2013年6月29日土曜日

働くということ

働くということの本質を考察します。


以下は、動画「レジ打ちの女性」のテキストです。

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あるところに

何をしても長続きしない女性がいました

つまらない
やりたくない
私のやりたかったことじゃない
言い訳ばかり

大学のサークルも
就職してからの仕事も
すぐ辞めてしまう

気付けば彼女の履歴書には
たくさんの職歴が並ぶようになった


「どうせすぐ辞めるんじゃない?」

「ちょっと今回はねぇ・・・」

「これじゃあ信用できないな」


いつしか正社員として彼女を雇う会社は無くなっていった・・・

その後、派遣社員となるも
やはりすぐ辞めてしまうのだった



こんな私じゃだめだ
ガマン強くなりたい

でもどうがんばっても
なぜか続かない・・・

そんな時にきた仕事が
スーパー
のレジ打ちだった

しかし数週間後
単純作業がイヤになり
結局また辞めたい衝動が
彼女の心を襲う

そんな矢先 電話が鳴る
田舎の母からだった



「もう、帰っておいで」



母の一言に心を固め
辞表を書き
荷物をまとめだした時
あるものを見つける



それは子どもの頃の日記だった


「ピアニストになりたい」


はっきりとそう書かれていた

唯一 長く続けられたもの
それがピアノだった・・・

彼女の中で
静かな変化が起こった


 

もう逃げるのはやめよう


お母さん、私
もうちょっと頑張ってみる


決意の証が
雫となって頬をぬらした


ピアノも練習するうちに
鍵盤を見ずに弾けるようになった


ひょっとしたらレジ打ちも・・・


彼女は特訓をはじめた

大好きだったピアノを弾くように


彼女はいつの間にか
レジ打ちの達人となっていた


変化はすぐにあらわれた
お客様の顔を見る余裕ができ、
次第に覚え、
話しかけることができるようになった


「あら?鯛ですね!
 いいことがあったんですか?」

「わかる?
 孫が水泳で賞をとったの!」

「それはよかったですね!
 おめでとうございます!」


彼女は
たくさんのお客様と
お話ができるようになった

そんな時、ある事件が起こる

それは店内アナウンスが
何度も流れるほど忙しい日だった


「お客様、 どうぞ空いてるレジにお回りください」

「重ねて申し上げます。どうぞ空いてるレジにおまわりください」


彼女が見回してみると
彼女のレジにだけお客様の長い列が・・・


「お客様、どうぞあちらのレジへ」

「イヤよ
 私は彼女と話をしにここに来てるの」

「私も同じよ
 だからこのレジに並ばせておくれよ」


この光景を目にして
彼女は手を思わず止めた
あふれる想いは
歓喜の雫となり
その場に泣き崩れた

その後も
レジからは会話が途絶えなかった



ほどなくして彼女はレジの主任となった

そのまま新人教育も担当する


彼女の履歴書がその後どうなったかは誰も知らない

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木下晴弘著「涙の数だけ大きくなれる!」より



僕が証券会社勤務時代、社員研修にて紹介されたストーリームービーです。結構有名なようなので、ご存じの方も多いかもしれません。


あなたはこの話をどのように感じて、どう捉えましたか。

彼女は仕事をずっと好きになれませんでした。しかし大きく変わった。なぜでしょうか。

やりたいことでなければ本気になれない、という観念を捨てたから。
自分の弱さから逃避する言い訳として機能しつづけていた、自分と同化していた観念を外すことができたのは、「もう逃げるのはやめよう」と決断したからです。弱い心と向き合って、自分のあるがままに目を背けなければ、幻想は消えていきます。すると、本当の自分の可能性が見えてきます。

「ピアニストになりたい」と綴っていた過去の自分に見出したもの。それはきっと、ピアニストを目指していたときの自分のあり方です。ピアノが続いたのは、確かにピアノが好きだったからでしょう。しかし、ずっと重要な真実は、本気でぶつかっていたから楽しかったということ。そして何より、そんな自分が好きだったということです。

ピアノの意味を輝せていたのは、好きなピアノをするという行為ではなく、ピアノを通じて「最高の自分を目指すというあり方」です。情熱をもって最善を尽くし、偽りなく自己と向き合う。だから、誇らしい喜びが創造される。自分の存在に誇りと喜びを持てる行為となれば、好きになるのも成果が出るのも継続するのも必然です。

ピアノも練習するうちに
鍵盤を見ずに弾けるようになった

ひょっとしたらレジ打ちも・・・

逃げないと決めたから、観念が外れ、自分を信じて進むことができます。


「どんな職場にもつまらない仕事はあるだろう。しかし重要なのは逃げないことだ。退屈で嫌いな仕事にも、不合理にみえる環境にも、大きな意味を見出すことはできる。すべては自分のあり方次第だ。接する人はあなたを見ている。あなたの心が伝われば、環境は変わっていく。だから自分に言い訳をしてはならない。」

そういうメッセージです。証券営業マンへの新人研修には相応しいかもしれませんね。当時の僕は、確かにそれなりに感動してモチベーションが上がったのを覚えています。


ただ・・・根本的に重要なことを指摘します。

この話は、レジ打ちの達人になって正社員になった、というオチでは感動しません。彼女が素晴らしかったのは、逃げないと決め、レジ打ちの達人になった、さらにその後です。

お客様の顔を見る余裕ができ、
次第に覚え、
話しかけることができるようになった


彼女は、人の心に関心を寄せました。小さい接点の中に、心を通わせることで、互いを分かち合う関係を築きました。彼女のレジにだけ長い列をなしたシーンでは、彼女が創りだしていた本質が顕在化しました。

働くことの真価は、人間関係に向き合うことです。労働者という義務と、消費者という権利に反応しあう間柄には、人間としての喜びは生じません。

働くということは、存在を分かち合うことです。取引ではありません。

人間の尊厳にとって必要なのは、労働者の権利を守ることでも、消費者の権利を守ることでもありません。人の心に関心を寄せて、存在を分かち合うために働くことです。


レジ打ちの物語は、たしかに感動的で示唆に富みます。しかし所詮はフィクションです。というのも、話の裏付けとなる人物が明確な形で実在していません。働くことの意味を伝える、というには役不足です。メッセージを担保する信念をもった本人がいないのですから。

ここで、働くということについての信念の言葉を引用します。

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「好きな仕事」について考える ―沖縄の事業再生家 樋口耕太郎さんのツイッターより

誰しもが「自分の好きなことをせよ」という。しかし、このシンプルなメッセージの意味するところは深い。例えば、自分の今までを振り返って、「好きだから」という理由で何かを選択したことがあっただろうかと考えるのだが、実は一つもなかったということに気がついて、驚いている。

確かに、自分は、100%自分のしたいことを選んで来たと思う。そして、選んだことの殆どを、心から愛したと思う。しかし、好きだから、という理由で選択したことは、一度もないのだ。

大学を選んだときも、その他の殆どの学生と同様、実は中身などよく解らなかったし、卒業後の就職先に野村證券を選んだ理由も、当時日本でもっとも厳しい会社だとされていたからだ。(想像を超える厳しい仕事の詳細を事前に知っていたら、選んでいなかったかもしれない)

ウォール街に勤務することになったときも、不動産金融という分野に、特段の関心はなかった。今でこそ花形という見方も可能だが、当時、投資銀行の社員が不動産ファイナンスなど、亜流のビジネスを担当している、と悩んだものだ。

12年間お世話になった野村を離れて移籍したレーサムも、私が共同経営を担当した4年間は、日本の不動産流動化ビジネスの先端を走った時期があったが、当時は中古マンションのセールス会社の域を出ず、随分垢抜けない会社に加わったなという気分を味わったりもした。

自己資金で取得したサンマリーナホテルも、別にホテルを所有することや運営することが好きだったわけではない。むしろ、ホテルに強いエゴやこだわりがあり、ホテル事業を好きな人が投資したら、きっと失敗するだろうと思っていた。

多くの人が、「大好き」という理由で訪れる沖縄も、私の場合、好きだという理由で住むようになったわけではない。取得したサンマリーナホテルが偶然沖縄にあったことがきっかけだ。

事業再生専業会社、トリニティ株式会社を起業するまで、会社の経営をしたいと思ったことは、一度もなかったし、多くの青年のように、社長になることが夢だったこともない。

有機野菜の流通業、ダイハチマルシェの再生を手がけた理由も、決してその分野での事業展開を目指していたからではなかった。

4月からお世話になっている沖縄大学も、過去にその職を望んでいたわけではなく、本当に有り難いご縁を頂いたにすぎない。

しかしながら、断言できるのだが、私はそれまで関わってきた全ての会社や、組織や、チームや、仕事を心から愛して来たし、その瞬間ごと、それぞれの仕事に関わったことの幸せを、とても強く噛みしめてきた。そして、全ての瞬間を全力で過ごす自分や、自分の役割を深く愛していた自分が、心から好きだったのだと思う。

私の経験から思うのは、別に仕事(自体)を好きになる必要はないと思う。それどころか、好きなことを選ぶと言うことの意味は、嫌いになれば辞めてしまうということだ。そんな一貫性のない生き方が人に信頼されるとは考えにくい。どんな仕事であっても、どんな地域に住んでいても、瞬間瞬間の自分が好きでいられるような、そんな選び方をするべきではないかと思うのだ。

参考:「ハタラクということ」
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働くということの本質は、お金を稼ぐことにはありません。

自分の弱さに向き合うことであり、

人の心に誠の関心を寄せることであり、

存在を分かち合うことであり、

人を愛することである。

僕はそう思います。


あなたはどう思いますか?

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