2013年10月27日日曜日

世界の変え方は自分の生き方

信念を変えられれば、行動は自然に変わってくる。
自分の世界観に照らして不適切なことは、誰もしない。

あなたが行動すれば、彼らも行動する。まず、あなたから始まる。
何もかも、すべてがあなたから始まるのだ ―二ール・ドナルド・ウォルシュ




今朝、学びについて思ったこと。

人生の基盤となる学びは、いま佳境に入っています。振り返れば、政治、経済、金融、経営、科学、哲学、宗教、スピリチュアル、文学。この10年を通してリベラルアーツを深めてきた思いです。

今は、自分の考えと行動をオープンにすること、自ら意味を見出して働くこと、人間関係に向き合うことに、まっすぐ取り組んでいるという自覚があります。自分の真実を偽らず、何者であるかを世に表現する段階へとシフトしていることを実感しています。

より美しく共鳴しあうように表現の質を高める。
自分と他者の存在を分かち合う。その方向性に迷いはありません。

もっと人の心に響く表現者でありたい。
一瞬一瞬を人の心と正直に向き合っていたい。
だから、自分であることへの学びは終えても、自分である故の学びは終わりません。



明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ - ガンジー
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.


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今朝、自由の質について思ったこと。

自由競争という言葉があります。
しかし自由な存在は競争しない。彼らは分かち合うだけです。この概念の主役は、自由そのものではなく、競争です。競い争う。争い競う。自由競争の自由とは、「国家権力から管理強制されない」という意味で「自由」と定義しています。

人間の存在として、普遍的かつ無条件に在る自由。それを前提しているのではありません。組織権力の必要性を前提に、それから解放された状態を「自由」と言っているに過ぎません。既存の資本主義を擁護する文脈における「自由」とは、義務と犠牲に支えられた権利に過ぎず、それは他者に与えられて成り立つものです。自由が、個の精神と生き方から生じるのではなく、組織権力というフィクションへの依存心から発露されている限り、本当の意味の自由は実現しないと思います。既存社会の自由の大半は、つきつめれば「管理」という意味です。

現代社会の最大の組織概念である、国民国家という観念から自由にならなければ、弊害だらけの資本主義経済の競争からの自由もあり得ないと考えます。このような私の認識は、共同体とはいかにして機能し、いかにして創造され続けるか、という問いに繋がっていきます。

なにやら話は壮大ですが、話が大きいのではなく、たった一人の自分という存在が、世界を変えるほどに大きいということです。

人間という存在にとって、自由は無条件に在る。自由とは人間の本質である。
この真実を、生き方へ、そして社会へと展開するだけいい。

答えはシンプルです。既存の世界観の真逆を不退転で進んでみればいい。
個であること。一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
それで生活が成り立つのか。それで幸福な人生が成り立つのか。試してみればいい。

さらに、共同体が成り立つのか。社会は機能するのか。もっと言うと、これまでを遥かに上回る生産性、安定性、協調性、平和と健康、自由と幸福。
もしそれら全てを可能とするモデルが、一つ実現したら。

世界が変わります。


個であること。 一切競争せずに、オープンに分かち合うこと。
これは表面的な話ではありません。 偽りのない精神から生ずる行動であるか否か、という実質的な意味においてです。独立起業せよとか、NPOをつくれとか、無償で働けとか、寄付やボランティアをせよという話ではありません。それらの外形は全く関係ありません。内的な意味においてです。


分かち合って取引せず。
信頼して期待せず。
和して同化せず。
愛して執着せず。


恐れず、正直な願いを、行動にしていく。

自分の真実を生きて、その想いとプロセスを、互いに分かち合っていく。

それだけです。

世界とは、自分の生き方そのものです。

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