2016年3月14日月曜日

学び舎は楽しい。

学ぶ仲間と交流すること。
気づきをシェアすること。
現象を観察して物理を体験すること。
物事を洞察すること。
視点をシェアして理解を立体化すること。
自分の心を通して創作すること。
受容と表現の螺旋を繰り返すこと。
自分のリズムと他者とのハーモニーを体験すること。

学び舎は本来、最高に楽しい。

2016年3月11日金曜日

男と女と社会で家庭ができる。私がやりたいのは、家庭貢献と社会貢献が一体をなす家族経営2.0だ。

奥さんも教育業界なんだけど、夫婦でWEBサイト運営したら楽しいだろうな。
今年は中学三年生を教える予定だし、公立高校入試の過去問をたくさん自分で解いて、見つけた良問を自分の視点で紹介してもいい。良問のシェア。家庭学習をよくしたい学生と親たちにとって有意義なコンテンツをつくりたい。

夫婦の関係性の中から社会性のある営みを生み出す。家庭の営みから地続きで事業を展開して、自分たちの豊かな経済生活を成り立たせる。
これらは家庭貢献と社会貢献の一体を目指す私の最大のテーマです。

男と女と社会で家庭ができる。社会に家庭が仕えるのではない。家庭は疲れを癒す場所ではなく、共同体に対峙して発信しうる創造活動の拠点。
私がやりたいのは家族経営2.0だ。

自立した男と、自立した女が、社会に存在を開いて心を合わせながら事業と生活を一体に営んだとき、美しい家庭が築かれていく。そのスタイル、その文化は、最高のアート。

上場とは公開である。
国家の上場から、法人企業の上場へ。
その枠から自立した個人たちの上場へ。自立した男女が築く家庭の上場へ。その家庭らが織り成し調和する地域共同体は、もはや上場する必要がない。個人と社会が家庭によって一つとなっていく。

そんなビジョンで、あえて古くさく言うと、「一家を興す」をやりたいんだよね。

2016年3月5日土曜日

一組の夫婦が素直であるために。

こんなツイートを読んだ。

「素直だと傷付きやすくなります
素直じゃないと傷付けやすくなります
傷付くより
傷付ける方が辛いと思える人に出会えたとき
人は素直になります」

なるほど。さすがDJあおい、思いあたる。
そして「素直さ」について少し語りたくなった。

証券会社を突然辞めて転職したとき、私は周りの人たちを本当に傷つけた。信頼してくれた人を。育ててくれた両親を。愛を誓ってくれた妻を。
たぶんこれも、「素直じゃなかったから」といえば、まぁそうなんだろう。

金融機関で働いていたころは、社会全体を相手にして素直に生き抜く覚悟が、私にはなかった。覚悟がないというより、そんな大そうな覚悟を抱く必要性に気づかなかった。目の前の大切な人に素直だったらいいじゃん。今はまだ二十代で修行中。言いたいこと言ってやりたいことやるのは、強く賢く成長して認められてからさって、そう思っていた。

でも違った。人間関係において浅いレベルで素朴で素直なだけだと、見えない大勢の思考の前提にある社会的意味づけに食われる。自分の言動の意味を、存在意義を、借り物の会社や結婚の物語に吸収されてしまうんだよね。

自分が矢面に立たず社会に依存している分だけ、その依存度は自ずと周囲に伝わり、次第に周囲は目の前の私を知ろうとすることをやめて、私のボスである社会物語を優先する。それはほとんど無意識だったりする。これは夫婦、親子においても起こる。我慢や忍耐は共依存の甘えが多分に混じっている。

パートナーと対話するのと同じように、社会全体にも、フェアにオープンに自分を表現して、関心を注いで、受けとめる。そんなふうに、社会を背負う覚悟と社会から嫌われる覚悟の両方をもって、自分のトータルで素直なコミュニケーションを日々しなければいけなかった。一組の夫婦が、ただ素朴に、ただ素直であることは、それほどのことなのだ。

自分がひとり世界に立ち向かって自己表現するから、一番大切なパートナーにもその本気度が伝わる。その社会と対話する様を見て、妻は思い巡らし、いろんなメッセージを受け取ってくれる。

私がTwitterやブログで素直に発信し続けることは、妻と相互理解を深める対話をするために、絶対に不可欠なことだった。二人がともに素直であるためには、二人はそれぞれ、独りの人間として、社会への向き合い方が明朗に素直でなければならない。いま私たち夫婦はそのことに気づいています。

夫婦は二者ではない。男と女と社会の三者関係。

傷つけ、傷つけあって、離れて暮らして、改めて出会い直して、私が素直さについて学んだことです。

2016年3月2日水曜日

何を学ぶのか、なぜ学ぶのか。自分が学ぶことの意味を、大切な人との関わりの中から見出すこと。

生徒にはこんな願いと問いをもって接する。

「親が重んじることを重んじよう。お父さんお母さんが重んじていることは何ですか?」

「学校の教師が重んじることを重んじよう。担任の先生が重んじていることは何ですか?」

「自分が重んじたいことを重んじよう。自分の心が重んじていることは何ですか?」

それらの意志と問いは、今の自分が何をどう読んだらいいかを導いてくれるはずだ。それでも読む本がわからないと言うのなら、じゃあ実際に、親に、先生に、直接聞くといい。

「私はあなたが本当に重んじていることを知りたい。それを理解するために有意義な本を読みたい。教えてください」と。

大切な他者に、自分の関心を大切に注ぐこと。思いやること。学習指導要領やカリキュラムに従うのではなく、与えられた人間関係の必然を信頼して、そのご縁に学びを委ねること。何を学ぶのか、なぜ学ぶのか。自分が学ぶことの意味を、大切な人との関わりの中から見出すこと。

そのような、読書をシェアする開いたコミュニケーションが、生徒とその周囲の人間関係にどんな体験をもたらすのか。とっても楽しみです。

おもしろい塾を構想中。

本を読め。大切な人とシェアしろ。気づきを書け。ブログを書け。
私の塾はこれを実践する場です。もう基本的な説明はこれだけで十分かも。これを学生の文脈にカスタマイズするだけだから。

自覚を発信しまくり、自分を媒体として表現をシェアしまくれば、勝手に気づく。勝手に出会う。勝手に学ぶ。勝手に行動したくなる。長々と説明は不要です。とにかくやってみなよと。よかったら家庭や学校でもやってみなよと。

たぶん受験なんて余裕で受かるよ。家庭が貧しくて教育費の捻出が苦しくても、高校生ブロガーの強みを活かせば自分で稼げるんじゃないかな。名乗りをあげてるんだから、最悪クラウドファンディングでもすればいいよ。社会と絆ができるチャンス。まぁそこまで本気で自己表現やるなら教えた俺が出してやる、くらいに思います。

学校教育と家庭教育のパワーを圧倒的に引き出す面白い塾を構想してます。

本シェアーズが学生の読書に重んじる願いと問い。

生徒にはこんな願いと問いをもって接する。

「親が重んじることを重んじよう。お父さんお母さんが重んじていることは何ですか?」

「学校の教師が重んじることを重んじよう。担任の先生が重んじていることは何ですか?」

「自分が重んじたいことを重んじよう。自分の心が重んじていることは何ですか?」

それらの意志と問いは、今の自分が何をどう読んだらいいかを導いてくれるはずだ。それでも読む本がわからないと言うのなら、じゃあ実際に、親に、先生に、直接聞くといい。

「私はあなたが本当に重んじていることを知りたい。それを理解するために有意義な本を読みたい。教えてください」と。

大切な他者に、自分の関心を大切に注ぐこと。思いやること。学習指導要領やカリキュラムに従うのではなく、与えられた人間関係の必然を信頼して、そのご縁に学びを委ねること。何を学ぶのか、なぜ学ぶのか。自分が学ぶことの意味を、大切な人との関わりの中から見出すこと。

そのような、読書をシェアする開いたコミュニケーションが、生徒とその周囲の人間関係にどんな体験をもたらすのか。とっても楽しみです。

本シェアーズが構想している塾について。

本を読め。大切な人とシェアしろ。気づきを書け。ブログを書け。
私の塾はこれを実践する場です。もう基本的な説明はこれだけで十分かも。これを学生の文脈にカスタマイズするだけだから。

自覚を発信しまくり、自分を媒体として表現をシェアしまくれば、勝手に気づく。勝手に出会う。勝手に学ぶ。勝手に行動したくなる。長々と説明は不要です。とにかくやってみなよと。よかったら家庭や学校でもやってみなよと。

たぶん受験なんて余裕で受かるよ。家庭が貧しくて教育費の捻出が苦しくても、高校生ブロガーの強みを活かせば自分で稼げるんじゃないかな。名乗りをあげてるんだから、最悪クラウドファンディングでもすればいいよ。社会と絆ができるチャンス。まぁそこまで本気で自己表現やるなら教えた俺が出してやる、くらいに思います。

学校教育と家庭教育のパワーを圧倒的に引き出す面白い塾を構想してます。

真実と闘い方について。

自分の真実は自分にある。他者の真実は他者の世界にある。他者のそれは、自分にはわかりえないものとして、謙虚に見守るか放っておくのが基本だ。自分はせいぜい、自分の真を全力で表現することを以て、相手の真を問いかけることしかできない。最後まで、真実か嘘かを判断していいのは本人の心だけだ。

自分の真を全力で表現する、なんて言ったけど、滅多にやるもんじゃないし、やれるものでもない。二宮金次郎やガンジーが示したように、成熟した人間が社会的存在意義と生命をかけて捨て身の言動をするのだから、よっぽどの時と事と相手でなければ表面的には発動しない。

「社会に正義をつらぬく」なら、命をかけた戦争になる。「相手に真実を問いかける」なら、実存をかけた対話になる。私は人間の闘い方として後者を選んでいる。

2016年2月29日月曜日

人間讃歌

人口爆発中は「人間って素晴らしい」っていう人間讃歌言説がどんどん強くなっていく。強気の相場みたいなもんです。安定の順張り。いろいろボロが出てくると「人間だもの」論がフォローします。押し目買いです。じゃあ人口減少になったらどうなるか。人間バブルが弾けて生き様の質の違いが露呈する。

等身大で生きている人にとって、それは報われやすくなる社会変化です。しかし虚像の物語に頼って影響力をもつ人にとって、それは自分の存在価値を損なう怖ろしい危機です。というか、不自然な社会的意味づけが崩れさって、人物や事物はしかるべき適正な価値評価に見直されるだけなんだけれど。

どんどん見せかけが通用しなくなっていく。その厳しさはこれからが本番だ。いずれは見せかけにしがみつきたい自分を殺さなければならない。自分がいかに見せかけだったのかを直視し、気づけば気づくほど辛くなる。同じように社会がいかに見せかけだったのかを悟って絶望する。執着を手放した人は自分の真実を通して社会の真実を見る。

自分が変わるために、孤独になって行動を起こして、恥をかいて傷ついて、これまでのゴマカシを清算したら、もう自分を許せる。自分を許すことで、他人も社会も許せる。今度は愛せる。もっと深く、本当に。そんな自分を讃えたくなる。自分を讃えることを通して、人間を讃えるんだ。それが、人間として人間を愛した人間讃歌。

2016年2月28日日曜日

ブログを書き続ける人は信頼に値する担保をつくっている。

鳥井弘文さんの記事がよかった。以下引用。

ブログを長く書き続けていけば、建前で書き続けていくことは絶対に不可能です。「ネタが尽きてからが、本当の勝負になる」それがブログです。

自身の内々に秘めている本音をさらけ出さなければ、絶対に書き続けられない時期がやってくる。ブログを書き続けている人、ネット上で発信し続けている人が信頼できるというのは、まさにこれが理由です。書き続けているということが、その人を信頼する上でものすごく大きな担保になるんです。

それでも、正直者が得をする社会へ。
inkyodanshi21.com/books/5662/
*******

ひとりでも多くの人がこの真実に気づきますように。気づくと気づかないでは、人生の質がとんでもなく変わります。

2016年2月17日水曜日

国民年金は払い捨てている。

私は国民年金を払ってるけど、こんな年金物語は期待も信頼もしてないので、気持ちの上では払い捨てています。

公的年金に期待するどころか、むしろ、人口拡大局面しか機能しないこの無責任な政治経済システムが、人間の価値観とライフスタイルを不健全に歪ませていることを確信して注意深く社会を観察しながら、これに代替しうる助け合いのビジョンを構想して上の世代のケツを拭くつもりです。

個人的には年金なんて消えて無くなっても構わないので、不安感からの批判はしません。そこには良い悪いを超えた全体的な意味があり、必然がある。物事の必然性を信頼する眼をもって、人間現象を的確に捉えるために厳しく観察をつづけています。

2016年2月6日土曜日

丸の内の丸善のそとでオッさんを愛してみた話。

さっき丸の内の丸善の外で、「交通費がなくて日雇い現場に行けなくて困ってる。助けてくれ」っていうおっさんに480円下さいって頼まれた。小銭なくて千円あげた。なんだろね。迷ったけども、今日は最高にめでたい日だから、が半分。おっさんと話してみて、なんとなく騙されてあげたくなった、が半分だな。

2016年1月18日月曜日

サドベリー教育と公教育の違い。

私たちは「人は本当にやりたい、必要だと感じたときに一番よく学ぶ」と考え、その瞬間の学びを信頼しているのです。東京サドベリースクール

サドベリーは人間を信頼する。本人を信頼する。余白を信頼する。教育の起点と重心が信頼だ。一方で大半の公教育は、人間不信、社会不信を前提に行われている。教育現場は、不安と必要ゆえの大人たちの願いで埋め尽くされている。「子供のため」と言いながら。

『今ここの必然を信頼する教育』と『いつか何かの不安と期待の物語に応じる教育』。その違いなのだと思う。

私からするとサドベリー教育もまた何かが足りない。しかし、その出身者で広報も務めた米澤悠亮さんは「それ」が足りている。彼は心身をフルオープンにして現代教育に挑んでいる。対話している。他者の不安、社会の不安に、自分を晒して受け止め、向き合っている。私がサドベリーに強く興味を抱いたのは、彼の存在を知ってその姿勢に心打たれたからだ。

大人が子供と対等に対話する教育を実現するには、大人が社会と対等に対話していなきゃならないんだよね。 

理想の教育像がはっきり見えてきたよ。

2016年1月16日土曜日

世界がぼくのコンビ。

社会君を人生のパートナーとして見たとき、彼に日常的に取るべき態度は、生涯を誓いあった妻みたいなものです。
仲良くしようがしまいが関係ありません。理解しようとしまいと、許し合おうと憎み合おうと、心の内側も含めてありとあらゆることは、突き詰めれば、過不足なく分かち合うことしか出来ません。我慢も飾りも全く無用の運命共同体。命懸けで愛すべき伴侶であり、向き合って対話を尽くすべき相手です。

岡本太郎が良いことを言っていた。

「漫才師にかぎらずコンビで何かやるときはみんな同じだ。遠慮したり、ウチにこもらせず、面白くぶつかりあうことが大事だね。ぶつかり合うことが面白いと思って互いをぶつけ合う。そうすれば、逆に生きてくる。
ぼくは世界がぼくのコンビだと思って仕事をしてきているからね。だから、世界を相手に作品をぶっつけている。
ぼくが毎回言っていることだが、人に好かれないことを前提に、世界を相手に作品をぶっつけてきたのもそのためだ。」太郎に訊け

もっと本気の言葉が聞きたいんだよね。ガキでもなく、大人ぶるでもない。命が、命懸けで人生経験をくぐり抜けた肉声を。

世間様なんて意識でチヤホヤしないでいいんだよ。世間ちゃん、社会くんを、世界さんを、自分と対等のパートナーとして語ったら面白くなると思うよ。

2016年1月11日月曜日

私の好きな許しの定義。

許しとは、自分もまた同じ生い立ちと境遇にいれば、きっと同じ過ちをしただろうと認めることなのです。

私はこのゆるしの定義が好き。他者の過ちを直視し、自らの内側の問題として受け入れている。存在を分かち合う選択をしている。そんな姿勢は、人として強く美しいと思う。