2013年6月1日土曜日

自我を手離すこと

手を離す-『ロープのたとえ話』

思い込みにしがみついている心は、ロープにすがりついている人に似ています。

もし手を離したら、落ちて死んでしまうと思って、自分の命のために一本のロープにしがみついています。両親や教師や他の沢山の人たちがそう教えたからです。そしてまわりを見まわすと、みんなも同じようにしがみついています。

彼に手を離しなさいと誘いかけるものは何もありません。

そこへ、一人の知恵のある婦人がやってきました。

彼女は、しがみついている必要はない、そのような安全は幻想にすぎず、人を今いるところから動けなくしているだけだと知っていました。そこで、彼女は男を幻想から解き放ち、自由になるのを手伝う方法はないものかと考えました。

彼女は男に、本当の安全や、より深い喜びや、真の幸福、心の平和について話しました。そして、もしロープを握っている手の指を一本だけ離せば、それを味わうことができるのよ、と言いました。

「一本だけですね、喜びを味わうためだったら、それぐらいの危険はおかしてもいいな」と男は考え、最初のイニシエーションを受けることに決めました。指を一本離すと、彼は今までにない喜びと幸福と心の平和を味わいました。

しかし、それも長続きはしませんでした。

「もう一本指を離せば、もっと大きな喜びも幸せも心の平和もあなたのものよ」と彼女は言いました。

彼は自分に言いました。「これは前よりも難しいぞ。本当にできるだろうか。大丈夫だろうか。自分にそんな勇気があるのだろうか」彼は躊躇し、それから指の力を少し抜いて、どんな感じか試してから、思い切って指をもう一本離しました。

落ちずにすんだので彼はほっとしました。そしてもっと幸せで、心が平和になったことに気がつきました。

でも、もっと幸せになれるのでしょうか。

「私を信じなさい。今まであなたをだましたことがありましたか。あなたがこわがっているのもわかります。あなたの頭が何と言っているかも知っています。こんなことは気違いじみている。今まで習ってきたことに反するじゃないかって言っているのでしょう。でも、私を信じて下さい。私を見てごらんなさい。とても自由でしょう。絶対に安全だと約束します。あなたはもっと幸せになれます。そしてもっと満たされた気持ちになれますよ」と彼女は言いました。

「僕はそれほど、幸せと心の平和を望んでいるのだろうか」と彼は自問しました。「今まで一生懸命にしがみついてきたものを、全部手放してしまうだけの覚悟ができているのだろうか。原則的にはイエスだ。しかし、それが安全かどうか確信ができるのだろうか」

こうして彼は自分の中の恐れを見始めました。恐れの原因を考え始め、自分が本当に何が欲しいのか探し始めました。少しずつ、ゆっくりと、彼の指から力が抜け、リラックスし始めました。彼は、自分にはできる、とわかったのです。そして、そうしなければならないことも知っていました。彼が握りしめていた指を離すのはもう時間の問題でした。そして、指を離してみると、もっと大きな平和の感覚が彼の内部に染みわたってゆきました。

「彼は今や一本の指でぶら下がっていました。理屈では、指がニ、三本しか残っていない時に、すでに落っこちていてもいいはずでした。しかしまだ落ちていません。「しがみついていること自体、まちがっているのだろうか」と彼は自問しました。「僕はこれまでずっとまちがっていたのだろうか」

「最後の一本はあなた次第よ」と彼女は言いました。「私はもうこれ以上助けられません。ただ、あなたの恐れはどれも根拠がないということだけは覚えておいて下さい」

自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。

何も起こりませんでした。

今までいた場所にそのままいました。

そしてそれがなぜか、彼はやっとわかりました。彼はずっと地面の上に立っていたのです。

地上を見渡した時、彼の心は真の平和で満たされたのでした。そして彼は、自分がもう二度と再びロープにしがみつくことはない、と知っていました


ホワイトホール・イン・タイム
~進化の意味と人間の未来~
The White Hole in Time
Our Future Evolution and the Meaning of Now

ピーター・ラッセル著 山川紘矢・亜希子訳






ここからの引用です。

この本は1993年初版と古いですが、内容は普遍的で素晴らしいです。著者は理論物理学・心理学・瞑想に造詣が深い上に、多国籍企業のコンサルタントとしても活躍。ビジネスと自然科学の正しい識者が、人間の存在をテーマにして、スピリチュアルと進化論の軸で語ったら・・・という雰囲気です。良かったらご参考に。


ロープの話を読んで何を思われたでしょうか?


何かにしがみつく心、執着を生みだすのは怖れです。

怖れをつくっているのは思いこみ=観念です。

それら一つ一つの観念を外していくとどうなるかを示唆しています。

自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。
何も起こりませんでした。
今までいた場所にそのままいました。

強力な価値判断の根拠として機能する観念は、期待や不安の渦を生じさせています。

しかし内観で一度見抜いてしまえば、影響力のない幻想にすぎないことが分かる。
そういう例え話です。


彼はずっと地面の上に立っていたのです。


最後の一本を外すことによって、

「いまここに、無条件に、自分は在る」ということを発見します。

移ろいゆく現象の世界で、そこが、惑うことなき基準点となってくれます。

何が起ころうと、そこを起点にすればいいと分かります。

観念に振り回されることは二度とありません。



観念への抵抗や同化をやめるほど、人は自由になっていきます。

そして最終的に、

「自分」という観念から解放されて、

初めて意味のある水準で、

「自分はどうありたいか」を選択できるようになるのだと思います。





あなたは今ここで、無条件に、どう在りたいでしょうか?


それは完全に自由です。



この問いに、
バガボンドの武蔵はどう在ることを選択したでしょうか。



藩に見捨てられた土地に小さな集落があった。武蔵は旅の途中、父を亡くしたばかりで一人身の伊織(たぶん10歳未満)に出会う。孤独の寂しさを抱えたその子をなんとなく放っておけず、「田を耕せ」と諭し、亡き父の荒れた土地を耕しながら共に過ごすことにした。しかし村は飢饉に襲われてしまう。村人は絶望するが、武蔵は慣れない鍬を持ち、死んだ土地を一人耕し続けた。

そんな頃、剣術指南役として迎え入れたい役人から士官の誘いを受ける。武蔵は「強くありたい」と言って、申し出を蹴り、飢饉の村に留まることにした。武蔵の耕す姿に希望を感じた村人は、一人また一人と集まって力を合わせはじめ、翌年の収穫期まで生き抜く決意を抱くようになった。しかし、日に日に飢えの現実は厳しくなっていく―

――――――――――



食うものがない



今朝

また一人死んだ



この冬を越せるのか?



伊織「春まであと何日?」

武蔵「さあ 五十日か百日か」


武蔵
(冬を乗り越えても・・・収穫はさらに先・・・)

武蔵の内の辻風黄平
(おめでとう。ここだよ。)
(ずっと探していたんだろう?武蔵。 死に場所を。)



一月

少しずつ取り崩して食いつないできた稗や蕎麦、干し大根などのわずかな蓄えが

底をついた


村人「終わりだ・・・」


雑穀類の蓄えがなくなった後はカシワやコナラの実――

ドングリが人々の命をつなぐものの一つだった

穀物類に近い栄養素が得られたためである


木の実を食べ尽くすと

山菜 野草 草の根等

食べられるものは何でも食べるほかなかった




――乳飲み子がいる夫婦の宅にて。

なんとか乳を搾り出し、赤子に飲ませることができて安堵する夫婦。

リーダーの村人「正蔵、(妻のために)ドングリ少しでも蓄えとけよ」

正蔵「はい」

武蔵「もっと探してくる」



伊織と探しに行く武蔵。


「ないな・・・ 食えるもん」



食べられそうにないものも工夫によって食料としたが

やがてそれすらも食べ尽くし

二月



伊織「あ!!」

村人が首を吊っていた。

武蔵「・・・喜助・・・」




武蔵
(たまたま流れ着いただけの場所と思ってた)
(ここが死に場所ってことか)


我執の声
(こんなとこで死ぬもんか)
(死ぬ時は斬られて死ぬ)
(ここには俺を斬る奴がいない)
(剣持ってとっとと抜け出せ、こんなとこ)

武蔵(・・・・・)


武蔵「ここで死ぬにせよ、死なぬにせよ、もう決まってること」
   「決まっていて――」

武蔵の内の沢庵
(そう、そして ・・・それが故に自由)




帰宅すると、
伊織が飢えによる衰弱で生気を失い、部屋の隅で横たわっている。

「伊織!」


松の皮

剥いだ松の皮は食料になるという

臼でひいてザルに通して粉にする

水を加えて煮る

一晩置いて苦みや渋みをとる


武蔵(・・・伊織)


食べ物を探しに村人宅を巡る。

しかしどの村人も、飢えによって気力体力は限界に達しており生気を失っている。


武蔵「集落が、死んでいく・・・」

武蔵の内の黄平
「そのようだ この死神から見ても ククク」


―帰宅。

武蔵「伊織」
伊織「先生・・・」
   「一緒に寝て・・・」


外へ出て走る武蔵。


我執の声
(どこへいく?)


武蔵
「どこであれ
それがいつであれ
死ぬことは決められている」


武蔵の内の沢庵
(そう。 そして?)


武蔵
「残された時間がある。
 どうあるかは自由 」


武蔵の内の沢庵
(どうありたいのだ?)


武蔵
「強く――――


我執の声
(よく言った!)
(さあ帰ろう。闘いの日々へ)
(俺が俺らしくいられる場所へッ!!)
(力強く歩め)
(フラフラでも倒れそうでもやせ我慢)ヒャッホー


立ち止り、息を切らしながら、空を見上げる。

そこには悠然に飛ぶ鷹。


「俺が
  俺らしく―――」

我執の声
(そうだ)


「手足が無くても
 それは残るはず」

「俺は」


「何だ」





回想した女性の言葉





「やさしいんだよ あんたは」






男「うわっ、何だ貴様!?」

男「待て」

「「武、武蔵だと!?」」

士官を誘った役人の居場所へ乗り込んだ武蔵。




「助けてくれ」


                    
―――――――――――――――――――――――――
バガボンド♯315 水ぬるむ頃



例えていうなら、スラムダンクのあのシーンです。

山王戦。

あの桜木が流川にパスして逆転。

しかし沢北に逆転される。残り十秒。

湘北オフェンスで流川が攻め込む。

ゲーム終了までわずか1秒。

この局面。

あの流川が自分で行かずに、桜木にパス!シュートを決めた桜木!


無言のハイタッチ!

流川と桜木がです。

スラムダンクを読んだ方なら、この二人がパスし合ったことの意味がどれほど大きいか分かるはずです。

二人とも完全に我執が消えています。ゆえの、最高のプレイをして奇跡を起こしました。



・・・・と同じくらい、武蔵の「助けてくれ」は凄いシーンなのです。


スラムダンクにおける桜木と流川のそれは、
全31巻、連載6年に渡って描いてきた世界の重みを、最も背負ったワンシーンでした。

バガボンドにおける武蔵のそれは、
現在35巻、連載15年に渡って描いてきた世界の重みを、最も背負ったワンシーンです。



この二つに共通して描かれていること。


自我を捨てるということです。


そこにあるのは真我です。



この記事のロープの話から伝えたいこととは、
武蔵の「助けてくれ」の意味です。


武蔵は「強くあること」が自分という存在の証明でした。
この作品が始まって以来ずっとです。
武蔵は屈したことがない。
天下無双を目指して、命がけで斬り合い続けて、最強の名声も得た。

強くあることが自分。

しかし、

この衝動が説明できない。

伊織を助けたいという衝動。

それに突き動かされ、走っている自分を説明できない。

我執が揺れている。

自分の中にいる沢庵が問いかけてくる。自問自答。

「どうあるかは自由だ」

どう在りたいのだ?

「強くありたい」

それで?
どう在りたいのだ?




強くありたいという思いの先に、まだ「俺」がいる。

その「俺」が、伊織を助けたいと心身を突き動かしている。




「俺は俺らしく――」
「手足がなくても残るはず それは・・・」
「俺は何だ」


武蔵の気付いたそれとは、何でしょうか?

手足(=剣による天下無双の強さ)がなくても、残る「俺」です。

これを対象化した武蔵は、気付きます。

真の自分を知る。


「やさしいんだよ あんたは」


答えを出した。

同化していた観念が外された。

武蔵が自己と同化させていた観念とは、斬り合いの強さ。

殺す力。

それを手放して見出したのは、
手足がなくても、人に屈したとしても、
無条件に在る強さ。

剣が振るえなくても、無条件に強く在る自分。



愛であること。



人間が死力を尽くして、自分を問い続けて、
その果てに見出すものは、それです。


武蔵はこの話で、
自己のアイデンティティを支えていた強さが、根底から覆りました。
最も固執していた執着が離れ、世界観がひっくり返りました。


このシーンは、
武蔵を通じて、人間の悟りを描いているのです。

井上さんの連載15年の重みをもって。


井上さん。僕は本当にこの作品に出会えて良かった。
感動をありがとう。

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