2013年4月4日木曜日

お金という世界観の問題

為替市場で円が安くなると、

ほぼすべての株価が高くなります。


一体なぜでしょうか。


為替と株価は、
なぜ連動するのでしょうか。





これは最も一般的な経済現象の基本的な問いです。


だからこそ、
もしこの問いについて、
一流の説明が出来ないのであれば、

 そのような
金融マン、
上場企業経営者、
経済学者・評論家、
新聞、
政治家は一流ではないと考えます。


彼らを挙げたのは、
今の社会の世界観を創りだしている彼らの責任が極めて重いからです。


もし僕が国会答弁で、
政治家に問う機会があるとしたら、
資質の試金石となる質問を沢山投げかけるでしょうね。


さて、

世界観という言葉を使いました。

それは私の生きるこの世界は一体どういうものか、というイメージです。

行動と思考の前提であり、
感情のトリガーとなる観念を象っている認識のことです。


イメージといっても、
「美しい桜を想像して下さい」

というような、生易しい言葉ではありません。


ニール・ドナルド・ウォルシュは著書「神との対話」の中で、
「信念」
あるいは、
「思考を支える思考」と表現しています。


世界観は、
自らの人生の可能性と枠組みを決定するものであり、
これを自由に創り、選択することができるようにならねば、
自由で創造性あふれる人生を歩むことはできないと思います。

安心を追い求めてながら、常に不安が付きまとってしまうのは、
誰かに与えられた世界観に依存しているからであり、
つまり自らそれを築けないからです。

世界の見方がゆらいでいれば、
自分の存在は相対的にしか定まらないので揺らぎっぱなしになります。

不安の問題は、外ではなく内にあるということです。


私たちの世界観は、
個人差だけでなく、
生まれる国や文化によって、
あるいは生きる時代によっても異なります。


ざっくり言ってしまえば、時代を司る価値観は3つだったと僕は考えます。


「神」  「国家」  「お金」


今は組織宗教と「神」に権威を感じる時代でもなければ、

戦争と身分制度を強いる「国家」の武力と権力を怖れる時代でもありません。

それらよりも、
素朴な個人の生活から地球の成り行きまで影響を与える支配的な価値観はー、
どうやら資本主義化が極まっていく世界をみると、「お金」の時代といえそうです。


世界中で多くの人が、
日夜プレッシャーの中で働いて稼ぎ、食費をまかないます。

家賃も医療も、
老後の安心も子供の教育も、
家族や友人との娯楽も、
親としての尊厳も人生の成功も、

お金に依存しています。


だからこそ、
人々の世界観の形成について、
お金の見方と経験は絶大な力をもつ。


それは、
人をコントロールしたいと望むならば、
お金の見方と経験を提供せよ、ということでもあります。



日常生活で味わっているお金をめぐる実体験をもって、
新聞やテレビを見ます。

そこで私たちは日々、
経済ニュースを聞いていて、
なんとなく分かる様な、
分からない様な感覚のままでいるのではないでしょうか。


そうして潜在意識において、

「社会というのは難しいんだな」
「この世界は難しい問題だらけで、私の判断や影響力なんて小さいんだ」
「誰か頭の良い、凄い人じゃないと問題を解決できない世界なんだ」

と自分で自分を小さくし、ちょっとした無力感とともに、
世界や、人間社会の全体を、
理解不能な、複雑で巨大なイメージにしてしまうように思えるんです。


人は、
本当に理解した現象は怖れなくなるものです。

逆に、理解できないもの(人)を怖れます。

自然科学の発展も、
宗教・哲学でいう悟りも、
その真価は、
人間が世界に抱く怖れの克服であったように思います。

科学も哲学も、
世界と自分という
存在意義を根本から支える最も大きな対象と、
真摯に向き合い、
理を解く(=理解する)営みです。

そうして、
世界を信頼する(=自分を信頼する)生き方を選択するという、
自由で、能動的で、創造的な世界観を手に入れることが出来るわけです。

人類全体はそのように進歩してきた。
今もその最中であると僕は思います。


要するに、言いたいのはこうです。

人は世界と向き合わず、
その理解と世界観の形成を、
他人に任せて避けるほど、
勝手に頭で世界なる全体を大きく複雑にして怖れるのではないか。

怖れると余計に、
世界という全体に向き合いたくなくなり、
個人としては理性的でも、
全体としては理性を失うのではないか。



「私は自分には理解が及ばない巨大な全体に所属している。

私のような平凡な人間が、
素朴に幸せに生きるためには、
競って戦うなり、
強者に従うなりして、
自分を保身する必要があるのだ。

私も皆も、
そういう世界で、
ささやかな幸せを生きるために必死に頑張る人生なのだ」


もしこのような世界観が、

一人一人の、思考と行動の前提となる潜在意識の中に、
形成されてしまっているとしたら。

果たしてどういうことが起きるでしょうか。


本来は既に全体であるにも関わらず、
「全体」を怖れる私たちは、
個人としては理性的でも、
矛盾に溢れた思考・行動を繰り返していて、
「全体」としては理性を失った振る舞いをするかもしれません。

であるならば、
個人が全体を信頼できない世界観をもっている限り、
個人としての部分最適の積み上げは、
それがどれほど美しく誠実な行為であったとしても、
全体の最適にはならないのかもしれません。


つまり、

全体を信頼できる世界観を創り(解き)、

それが広がるメカニズムを起爆させれば、

全体の理性を再生できるということです。

真に合理的な社会を創れるということです。


内なる世界観に向き合い、
外へ世界観を分かち合い、
愛によって怖れを取り除くプロセスの果てに、
人間社会の問題は解決される。

僕はそう考えています。


富の蓄積が社会を豊かにするという資本主義の「常識」―


地球の自然現象と生態系が示すのと同様に、

富の生命は「循環」だと思うのですが、

循環なき蓄積を求める社会が、

果たして本当に人間を豊かにするのか。


そのような社会のまま、

地球と人間の多様性と機能は持続可能であるのか。






お金とは何か。


私たちの社会はまだ回答を得ていません。

正しくいうと、
「こういうものにしよう」
という定義をしきれていません。


神とは何か。

分かりません。分からないけども、
スピリチュアリティの広がりによって、
その概念は個人において内的な統合を果たし、
自分を信じることと神を信じることは同じであると悟り、
世界と自分を大きな意味で信頼する生き方を選択して、
人々はより自由になっていく気がしています。


国家とは何か。

意見はいろいろあります。ありますけども、
民主主義の広がりと定着によって、
完璧ではないものの、
その概念は個人において内的に統合され、
国家を信じることと国民を信じることは同じであるという制度設計がされ、
一応は信頼できるものになり、
人々はより自由になった気がしています。


お金とは何か。

自由主義経済の広がりと定着によって、
その概念は個人において内的に統合されたかに見えました。

しかし自由主義が生み出した資本主義の枠組みを、
人々は次第に制御しきれなくなり、
全体としては、
人間の理性を機能させているとは言い難い現状です。

食料を6000万トン輸入し、2000万トン廃棄する日本と、
毎日25000人が餓死する世界。

そのように貧困に苦しむ人々に、
豊かになれるチャンスを与えるとして、
自由競争に駆り立て、
膨大に物を生産し、
流通させては廃棄を繰り返し、
お金の量は正当性であるという理屈を強化し続けるグローバル金融経済。

お金の価値観に支配されて苦しむ貧困国家と民が、
資本主義の上流にいる米国や日本をみて、
夢をみている間は一時的に憧れて尊敬するかもしれません。

しかし競争の蔓延る世界が生み出す現実に絶望したとき、
恨みを抱くのは当然でしょう。

お金による自由とは、
勝者・強者・経済力の自由といった方が良いような気がします

お金に関する人々の怖れと不自由は強まっているからです。

同時に、嘘とコントロールと依存と競争も強まっている。

この内面と外面は相互に作用し合い、
負のスパイラルは連鎖拡大していくのでしょう。


そうして、
資本主義の上流として経済的に成功した米国も日本も、
一流企業のエリートも経営層も、
強者に見える人たちも、
同じくお金の力を怖れて戦い続けています。
お金の力によって安心と尊厳を得ようとしている限り。



循環を目的とした競争であるならば、
互いの存在を、分かち合う共同体の精神があります。

しかし所有という権力手段に用いるためのお金の獲得競争ならば、
互いの存在を怖れ手段にしあう、分裂の精神にもとづきます。

後者の争いが社会を真に合理的にすることは永遠にないと、
僕は思っています。


お金という機能の、何が善で、何が悪なのか。


質の違いを定義し、
選択しなければ、
いつまで経っても量を追うばかりです。


叡智が試されています。



僕は悲観していません。

お金を生み出したのが人間であるなら、
お金も必ず”人間の理”として機能するよう統合できるはずですから。


それが僕の信念です。


人間の真実は、

お金があるから自由になるのではありません。

自由であるから豊かになる。


お金があるから幸福になるのではありません。

幸福であるから豊かになる。



現実は違いますか?

現実も長期ではそうなっていると、僕は信じて疑いませんが、

もし違うというなら、

そういう仕組みにすればいいのではないでしょうか。


お金とは、

人間の真実に従って、

そういう枠組みとして創造し直せばいい。


かつて西欧で、
国家なる幻想の正当性に立ち向かった、
民主主義の叡智の起こりと同じように。


次世代のビジョンについては、このブログで整理していきます。



『ネバー・エンディング・ストーリー』『モモ』などの代表作で知られる
ドイツの童話作家、ミヒャエルエンデは言いました。

お金の問題が解決されなければ、
われわれの文化に関するすべての問題は解決されないだろう

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