で住むようになったわけではない。取得したサンマリーナホテルが偶然沖縄にあったことがきっかけだ。

事業再生専業会社、トリニティ株式会社を起業するまで、会社の経営をしたいと思ったことは、一度もなかったし、多くの青年のように、社長になることが夢だったこともない。

有機野菜の流通業、ダイハチマルシェの再生を手がけた理由も、決してその分野での事業展開を目指していたからではなかった。

4月からお世話になっている沖縄大学も、過去にその職を望んでいたわけではなく、本当に有り難いご縁を頂いたにすぎない。

しかしながら、断言できるのだが、私はそれまで関わってきた全ての会社や、組織や、チームや、仕事を心から愛して来たし、その瞬間ごと、それぞれの仕事に関わったことの幸せを、とても強く噛みしめてきた。そして、全ての瞬間を全力で過ごす自分や、自分の役割を深く愛していた自分が、心から好きだったのだと思う。

私の経験から思うのは、別に仕事(自体)を好きになる必要はないと思う。それどころか、好きなことを選ぶと言うことの意味は、嫌いになれば辞めてしまうということだ。そんな一貫性のない生き方が人に信頼されるとは考えにくい。どんな仕事であっても、どんな地域に住んでいても、瞬間瞬間の自分が好きでいられるような、そんな選び方をするべきではないかと思うのだ。

参考:「ハタラクということ」
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働くということの本質は、お金を稼ぐことにはありません。

自分の弱さに向き合うことであり、

人の心に誠の関心を寄せることであり、

存在を分かち合うことであり、

人を愛することである。

僕はそう思います。


あなたはどう思いますか?

2013年6月23日日曜日

為替と株価はなぜ連動するのか②

為替と株価はなぜ連動するのか。



その理由を求めて検索し、ここに来られる方がいます。理解の助けとなれたら幸いです。以前ブログに書いた理由は、「2種類の時価投資家のマネーが機械的に反応してリレーするから」ということですが、それは連動性の半分しか説明出来ていません。なので今日はもう半分を書きます。


それは極めてシンプル。



通貨自体が、伸び縮みする物差しだからです。














目盛の幅が縮小すれば、計測する対象の大きさが変動しなくても、数値は変動しますよね。あるいは、はかりの単位の幅が拡大・縮小すれば、重さが変動しなくても、数値は変わる。1円の単位の縮みは、金融資産の額面の数値を増やす・・・というシンプルな話です。

「太陽と月と夜空の星々が動くのは、それらの動きではない。観測基準である僕らの視点が、地球の自転・公転によって動いているから」

原理は同じです。天道説として説明することは合理的ではありません。株価という星々が連動して動くのは、観測基準の土台を動かすからです。そう認識すれば、為替と株価の相関係数が0.96%以上である理由もすっきりと説明可能ではないでしょうか。


昔はこんなに連動してなかったんですけどね。今はグローバル化と情報技術の向上によって、株も為替も、変動それ自体に世界中のマネーが投機するようになってしまいました。株はインデックスとして一体化し、それらは為替化される。FXをやっていなくても、ほぼ全ての人は金融機関や保険を通じてそのような投機に参加していますから無関係ではありません。長期保有目的のインデックス投資まで投機と呼ぶには抵抗を感じる方もいるかもしれませんが。


次世代の社会において、経済の本質は通貨の観念ありきではなく、人間の存在から捉えられるようになるでしょうね。経済とは人間であることの何か。通貨とは人間であることの何か。通貨を再生する、あるいは創造するメカニズムが考案され、現実に応用されていく。そんな時代が来るような気がします。

参考:「為替と株価はなぜ連動するのか」「経済と人間を理解するリーダー

2013年6月21日金曜日

星の王子さまと所有の世界観

星の王子さまという絵本があります。

昨年のクリスマスに娘にプレゼントしました。
子供向け絵本として、一部の内容を減らし、優しく翻訳し直したものです。


それでも内容は難しい。読んだ方はご存知の通り、そもそもこの絵本は子供向けではありません。
「大人の中のこども」へ向けたものです。作品が生まれた背景は深い。

参考:TBS「みんなで訳そう!インターネット版「新訳・星の王子さま」

なぜこの本を娘に贈ったかというと、妻が一番大好きな絵本だからです。海外の旅先で現地の国の言葉の「星の王子さま」をコレクションするくらい好き。

後日、なんでそこまで好きなの?って聞いたら、

「絵が好き」

だそうで。雰囲気・フィーリングだけで、内容や作品の背景にはさほど関心はなかったよう(笑)僕は、ふと本棚にあった池澤夏樹さんの訳書を手に取って大いに気に入りました。その理由を考えると、やはり人間の真実が味わい深く描かれているからです。穏やかに優しく、容赦なく。

著者サンテグジュペリは、作家をしながらも本業はパイロットであり、第二次世界大戦で戦死しています。重たい戦争の時代を背負った彼が、人間社会の滑稽さと迷いを、小さな王子様の素朴な視点で描きます。

本当に大切な事は何か?

あえて大人でも子供でもなく、「大人の中の子ども」へ向けて問いかけています。読み手の心の奥の純粋な感性をふるわせて、インスピレーションを与えてくれます。だからこれほど長く、広く、世界中で愛されるのでしょう。

たとえ娘が、今は到底理解できなくても、この本物の絵本をあげたくなりました。初めてのクリスマスプレゼント、初めて贈った本は、妻の大好きな「星の王子さま」。なんか素敵かなって思ってます。



 さて。

星の王子様には多くの「変わった」大人が登場します。その中の一人の話を紹介します。

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4番目の星は、実業家の星でした。この実業家はとてもいそがしかったので、王子様が来ても見向きもしませんでした。

「こんにちは。その煙草、火が消えてるよ」と王子様は話しかけました。

「3たす2は5。5たす7は12。12たす3は15。こんにちは。15たす7は22。22たす6は28。火をつけなおす暇がなくてね。26たす5は31。ふぅ!5億162万2731だ」
「何が5億なの?」

「おや?君はずっとそこにいたのかね?5億100万・・・ええと・・・。そんなこと憶えとりゃせんよ、仕事がたくさんあるんだ!いいかい、私は真剣なんだ。くだらないことを気にしておられんよ。2たす5は7・・・」


「何が5億100万なの?」納得するまで決して質問をやめない王子様は、先ほどの質問をもう一度してみました。

実業家は顔を上げて言いました。

「私はこの星に住んで54年になるが、仕事の邪魔をされたのはたった3回だけだ。22年前、最初に私の邪魔をしたのはどこからか現れたコガネムシだった。やつがひどい騒音を振りまくものだから、計算を4箇所も間違ってしまったんだ。2回目は、11年前のことだがリューマチの発作にやられたよ。運動不足でな。散歩する暇もないのだよ。私は真剣なんだ。そして3回目が・・・君だよ!私が言ったのは5億ひゃく・・・」

「だから何がなの?」
この王子様はどうしても自分をほっといてくれないと、実業家はついにあきらめました。

「空に見える何百万もある小さなものだよ」
「ハエ?」

「まさか。きらきら光っている小さなものだよ」
「ミツバチ?」

「違うよ。金色をしていて、怠け者が眺めて空想にふける小さなものさ。だが私は真剣なんだ!空想にふける暇なんてないのだよ」
「あっ!星のこと?」

「そうさ、星だよ」
「おじさんは5億の星をどうするの?」

「5億162万2731だよ。私は真剣だからな、正確にせねばならん」
「で、その星をどうするの?」

「その星をどうするかって?」
「そう。どうするの?」

「どうもしないよ。ただ持っているだけだ」
「星を持っているの?」

「そうさ」
「でも、この間会った王様は・・・」

「王様っていうのは、何も持ってないんだ。支配しているんだよ。持つことと支配することは大違いさ」
「星を持っていて何の役に立つの?」

「お金持ちになれるじゃないか」
「お金持ちになることが何の役に立つの?」

「新しく星が見つかったら、その星を買うことができるじゃないか」
(このおじさん、前の星の酔っ払いのおじさんとちょっと似たことを言うなあ)と王子様は思いました。

それでも王子様は質問を続けました。
「星を持つには、どうしたらいいの?」

「星は誰のものだ?」と気難し屋の実業家は逆に王子様にききました。
「わからないよ。誰のものでもないんじゃない」
「それなら星は私のものだ。私がいちばんに考えついたんだからな」

「それだけでいいの?」
「もちろんさ。もし君が誰のものでもないダイヤモンドを見つけたら、それは君のダイヤモンドだ。もし君が誰のものでもない島をみつけたら、それは君の島だ。もし君があるアイデアを最初に思いつき、それについての特許をとったら、それは君のアイデアになる。だから星は私のものだ。私が考えつくまで、誰も星を持つなんてことを考えもしなかったんだからな。」

「そのとおりだね」王子様は言いました。「それでその星をどうするの?」
「管理するのさ。星を数えて、そして数えなおすんだよ」と実業家は答えました。「難しい仕事だよ。だが私は真剣な男なのだ!」

王子様はまだ満足しませんでした。
「もしスカーフを持っていたら、首に巻いて身につけて歩けるよ。花を持っていても、摘んで持って歩けるし。でも星は摘んだりできないでしょ?」

「ああ、でも銀行に預けることはできる」
「どういうこと?」

「紙切れに星の数を書くのさ。そしてその紙を引き出しにいれて鍵をかけるんだ」
「それだけ?」

「それで十分さ!」
(おもしろいなあ。けっこう詩的だし。でもそんなに真剣なことじゃないや)と王子様は思いました。王子様は、何が真剣なことかについて、大人とはかけ離れた考えを持っていたのです。

「僕は」と王子様はまた言いました。

「花を持ってて、毎日水をあげてるよ。それに火山を3つ持ってて、毎週灰を掃除してる。火が消えた火山も掃除してるからね。わからないよ。僕が花と火山を持っていることは、花と火山のためになっているんだ。でもおじさんは星を持っていても、星のためになるようなことをしていないじゃない」
実業家は口を開きましたが、言い返すことばが見つかりませんでした。王子様は次の星へと旅立ちました。
(大人って、やっぱり変な生き物だなあ)と王子様は旅のあいだ考えていました。

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この「変な」実業家にとって、金稼ぎ=仕事です。その生き方に触れ、星の王子さまは言いました。

わからないよ。僕が花と火山を持っていることは、花と火山のためになっているんだ。
でもおじさんは星を持っていても、星のためになるようなことをしていないじゃない

奉仕になっているか否かが違うと指摘します。王子さまの「ためになっている」は、労働とも無償で働くボランティアとも違います。花も火山も王子さまの役に立っていて、互いを分かち合う関係から自然に生じています。しかし実業家は、何の関係もない星をただ所有し、お金を追っています。

「星を持つには、どうしたらいいの?」
「星は誰のものだ?」と気難し屋の実業家は逆に王子様にききました。
「わからないよ。誰のものでもないんじゃない」
「それなら星は私のものだ。私がいちばんに考えついたんだからな」


そもそも、所有なんて出来るのか。所有して何を望むのか。



この話を、私たちは笑えるでしょうか。



ちなみに月の土地に関しては売られていますね。現実に。
3000円で証書が付いてきます。ルナエンバシー

たとえ冗談でも、買う気にはなれませんね。

月は月として在るだけです。

同様に、土地は土地として在るだけです。

もともとは。


所有意識のないアメリカ・インディアンの言葉が残っています。
「欲しいと言ってくれれば持っているものはいくらでもあげるのに、白人達はなぜ、銃で殺して奪うのか」

もちろん私たちは、インディアンのような部族単位を遥かに超えて、国家を前提にした社会に住んでいます。所有のルールを公正だとして定めるのは次善の策であり、それに捉われざるを得ません。

所有は幻想である、と安易に言うつもりはありません。

なぜその概念とルールが必要であるのかを突き詰めることが重要です。

星の王子さま、インディアン達にあって、
実業家、現代社会にないもの。

存在を分かち合う関係です。それを前提にした世界観を生きる個人です。

でも、ここまではまだいいんです。より深刻な問題とは、

放っておけば分かち合う関係を築いたであろう機会をことごとく、先回りで権力とお金が介在することで、権利・義務が当然の取引にしてしまうことです。それが固定化し、大量の役割と、大量の権利・義務を意識に流し込まれて、分かち合う関係の喜びと高い合理性は、根こそぎ可能性から毀損されていきます。大半の人が、権利・義務の効率化に目を奪われて、そもそも前提にある世界観が合理的ではないことに気付きません。次善の策として設定した所有というフィクションが、土地や財産だけでなく、人間関係においても適用され続け、それが疑い得ない現実の観念になってしまいます。


人が人と助け合うこと。

人が人から学ぶこと。人が人に教え育てること。

土地が在るように、
太陽が巡るように、
人間の善性は在るんです。

自然に草木が育つように、それを活かすこともできる。

私たちは、自分たちに本当に必要なものは、自分たちの関係性から無理なく生じさせることができます。観念を外して自他に余白を与えれば、関係性は生じて機能する。それが生態系のバランスです。僕にはイメージができます。

例えば農業でいえば、自然栽培や自然農法。企業でいえば、ブラジルのセムコの経営は参考になります。この点はいずれ書こうと思います。
その理を具現化できない最大の障害は「怖れ」にあると思っています。観念がもたらす内的な怖れを見破らなければ、権利と義務の増大と効率化こそが問題解決の道だと勘違いし、怖れから逃げて観念への執着を強化してしまいます。

そんなことが続けられるのは、お金による所有(権利)という幻想が機能するように見える間だけです。つまり、働く人口が増え続ける間、あるいはそういう発展途上国の労働者を傘下に組み入れることができている間です。日本はもう無理ですね、僕の勝手な予想では。

ようやく経済の本質に向き合う時代です。
これからは人間の本質を第一にした世界観でなければ機能しないことが明白になる。

人口爆発が終わることによって、国民国家にしろ資本主義にしろ、社会システムは一度挫折せざるを得ないでしょう。既存の枠組みは、帝国主義の頃からずっと、人口増加を前提にしてしか成り立たないのではないでしょうか。

最速で人口減少が進む日本から、社会を再生するために、自分と向き合うことが問われるでしょう。

そんな状況に自分はいるとして、自分は一体何ができるだろうか。

僕は人間社会に貢献する文章をこのブログで書いていきたいと思います。自分のために。

2013年6月20日木曜日

生命とは何か②


生命体は負のエントロピーを食べて生きている ―シュレーティンガー



生命とは何か」の続きです。

人体は体重の98%が、酸素・炭素・水素・窒素・カルシウム・リンです。生物と無生物の違いは構成される物質の違いでは説明できません。生物は生命たらしめる特有の何かを有しているわけではありません。

もっと言うと、僕が死んでも、その直後では構成される元素に変化はありません。生と死の違いにおいて分解というアプローチでは分からないということです。バラバラに構成要素を取りあげても生命の本質は見えてこない。

生物を”生きている”状態にしているのは、
どんな物質をどれだけ使うかではなく、
物質の「組み合わせ方」と「使われ方」です。

では生命という現象を生じさせている物質の「組み合わせ方」と「使い方」とは、
いったいどのようなものでしょうか?

その一つの答えが、
エントロピーを増大させない物質の組み合わせ・使われ方である、というものです。




宇宙を貫く物理法則の一つに、エントロピー増大の法則があります。
エントロピーとは無秩序の度合いです。


「部屋が片付いている状態」
→ エントロピーが小さい
「部屋が汚い状態」
→ エントロピーが大きい

参考:哲学的な何か、あと科学とか(画像はここから)


整理整頓された部屋は、そのまま自然に任せておくと、だんだん乱雑になります。
勝手に整理される、ということはありません。そんなイメージです。

エントロピー増大の法則とは、
「自然(宇宙)は、あらゆる現象を『秩序から無秩序へ』と進ませる。
エントロピーは『小さい→大きい』という方向へ常に向かう。」

こう言い変えてもいいです。

「エネルギーは、偏りのない状態へ向かうしかない」

死んだ生物は、もはや外から栄養を摂り、代謝することができません。体を動かすエネルギーを合成することも、細胞分裂させて新しい細胞をつくることもできません。結果として、死んだらその体の構造を留めておくことはできない。時間経過とともに、維持されていた秩序ある構造が崩れていきます。

一方、生きている生物はエントロピーが増大しないように見えます。外から栄養を摂取し、代謝し、エネルギーを合成し、細胞分裂させ、体の構造を維持・成長させます。崩れいく一方の物質や死んだ生物と異なり、生きているという現象は「エントロピー増大の法則」に反しているように見えるのです。

たしかに私たち人間が生きるということは、
爪や髪が伸びれば切り、腹が減れば食べ、歯を磨き、消化・排泄します。風邪を引けば免疫系が働き、ケガすれば治癒する。日々、細胞を分裂・代謝し、血流を滞りなく流し、脳や五臓六腑を機能させ、生命の設計図であるDNAを複製し続けています。

私という秩序は、
膨大な「整理整頓」の連続として在るのです。

それが生です。

「整理整頓」をしなくなる。

それが死です。


これが「生物は、マイナスのエントロピーを食べて生きている」というシュレーティンガーの指摘の意味です。「生物は、外から得た物質とエネルギーを使って、秩序ある構造をつくることで、放っておくと自然にふえるエントロピーを増えないようにする現象」ということです。

 雑誌ニュートンのとりあえずの結論はこうです。
生命とは、外部からエネルギーを取り込み、排出することで、秩序だった構造を成す存在である。

エネルギーの出入りが生み出した高度な秩序――それが生命。





以上ニュートンを参考に、生命という現象の大枠を書きました。何か気付きがあったでしょうか?僕の考えのまとめも書いておきます。物理的な現象としては、

エネルギーの出入りが秩序を為す。それが生であり、
エネルギーの出入りが秩序を為さなくなる。それが死。

秩序を為さなくなるとは、視点のスケールを大きくすれば、秩序の物理領域の次元が上がる、ということです。私という秩序は、地球の生態系という大きな秩序の一部に還って、新たな生の秩序へと流転していく。それがエネルギーと物質の流れから、生命を現象として捉えた科学的結論です。

一般に宗教は生と死を説明します。「死んだらどうなるの?」という答えのない問いに、信じるに値する世界観を提供しようとします。天国、輪廻転生などですね。死んだら私の意識(の根源である魂)は、神・宇宙あるいは天へ還る。古今東西ある思想ですが、このような生命観は科学的な洞察とも類似性があります。

生命が「エネルギーの出入りが成す秩序」だとするならば、死はその秩序の終わりです。しかし同時に、全体の秩序への同化です。その中の縁起によって、新たな生命という個性ある秩序が誕生します。死によって、大いなる全体意識の次元へ魂が向かう、と考えるのは合理的な類推に思えます。

エネルギーは無秩序へ向かうしかない、というのは一つの秩序を同次元の枠組みで捉えようとするからです。エントロピー増大の法則は、閉じられた空間(閉鎖された系)にしか適用されません。しかし世界は開かれた空間(開放系)しか存在しません。宇宙は今も加速して膨張しています。私たちが捉えられる秩序と無秩序の変遷は、一つ高い次元において眺めれば、秩序ある整然な現象を為しているかもしれません。秩序ある私たちの体が、あるいは目に見える世界が、量子的スケールでは素粒子の無秩序な振舞いによって象られているのと同じようにです。

宇宙はおそらく秩序の入れ子構造なのでしょうね。小さな素粒子、原子核、原子、分子、DNA、細胞・・・・そして地球、太陽系、銀河、銀河団、宇宙。視点の相対速度とスケールを変えれば、想像を遥かに超えた美しく豊かな秩序が折り重なっている。そんな気がします。


以下はニール著の「神との対話」の引用です。
―――――――――――――――――――

宇宙の法則は、わたしが定めた法則だ。

それは完璧な法則で、物質を完璧に機能させる。

雪のひとひら以上に完璧なものを見たことがあるだろうか?


その精妙さ、デザイン、対称性、ひとつひとつが雪の結晶としてあるべき姿を保ちながら、

同時に個性的でもある。まさに神秘的ではないか。

あなたがたは、この自然の驚くべき奇跡に驚異の念をいだくだろう。


雪の結晶についてこれだけのことができるわたしなら、

宇宙についてどれほどのことができると、あるいはできたと思うか。

最も大きな物質から最も小さな分子まで、その対称性、

デザインの完璧さに思いをめぐらせてみても、


あなたは真実を把握することはできないだろう。

その真実を垣間見ているいまでさえ、その意義を想像することも、理解することもできない。

だが、意義があること、

それがあなたがたの理解力をはるかに超えた複雑で特別なものであることはわかるだろう。

シェイクスピアはいみじくも言った。

「天と地のあいだには、おまえの哲学では及びもつかないことがあるのだ」と。

――――――――――――――――――――


最後に。

僕は数か月前に、生命について自分なりの結論をブログに書いていました。
生命を考えることと、自分を知ること


生命とは、外部に対して、エネルギーが独自の自律流動サイクル(循環)をもつ現象。
-ただし時間的・物理的に厳密に区切れる境界線はない-


このようにも言いました。

果たしてこの見方が現代社会にどのように役立つのか。
それは経営、経済、金融を機能させるイメージと重なる。

二宮尊徳の報徳金という資本システムが、
資本主義を次世代へ切り開くヒントに溢れていると僕は思っている。
それは生命システムや生態系との本質的類似がある、と感じている。


いよいよ二宮尊徳の哲学と報徳金についても書きたくなってきました。
キーワードは、自律・ネットワーク・贈与、でしょうか。

人間社会は生態系として捉えるべきであり、個々の秩序をバラバラに分離した競争合理主義のアプローチは、実は合理性が極めて低い可能性があります。

「生命とは何か」を、構成する原子に分解しても捉えることが出来ないように、
「合理的な人間社会の在り方」を、下手に消費者・労働者・資本家、国民という観念に分解しても捉えることは出来ないのではないでしょうか。

エネルギーと物質の流れ方・組み合わせ方が、生命の本質であるように、
人の心とお金の流れ方・組み合わせ方が、経済の本質であるように僕には思えてなりません。

経済の実態は、流れる量ではなく流れ方の質であり、
人の心と向き合う精神のないお金の動きは、社会的合理性を毀損するように僕は思います。



二宮尊徳はこう言いました。

財の生命は徳を活かすにあり


***********************************************
参考:「生命とは何か」についての言葉

● すべての生物は神が制作した機械である(デカルト)
● 生命とはタンパク質の存在の仕方である。そして、この存在の仕方は、本質的には、タンパク質の化学成分が不断に自己更新を行うことである。(エンゲルス)
● エントロピーの増大に反して自己組織化する(シュレーディンガー)
● エネルギーによって駆動されるサイクルを介して、秩序が高まる限定された領域(セーガン)
● ダーウィン的進化をすることができる自律的な化学反応システム(NASA)
● フィードバックメカニズムのネットワーク(コルツェニフスキー)

参考:細胞説(wiki)
あらゆる生物は細胞から成り立っているとする学説。さらに細胞が生物の構造および機能的な単位であり、生命を持つ最小単位であるとする現在の認識の基礎となった。ある意味で細胞説は近代的な生物学の始まりである。「すべての生物の構造的、機能的基本単位は細胞である」

参考:分子生物学(wiki)

2013年6月13日木曜日

生命とは何か

科学雑誌ニュートンの今月号のテーマは、

「生命とは何か」

54ページの総力特集です。これを読んで、
科学的に捉えた生命についてまとめておきたくなりました。


生命ってなんでしょうか。


原子で構成されているという点では、生物と無生物に区別はありません。
例えば人と山。拡大していくと、

人 → 心臓 → 細胞 → 原子

山 →  岩  → 鉱物 → 原子

ミミズもカエルも蚊も、植物も、微生物も大腸菌もウイルスも、
石ころや金属と同じく、原子の組み合わせです。

もちろん精子や卵子、DNAも原子の集まり。
つまり、あれもこれも僕らも、
皆これら↓の集まりでしかありません。

元素周期表


ちなみに人間は、















酸素(O)+炭素(C)+水素(H)で、90%以上出来ています。生物が使用する元素は、基本的に自然界にもたくさん存在する珍しくない元素です。

参考サイト 「地球ガイド(JSTバーチャル科学館)地球はどんな物質からできている?」

ちなみに地球は鉄+酸素+ケイ素+マグネシウムで90%以上出来ています。グラフの値はニュートン記事からの引用であり、バーチャル科学館のデータとは若干異なっています。




さらにこれら原子の全ては、
電子、アップクオーク、ダウンクオークでつくられています。



あらゆる物質は、生物も含めて、三種類の粒子の組み合わせです。


あなたの目に見えるこの世界は、あなた自身も含めて、

すべて3種類の粒子です。


この事実に僕は結構おどろきました。
たった三つって。シンプルすぎやしないかって。
大いに好奇心が刺激されます。

この微小な世界について数分で理解を深めるのに有効な、
宇宙―地球―人間―細胞―原子―クオークの、
それぞれのスケール感が直観的に掴める素晴らしいサイトがあります。 
参考:The Scale of the Universe 2 
紹介記事「次世代の百科事典を連想させる “The Scale of the Universe 2″


さらに粒子は、
正面衝突すると消滅してエネルギーに変換されるし、
逆にエネルギーの集中は粒子を生成します。

E=MC^2

質量とエネルギーの等価性をあらわすアインシュタインの式です。
形ある物質は、途方もないエネルギーの凝縮であり、
形のないエネルギーの凝縮は、物質を生みます。

参考:「やさしい物理教室(高エネルギー加速器研究機構)」



生物も無生物も、突き詰めればエネルギーの凝縮から出来ている、
というのは共通しています。


・・・ほんと、この世界は摩訶不思議です。



さて、
生物と物質の違いはどう説明できるでしょうか?

バラバラに分解しても同じ粒子なわけですから、
「構成する成分(元素)の違い」として説明することは不可能です。

実は科学においても明確な定義がありません。
科学者の間で確固たる共通見解がないということです。


おそらく「現象」の違い、
あるいは「機能」の違いとして述べるのが良さそうだと僕は思っています。


ちなみにこの問いに対して、最も引用される説明があります。

量子力学の創始者の一人として知られるエルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961)は自著『What is life?』でこう述べました。






生命体は負のエントロピーを食べて生きている






・・・意味わかりません笑

エントロピーとは何か。
生物と無生物の違いは、そのように説明されるのは何故か。
そして僕は、これらの科学的な洞察をどのように捉えるのか。

今度書きたいと思います。

2013年6月9日日曜日

制約が自己の真実を悟らせ、在り方の情熱へと導く

サーカスの子象

子象が杭に鎖でつながれると、始めは命懸けで逃げようともがく。
しかしそのうち自由になることが不可能だと諦める。

一度逃げることを諦めた象は、
その後どんなに大きな体に育っても、自分の力を発揮する意思を失う。

制約とは「子象にとって」の制約に過ぎません。

子象にとっての制約を一生の制約として生きるか?
制約を乗り越えて大人象に成長を遂げるか?

「杭」は本当の制約ではありません。
制約は、それを制約と認める、自分の心の中(世界観)にあります。

杭を引き抜くのは、
あるがままに杭を洞察する目と頭、
そして何より、
自分の人生の責任を取る意思です。

――――――――――――――――――


甲本ヒロトさんのインタビュー動画より


「大好きなことをずーとやり続けてるじゃないですか。
凄いことだと思います。やりたくてもやれない現実があると思うんです」


そんなことないぜ。

やればいい。


「・・・制限されるからって、そんなんに負けちゃダメだよってことですか?」


んーとね、そうなんだよ。

何かをやるためには、ついでにやらなければいけないことってのが、くっついてくるんだよな世の中。

子供の時はさ。やりたいことをやるためにくっついてくる、そのやらなければいけないことを克服できないんだよ。だからやりたいことも我慢しなければいけない。それはしょうがないじゃん。子供なんだもの。

だけど大人になると何が違うかっていうと、このやりたいことにくっついてくるやらなければいけないことを、克服できるパワーが備わってきてさ。それを全部解決していくんだな。そしてやりたいことをやる、っていうことに到達できるんだ。

それが出来るようになるのが大人だからさ。

だから十代の頃に出来なかったからといって、諦めなくていいと思う。二十歳になった、30歳になった、40歳になったときに、

あぁ、あの時に出来なかったことが今なら出来る、っていう大人になっているかもしれないじゃないか。だからもう一回でも、何回でも、チャレンジできると思うぜ。

―――――――――――――――――――

子供の頃に刻まれた、体験、記憶、イメージ、トラウマ。
それらは残っていて、無意識に自己を制限するものです。小象の杭の話の通りです。

甲本さんは、そういう人の心を十分に分かった上で言っています。
諦めなくていい。克服できるパワーは備わる。何回でもチャレンジすればいいよ、と。

夢はかなう!可能性は無限!と安易に言っているのではありません。

おそらく甲本さんの様な人達は、制約を克服する過程も含めて、既に「やりたいことをやっている」感覚であったのだろうと推測します。彼らは、

何をしたいか(do)という表面に情熱を持っているわけではありません。
どう在りたいか(be)という生き方に情熱を持っています。

やりたいことは、誰かに自分の価値を認めて貰って、機会を与えてもらわなければ出来ないことばかりです。しかし、在り方は無条件にいつでも選択できる。自己完結で決まる内面の話だからです。やりたくてもやれない現実はあっても、在りたくても在れない現実などありません。

自分の在り方の選択。その純度とメッセージの継続が、人の心を動かして望むような縁と機会をもたらし、やりたいことをやれるという現実を創り出すのではないでしょうか。

人は自分の在り方を模索しなければなりません。しかし、人生を通してのそれを見出せている人は多くないかもしれません。

ヒントは「今」にあります。今の在り方と人間関係に真摯に向き合うほど、自分の魂の声を聞くことになるからです。そうして、分からなかった自分の本当の願いが、ビジョンと情熱という形へと洗練されていくのだと思います。


自分の経験から言えることがあります。

僕は数年前までずっと「これがやりたい」と言えることがありませんでした。素朴な日常に幸せを感じる人間であり、それが満たされていればいい、という生き方をしていました。

それが今ではこのようなブログを書くほど、社会と向き合うことに情熱を燃やしています。

この情熱が生じる転換点となったのは、
「自分の人生に100%責任を持つ」と心に決めたことでした。

この決断によって、
自分の内にある問題から目を背けなくなりました。
日常は自分の内と外を問い続ける修行となりました。
今と向き合う=自分の在り方を模索するということを、意味のある水準で可能にしました。

自分の在り方は、一切の言い訳をせずに、内と外に全力で向き合わなければ見えてこないのだと思います。


ミスチルの桜井さんは名もなき詩で歌っています。


「あるがままの心で 生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしている」


やりたいことをやりたい。あるがままの心で生きたい。その気持ち、本当ですか?

やりたいことを貫きたいなんて、
そんな大それた望みを持たないから、
あるがままの心を我慢するから、
平穏無事に暮らす権利と保証がほしい。

心の底のどこかで、そう思っていた自分がいました。自分以外の、一体誰に、何に、どんな約束に、すがっていたのか。

贅沢を言わない。わがままは我慢する。義務を頑張る。耐える。
素朴な幸せだけで満足する。そんな勝手な自己犠牲と引き換えに、

誰かを、社会を、自分の平穏を与えてくれる手段と見なしていた卑怯さに気付く。このエゴを自覚した時点で、自分の人生に100%責任を持つ覚悟はできつつありました。

今の自分を問い続ければ、次第に真実が見えて、自己嫌悪になるかもしれません。無自覚に「我慢するから安心をくれ」という取引をしながら、嘘のない誇れる仕事をしたがっていた愚かさ。置かれた環境や目の前の現象は、決して理不尽ではありませんでした。人間関係を手段にしている自分の在り方が根底にあったから、招いた結果に過ぎないのだと悟りました。

そのような過程の中で、嫌悪した自分を赦し、多くの同じ他者を赦していきます。
人の心の弱さを知る。本当の強さを知る。

心の真実を知ることで、自分がどう在りたいのかが分かるんです。
自分の在り方への情熱は、自ずと生じていました。
まるで、新たな命が宿ったかのように。



どうしようもない制約なら気になりはしません。人は飛べないことに何故翼がないのかと悩みません。もし今制約と感じずにはいられない何かがあるのなら、それは克服できるというメッセージです。甲本さんと同じく、僕もそう信じています。


あなたの制約は、どこにありますか?




参考「あるがままの心で生きられぬ弱さを」「情熱の薔薇

2013年6月8日土曜日

理性と善意を現象化させること

「善きサマリア人」の実験
90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。
『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)、立ち止まらずに道の反対側を通り過ぎていった。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、近寄って傷の手当をし宿場まで連れて行った。』
ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。
ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。
ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。
①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか?それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」 
②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、「職業としての聖職者と宗教的使命の関係」を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。
③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。
さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」
この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。
言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。

 マルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』より



この事実からどのような意味を見出せるでしょうか。

「思いやり」「優しさ」などの心が、
行動として顕在化されるか否かは、
置かれた状況に致命的に左右されている可能性が高いということです。


例えば、相手の心に関心をもって話を聞くこと。思いやりの行動の代表です。自分の視点と感情から反応するのではなく、相手の解放したがっている感情を尊重し、背景まで感じとろうとして関心を払う。真摯に聞くとは、誠実で愛のある向き合い方として大きな意味を持つ行為です。

しかしこれは何かに気を取られていてはできません。頭に他の優先事項がちらついている限り、相手の気持ちは二の次になったコミュニケーションしか実現しません。同じ聞くという行為でも、この場合、私と相手の「今」は状況次第で効率的に処理すべき対象になっています。

また「正直さ」においても同様のことが言えます。

お金を稼ぐとき、正直になれない場面が一般に多くなるのは何故でしょうか。強い立場の人を前にするとき、正直な意見を言いにくくなるのは何故でしょうか。政治家が有権者の票を集めるとき。営業マンが見込顧客に商品をセールスするとき。やはり思いやりと同じく、正直さも状況に左右されています。


人の心の中で何がどう作用しているのでしょうか。


普段はどれだけ正直な人であっても、組織に属する者としての建前があります。建前とは、つまり役割です。社員として、父(夫)として、国民として・・・。人は、役割を通じて、何か大切なものを守ろうとします。

サマリタンの実験においては、神学生には人前で説教をする、という役割が与えられました。そして「あぁ遅刻だ、既に数分前から君を待っている」と告げられることで、彼は思いやりを失いました。いや正確には、本質として思いやりを失ったわけではありません。聖書のサマリタン的な行動を取ることよりも、人前で善きサマリタンをテーマに説教をするというミッションが自分と同化してしまったというだけです。

冷静に考えると、もし実験でなければこのような矛盾は、「人としてどうか」と問われてもおかしくないほど酷いものです。しかし科学的に現象を捉えてみると、

人の善意の発揮を左右するのは、人格うんぬんより、
役割への同化と、
自分の義務を果たすという善意の責任感から効率優先で急ぐことではないか。

そのような仕組みになっていると理解する方が合理的ではないでしょうか。彼らはそのような役割さえなければ、あるいは「遅刻だ」と告げられて危機感を感じなかったならば、行き倒れた人を助けたのですから。


常に、いついかなるときも、
人に理性と善意の発揮を望むのであれば、

効率を高めることでも、責任感に訴えることでも、
倫理観を問うことでも、義務を強調することでもありません。

役割への同化をやめることです。やめさせることです。


逆に理性と善意を失わせたければ、役割への同化を求め、
義務を強調し、責任感に訴えて、
倫理観を問いかけ、効率を高めることが有効かも知れませんね。


村上春樹さんはカタルーニャの国際賞受賞のスピーチ(2011/6/9)でこう言いました。

―――――――――――――――――――

今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。

どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 答えは簡単でです。「効率」です。efficiencyです。

 原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。

 まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです

―――――――――――――――――――――――

役割を第一目的に置くとき、個人としていかなる良心・信念による正直さを有していたとしても、その想いは効率的に処理せざるを得ない場合が頻繁に生じます。

思いやりや正直さ、誠実というクオリティが、状況に左右されるとはそういうことです。役割を前提にした関係性に身を置くかぎり、自分の役割や関係者の役割を、脅かしたり逸脱しない範囲に行動を留めるのは必然です。サマリタンの実験のように、役割と自己の良識に矛盾が生じても、自分の振舞いに疑問を持ちにくくなります。

原発を安全だとして推進した人達も含めて、この社会の矛盾は、役割に同化した人達の責任感から引き起こされているケースが大半ではないでしょうか。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはそういう意味です。

そして村上さんの主張した、効率を優先する社会の弊害の根本にあるのは、

多くの人々は不安感から役割に執着するのであって、
「和して同せず」という君子であるのは、
怖れを解消しない限りは困難だという事実です。

社会の現状は、石原都知事がいうように人々が我欲に駆られた結果だとは思いません。むしろ、争いの世界観に自らの存在価値を見出し、人々に役割への同化を要求し、他者を責め立てる強い?リーダーが歴史上大多数であったからのように僕には思えます。観念や役割に依存するから不安が消えないのだと思うのですが・・・。とはいっても、人々はそういう強い?リーダーを望むんでいるのですから、誰も悪くないし、望んだとおりの結果が実現しただけなのですが。



私たちは、正直で善意の言動の多くが、人格という要因以上に、置かれた状況や環境に依存するという事実を過小評価してはならないのではないでしょうか。

人は本来、観念を取り除いてあるがままであるほど、理性を発揮することができます。皆、例外なく優しい人間でありたいし、善意の行動をしたいと望んでいます。

僕はそのような世界観、人間観、信念を持っています。だから、人の本性が発揮されないのは何故か?お金の観念と人々の精神と行動の関係性とは?という思考を続けているのです。


人格を責め立てて、人の善意を疑い、性悪説の世界観を選択して、不信と不安から環境整備をするくらいならば、
「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い出して、心の余裕が赦されている状況か否かという環境的な要因を重んじて整備していく方が合理的だと考えます。

しかし。もしあなたがリーダーの生き方を選択するならば。

環境要因の重要性を認識しながらも、自分の内的な世界観の方が遥かに重要です。自分の外側に言い訳できる原因は一つもありません。そして、リーダーの在り方そのものがメンバーにとっては最大の環境要因です。もしリーダー自身が役割に執着している場合、メンバーも同様の振舞いをするため、個々の理性と善意の生産性は発揮されにくくなります。

この話は、善意の行動化・現象化をテーマとしながら、性善説の企業経営・共同体運営はいかにして可能か?という議論でもあります。


外部の環境に左右されるのは、善意だけではありません。
悪意とされる行動も同じです。例えば、「割れ窓」理論をご存知でしょうか。

「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した理論です。

現実への応用として、軽微な犯罪を徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪率を大幅に下げることができるという考え方があります。

――――――――――――――――
ニューヨークの例

ニューヨーク市は1980年代からアメリカ有数の犯罪多発都市となっていたが、1994年に検事出身のルドルフ・ジュリアーニが治安回復を公約に市長に当選すると「家族連れにも安心な街にする」と宣言し、ケリングを顧問としてこの理論を応用しての治安対策に乗り出した。

彼の政策は「ゼロ・トレランス(不寛容)」政策と名付けられている。具体的には、警察に予算を重点配分し、警察職員を5,000人増員して街頭パトロールを強化した他、
  • 落書き、未成年者の喫煙、無賃乗車、万引き、花火、爆竹、騒音、違法駐車など軽犯罪の徹底的な取り締まり
  • ジェイウォーク(歩行者の交通違反)やタクシーの交通違反、飲酒運転の厳罰化
  • 路上屋台、ポルノショップの締め出し
  • ホームレスを路上から排除し、保護施設に強制収容して労働を強制する
などの施策を行った。そして就任から5年間で犯罪の認知件数は殺人が67.5%、強盗が54.2%、婦女暴行が27.4%減少し、治安が回復した。また、中心街も活気を取り戻し、住民や観光客が戻ってきた。
―――――――――――――――

驚くべき成果です。落書きや違法駐車などの軽犯罪が、徹底して取り締まられているという状況が、殺人などの重犯罪が起こるか否かの七割近くを左右していたということです。

直観的にも分かりやすい理論です。リーダーのあり方の次元から発せられるメッセージが、偽りではないとハッキリと経験されることで、一定水準の認識量のティッピングポイントを超えたことによる現象です。犯罪者だけでなく、犯罪を犯しそうな人、さらには善良な市民たち、そして米国全土の人々までも共有していた、

「ニューヨークは犯罪都市だ」

という観念を覆したわけです。意識の全体性が認識を改めるに至ると、変化は比例的ではなく、跳ね上がるようです。リーダーシップが社会生態系を変えることに成功した好例と言えます。


既存の観念の作用、

人の心と行動、

リーダーシップの本質。


いつの時代も、それを理解した者が新たな世界を切り開くのだと思います。



参考:観念の作用観念とパラダイムの転換

2013年6月1日土曜日

自我を手離すこと

手を離す-『ロープのたとえ話』

思い込みにしがみついている心は、ロープにすがりついている人に似ています。

もし手を離したら、落ちて死んでしまうと思って、自分の命のために一本のロープにしがみついています。両親や教師や他の沢山の人たちがそう教えたからです。そしてまわりを見まわすと、みんなも同じようにしがみついています。

彼に手を離しなさいと誘いかけるものは何もありません。

そこへ、一人の知恵のある婦人がやってきました。

彼女は、しがみついている必要はない、そのような安全は幻想にすぎず、人を今いるところから動けなくしているだけだと知っていました。そこで、彼女は男を幻想から解き放ち、自由になるのを手伝う方法はないものかと考えました。

彼女は男に、本当の安全や、より深い喜びや、真の幸福、心の平和について話しました。そして、もしロープを握っている手の指を一本だけ離せば、それを味わうことができるのよ、と言いました。

「一本だけですね、喜びを味わうためだったら、それぐらいの危険はおかしてもいいな」と男は考え、最初のイニシエーションを受けることに決めました。指を一本離すと、彼は今までにない喜びと幸福と心の平和を味わいました。

しかし、それも長続きはしませんでした。

「もう一本指を離せば、もっと大きな喜びも幸せも心の平和もあなたのものよ」と彼女は言いました。

彼は自分に言いました。「これは前よりも難しいぞ。本当にできるだろうか。大丈夫だろうか。自分にそんな勇気があるのだろうか」彼は躊躇し、それから指の力を少し抜いて、どんな感じか試してから、思い切って指をもう一本離しました。

落ちずにすんだので彼はほっとしました。そしてもっと幸せで、心が平和になったことに気がつきました。

でも、もっと幸せになれるのでしょうか。

「私を信じなさい。今まであなたをだましたことがありましたか。あなたがこわがっているのもわかります。あなたの頭が何と言っているかも知っています。こんなことは気違いじみている。今まで習ってきたことに反するじゃないかって言っているのでしょう。でも、私を信じて下さい。私を見てごらんなさい。とても自由でしょう。絶対に安全だと約束します。あなたはもっと幸せになれます。そしてもっと満たされた気持ちになれますよ」と彼女は言いました。

「僕はそれほど、幸せと心の平和を望んでいるのだろうか」と彼は自問しました。「今まで一生懸命にしがみついてきたものを、全部手放してしまうだけの覚悟ができているのだろうか。原則的にはイエスだ。しかし、それが安全かどうか確信ができるのだろうか」

こうして彼は自分の中の恐れを見始めました。恐れの原因を考え始め、自分が本当に何が欲しいのか探し始めました。少しずつ、ゆっくりと、彼の指から力が抜け、リラックスし始めました。彼は、自分にはできる、とわかったのです。そして、そうしなければならないことも知っていました。彼が握りしめていた指を離すのはもう時間の問題でした。そして、指を離してみると、もっと大きな平和の感覚が彼の内部に染みわたってゆきました。

「彼は今や一本の指でぶら下がっていました。理屈では、指がニ、三本しか残っていない時に、すでに落っこちていてもいいはずでした。しかしまだ落ちていません。「しがみついていること自体、まちがっているのだろうか」と彼は自問しました。「僕はこれまでずっとまちがっていたのだろうか」

「最後の一本はあなた次第よ」と彼女は言いました。「私はもうこれ以上助けられません。ただ、あなたの恐れはどれも根拠がないということだけは覚えておいて下さい」

自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。

何も起こりませんでした。

今までいた場所にそのままいました。

そしてそれがなぜか、彼はやっとわかりました。彼はずっと地面の上に立っていたのです。

地上を見渡した時、彼の心は真の平和で満たされたのでした。そして彼は、自分がもう二度と再びロープにしがみつくことはない、と知っていました


ホワイトホール・イン・タイム
~進化の意味と人間の未来~
The White Hole in Time
Our Future Evolution and the Meaning of Now

ピーター・ラッセル著 山川紘矢・亜希子訳






ここからの引用です。

この本は1993年初版と古いですが、内容は普遍的で素晴らしいです。著者は理論物理学・心理学・瞑想に造詣が深い上に、多国籍企業のコンサルタントとしても活躍。ビジネスと自然科学の正しい識者が、人間の存在をテーマにして、スピリチュアルと進化論の軸で語ったら・・・という雰囲気です。良かったらご参考に。


ロープの話を読んで何を思われたでしょうか?


何かにしがみつく心、執着を生みだすのは怖れです。

怖れをつくっているのは思いこみ=観念です。

それら一つ一つの観念を外していくとどうなるかを示唆しています。

自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。
何も起こりませんでした。
今までいた場所にそのままいました。

強力な価値判断の根拠として機能する観念は、期待や不安の渦を生じさせています。

しかし内観で一度見抜いてしまえば、影響力のない幻想にすぎないことが分かる。
そういう例え話です。


彼はずっと地面の上に立っていたのです。


最後の一本を外すことによって、

「いまここに、無条件に、自分は在る」ということを発見します。

移ろいゆく現象の世界で、そこが、惑うことなき基準点となってくれます。

何が起ころうと、そこを起点にすればいいと分かります。

観念に振り回されることは二度とありません。



観念への抵抗や同化をやめるほど、人は自由になっていきます。

そして最終的に、

「自分」という観念から解放されて、

初めて意味のある水準で、

「自分はどうありたいか」を選択できるようになるのだと思います。





あなたは今ここで、無条件に、どう在りたいでしょうか?


それは完全に自由です。



この問いに、
バガボンドの武蔵はどう在ることを選択したでしょうか。



藩に見捨てられた土地に小さな集落があった。武蔵は旅の途中、父を亡くしたばかりで一人身の伊織(たぶん10歳未満)に出会う。孤独の寂しさを抱えたその子をなんとなく放っておけず、「田を耕せ」と諭し、亡き父の荒れた土地を耕しながら共に過ごすことにした。しかし村は飢饉に襲われてしまう。村人は絶望するが、武蔵は慣れない鍬を持ち、死んだ土地を一人耕し続けた。

そんな頃、剣術指南役として迎え入れたい役人から士官の誘いを受ける。武蔵は「強くありたい」と言って、申し出を蹴り、飢饉の村に留まることにした。武蔵の耕す姿に希望を感じた村人は、一人また一人と集まって力を合わせはじめ、翌年の収穫期まで生き抜く決意を抱くようになった。しかし、日に日に飢えの現実は厳しくなっていく―

――――――――――



食うものがない



今朝

また一人死んだ



この冬を越せるのか?



伊織「春まであと何日?」

武蔵「さあ 五十日か百日か」


武蔵
(冬を乗り越えても・・・収穫はさらに先・・・)

武蔵の内の辻風黄平
(おめでとう。ここだよ。)
(ずっと探していたんだろう?武蔵。 死に場所を。)



一月

少しずつ取り崩して食いつないできた稗や蕎麦、干し大根などのわずかな蓄えが

底をついた


村人「終わりだ・・・」


雑穀類の蓄えがなくなった後はカシワやコナラの実――

ドングリが人々の命をつなぐものの一つだった

穀物類に近い栄養素が得られたためである


木の実を食べ尽くすと

山菜 野草 草の根等

食べられるものは何でも食べるほかなかった




――乳飲み子がいる夫婦の宅にて。

なんとか乳を搾り出し、赤子に飲ませることができて安堵する夫婦。

リーダーの村人「正蔵、(妻のために)ドングリ少しでも蓄えとけよ」

正蔵「はい」

武蔵「もっと探してくる」



伊織と探しに行く武蔵。


「ないな・・・ 食えるもん」



食べられそうにないものも工夫によって食料としたが

やがてそれすらも食べ尽くし

二月



伊織「あ!!」

村人が首を吊っていた。

武蔵「・・・喜助・・・」




武蔵
(たまたま流れ着いただけの場所と思ってた)
(ここが死に場所ってことか)


我執の声
(こんなとこで死ぬもんか)
(死ぬ時は斬られて死ぬ)
(ここには俺を斬る奴がいない)
(剣持ってとっとと抜け出せ、こんなとこ)

武蔵(・・・・・)


武蔵「ここで死ぬにせよ、死なぬにせよ、もう決まってること」
   「決まっていて――」

武蔵の内の沢庵
(そう、そして ・・・それが故に自由)




帰宅すると、
伊織が飢えによる衰弱で生気を失い、部屋の隅で横たわっている。

「伊織!」


松の皮

剥いだ松の皮は食料になるという

臼でひいてザルに通して粉にする

水を加えて煮る

一晩置いて苦みや渋みをとる


武蔵(・・・伊織)


食べ物を探しに村人宅を巡る。

しかしどの村人も、飢えによって気力体力は限界に達しており生気を失っている。


武蔵「集落が、死んでいく・・・」

武蔵の内の黄平
「そのようだ この死神から見ても ククク」


―帰宅。

武蔵「伊織」
伊織「先生・・・」
   「一緒に寝て・・・」


外へ出て走る武蔵。


我執の声
(どこへいく?)


武蔵
「どこであれ
それがいつであれ
死ぬことは決められている」


武蔵の内の沢庵
(そう。 そして?)


武蔵
「残された時間がある。
 どうあるかは自由 」


武蔵の内の沢庵
(どうありたいのだ?)


武蔵
「強く――――


我執の声
(よく言った!)
(さあ帰ろう。闘いの日々へ)
(俺が俺らしくいられる場所へッ!!)
(力強く歩め)
(フラフラでも倒れそうでもやせ我慢)ヒャッホー


立ち止り、息を切らしながら、空を見上げる。

そこには悠然に飛ぶ鷹。


「俺が
  俺らしく―――」

我執の声
(そうだ)


「手足が無くても
 それは残るはず」

「俺は」


「何だ」





回想した女性の言葉





「やさしいんだよ あんたは」






男「うわっ、何だ貴様!?」

男「待て」

「「武、武蔵だと!?」」

士官を誘った役人の居場所へ乗り込んだ武蔵。




「助けてくれ」


                    
―――――――――――――――――――――――――
バガボンド♯315 水ぬるむ頃



例えていうなら、スラムダンクのあのシーンです。

山王戦。

あの桜木が流川にパスして逆転。

しかし沢北に逆転される。残り十秒。

湘北オフェンスで流川が攻め込む。

ゲーム終了までわずか1秒。

この局面。

あの流川が自分で行かずに、桜木にパス!シュートを決めた桜木!


無言のハイタッチ!

流川と桜木がです。

スラムダンクを読んだ方なら、この二人がパスし合ったことの意味がどれほど大きいか分かるはずです。

二人とも完全に我執が消えています。ゆえの、最高のプレイをして奇跡を起こしました。



・・・・と同じくらい、武蔵の「助けてくれ」は凄いシーンなのです。


スラムダンクにおける桜木と流川のそれは、
全31巻、連載6年に渡って描いてきた世界の重みを、最も背負ったワンシーンでした。

バガボンドにおける武蔵のそれは、
現在35巻、連載15年に渡って描いてきた世界の重みを、最も背負ったワンシーンです。



この二つに共通して描かれていること。


自我を捨てるということです。


そこにあるのは真我です。



この記事のロープの話から伝えたいこととは、
武蔵の「助けてくれ」の意味です。


武蔵は「強くあること」が自分という存在の証明でした。
この作品が始まって以来ずっとです。
武蔵は屈したことがない。
天下無双を目指して、命がけで斬り合い続けて、最強の名声も得た。

強くあることが自分。

しかし、

この衝動が説明できない。

伊織を助けたいという衝動。

それに突き動かされ、走っている自分を説明できない。

我執が揺れている。

自分の中にいる沢庵が問いかけてくる。自問自答。

「どうあるかは自由だ」

どう在りたいのだ?

「強くありたい」

それで?
どう在りたいのだ?




強くありたいという思いの先に、まだ「俺」がいる。

その「俺」が、伊織を助けたいと心身を突き動かしている。




「俺は俺らしく――」
「手足がなくても残るはず それは・・・」
「俺は何だ」


武蔵の気付いたそれとは、何でしょうか?

手足(=剣による天下無双の強さ)がなくても、残る「俺」です。

これを対象化した武蔵は、気付きます。

真の自分を知る。


「やさしいんだよ あんたは」


答えを出した。

同化していた観念が外された。

武蔵が自己と同化させていた観念とは、斬り合いの強さ。

殺す力。

それを手放して見出したのは、
手足がなくても、人に屈したとしても、
無条件に在る強さ。

剣が振るえなくても、無条件に強く在る自分。



愛であること。



人間が死力を尽くして、自分を問い続けて、
その果てに見出すものは、それです。


武蔵はこの話で、
自己のアイデンティティを支えていた強さが、根底から覆りました。
最も固執していた執着が離れ、世界観がひっくり返りました。


このシーンは、
武蔵を通じて、人間の悟りを描いているのです。

井上さんの連載15年の重みをもって。


井上さん。僕は本当にこの作品に出会えて良かった。
感動をありがとう。