2013年11月16日土曜日

娘へ贈る言葉 

もし今日が人生最後の日だとしたら。

自分の子に言い残したいのはどんな言葉だろうか。

人生を振り返って、娘を想って、
贈りたいメッセージが浮かびました。

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29年の人生で、大切だと気付いた三つのことがある。

偽らないこと。
分かち合うこと。
信じること。

でも、考えてみると面白いんだ。
実は1歳半の今のあなたは、既にそれを全力でしている。
お父さんよりも。他のどの大人よりもね。
だから、あなたはそんなに小さくても、ほとんど言葉が話せなくても、
多くの人を幸せにする力がある。
あなたを中心にして、皆が明るく微笑んでいる。
あなたの存在を分かち合うことに、暖かい喜びと生きがいを感じている。
本当に凄い力を持っているんだよ。
いつの時代も、どんな社会も、その三つを全力でする人が愛されるんだ。
今あなたが無心にしていること。
それが愛するということなんだ。
これからもそのままでいい。正直であればいい。

だけど、人として生きるには、もう一つ大切なことを学ばなければならない。

偽らないこと。分かち合うこと。信じること。

自分がそうあるだけでは駄目なんだ。
それが出来ない人を、ゆるして生きるということ。

これから先、あなたは多くの人の人生と出会います。
そのなかで、人の弱さと自分の弱さを知る。
その弱さを、裁き責める心に憑かれてはいけない。
覚えていて欲しい。
問題も答えも、自分の心の中にあるということ。
そして自分自身の不安を取り除くのは、
目の前の人間関係と社会全体に、真っ向から向き合うことでしかありえないということ。

人は、自分と向き合うほどに強くなる。
他者と向き合うほどに優しくなる。
現実に向き合うほどに賢くなる。
願わくば、あなたには強く優しく賢くあってほしい。
そうであるほど、人をゆるすことができるから。

偽らないこと。分かち合うこと。信じること。

大人になっても純粋に人を愛したいと願うのなら、
ゆるす意志をもって行動する人生を選択することになる。

人は、ゆるすほどに自分を気高く解放することができる。
その自由な喜びの中で、思うままに、人生を愉しんでほしい。
それが父としての願いです。

何があっても大丈夫だから。
心配しなくていい。

生まれてきてくれたあなたに感謝しています。
人生で一番の幸せを今感じられているのは、あなたの存在のおかげです。

PS:
命日に墓参りも線香も要らないから、
ブログを読んでちょっと思い出してくれると嬉しいよ。
千明公司 あなたの父として 

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2013年11月13日水曜日

自分を信じて歩んだ道の果て

それぞれの生きる道は天によって完璧に決められていて

それでいて完全に自由だ

根っこのところを天に預けている限りは― バガボンド 沢庵 (井上雄彦)



バガボンド36巻が出ましたね。


最高です、ほんと。
井上さんの人間への哲学的洞察力とその表現力には脱帽です。この巻では以前ブログに書いた、武蔵が自我を手放すシーンが描かれています。
自我を手放すこと

バガボンドという物語における最重要シーンです。ご覧になったことの無い方はぜひ読んでみてほしい。


武蔵は孤高に強さを求め、命がけで天下無双の道を歩んできました。その果てに京最強の吉岡清十郎を破り、さらに吉岡道場一門70名を迎え討って切り殺した。名実ともに最強の名を手にしたにも関わらず、喜べぬ自分がいる。殺してしまった者たちが頭によぎっては、自分のあり方と生き方に迷いが生じる。そして剣も迷い、堅く鈍っていく。


冒頭の文句は、そんな武蔵に再会した沢庵が伝えた言葉です。

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(・・・腹に呑み込んだ鉛。鉛のような重さを抱えて生きる。

今も―
闘いは続いているということ。

あいつら(武蔵が殺した者たち)は赦され、俺にとってだけ続いている・・・)


「勝ったのはどっちだ?」


沢庵「勝った者はいない。そうじゃないかね?」


「わからねぇ」


沢庵「お前の芯はわかっている。その重さが何よりの証」

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沢庵は武蔵の心を見抜いて語ります。

沢庵はストーリー序盤から武蔵の精神的成長を導いています。幼馴染のおつう以外で、武蔵を怖れずに向き合おうとする唯一の人物です。その沢庵がこの時、悟りを開いたときに得た言葉を武蔵に伝えました。なぜか。


「苦しみを知る今のお前には伝わると思ったんだ・・・武蔵」


自分を信じて、辿り着いた道の果て。
人はきっと、願望が実現した先に、本当の自分と向き合うことになる。
成りたいものに成った時。得たいものを得た時。あるいは、捨てたいものを捨てた時。願いがかなった先に、はじめて自分の真実が問われる。問わずにはいられなくなる。

満たされぬ自分がいる。誰も理解できぬ、鉛のような重さを孤独に抱える。
それは、何かが間違っていたのだという、芯の部分からのサインです。

沢庵の言葉の真意を得たのが、36巻の最後に描かれている「水ぬるむ頃」です。

飢饉の村を思い、田の土に祈った武蔵。
収穫期まで乗り越えられぬ飢えの現実と、衰弱する伊織を目の当たりにし、
自分が揺さぶられる。


どうありたいのだ

強く―

俺がおれらしく―

・・・手足がなくても、それは残るはず

俺は

何だ?


自問が極まったその時、思い出した言葉。

(優しいんだよ、あんたは)



「手足がなくても」のくだり。つまりそれは、最強である自分が子供にも劣る最弱な人間になったとしても、おれはおれだと武蔵は受け入れることができるということ。自尊心を守らねばいられない実存的怖れを超えたということ。

強さに執着するエゴが外れ、人を救いたいという素直な一心で、役人に頭を下げて助けを乞うた。

これまでの武蔵では考えられなかった行動です。そのように至るまでの人間の成長と変化が、15年の連載を通じて描かれたのだと思うと感嘆します。


人間を描くということ。

自分を信じて歩んだ道の果てに、独り自問して辿り着くのは、愛であるということ。

バガボンドで、アーティストとして、
井上さんが最も伝えたかったテーマが、ここに結実してある。

天によって定められた人の道は、愛すること。

そう思いました。

井上さん、ありがとう。

2013年11月8日金曜日

問題解決の心

私たちの問題は人間がつくったものだ。
だから人間によって解決できる。 ―ジョン・F・ケネディ
Our problems are man‐made, therefore, they can be solved by man. 
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外側の問題を自分の内側の問題として受容し、自己欺瞞へ逃げない。
そして赦しながら、問題解決へと進む。


その姿勢をさらに考えました。


私が問題解決にこだわり、それを目的とするのは何故だろう。


自分の心と他者の心に、正直に向き合う為だったんだと気付きました。
心を感じあって、応じあって、純粋に分かち合う喜びのため。

そのように生きるなら、結果として問題は、問題を現実たらしめている私たちの意識のあり方が変わることで消えます。 各々が純粋に心と向き合う中で、心と心を分かち合う喜びと自由を確信する。人であるゆえの信頼と叡智が集合的に発揮されていく。

問題を現実へと象っていた、閉鎖的に抱え込まれていた世界観と信念は、
開き、和して同せず通じあい、一体となって機能しはじめ、自ずと変わっていく。
問題は必然に消えます。

問題解決の為に、問題に対する相手の意識を変えようとする必要はありません。決して認識の正当性を争うのではない。それは自分の怖れを動機にしているに過ぎません。

自分の願いをオープンに開き、もっと全体の流れの理と自分の根源を信頼して、
傷つき騙される覚悟をもって、
相手の懐に愛を携えて踏み込んでいく。全体の流れに身を投じていく。

私たちはもっと、信じる理性と、込み上げる情熱を、純粋に生きるべきなんだと思う。

問題とは「観念」であり「解釈」です。つまり自分の観念と自分の解釈、あるいは自分の解釈と他者の解釈、その思いこんでいる思考と思考同士の矛盾のことです。その矛盾に、不信ゆえの怖れと現実への不満を詰め込んでしまう。すると矛盾は、相いれない解釈と不安を巻き込み続け、感情的に連鎖拡大していく。

向き合うべきは、観念の対立や摩擦ではない。その源泉である、あるがままの、いまの意識であり、いま感じている自分と相手の心ではないでしょうか。

あらゆる問題は在るのではない。在らしめているに過ぎない。
いま、私たちの心が生じさせ続けています。

問題解決とは、観念で観念に打ち勝つものではなく、
純粋に、心で心に向き合った先に在るもの。
いま在る心を、分かち合った先に訪れるもの。

意図を超えた信頼によって、意図しつつも、決して執着しない精神。

そのような心で、相手の心と向き合おうと臨むのであれば、
解決できない問題など存在しないと思います。


人と向き合いたいなら、問題の解決へと自ら進むことであり、
問題を解決したいなら、自ら人の心と向き合うことが、理に適っている。

人の人生は、運命は、
そのように出来ているのでしょうね。素敵なことに。

2013年11月2日土曜日

証券会社を辞めた理由

「証券会社 志望動機」と検索して、このブログに来られる方が結構います。

証券会社を志望した理由

就活中の大学生なのかもしれませんね。
面接で志望動機は必ず聞かれますから、参考になる文章を探していたのでしょう。

続きを書いてみます。

そこで何を思い、なぜ辞めたのか。


以下は、当時から今に至るまでを振り返って語った私のツイートです。

証券営業をしていた頃。支店で一番出来る先輩に聞いた。「自分が本当に良いと思えない金融商品を、どうやって勧められるのですか?それとも、上司の意向とズレがあっても自分が素晴らしいと信じられるものだけにこだわっているのですか?」・・・答え。「良いと信じ込むんだよ」

その人は責任感が強く、家族思いで、後輩思いで、尊敬できる優しい先輩だったから、悲しくなった。自分の仕事にプライドを持つとは、プロとは、そういうことなのか。そうじゃないんじゃないか。俺が甘いだけなのか。社会に、会社に尽くすとはそういうことなのか。そう悩んだ時期もあった。

セールスで結果を残せない奴が何を言えるのか?その先輩ですら、そうやって歯を食いしばってやっているのに。そう思って、セールス技術とマインドを磨くためにセミナーに行ったり、本やDVDを買ったこともあった。

金融の本質、経営の王道、社会の健全なビジョン、自分のありたい姿・・・それらも追求し続けていた。プロとしてセールス力を向上させることと、自分の心からの願いの追求。そのギャップは乖離していくばかり。

バフェットの言葉がたまに突っ込んでくる。 「やる価値のないことを、いくら上手くやっても価値はないのだ」 先輩のようには無理だ。先輩のやり方ではまるで情熱を持てない。思い込めるか!結局、迷いの果てに自分に正直になる方向しかないという確信を深めた。心の赴くまま、手さぐりで本質を追求。

魂を揺さぶられるほど本物を感じた人に会いに行った。話を聞くために沖縄まで。本も読んだ。二宮金次郎、リカルドセムラー、神との対話、物理学など。地域の経済人が集まる倫理法人会、ロータリークラブに支援された青年組織のローターアクトクラブに入った。多くの知識・人に出会って見識を磨いた。

経済を、地域社会を、人の心が象っているというリアリティが深まる。知識主導で、政治経済学部で習った社会学の世界観も、金融の専門書と現場で覚えた資本主義経済の世界観も、偏った観念的な見方だった。怖れることはない。心を持った人間同士の社会。ビジネスを戦略ゲーム的に語る愚かさに気付いた。

そんな中で思うような結果は出なかったが、スタンスに迷いが消えていたので精神的には健全で前向きだった。現場から疎まれたのか、人事に評価されたのかは分からないが、本社に異動が決まる。本社の人達は実力を買われた中途採用が多いし、新卒入社組は特に期待されたエリート。

プロフェッショナル意識と自負が強い。話を聞いていても、メールを読んでいても、実にスマートだ。機関投資家の為替・金利・オプション取引、取引所とのやり取り。分からないことは多い。本社を知り、ここで専門性を身につけ、英語を学んで海外に行くのも面白い。そう思ったこともあった。

結局数カ月でやめることになる。どうしても目の前の業務に情熱が持てなかったのだ。持とうとするほど、金融の本質を学ぶことの方への衝動に駆られた。葛藤は異動前よりも深刻になった。本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。

そして自然栽培農産物の流通卸、宅配、販売、レストラン事業の会社に転職して今に至る。振り返ってみて思う。迷いも出会いも絶望も、全てが必然であったということだ。怖れを手放して自分に正直に生きることによって、それらのドットは繋がっていき、精神が再生される。人生のビジョンが見え始める。

そしてそれは生まれ変わったような、もともとそうであった自分に還ったという感覚。いろんな観念、意味づけが剥がれ落ちて、意識が明晰になった。曇りなく物事を観ることができるようになったのが分かる。自分の弱さ(観念との同化)と向き合い続けて、丁度1年を過ぎた辺りからだろう。

自分に起こった現象を知るために、心理学や悟りやスピリチュアルについても一通り学んだ。そうして人間という存在に対する理解も深まった。人生の決算となる今年。20代最後。これまでの全てに感謝し、どんどん手放していこうと、分かち合っていこうと思う。

(Twitter 2013/9/7より)

これを読んで、どのように感じるかは読み手の自由です。
しかし誤解のないように補足します。


まず、これは私個人が経験した事実と解釈でしかないということ。
決してそれ以上ではありません。証券営業の仕事は嘘が必要である、という話では全くないし、金融とは誰かに嘘をつかねばならない職業だ、と主張したいわけでもありません。

ただ千明という個人にとっては、既存の金融の世界観を前提する限り、自分の信念に嘘をつかねば成り立たない仕事であるという結論に至った、という事実を伝えているだけです。その経験を、ブログを通じて率直に分かち合うことを意図しているに過ぎません。既存の金融とは何か?という認識が違えば、あるいは、人それぞれの抱いている信念が異なれば、まったく成り立つことのない事実と解釈です。あくまで私という人間の主観的なリアリティありきで語っています。



次に、感謝しているということ。
辞める前も、辞めた後もですが、携わった仕事にも、組織とその人間関係にも、金融業界にも、恨みつらみは一切ありません。

神戸支店。金沢支店。そしてデリバティブ業務室。そこで出会った人達は皆、責任感をもって仕事に取り組んでいる方ばかりでした。確かに私は、既存の金融は大いに問題であると思いますが、何もそこに悪人がいるわけでも、悪い心が蔓延っているわけでもありません。それぞれが与えられた立場と関係性に精いっぱいに適応し、各々の価値観に照らし合わせ、自分の幸せと社会貢献を両立させようと頑張っています。それはどこの職場でも同じ光景であり、その当たり前の事実を十分に理解した上で私は金融について言及しています。

最終的に、信じる世界観が私と違っていた。それだけです。
非難すべきことなど一つもありません。

だから、縁あってお世話になり、育ててくれたみずほ証券には感謝しています。入って良かったと心から思いますし、ここだからこそ、自分の本当にやりたいことをやらせてもらえたのだと思っています。

それは、ずっと小さい頃から、無意識に自分が求めてやまなかったことです。

自分の頭と心で、
この生きる世界を、人間社会の真実を、腑に落とすこと。


さらにもう一つ。新たな時代の金融が見えたということ。

私は金融が嫌いになったわけではありません。本当に幸福に合理的な、そして持続可能な、人間の真実に基づいた金融とは何だろうか。その答えを見出せただけです。

そのビジョンの一つが、江戸後期に600以上の農村に経済再生のために施した、二宮金次郎の報徳金です。さらに、現代社会において即実践可能であり汎用性を持っているのが、樋口耕太郎さんが試みた次世代援農プロジェクトです。

しかしこの真髄は、
人間関係の向き合い方であり、事業のあり方であり、共同体のあり方であり、
それを総合する個人の生き方そのものでした。

まずもって既存の金融が強いる資本の論理では実現不可能な合理性です。

これを確信したとき、あゆむべき道が途絶えました。絶望と同時に、依存心を断ち切って、自らの足で立ちあがったら、新たな道のスタートラインに立っていました。

次の社会を築く道を歩もう。
その決意によって、一つのロールモデルが消えました。

最大の資本家。最も偉大な投資家。
資本主義経済の王道を偽らずに貫いたオハマの賢人、ウォーレン・バフェットです。

私は証券営業・資産運用コンサルティングにおいて、企業価値と経営する人物を重んじるバフェットの投資哲学を最も参考にしていました。とにかく分かりやすく、その投資の本質と心と社会的意義を伝えたいと望んだ。お客さんには投機ではなく、投資の王道を以て、利益をあげて欲しかった。バフェットの投資こそが、資本主義が機能する正当な根拠であるように考えていました。

だからこだわった。仕事のプライドはそこにあった。
大切な資産を預かって、公共性と社会貢献を謳いながら、運用のプロとしての対価を手数料として貰うのであれば・・・自分自身でバリュエーション(企業価値評価)が出来なきゃ駄目だろう。胸を張って証券マンであるために、専門的な分析が出来るようになるための合宿セミナーを受けにも行きました。30万近いお金を払って。バフェットを敬愛している板倉雄一郎さんという方が主催していたものです。彼のブログと書籍は大学生の頃から読んでいました。

金融業界において志を高く抱いてる人なら、バフェットの投資哲学にこだわり続けた私の想いは伝わるかもしれませんね。

しかし、それほどの思いもさっぱり消えた。

向き合うべき問題は外にはなかった。
いかに理想の証券金融のあり方に貢献するかではない。


自分は人間としてどうありたいのか。
人間社会とどう向き合いたいのか。
偽らずに今を生きているのか。
自分は何者であろうとしているのか。

自分の何を信じるのか。
世界の何を信じるのか。

信じたそれと、どう対峙していくのか。

自分の心と、人の心。
それにどのように向き合うのか。

それは何故か。

愛か。怖れか。


本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。


上司に告げました。

「この会社、そして金融業界において、働く意味を見出せなくなりました」




・・・この人は何を言っているのだろう?と不思議に思われる方もいるかも知れません。

何をそこまで考えすぎているの??
もっと気楽に考えれば?
割り切れないの?不器用なの?


普段は人一倍に気楽ですよ。
しかし、自分のあり方の意味についてだけは、考えることを辞められません。

お金という観念が、人の意識と行動とネットワークに作用することによって、人の尊厳を失わせている膨大な可能性を理解したとき。

人の価値観・世界観にどのように作用しているのかを想像して、肌感覚で、自分のやっていることの真の意味合いを自覚したとき。

必死で掴んでいたものを、逆に、思いっきり手放すしかできませんでした。


もう一度言います。

何度振り返っても、悪い人などいませんでした。日本の資本主義経済を支えるグローバルな大手金融会社。支店も本社も、私が見る限り、一人も責めるべき悪人などいませんでした。社会が健全に機能していないのは、金融を担う人のせいではありません。決して道徳心や公共心がないのではありません。金融業を含めた共同体のメンバーの大半の人が、それらを制限する観念に望んで同化するせいです。

不安と不信感から、消費者・労働者・資本家・経営者・国民として、割り切って自分に嘘をついて振舞うこと。それらの立場に押し込めるように、他者に嘘をつかせてしまうこと。そのような私たち一人ひとりの矛盾した意識の集積が問題となって顕れるのではないでしょうか。金融がもたらす現実とは、私たちのお金への信念と行動が、過不足なく表現された結果に過ぎません。


地獄への道は善意で敷き詰められている。


その言葉を幾度と思います。

たとえ善意であろうとも、自身の怖れを動機にしている意識と行動のあり方であるのなら、社会は地獄へと望んで向かっていくということです。

それが家族愛でも、愛社精神でも、愛国心でも、規模に関係なく同じ。
怖れと不信の善意が、善意を道連れていく。

だからまず、自分の怖れを取り除くこと。
そうして自立した上で、他者の怖れを取り除くこと。

怖れではなく、愛を動機とする個の意識と行動。
それが重心にあって、初めて、本物の金融がある。
本物の企業経営がある。本物の政治経済の共同体がある。

そのような真実を心で理解したから、もう続けることが出来なくなりました。

いや続け方が変わったのです。次世代のそれへと。

だから私は証券会社を辞めました。


***


今、証券会社を志望している方。
今、そこで働いている方。

私はまったく否定しません。

自分の信念に、誇らしく真っすぐに突き進んでほしいと願っています。
ただその善意と行動の起点が、怖れではなく、信頼であり続けてほしいと思います。