2016年1月18日月曜日

サドベリー教育と公教育の違い。

私たちは「人は本当にやりたい、必要だと感じたときに一番よく学ぶ」と考え、その瞬間の学びを信頼しているのです。東京サドベリースクール

サドベリーは人間を信頼する。本人を信頼する。余白を信頼する。教育の起点と重心が信頼だ。一方で大半の公教育は、人間不信、社会不信を前提に行われている。教育現場は、不安と必要ゆえの大人たちの願いで埋め尽くされている。「子供のため」と言いながら。

『今ここの必然を信頼する教育』と『いつか何かの不安と期待の物語に応じる教育』。その違いなのだと思う。

私からするとサドベリー教育もまた何かが足りない。しかし、その出身者で広報も務めた米澤悠亮さんは「それ」が足りている。彼は心身をフルオープンにして現代教育に挑んでいる。対話している。他者の不安、社会の不安に、自分を晒して受け止め、向き合っている。私がサドベリーに強く興味を抱いたのは、彼の存在を知ってその姿勢に心打たれたからだ。

大人が子供と対等に対話する教育を実現するには、大人が社会と対等に対話していなきゃならないんだよね。 

理想の教育像がはっきり見えてきたよ。

2016年1月16日土曜日

世界がぼくのコンビ。

社会君を人生のパートナーとして見たとき、彼に日常的に取るべき態度は、生涯を誓いあった妻みたいなものです。
仲良くしようがしまいが関係ありません。理解しようとしまいと、許し合おうと憎み合おうと、心の内側も含めてありとあらゆることは、突き詰めれば、過不足なく分かち合うことしか出来ません。我慢も飾りも全く無用の運命共同体。命懸けで愛すべき伴侶であり、向き合って対話を尽くすべき相手です。

岡本太郎が良いことを言っていた。

「漫才師にかぎらずコンビで何かやるときはみんな同じだ。遠慮したり、ウチにこもらせず、面白くぶつかりあうことが大事だね。ぶつかり合うことが面白いと思って互いをぶつけ合う。そうすれば、逆に生きてくる。
ぼくは世界がぼくのコンビだと思って仕事をしてきているからね。だから、世界を相手に作品をぶっつけている。
ぼくが毎回言っていることだが、人に好かれないことを前提に、世界を相手に作品をぶっつけてきたのもそのためだ。」太郎に訊け

もっと本気の言葉が聞きたいんだよね。ガキでもなく、大人ぶるでもない。命が、命懸けで人生経験をくぐり抜けた肉声を。

世間様なんて意識でチヤホヤしないでいいんだよ。世間ちゃん、社会くんを、世界さんを、自分と対等のパートナーとして語ったら面白くなると思うよ。

2016年1月11日月曜日

私の好きな許しの定義。

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。

私はこのゆるしの定義が好き。他者の過ちを直視し、自らの内側の問題として受け入れている。存在を分かち合う選択をしている。そんな姿勢は、人として強く美しいと思う。