2013年11月13日水曜日

自分を信じて歩んだ道の果て

それぞれの生きる道は天によって完璧に決められていて

それでいて完全に自由だ

根っこのところを天に預けている限りは― バガボンド 沢庵 (井上雄彦)



バガボンド36巻が出ましたね。


最高です、ほんと。
井上さんの人間への哲学的洞察力とその表現力には脱帽です。この巻では以前ブログに書いた、武蔵が自我を手放すシーンが描かれています。
自我を手放すこと

バガボンドという物語における最重要シーンです。ご覧になったことの無い方はぜひ読んでみてほしい。


武蔵は孤高に強さを求め、命がけで天下無双の道を歩んできました。その果てに京最強の吉岡清十郎を破り、さらに吉岡道場一門70名を迎え討って切り殺した。名実ともに最強の名を手にしたにも関わらず、喜べぬ自分がいる。殺してしまった者たちが頭によぎっては、自分のあり方と生き方に迷いが生じる。そして剣も迷い、堅く鈍っていく。


冒頭の文句は、そんな武蔵に再会した沢庵が伝えた言葉です。

――――――

(・・・腹に呑み込んだ鉛。鉛のような重さを抱えて生きる。

今も―
闘いは続いているということ。

あいつら(武蔵が殺した者たち)は赦され、俺にとってだけ続いている・・・)


「勝ったのはどっちだ?」


沢庵「勝った者はいない。そうじゃないかね?」


「わからねぇ」


沢庵「お前の芯はわかっている。その重さが何よりの証」

――――――――――――――――

沢庵は武蔵の心を見抜いて語ります。

沢庵はストーリー序盤から武蔵の精神的成長を導いています。幼馴染のおつう以外で、武蔵を怖れずに向き合おうとする唯一の人物です。その沢庵がこの時、悟りを開いたときに得た言葉を武蔵に伝えました。なぜか。


「苦しみを知る今のお前には伝わると思ったんだ・・・武蔵」


自分を信じて、辿り着いた道の果て。
人はきっと、願望が実現した先に、本当の自分と向き合うことになる。
成りたいものに成った時。得たいものを得た時。あるいは、捨てたいものを捨てた時。願いがかなった先に、はじめて自分の真実が問われる。問わずにはいられなくなる。

満たされぬ自分がいる。誰も理解できぬ、鉛のような重さを孤独に抱える。
それは、何かが間違っていたのだという、芯の部分からのサインです。

沢庵の言葉の真意を得たのが、36巻の最後に描かれている「水ぬるむ頃」です。

飢饉の村を思い、田の土に祈った武蔵。
収穫期まで乗り越えられぬ飢えの現実と、衰弱する伊織を目の当たりにし、
自分が揺さぶられる。


どうありたいのだ

強く―

俺がおれらしく―

・・・手足がなくても、それは残るはず

俺は

何だ?


自問が極まったその時、思い出した言葉。

(優しいんだよ、あんたは)



「手足がなくても」のくだり。つまりそれは、最強である自分が子供にも劣る最弱な人間になったとしても、おれはおれだと武蔵は受け入れることができるということ。自尊心を守らねばいられない実存的怖れを超えたということ。

強さに執着するエゴが外れ、人を救いたいという素直な一心で、役人に頭を下げて助けを乞うた。

これまでの武蔵では考えられなかった行動です。そのように至るまでの人間の成長と変化が、15年の連載を通じて描かれたのだと思うと感嘆します。


人間を描くということ。

自分を信じて歩んだ道の果てに、独り自問して辿り着くのは、愛であるということ。

バガボンドで、アーティストとして、
井上さんが最も伝えたかったテーマが、ここに結実してある。

天によって定められた人の道は、愛すること。

そう思いました。

井上さん、ありがとう。

2 件のコメント:

  1. 僕も、このシーン大好きなんですよ。
    もう、剣客マンガじゃなくなってしまいましたね(笑)
    素晴らしい作品だと思います。

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    1. ここを共感してもらえると嬉しいです。
      自由、天、我執・・・悟りというテーマが色濃くなってますよね。武蔵の武の高みが極まって、しかしそこで迷い、自我と向き合い、人の弱さをゆるし、精神性の高みへと開かれる。その過程を描くのは、人間を描くことをテーマにしている井上さんにとって、きっと自然な流れなのでしょうね。
      コメントありがとうございます。

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