2013年5月19日日曜日

観念とパラダイムの転換



一つ告白します。







実は、






一年ほど散髪に行ってません。





・・・自分で切っています。


人にこれを言うと結構驚かれます。昨日も職場で言われました。

男性「まったく気付かないです。美容師で切ってもらうのと全然変わりませんね。そう言えば千明さん、見ためも美容師っぽいですしね」(後ろのコメントよく分かりません笑)

女性「えー凄い!どーやったら出来るの??」

千明「こんな感じです」

女性「おぉ、リスペクト!久々に出たわ、リスペクト」 (いつも表現が面白い人です)


髪が伸びたら散髪に行く、というのはごく普通です。一人で切るなんてとんでもない、器用な人でも難しそう。皆そういうイメージを持っているからこれほど驚くのだと思います。予想以上に驚く反応の多くに、僕の方が驚いています。

何、節約の話?というわけではなく、本記事のテーマは、観念とパラダイムの転換についてです。大真面目に書いていますが、切り口がこんななので、気楽に読んで頂ければ幸いです。


人間なのでヒゲや爪など勝手に伸びてくるわけですが、体のメンテナンスは自分でやるのが基本ですよね。でも髪だけは違って特別扱いです。誰かにやってもらうのが当たり前。

なぜ自分で処理しないのでしょうか。

難しそう、ケガしそう、失敗したくない、の3つが主な理由だと思います。

髪を切るという行為は、刃物を使います。にもかかわらず、目に頼れない。どこを、どれ程、どのように切れば良いか。そのような判断を、見えないのに出来るのか。後ろなんてどうするの?合わせ鏡で見ながら切ろうとしても、うまく手を動せない。想像するだけで、ケガする不安がよぎる。

何よりも髪型は、見た目の印象に大きな影響があるオシャレ要素。絶対に失敗したくない、という想いは強い。失敗の可能性を考えると、美意識からリスクを嫌がります。

困難を直観する。ケガに加えて、自己表現を損なう不安がある。そう思えば容易にはやれません。

逆に僕にはこれらの理由がありませんでした。だからやってみようと思えた。一度も試したことがない人が大半ですが、その事実と僕ができるかどうかは関係ありません。自分の直観では出来そうな気がしたし、まず試してみて、駄目だったら次回からやらなければいいだけです。

一般的な不安についても感じませんでした。子供なら危険かもしれないが、大人が注意力をもっていれば料理と同じで、ちょっとした失敗くらいでは大したケガになりません。後ろ髪のカットも、自分の手の動きとハサミの刃の位置に意識的であれば、目に頼らずとも大丈夫なことが試してみてすぐに分かります。割と短期間で、ガツンガツンとハサミを動かすことも出来るようになります。

あとは美意識からくる失敗の不安についてです。これも僕にはありませんでした。いわゆるオシャレを気にしない方なのは確かですが、清潔で格好良くありたいとは思っています。安物のTシャツとジーンズだけで格好良い人はいるように、髪型も普通で格好良い人は沢山います。美意識は重要ですが、少なくともオシャレで飾ろうとするレベルの作為では、外見の魅力は全く決まらないと思っています。これは男性に限っての話です。女性については男の自分には全く分かりません。

ちなみに、別にセルフカットをオススメする気で書いているわけではありません。これを読んで下さる方に、やってみたくなったのなら試してみる価値はあると思いますよ、くらいの気持ちです。結構楽しいですよ。あえて自分でやってみることの楽しさでしょうか。別にお金をケチっているわけでもないし、気が向いたら美容院にも行くこともあろうと思います。

僕にとって髪を自分で切ることは、自転車を乗ること、包丁を使って料理すること、車を運転することと同じです。注意力を要して取り組む必要があるのは変わりませんが、出来るようになる以前に抱いていたほど難しくも危険でもありません。この難しくなさと失敗しなさを体感的に知れば、おそらく自分で切る人はかなり増えるんじゃないでしょうか。

私たちは日常で視覚に頼りっきりです。それゆえに、視覚に頼らずに刃物を扱う、ということに実態以上の困難なイメージを抱くのかもしれません。見えなくても、後ろ髪を手で掴みながら、長さをなんとなく意識してチョキチョキ切ればいいだけでした。最初は慎重ですが、コツはすぐ掴めます。自己流ですが、仕上げにカミソリを使って調整しています。僕自身は参考サイトを見たわけではありませんが、よかったらご参考にリンクを張ります。自分で髪を切るコツ


「髪が延びたら散髪してもらう必要がある」という観念を改めて見てみます。

なぜ皆、自分で切らないのか。そして実態より難しいと感じているのか。(男性限定)

①ハードルが高いというイメージが強固
②失敗への不安がある
③皆が当然のごとく、その認識を共有している

そういう事には、やってみる気になれないものです。ここがあらゆる固定観念の作用と酷似しています。ハードルが高いし不安だという常識は、案外そうでもないかもしれません。あるがままを洞察することと、自分の直観と力を信じることで、観念にまとわりついている制限は消えるかもしれません。それが自分の可能性を開いていきます。


ここで話を大きくします。

一つ一つの観念を体系化させるパラダイムについても考えてみます。

人類の過去を振り返ってみると、王様がいて、貴族がいて、身分制度がありました。それが当たり前の時代に、それらを覆す民主主義の革命がおきました。

そのパラダイム転換はどのようにして起きたのかというと、「社会契約」という観念の創造です。
みんな人間である。生まれながらにして格差が当たり前なのはおかしい。それが当然視されていることが、いかに人々の精神に悪影響を及ぼし、社会を歪ませているかは明白だろう。人は等しく尊厳をもって生まれてくるはずだ。王権神受説を説く人がいる。「王様は神から統治権を授かったのだ。そもそも人は争う生き物である。人民に秩序をもたらすための、神の意思による王権である」と主張する人がいる。本当にそうだろうか。そうではないのでは?生まれながらにして身分格差を当然視する権力の存在とその歪みが、人から理性を奪い、争いに駆り立ているのではないだろうか?王権や身分制の正当性には、そもそも人間は放っておけば愚かに争う存在だという前提がある。しかし本当にそうだろうか。果たして人間とはそのような生き物なのか。性善説の前提を置いたらどうだろうか。神の子として人間には理性があり、それゆえに自由意思によって、社会を共に形成することを選択した。社会契約を結んだ。そう考えたらどうだろうか。そうであるならば、人間の尊厳と自由が侵害され、その状態を当然視する権力を是とする社会は、契約の反故である。契約が順守されないのであれば、統治に抵抗する権利が民衆にはある。社会権力が帰属するのは、王ではない。等しく尊厳をもつ人間なのだ。

これが政治学の基礎で習う、
民主主義の根幹となった社会契約説です。

世襲の統治権や財産権、そして身分制度が、人間性に反しているのは人々の実感として明らかです。しかし、その社会を変えることを実行するとしたら躊躇したくなります。

それに挑むことは、①ハードルが高いです。②失敗の怖れがあります。③皆がその認識を共有しています。

ふつうの人の考えでは、そんなことに自発的に向き合おうとは思いません。

でも社会契約という観念を見出したジョン・ロックやルソーは挑みました。


何が違うのか。おそらく、彼らはこう感じていたと思います。

本当にハードルが高いのだろうか?そうでもない気がする。自分には出来そうだ。確かに注意深くある必要はあるけど、失敗の怖れも別にそこまで感じない。統治権の帰属を、尊厳ある人間の自由意思による契約とする、というパラダイム転換。皆がそれを不可能だと認識していようと、自分の直感と洞察による見解では十分に可能だ。

出来ると信じていたから、やってみて、その通りに出来た。

僕が一人で髪を切れた感覚と同じです、と言ったら、さすがに言いすぎてますが。ようするに言いたいことは、観念とは観念のままで捉えると絶対強固に見えますが、実はあるがままに見るとそうでもないこと。ある角度に気付くと、あっとうい間に脆く崩れ去るシロモノだったりする、ということです。

それに気付くためには、こう問うことが合理的です。世界観の転換となる問いです。

「人間とは何だろうか」

社会である前に、国家に属する国民である前に、
私たちは人間だからです。その事実から出発します。

しかし外に答えはありません。

「人間である自分は何だろうか」

という問いになります。一度徹底的にあるがままの存在に立ち返って考えます。哲学する。そして、あるがままの現象を洞察します。観察する。

人間(自分)には理性があり、真実を知るほどに、怖れがなくなるのであり、愛を選択するのであり、他者の尊厳を重んじるのである。本来は怖れを動機にする存在ではない、ということに主観的な確信が持てます。そして、人間が争ってしまう存在に見える理由は、人間不信の世界観を前提とした意識と行動のすべてが一体の原因である、と分かります。

身分や国民という観念がフィクションに過ぎないことと、
権力側と服従する側が相互に作用して生じさせている、不安と争いの現実化のメカニズムを、看破したわけです。

国家権力のない人間社会の自然な状態とは、万人の万人による闘争だ。それを避ける正義のために、王様は神より絶対の統治権を受けたのだ、というホッブズ。その社会形成の原初の仮説を、人間の理性を信じることで完全に否定したジョン・ロックとルソー。

民衆は後者の、人間の理性を信じる世界観を選択しました。

社会の創り手として存在することを選択をした。

それが真実であるとわかるからです。人は、フィクションとフィクションの間では迷いますが、真実を提示されたら迷わず選択できるようになっています。

これが民主主義の革命を支えた、民主主義の精神の創造です。

民主主義とは、人間の理性を信じることから始まっています。


国民である以前の、
そんな観念がない状態での、
人間という存在への純粋な問いから生まれた精神です。

社会(国家)という現象を生み出しているのは尊厳を重んじる人間の理性である。
そういう人間哲学が根本にあります。


ここ最近、国家ありきで語っている印象を受ける政治家の方々の発言を見ていると感じますが、国民は民主主義の原点となった社会契約説を、今一度深く理解した方がいいのかもしれません。



そして。

資本主義というパラダイムもそんなものじゃないだろうかと、僕は考えています。

「人間とは何か」

「人間である自分とは何か」

その問いを突き詰めれば、民主主義への転換と同じことが起こる気がしています。

現代社会の、何が真実で、何がそうでないのか。

社会契約説のように、人間の原初状態を想定して資本主義を捉えるのも面白いかもしれません。

いずれにせよ、しっかりと真実を見据えていきたいと思っています。



以上、

散髪を自分でやってみたら難なく出来たという話でした。

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