2013年7月27日土曜日

今ここに生きる意味

10人の血の繋がっていない家族がいました。

いつもお互いの存在を分かち合っていた彼らは、心の底から満たされていました。

しかしある時を境に瞬時に記憶が消えて、家族であることを忘れました。不思議のうちに記憶を失いながらも、皆が力を合わせた方が全体として効率が良いことを彼らは知っていました。

「物々交換では駄目だ。全体として上手く機能する仕組みを考えよう」

そうして、取引の世界観に基づき、お金という信用の繋がりを活かすことにしました。


立場が生じました。

10人の消費者。
10人の労働者。
10人の資本家。
10人の国民。

それぞれの立場においては、合意する限りにおいて、
自分の欲求を、他者に要求することが公に認められます。

10人は自分の幸せのために、
ルールとTPOに応じて立場を戦略的に使い分けて、

置かれた立場における利益の最大化と、
コストの最小化と、
リスクの最小化に尽力します。

立場に帰属する権利・義務の不確実性や損得の変動に、
期待と不安を抱きながら、
たくさんルールを勉強して、予測して準備して交渉して合意して管理して、
練った戦略を実行して、その結果に一喜一憂しつつ、
反省と不満を飲み込んでは日々奮闘し、
トータルの自己利益の最大化を目指します。

そうすることが、
自分と皆の幸せの実現に向けて、
ルールに認められた「正当な努力」であり且つ「合理的」だからです。



途中からは、
国民として赤字国債を発行して、皆のためにお金を増やしてばら撒くようになりました。

消費者として、
労働者として、
資本家として、
国民として、

みんな喜びます。

ばら撒かれたお金は個人の貯蓄に回り、
資本家として貯蓄運用するため、銀行等を通じて次年度も赤字国債を買います。


毎年赤字国債を発行しながら、
お金がばら撒かれて、10人皆が喜んで、また貯蓄する。


それを延々と繰り返していくと、

消費者として、
労働者として、
資本家として、
国民として、

立場の利益を最大化することと、

一人の人間として幸せであることが、大きくかけ離れていきます。

自分の利益は、
「消費者」や「労働者」や「資本家」や「国民」に属する利益であって、
状況に合わせていかに質の高い立場を得るかを競わざるを得ません。
同時にそれらには義務や不安が膨大に付きまとっているのであって、
状況に合わせていかに質の低い立場を回避するかを競わざるを得ません。

いかに契約させるか、いかに合意させるか。意識は後ろめたく普請しています。

いつのまにか使いきれない商品とサービス、そして過剰な利便性に溢れています。管理しきれない権利と果たしきれない義務に溢れ、それらを巡って不和と対立が深まっています。

幸せを実感する「わたし」と「みんな」を実現するのに、実に不合理としか思えません。

(おかしい。変わりたい。変えなきゃ。)

そう思う人が大半になります。

しかし。

気付けば、みんな各々の立場に依存してしまっていて、簡単には変えられません。
それらの役割と権利と義務を、手放すことが怖くて、
自分を偽ってまでも執着している人が少なくありません。

自分の感情を押し殺して、他者に「消費者」「労働者」「資本家」「国民」という立場の利害への期待と不安を煽ってしまいます。自我と経済的立場を同化してしまうことで、他者にもそれを強烈に押しつけてしまう。お互い様に、建前と本音を分裂させる利害が一致してしまい、その連鎖によって『自由意思』と『自由競争』の名のもとに、自由を奪い合います。どんなに技術が進歩しても、物質的に豊かになっても、心が豊かになれません。弱者も強者も首が回りません。

そうして、不安と不満の感情エネルギーはたまり続けます。
表面化しない負の感情が、
互いに尊厳と正当性をかけた、精神的な生存競争に拍車をかけます。
政治的にも経済的にもボロボロに疲弊しながら争います。
争いのための仕事や義務は、人を傷つけて自分を偽るため、
自尊心を失わせて、臆病になり、攻撃的になり、人間不信を深めあう。
個人も社会も病んでいき、孤独と格差が激しくなっていっていく。

自分に嘘をつき、健康を害しながら奮闘し、愛を渇望する人だらけになっていく。


みんな、人として、ささやかで素朴な幸せを望んでいるだけなのに。


――――――――――――――――――――――

という、ちょっと救えない話が思い浮かびました。

現代社会の現状を考えると、こんな感じじゃないでしょうか?

少なくとも経済学とその理論が想定している世界は、
各自が立場の利益を競争を通じて最大化することで、最大幸福となる社会です。

その通りに、そっちへ向かっているのではないでしょうか?


あるがままに見れば、そこには最初っから最後まで、10の人間しかいません。
記憶をなくす前、家族として存在を分かち合っていた頃と、なんら変わらないはず。

本当は、消費者も、労働者も、資本家も、国民もいません。
それらはただの言葉、記号です。
そういう観念(フィクション)と自分のアイデンティティの同化を辞めればいいと思います。

そして問うんです。

その観念の、何が幻想で、何が真実であったのかを。

何が幸せの実現に機能するのかを。

観念を否定する必要はありません。

その機能の本質を、見極めて、定義しなおせばいいのではないでしょうか。

そういう提案です。

叡智を尽くして。議論を尽くして。
愛をもって、情熱と言葉の粋を尽くして、
本音で語り合えばいい。

そのプロセスを通じて、

国家が、民主主義の本質を取り戻すこと。
経済が、豊かさの本質を取り戻すこと。

人々が、人間であることの本質に還ること。


それが意識の革命、パラダイム・シフトです。





自分のリアリティと、物理的な現状を、あるがままに観る。

自分を偽らずに、他者の心と向き合う。


明確な信念をもってそのように行動し続けるのは、
利害の観念に依存した意識にとっては大変難しいですが、
エゴを捨てれば誰でもできます。
幼い子供の意識は当然のようにやっていることです。


観念を手放して、内的な意識を統合すれば、
個人としても、社会としても、圧倒的な生産性を取り戻す可能性があります。

自由で、創造的で、
ソフトで優しくて、
分かち合う喜びに満ちた、
誇り高い豊かさを取り戻すことができる。

それが次世代の社会であり、生き方です。



「経済」+「国家」=全体ではありません。

「消費者」+「労働者」+「資本家」+「国民」=自分ではありません。

自分も全体も、もっともっと大きい。

個は、どこまでも全体です。全体は、どこまでも個です。想像以上に。


本来人間という存在は、
やすやすと定義できるものではありません。

どこまでも自由で大きな「それ」に気付いて欲しい。

自分の本質が無条件の自由に在る、「それ」である、という気付きが悟りです。

と、いろんな本やブログや漫画や学問から学んで、僕は結論しました。
参考:バガボンド 「自我を手放すこと


本質を思い出すだけです。

24時間、365日、いかに観念ではなく、リアリティの源泉を軸にして生きるか。

真実を。
行動を。
天地を。
あるがままに観て、その感覚を取り戻すだけです。




戻ります。

「家族であること」を忘れた10人の話。



「家族であること」の本質って何だと思いますか?



血のつながりではない。

と僕は思う。


存在を分かち合う世界観です。


それを前提にするか、
存在を分かち合わないで、
利害取引を前提にするか。


たった、その最初の前提が違っていただけです。

愛か怖れか。
一つか分離か。

人間は、どちらの世界観が合理的なのでしょうか。

国家、資本主義・・・
社会の根幹となるデザインも、
リーダーシップをとる人物も、
どちらの世界観を選択したら機能しそうでしょうか。


本当に理想論なのか。

実は簡単なのではないだろうか。



どちらが現実的なのか。

いや、現実は観念の追随でしかありません。

どちらが真実的なのか。


真実を、現実にすることが、
創造であり、
自立であり、
誇り高き人生であり、
今ここに生きる意味なのではないでしょうか。


僕はそう思います。

みんなも腹の底ではそう思っていると信じています。

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