2013年10月27日日曜日

世界の変え方は自分の生き方

信念を変えられれば、行動は自然に変わってくる。
自分の世界観に照らして不適切なことは、誰もしない。

あなたが行動すれば、彼らも行動する。まず、あなたから始まる。
何もかも、すべてがあなたから始まるのだ ―二ール・ドナルド・ウォルシュ




今朝、学びについて思ったこと。

人生の基盤となる学びは、いま佳境に入っています。振り返れば、政治、経済、金融、経営、科学、哲学、宗教、スピリチュアル、文学。この10年を通してリベラルアーツを深めてきた思いです。

今は、自分の考えと行動をオープンにすること、自ら意味を見出して働くこと、人間関係に向き合うことに、まっすぐ取り組んでいるという自覚があります。自分の真実を偽らず、何者であるかを世に表現する段階へとシフトしていることを実感しています。

より美しく共鳴しあうように表現の質を高める。
自分と他者の存在を分かち合う。その方向性に迷いはありません。

もっと人の心に響く表現者でありたい。
一瞬一瞬を人の心と正直に向き合っていたい。
だから、自分であることへの学びは終えても、自分である故の学びは終わりません。



明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ - ガンジー
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.


****


今朝、自由の質について思ったこと。

自由競争という言葉があります。
しかし自由な存在は競争しない。彼らは分かち合うだけです。この概念の主役は、自由そのものではなく、競争です。競い争う。争い競う。自由競争の自由とは、「国家権力から管理強制されない」という意味で「自由」と定義しています。

人間の存在として、普遍的かつ無条件に在る自由。それを前提しているのではありません。組織権力の必要性を前提に、それから解放された状態を「自由」と言っているに過ぎません。既存の資本主義を擁護する文脈における「自由」とは、義務と犠牲に支えられた権利に過ぎず、それは他者に与えられて成り立つものです。自由が、個の精神と生き方から生じるのではなく、組織権力というフィクションへの依存心から発露されている限り、本当の意味の自由は実現しないと思います。既存社会の自由の大半は、つきつめれば「管理」という意味です。

現代社会の最大の組織概念である、国民国家という観念から自由にならなければ、弊害だらけの資本主義経済の競争からの自由もあり得ないと考えます。このような私の認識は、共同体とはいかにして機能し、いかにして創造され続けるか、という問いに繋がっていきます。

なにやら話は壮大ですが、話が大きいのではなく、たった一人の自分という存在が、世界を変えるほどに大きいということです。

人間という存在にとって、自由は無条件に在る。自由とは人間の本質である。
この真実を、生き方へ、そして社会へと展開するだけいい。

答えはシンプルです。既存の世界観の真逆を不退転で進んでみればいい。
個であること。一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
それで生活が成り立つのか。それで幸福な人生が成り立つのか。試してみればいい。

さらに、共同体が成り立つのか。社会は機能するのか。もっと言うと、これまでを遥かに上回る生産性、安定性、協調性、平和と健康、自由と幸福。
もしそれら全てを可能とするモデルが、一つ実現したら。

世界が変わります。


個であること。 一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
これは表面的な話ではありません。 偽りのない精神から生ずる行動であるか否か、という実質的な意味においてです。独立起業せよとか、NPOをつくれとか、無償で働けとか、寄付やボランティアをせよという話ではありません。それらの外形は全く関係ありません。内的な意味においてです。


分かち合って取引せず。
信頼して期待せず。
和して同化せず。
愛して執着せず。


恐れず、正直な願いを、行動にしていく。

自分の真実を生きて、その想いとプロセスを、互いに分かち合っていく。

それだけです。

世界とは、自分の生き方そのものです。

2013年10月25日金曜日

前澤さんの決意を思う


樋口さんに当社でお話をしていただいた。
心の声が心の深くに入ってきた。
37年間の人生と15年間の経営者人生を振り返ると、そこには常に嘘があったと思う。
嘘のない人生を送りたい、愛のある人生を送りたい。
自分にとって一番大事なことは「愛」だと強く思った。

スタート・トゥデイ代表 前澤友作さんのtwitterより。


以下、樋口耕太郎さんのtwitterより。

スタートトゥデイの皆さんから、心のこもったメッセージを頂戴しました。
以下は、私からの返信です。

アインシュタインが洞察したように、
時間と空間は幻想で、 人は誰でも、時空を変化させる力を持っていると思います。

一昨日、昨日と、たった2日のことですが、人生の中のほんの数時間が、
その後の生き方、そしてその後、その人に触れるすべての人の人生を
永遠に変えるということは、ほぼ毎日、どの瞬間にも生じていることなのですが、

私たちは、その内なる偉大な力に目を向けず、自分の外側の何か、
お金だったり、仕事だったり、衣服だったり、
人からの注目だったり・・・が必要なんだと言う思い込みの中に生きています。

私はその社会常識の反対を生きたいと心から望んでいます。
それは、ご縁のある方のすべての接点において、
「いま、愛なら何をするだろうか?」を心に留め、
人と接するその瞬間に人生のすべてを凝縮するということです。

そのような素敵な瞬間に、皆さんとご一緒できて、幸福でした。

これもまた、私独特の考え方かもしれませんが、
私は、人を傷つけても構わないし、 人とどれだけケンカしても構わないと思っています。
もちろん、自分の不安を 相手に押し付けるような、
相手をいたずらに苦しめるような傷つけ方は論外ですが、

複数の人間が接点を持つとき、特に自分に正直に、人の懐に飛び込もうとすれば、
お互いの心に擦り傷ができるのは、当然のことだと思います。

それよりも、その後で、人と仲直りできること、それをきっかけに、
真に理解し合えること、心を共振させることの方が、遥かに重要で、
そこには、本当の勇気がいることだと思うのです。

逆に、相手を傷つけること、それ以上に自分が傷つくことを怖れて生きる人生は、
結局、肉体が物理的に接しているだけで、心は固い鎧の中。
本当の意味で、そこには 人間関係など存在しないのだと思うのです。

そのような視点で考えると、 職場であれ、夫婦であれ、親子であれ、
現代社会は人間関係がほとんど存在しません。

私は、心から人と接したいと望んでいます。
自分の鎧を捨てて、 覚悟を持って、勇気を振り絞って、
ご縁のあるすべての人に接しようと、 精一杯の努力を続けています。
それは、相手がどんなに「地位のある」人間であれ、 どれだけ「小さな」人であれ、
誰であれ、私にとってはまったく同じです。

ある人は自分が社長である、あるいは、母親である、と思っていますが、
それは単なる衣装にすぎません。私は、衣装にではなく、人と話がしたいのです。
それが私が人生に望むことのすべててで、そのような時間を過ごすことができて、
皆さんとご一緒できて、幸福でした。

人は誰でも、幸せになるために生きています。
そして、誰にとっても、 幸福になれる瞬間は、「いま」以外に存在しません。
幸福を先延ばしせず、 たったいま、人と向き合って、この瞬間に幸福である。
そんな生き方を これからも続けて行きたいと思っています。

お招き頂き、ありがとうございました。

――――――――――――――――

前澤さんは東証一部上場企業の経営者です。(スタート・トゥデイwikipediaリンク)
WBG Building Makuhari 2.jpg
(本社機能はワールドビジネスガーデン。
幕張に18年間住んでいたのでとても懐かしい光景です。

売上300億。社員350人。株式時価総額3000億。
そのリーダーである方の発言は社会的影響力のある重いものです。

37年間の人生と15年間の経営者人生を振り返ると、そこには常に嘘があったと思う。
嘘のない人生を送りたい、愛のある人生を送りたい。
自分にとって一番大事なことは「愛」だと強く思った。

人生を生き抜いた人間として、
志とプライドを以て挑戦し続けた経営者として、
資本主義経済における一流の成功を収めた事業家として、振り返って、
「そこには常に嘘があった」と公言するのは、一体どれほどの思いがあったのでしょうか。

これは、ただの反省のような言葉ではありません。
前澤さんの言葉には、もっと重く、深い決意がある。

上場企業としてのあり方と人間のあり方との矛盾。
これに、根本から、真っ向から、向き合いたいということ。
現に、上場企業経営者でありながら。


なぜそう言えるのか。

樋口さんは野村證券とレーサムリサーチで働いていました。
投資銀行部門のプロフェッショナルであり、上場企業の共同経営者でもありました。
そのキャリアを持ちながら、なぜ金融の道を辞め、沖縄で事業再生家を始めたのか。

その理由の一つが、上場という金融システムと資本の論理は、人間社会として持続性がないという理解と確信です。

この問題を論理的に説明したツイートがあります。
樋口さんのツイートの中で、最も多く(5万回以上)見られているものです。

企業最大の費用は人件費ではありません


―――以下はトリニティアップデイトの記事より引用―――

企業最大の費用は人件費ではありません。経営者のエゴです。
企業最大の費用(経営者のエゴ)が、一般的な企業金融論で全く語られていないのは、とても不幸なことです。

ホテル売買と企業金融
例えば、私が04年に買収したサンマリーナホテルは、当時築20年。建物躯体の経済耐用年数が仮に40年とすると、ホテルとして経営できるのはその時点であと20年ということになります。当時の取得額は約30億円。単純計算で、この投資額を経済耐用年数で回収するためには、少なくとも年間1.5億円(30億円÷20年)の税引後利益を生み出さなければ、事業そのものが持続性を持ちません。したがって、事業再生の第一のハードルはこの利益水準をいかに確保するかということでした。実質的に10年以上赤字経営だったサンマリーナは1年そこそこで2.3億円のキャッシュフロー(経常利益1.3億円)を生み出すようになり、巡航速度を取り戻し、「本当にいい会社」になるための第一歩を踏み出します。ところが、資本の原理に基づくと、2.3億円のキャッシュフローを生む「金融資産」は、とてもいい値段で転売可能です。私はホテルの売却に反対したため、臨時株主総会で解任され、サンマリーナは買収から僅か2年、約60億円で外資系に転売されました。問題はその顛末よりも、その後の従業員です。

同じ部屋数、同じ従業員、同じレストランで同じ顧客にサービスを提供し続けることに全く変化はありませんが、60億円で売却されたその日から、投資家が回収しなければならない資本の額は倍増します。すなわち年間3億円の利益を回収しなければ、いずれどこかで持続性を失うということです。年間1.5億円を稼ぐための売上が20億円だとすると、年間3億円を稼ぐために売上を40億円にすることは不可能ですので、当然にして人件費が徹底的に削られます。資本家にとっての事業再生は、従業員にとっての悪夢以外の何者でもありません。資本家は、30億円の利益を何の疑いもなく、「事業再生」の対価として自分の懐にするのですが、その本質は、250人の従業員が今後「20年」、(年間14万人として)280万人のお客様にお仕えすることの対価を現在価値にしたものだという真実は全く語られることはありません。事業が成功するほど回収するべき簿価が上がり、従業員の負担が増す。とても皮肉なことですが、ホテルの従業員は(ホテルに限りませんが)、自分と仲間の報酬と職を減らすために、日々相当な努力を強いられるという構造の元におかれているのです。

経営者のエゴは企業最大の費用
ホテルの事例はとてもわかりやすいのでよく引用するのですが、企業の株式上場における企業金融的なメカニズムはこれと全く同じです。株式上場は経営者の夢かもしれませんが、従業員にとっては「仕事のハードルが著しく高められる恣意的なイベント」以外の何者もありません。新規上場の注目株、高い初値、盛んな出来高、飛躍的な利益成長予想。これらはすべて、30億円のサンマリーナホテル(未公開企業)を60億円で売却(株式上場は実際、自分の会社を株式市場を通じて他人に売るということです)する経済効果と全く同じです。経営者は創業者「利得」を手にして、成功者として讃えられ、車を買い替え、銀座に繰り出し、自分の写真が表紙になった本を出し、雑誌のインタビューに頻繁に登場しますが、この人のエゴを満たすために何百という従業員が負担している莫大なコストを自覚するべきでしょう。

経営者のエゴが企業にとってどれだけ大きな費用であるか、簡単に計算できます。例えば、5億円の当期利益の企業がPER20倍、益利回り5%(当期利益÷時価総額)で上場すると、時価総額は100億円。投資家がこの会社に求める総合利回りが10%だとすると、経営者は(自覚しているか否かに関わらず)毎年5%の成長(5%成長+5%益利回り=10%総合利回り)を株式市場に約束して上場していることになります。この経営者のナイーブな「約束」によって、従業員が将来30年間で生み出すことを運命付けられた利益の合計額は、332億円。経営者が恣意的に決めた「5%成長」の一言には332億円の値札が付いているのです。
さて、時計の針を1月戻します。上場を控えた経営者に、証券会社の担当者が「アドバイス」しています。
「社長の実力を持ってすれば、5%成長なんて余りに弱気じゃないですか。御社のビジネスは時流に乗っていますし、他社よりずっと競争力があります。もっといい値段で上場しましょう。」「社長、それよりもなによりも、社員が上場を決断したのは、従業員のためだとおっしゃっていたじゃないですか。懸命にがんばっている従業員に報いるためにも、彼らがこの会社を誇りに思うためにも、この程度の株価ではだめです。」
かくして、この経営者は企業の事業計画を2.5%強気に修正して、成長予測を7.5%に書き換えます。同じ企業、同じ経営者、同じ従業員、同じ顧客。投資家の期待利回りが同じ10%(成長率7.5%+益利回り 2.5%)だとすると、上場株価は200億円(5億円の当期利益÷益利回り2.5%)と評価されます。社長は創業者利得を倍増させ、証券マンは社長から感謝され、社内では出世して行きます。さて、この経営者が「従業員の誇りのために」行った利益予測の「上方修正」によって、従業員が将来30年間で生み出すことを運命付けられた利益の合計額は、332億円から、実に517億円に上昇します。「誇り」のコストは185億円なのです。

――――――――――――――

樋口さんは自身の経験から、資本主義経済を知り尽くしています。
資本の論理の枠組みが、人の無意識と心と行動にどのように機能しているのかを理解しています。だからこそ、自らの使命として、新たな時代の金融のあり方、企業経営のあり方、共同体のあり方について、ビジョンと行動を示し続けているのだと思います。


そのような生き方と主張をし続けている人物に共鳴し、
上場企業経営者という立場を背負っていながら、
これまでの生き方を変えると公言したことの意味。


わかるでしょうか。

前澤さんの捨てる覚悟が。

何年も考え続けて(前澤さんは樋口さんと以前から面識がありますし、数年来のフォロワーでもあります)、自問自答をし続けて、内なる怖れと戦って、人生最大の決断をしたのだと思います。

生き方を変えるか否か。
自分の心に決着をつける為に、会社に樋口さんをお呼びしたのでしょう。そして同志であるスタートトゥデイの役員と社員にも聞いてもらったのでしょう。
これからの会社のあり方を、再び分かち合うために。


なぜ、それが分かるのか。


私もそうだったから。

私は、樋口さんに二度お会いしています。


一度目は、妻と結婚する前。
仕事について、生き方について、これで良いのかと考え続けていた。
辿り着いたブログは向かうべき道を示していた。一度会わねばならないと思った。
初めて会った未熟な若者に、快く時間をつくって下さり、
末金さんの麗王という店で朝まで話した。

金融という分野に、いま置かれている会社のこの立場で、自分を偽らずに挑むと決めた。


二度目は、本社に転勤後。子供が生まれる前。
一層に決めねばならなくなっていた。
自分と向き合い続けるほどに。既存の金融を肌で理解するほどに。
人生を変えるのか。変えないのか。
偽るのか。真実に生きるのか。
もう一度、会わねばならないと思った。

その後の、メールの返信の言葉は決して忘れません。
本当に厳しい言葉だった。しかしすぐに腑に落ちた。
そこから、あらゆる依存心を断ち切る生き方へと舵を切った。
自らの意志で。

人生で最も苦しい時期が続いた。
おかしくなったと思われもしたが、それでも迷いは無かった。

でも最後には、
支えてくれる家族がいた。
理解してくれる妻がいた。
愛してくれる子供がいた。

感謝しかない。幸せしかない。
それが今の心境です。

自分を偽らないこと、そして人間関係に向き合うことは、本当に勇気がいる。
傷つく。傷つけてしまう。
でもだからこそ、そこから逃げないことが、本当に生きるということなのだと思います。


今日は、樋口さんのツイートと前澤さんの決意を読んで、私自身の再生を振り返りました。

2013年10月23日水曜日

お金とは人間であることの何か

お金は物々交換を効率化する道具ではありません。

それは誤った説です。

もっと深く考えるべきだと思います。

お金は人間が創った観念であり、社会機能です。

つまり、お金とは人間です。



お金とは、人間であることの何なのか。

利害関係を回転させる、権利と義務か?

信頼関係の循環に委ねる、贈与と分かち合いの意志か?


どちらの世界観を人間の真実だと信じますか。


どちらの生き方が、幸福であり、生産性が高いと思いますか。


試してみればわかることです。

日本社会は、もう十分試したのではないでしょうか。

結論が出ている人は少なくないはずです。


あとは自らに決心することです。

捨てる覚悟を。

踏み出す勇気を。

信頼する愛を。

2013年10月9日水曜日

小さな世界

なりたいものがあったんじゃないなりたくないものがあっただけなんだ。

 
なりたい夢も、どんな成功願望も野心も、結局それは自分らしくありたいという願いです。人は皆、自分に嘘をついて生きたくありません。ありのままの自分を他者と分かち合いたいというのは、本来とても人間的で素朴な望みです。

現代人は拝金主義だなんてお互いを批判し合うこともありますが、怖れと必要性を取り除けば、本当の悪人などいません。自分に嘘をつくようになってしまった人がいるだけではないでしょうか。誰もが小さい頃、自分と世界のすべてを信頼していました。それが成長するにつれて、傷つき、怖れ、信じられなくなって、偽ることを覚え、嘘に依存していきます。

社会全体が嘘をつく生き方に溢れて、偽りへの依存だらけになったとき。
精神は閉塞し、停滞し、病んでいき、その生活と文化は人間の生理的限界を超えます。
まさに日本社会の現状です。

いつの時代も、社会を切り開くリーダーは人民の怖れを取り除きました。真実を語り歩き、人々とありのままに分かち合う運命を純粋に愛した。彼らは自分に嘘をつかず、心の真実を生きて、誇り高く生きざまを示します。その魂を揺さぶるメッセージによって、社会幻想を解き、嘘をつく必要性と怖れから解放していく。ばらばらに分断されていた人々の望みを、純粋な願いへと還らせる。

それが社会の再生です。

人々の本来の願いを信頼し、偽りの社会幻想を見抜き、
妥協せずに人の怖れと向き合って、純粋な生き方をする。

それがリーダーの生き方です。

だから西郷隆盛の言うとおり、まず人物、次が手段の働きである。人物こそ第一の宝であり、我々はみな人物になるよう心がけなくてはならない」ということなのでしょう。

向き合うべき相手は不満ではない。
取り組むべきは、不満を取り除く対症ではなく、不安を取り除く根治。

それを理解し尽くした者が、本物の勇気と叡智が試される生き方に挑むのだと思います。

***************

世界には

笑顔もあれば 涙もある

希望もあれば 恐怖もある

僕らが分かち合うものはたくさんある

みんなもう気付く時なんだよ

結局世界は小さいってことに


やっぱり世界は小さいんだ

小さな小さな世界なんだよ



月はたった一つ 黄金の太陽も一つ

笑顔は誰にとっても 友好を意味するんだ

山が割れたって 海は広大だ

小さな小さな世界なんだよ


IT'S A SMALL WORLD (AFTER ALL) (Richard M. Sherman / Robert B. Sherman)

It's a world of laughter, a world of tears 
It's a world of hopes, a world of fear 
There's so much that we share 
And it's time we're aware 
It's a small world after all 

It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small small world 

There is just one moon and one golden sun 
And a smile means friendship to everyone 
Though the mountains divide and the oceans are wide 
It's a small world after all 

It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small world after all 
It's a small small world 

2013年10月7日月曜日

子供に無償の愛をみる

脅威を前提にして、自分の正義を伝えたい。
なぜなら依存し、怖れているからです。

信頼を前提にして、自分の願いを伝えたい。
なぜなら自立し、愛しているからです。

二つの情熱は似て非なるものです。それは怖れと愛の生き方の違いです。
人は、愛の質感を心で感じとれるようになっています。
理屈がどうであろうと、ハートが感じてしまうものです。


赤子や小さな幼子は、最も大きな意味では自立しているのだと私は思っています。

彼らは怖れないゆえに物事に執着しません。依存していません。
彼らほど「生きる力」に溢れた存在はありません。

例え親が守らなくても、ほとんどの社会・時代を問わず、生きていけます。
人々に愛される力によって。

深く愛されるのは、
小さな子供が無償で目の前の人を愛するから。

彼らは信頼しないということを知りません。
親、世界、自分への無心の信頼。

たとえ親が犯罪者であろうと、何者であろうとも、無償に、無条件に、信じています。

笑顔で、純粋な関心の眼差しを向けてくれます。
肌の触れ合いを求めてくれます。
あるがままの心で向き合ってくれます。
いまを分かち合いたいと願ってくれます。

小さな幼子と向き合うことは、
心が安らぎ、微笑ましく愉しくて、暖かくて、本当に幸せなこと。

子供の生き様から学ぶことは大きいです。

核家族が当たり前である日本社会の現状は、大人にとっても子供にとっても健全ではないのではないでしょうか。大人の人生にとって、子育てのプロセスは分かち合った方がずっと良い。子供にとっても、成長のプロセスを皆で分かち合ってもらった方がずっと良い。

そう思っています。


昨日の樋口耕太郎さんのツイートを紹介します。
(いつもこの方の言葉を引用してばっかりです。表現者としてもっと自立しないと笑)



僕の自慢の妹が長女を出産しました。
私からの、彼女へのメッセージです。

****

僕に子供が生まれたとき、なぜこれほど子供に愛情を感じるのか、とても不思議に思いました。その理由を5年間考え続けて、自分なりの答えが見つかりました。

確かに自分は子供を愛してるのだけれど、それは、そもそも、「子供が親を無償に愛しているからなのだ」、というのがそのときの結論です。子供は、親がダメ人間でも、嘘つきでも、犯罪者でも、それどころか、子供を虐待していても、無心で信じ、愛する存在です。

私たちが一生の間、これほどの愛情を受けることは、親からも、配偶者からも、その他の誰からも、殆どあり得ないことでしょう。

そんなわけで、子供は誰でも、生まれてからの5年間で、一生分の親孝行をするのだと思っています。子供は親に恩返しをするべきだという考え方が一般的かも知れませんが、私は、親こそが一生かけて子供に恩返しをするべきなのではないかと思うのです。

****

よく頑張ったね。おめでとう。


この視点が妥当かどうかの議論は別にして、大切なのはどう感じたかです。
愛について考えさせられるのではないでしょうか。

冒頭であげた私の「愛と自立の生き方」の考えからすると、樋口さんの見方はその通りだなぁと共感します。もちろん、経験的にはまだ子育て初心者であるので、ベテランで孫持ちのお爺さん御婆さんの方々にも聞いてみたいところです。


大人が、社会が、
自分らしく生きられなくなってしまっているのは、
子供の頃の生き方を忘れてしまったからだと思っています。

自分らしくあること。愛。自立。分かち合うこと。

それらは大人が必死で求めてやまない目的ですが、実は過去既に、誰もが実現していたのだと思います。子供が生き様で見せてくれている「無条件の信頼」こそが、その源であったのではないかと私には思えるのです。

それを取り戻すことが、個人の人生と社会の在り方のすべてに繋がるのでしょう。


なぜ信頼できないのか。
自分の心に向き合っていくしかありません。


僕は全てを信頼しています。信頼ゆえの願いをブログに書いています。
これからもそれを伝えていきます。


小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた

心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今   ―
やさしさに包まれたなら

2013年10月5日土曜日

人間関係に向き合うということ

こうであるべきだ!という正義を主張する心は、依存的な精神である場合が多い。
置かれた状況に対して無力な善人の弱者である、という自己意識を前提にしてしまうと、自らのあり方に隠されているエゴと不安に向き合わず、目の前の不都合を他者のせいにする。

そんな時こそ本当は、
「何故その必要性に焦燥しているのか。何故その正当性を訴えたがる自分がいるのか」
と深く自分に問うてみた方がいい。


根深い怖れ。
そこから逃避する依存心。
それを正当化したいエゴ。
都合のよい観念と同化したアイデンティティ。それを防衛するための正義。

そのような感情と思考パターンを観ることが、自分と向き合うということだ。

向き合った果てに、弱さゆえに自分を偽ってきたことに気付く。
真実を重んじて生きる尊さを知り、本当の強さを理解する。
そして過去の自分と、人の心の弱さを、ゆるすことができるようになる。

信頼するということ。思いやるということ。
執着ではなく、愛するということ。
自分とは何者か。人間であるとはどういうことか。
そういうことが、人をゆるすほどに腑に落ちていく。

世界観が変わる。

意識も行動も、人間関係の向き合い方も、働き方も生き方も、大きく変わる。
人生は自ずと変わるものだ。人のせいにせずに自分と向き合えば。

宗教やスピリチュアルが伝えたいこととは、そういう教えだろう。
宗教の意義とは、神秘性や天国や救いなどではなく、
自分と向き合うことを通じて人間であることの本質を悟ることではないだろうか。


健全な主張は、その重心に毅然と、嘘のない開かれた願いがある。
必要性や正当性や妥当性を引き合いに出す前に、まず偽りのない願いを伝えた方がずっといい。その願いは、愛か怖れのどちらかであるが、突き詰めれば、互いの存在を正直に分かち合いたいという愛ゆえの願いのはず。

立場や理屈ではなく、自ら心を開いて、ハートで真実の願いを伝える。そのような自立した精神で語りかけるのであれば、「あなたはこうあるべきだ」と正当性をぶつけ合うことはない。「私はこうありたい。私たちはこうありたい。あなたはどうありたい?」と徹底的に願いとビジョンを語ることになる。純粋に、誠実な関心を抱いて、目をみて、心を感じて、尊重して、向き合うことができる。建設的に事が進まないはずがない。

問題は、双方の立場や理屈を捨てられない原因である、心に巣くっている怖れだ。それを取り除かなくてはならない。しかし本人に自分と向き合う意志がなければ取り除くことはできない。人間自分の弱さを突き付けられるほど辛いものはない。人は、怖れによって自分を偽ってきたことなど認めたくないのだ。

人の心と向き合うには、立場や理屈を重んじるだけでは駄目だ。
その奥に踏み込む覚悟はあるか。真実の願いを分かち合う意志とゆるしがあるか。
立場や理屈にしがみついて自己を守っている人に、自分と向き合えと、厳しく接することも厭わない執着なき信頼を向けているか。

私の言う人間関係に向き合うとは、そういうことだ。

2013年10月3日木曜日

次のリーダー

もし世界の人々の大半が。

国家の軍事力と権威、
神にそむくという罪悪、
お金の欠乏、
それらに不安を抱きながら、正直に生きることが出来ないのだとしたら。

次世代のリーダーは、それらを全く怖れない人物。


なぜ、怖れないのか。


人間とは何か。自分とは何者か。
そういうことと向き合った果てに、怖れる必要がないということを理解したから。


政治家か、宗教家か、事業家か。

それらのどれでもあるようで、
怖れを利用せずに取り除くという意味で、既存のどれでもない。

人間であることを信頼し、純粋に人と向き合う。

理性でビジョンを示し、情熱で誇りを分かち合う。

真実を生きることで、本来の道へと社会を拓く。

教育の最大の問題は大人の怖れ

最も合理的な教育とは、自分がロールモデルとなることです。
つまりそれは自分の生き方そのものであり、
人間関係の向き合い方そのものであり、
社会に誠実に貢献せんとする働きざまそのもので、自ずと伝わるものだということです。

個人的にも、社会的にも、お金をかける必要はほとんどないと思っています。むしろ、ある一定以上の年齢になれば、親だけでなく子供だって公共性を担うことが出来ます。公共の精神を担う気概をもって、自分の価値観と向き合いながら自発的に働きかけること。それを親と子が共同体に対してオープンに実践しているのであれば、その地域において善き学ぶ機会、善き勤労の機会、善き人の縁を得る機会に恵まれないことの方が考えにくいのではないでしょうか。

図書館に行けば、インターネットを開けば、いくらでも知識はタダで学べる時代。
真に得難きは、志をもって誠実に実践している人物=ロールモデルに触れる機会です。これですら、親自身がそうあれば良いだけであり、親がそのような人物と繋がっていればなお良いのであり、親の背中を見て子供は勝手に学びたくなって学んでいきます。

小さな子供を観てれば分かります。

人は本来、人と世界への好奇心に満ち溢れています。知りたくて、見たくて、触れたくて、味わいたくて、感じたくて、心を通わせたい。純粋な興味に突き動かされ、あらゆる素敵な経験をしたがる生き物です。怖れを覚えるまでは。

学びは、作為的に刺激せずとも、本来の人間性を活かせば良いだけです。怖れを取り除くことで。といってもこれが難しい。それは親自身に怖れがあるからです。

不安を動機にして「お金を稼ぐこと」「勉強すること」をしている以上、学びの意欲は、野心や保身やプライドのような、外発的な動機に根っこの部分を占められしまいます。親も学校の大人も、子供に膨大な必要性と期待そして競争環境と評価を与えることで存在不安を覚えさせ、外発的なインセンティブに反応する行動パターンを訓練します。悪気はありません。自分がそのような怖れを理由にした行動を中心に生きているので、どれほど善意であろうとも、そうすることでしか学びの意味付けに説得力をもたせることができないだけです。

自分の生き方以上のことは伝えられないのです。

そうして子供は、大人によって怖れを教わり、
情熱的で純粋で、楽しくてしょうがない体験に溢れた学び方を失っていく。


教育について考えたとき、真に問うべきは「教育」ではなく、大人の生き方であるということです。お金をかけずに出来ることで、最高品質の教育は十分過ぎるほど可能だと私は考えます。むしろ大半の大人がお金への観念によって、子に不安を与えているのであれば、お金をかけない教育によって「人間とは何か」を伝えることの方が合理的であろうと思います。子の人格形成において、第一の栄養が大人の生き方そのものだとしたら、それが教育機能を果たしていない以上、第二以下の栄養について一生懸命に頑張ったとしても上手くいかないのではないでしょうか。

現代教育は、公的費用も家庭の経済的負担も大きすぎると言われます。
「子供の教育にお金がかかりすぎる」という理由で望む子供数を産めないと考える夫婦は少なくありません。教育は子育てにおける最大の経済コストであり、そしてお金の欠乏こそが大人の生活不安に最も直結します。「教育にはお金がかかり、子供に満足な教育費用を出せる自信がない」という心理的障壁が、少子化の原因の大きな一つとなっています。

私はそういう方々に役立ちたいと思っています。

第一に、善き教育は全くお金がかからないということ。
第二に、お金の欠乏を怖れる人生であるのは何故か?という問いに、真正面から向き合うこと。

それらを真摯に考えていきたい。

教育のあり方を問うとき、不安を動機とした教育の世界観が既に合理的ではないのではないでしょうか。怖れを起点としている時点で、依存的かつ無力感を伴った受け身の精神を伝えてしまいます。教育を担う人々がそのような生き方を通じて、不安を核としたメッセージをあり方で伝え続けている以上、精神的な自立へ向けた教育機能は果たせないのではないかと思うのです。

自分の存在が唯一のメッセージ。

ブログではこのような問題意識をもって、善き教育について語っていこうと思います。