2015年7月19日日曜日

愚か者には見えない衣装なんか脱ぎ捨てて、裸になって語ろうよ。

『裸の王様』
新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。
仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。ついに皆が「王様は裸だ」と叫ぶなか、王様一行はただただパレードを続けるのだった。wikipedia
ハンス・クリスチャン・アンデルセン作
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『裸の王様』という童話は秀逸です。人間社会の滑稽さをユーモラスにえぐっています。臣下も民衆も、みんな自分に嘘をついて、王様が裸ではないというフィクションを前提にして現実を盛大に造り出しています。でも、ありのままを観て自分に嘘をつけない子供の心はごまかせない。

ほんと、「馬鹿には見えない布」って言い回しが絶妙だと思います。

確かに王様は滑稽です。しかし、なぜ王様は滑稽になってしまったのでしょうか。彼を滑稽な王様にしていったもの、それは一体何でしょうか。

想像してみてください。

生まれたときから、身の回りの全ての人間が彼に、「王になる(である)」という物語を前提に接し続けた。

彼は、その物語を他者と共有することでしか、人と繋がれなかった。

王という観念と同化することでしか、人間関係の喜びを体験させて貰えなかったのだとしたら。

その幻想に執着するのは必然なのです。


新聞やニュースを見れば、「愚か者には分からない出来事」に溢れています。今の社会の常識を百年後の人々が見たら、全く支離滅裂で荒唐無稽で、まるで「裸の王様」で描かれたパレードの様な喜劇に見えるかもしれません。
確かに私も、国債も年金も、国民も消費者も、法律も資本主義も、全く見えません。馬鹿だからでしょうか(笑)でもそのような観念と解釈物語に振り回されるのが人間社会なのですよね。
「親」「社会人」「経営者」「専門家」「政治家」…そんな衣装はたくさんあります。裸の王様のように、リーダーが社会物語に依存して権威を着てしまえば、フォロワーも「衣装」を着て振る舞うことになります。やがて化かし合いの人間関係が体験として積み上がり、それを根拠にした「タダシイ常識」が世にはびこっていきます。
しかし、どれだけ影響力の大きいものであろうと、どれだけ本物っぽく見えようと、嘘は嘘であり、必ず破綻します。その時、嘘の物語を前提にした人間関係群もあっけなく破綻することになります。
もし王様が賢くて、自立していて、自分の存在意義や自尊心を権威や立場に依存していなかったとしたら。きっと「地位に相応しくないような愚か者には見えない衣装」とやらを「着る」ことも「見る」こともなかったでしょう。
「愚か者には見えない衣装」の正体は、王様という称号です。そしてそのような社会観念にアイデンティティを依存させているのは、大臣や大衆も同じ。自分に嘘をつく者同士が、大真面目にフィクションありきの「ゲンジツ」に興じてしまうのです。


消費者とか労働者とか国民とか。《愚か者の目には見えない衣装》をお互いに着ているフリ、見えているフリをしあうのなら、私たちも童話『裸の王様』に登場する王様や臣下や民衆と同じです。薄っぺらな物語は大勢で賑わっているけど、いつまで経っても心を閉ざした独り芝居です。
そんな「賢すぎる現実」に生きていれば、個人も社会も病んで当たり前です。
そろそろ私たちは、「愚か者には見えない衣装」を脱ぎ棄てて、
裸にならないといけません。だってハナから裸なんだもの。


スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチで言ってました。

君たちはもう素っ裸なんです。
自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

2015年7月17日金曜日

日本国憲法前文っていいよね。当時の人間の願いと覚悟が匂ってくる。

最近は、憲法と国家安全保障について語られている記事をタイムラインでよく目にします。関心を持っている人が多いようですね。

私は日本国憲法の前文が好きです。全部載っけちゃいますね。

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『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。』

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日本国憲法は昭和21年11月3日に公布されました。表現は少々堅いけど、私はこの文章から、当時を懸命に生き抜いた人たちの素直な想いを感じ取ります。それはきっと、70年後の私たちがポジショニングしながら小手先の理屈で組み立てた言葉ではないからです。

人間と人間が互いに削ぎ合った血肉の渦に、どうしようもなく自ら身を投じて呑み込まれていくような、熱量の夥しい体感と連帯。怖れを動機とした共依存は極まって、国家と自我を同化させる正当性は自滅しました。国は人なり、決して、人は国なりではない。一人一人が世界観を自立させなければならない。日本社会の再生は、人間(自己)の理性を信頼する歩みから始めなければならない。戦争体験はそのような自覚を、日本列島に住む人々にもたらしたはずです。

日本国憲法の前文は、理性を信じるリーダーによって純粋に綴られた言葉であると思います。人類史最悪の国家戦争をくぐり抜けた人々が、生存と実存の限りを懸けて至った自覚であり、後世の人間社会に伝えるべき「願い」と「覚悟」を総括した文献であると言って差し支えない思います。



そういえば、日本国首相の公式サイトには憲法改正について書かれているのをご存知でしょうか。2009年06月12日に書かれたものです。文末には関連資料として、平成17年に提案された自民党新憲法草案が紹介されています。

読んでみて、ちょっとした感想を。


うすい。


法の精神性が如実に表れる前文を、現憲法のそれと比較したとき。
自民党草案はまったくもって貧弱で、薄く、軽く、浅い。

真に迫るような、命懸けの人間による願いと覚悟。人類の過去と未来を背負って代表して語ろうとする公正さと誠実さ。国家主義の物語に自我の怖れを同化させるがゆえに大量殺戮の連鎖が起こる、という戦争現象のメカニズムの理解

それらが、滲み出ていない。匂ってこない。響いてこない。
文言から伝わってくる内容の質量、密度、濃度、深み・・・
自民党草案は、現憲法の前文と見比べると全く勝負になっていません。

そう感じてしまうんですね。
感じてしまうのものは仕方ありません。
でもこの印象の違いは何だろうかと。

独断と偏見を承知で私の仮説を言わせてもらえば、
日本国憲法の精神を語る人物の、精神的な拠り所の違いです

語り手の語る意識が、「人間の存在」を起点に思考しているのか。
「日本国家の物語」を起点に思考しているのか。

それは語り手の思考を支えるアイデンティティの違いであり、
アイデンティティを支える世界観の違いであり、
世界に対して自分はどうありたいのか、という生きる動機の違いです。


私は「国家」を重んじるのではなく、「国家を重んじる人の心」を重んじています。
そして法に従う者ではなく、法の精神を重んじる者です。

細かい条文の是非については語りません。重要な問題であるほど、二番目以下の内容についてはどうこう語らずに放っておくタイプです。そして一番大事なことは、制度ではなく、精神性を読み解こうとすれば分かると思っています。

憲法改正に関する私見は以上です。

よく聞いて、仮説が観えて、自分がどうありたいのか定まれば、よく伝える。
対話あるのみです。
http://www.sabe.or.jp/wp-content/uploads/constitutiondraft.pdf