2015年9月21日月曜日

結婚して良かったこと。

イケダハヤトさんの記事は時々妻とシェアしています。

結婚してよかった7つのこと
http://www.ikedahayato.com/20140313/4201063.html
共感したのは特にここ。
2. 家庭内の摩擦によって、人間的に磨かれる
うちの夫婦もご多分に漏れずよくケンカをするわけですが、何百回(そんなにしてないか)も摩擦があると、さすがに色々人間として磨かれていくわけです。
特に、うちの妻は倫理的かつ論理的な判断を下す傾向が強く、頻繁にぼくが自らの過ちを悔い改める結果となります。ぼくが社会生活において比較的冷静でいられるのは、しばしば発生する妻との摩擦のおかげです。人間的に丸くなりました。ありがとう妻よ。
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うんうん頷いた。
この全人的な摩擦こそが結婚の妙。きっと。

人生において何が良くないことかなんて判断は、未熟なうちほどしたがる。でも、未熟なうちほどその主観的基準は的はずれだったりする。人間関係の摩擦によって、自分の小さな世界観が鍛えられて健全に開かれてゆくほど、「悪いこと」は悪いことではなくなってゆく。結婚は、そんなところに尊さがあるのだと思います。
もう少し的確にいえば、結婚に価値があるというよりも、
全人的にコミットしあう人間関係の継続に価値があるのでしょう。

こんな風に、夫婦で記事をシェアしてそれぞれ思ったことをよく話します。まぁしかしイケダさんは良くも悪くも誤解を怖れないで言葉を投げます(人のこと言えませんが)。村上春樹を敬愛する妻のセンスからすると、彼のような煽った感じの言い方は好きになれないそうですが、それでも彼女が私のピックアップした記事をしっかり読んでくれるのは、それだけ夫婦の対話の良き材料になっている実感があるからだと思います。

年月を積み重ねた良きパートナーは、些細な喜びを分かち合うことができる。深みのある充実した会話が出来る。時に、本気でぶつかり合うことも出来る。それは本当に愉しく、尊く、豊かなことです。精妙に逃げ場のない、チャレンジングなことです。

ほんと僕は結婚して良かったよ。

きっと人間らしく健全に生きるためには、 社会と同化する「社会人」では駄目で、 社会と対話する「自然人」であることが大事だ。

こんなツイートを読みました。ちょっと極端だけど、あえてこれくらい解り易く言っちゃう人が勢いづくのも、変革すべき時代の要請だと思います。

イケダハヤト@IHayato
会社に勤めているとどうしても「組織」に時間とエネルギーを吸われるので、「個人」の影響力を育てるのは困難になります。たとえば「電通でサラリーマンやってて広告賞取った」とかも、結局のところ「電通」に影響力が吸われちゃいますから。19:56 - 2015年9月20日
とはいえ、会社をやめて創作に打ち込めばそれでいいかというと、そういう話でもなかったり。自分を商品として、自分でプロデュースしていく努力と才覚が求められます。マーケティング能力が問われますね。ぼくはポジション取るの割とうまい方なので、こうやって稼げています。19:58
あとは世に言う「嫌われる覚悟」ですかねぇ。これがないと個人の影響力を育てるのは無理だと思います。どれだけマイルドで優しい作風でも、嫌われるときは嫌われます。嫌われるか否かは、作風の問題ではないのです。19:59
「恥じらいを捨てる」というのも、基本中の基本です。99%の人はここで止まっている気もします。なんでも出せばいいんですよ、求められているのなら。自分の変化を自分で楽しめるようになってからが勝負です。20:00
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イケダハヤトさん面白いんですよね。私とアプローチは全然違うのだけど、ちゃんと社会くんとフェアに対話しているし、共感することも多いし。
要は彼は、これが出来ているんですよね。

『コンセプチュアルな関係を内発的に築くということ』
http://chigirakoji.blogspot.jp/2015/09/blog-post_11.html

僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。
読者の顔は直接見えないし、それはある意味コンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的な」関係を、自分にとってもっとも意味あるものと定めて人生を送ってきた。
「みんなにいい顔はできない」平ったく言えばそういうことになる。
『走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)』より抜粋

きっと人間らしく健全に生きるためには、
社会と同化する「社会人」では駄目なんです。
社会と対話する「自然人」であることが大事なんです。

それが本当の自立なのだと思います。

2015年9月16日水曜日

学校に辛くて行きたくないJKの駄文を読んで。

この叫びは響いた。

学校に辛くて行きたくないJKの駄文です
http://anond.hatelabo.jp/touch/20150915075144
辛い。
今は虐められてるわけじゃない。友達も少ないながらもいる。感謝しなくちゃいけない。
でも、居場所がない。宙ぶらりんのまま落ちないように気を張ってる。
学校だけがすべてじゃないって言うけれど、中学から同じ人達ともう4年目。
学校がすべてだよ。中退なんて許してくれるわけがない。レールの他に道はない。
中学受験をして、偏差値の高い女子校に行って、途中で台無しにできるわけない。
だから。
はずされたりだとか。陰口を言われたりとか。クラス替えであの子と絶対一緒にしないでくださいって願ったりだとか。
今より醜い存在にならないように必死に透明になりながら足を踏ん張っている。
そんなのをずっと4年間続けて、自分の心はもうすり減ってなくなってるんじゃないかって思う。
15/09/1507:51
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ツイッターのタイムラインでリンクが紹介されていた。これを読んだ妻は、この子の気持ちが分かると言ってた。どこかで同じような思いを抱いたことがあるのだろう。そこに、分かりやすい不幸が現れているわけじゃない。
彼女の様な心に、私たち大人は、何を伝えることが出来るだろう。自分なら、どう応えてあげたいだろうと考えさせられた。

『今より酷い存在にならないように必死に透明になりながら足を踏ん張ってる。』

刺さる言葉だ。これ、若者だけじゃないだろうなって思う。
今の自分への違和感が極まるとき、自分の願いと怖れの本当の声を、もっと大切に聴かなければならない。

人は時に、誰の理解も得られずに孤独になって、暗く深い井戸掘りをしなければならないし、理不尽をくぐり抜けた知性を手に入れなければならない。
変わりたくないとやり過ごそうにも、覚悟や勇気が試される時は必ず来る。
彼女は今、そういう時期なのかもしれない。
学校が全てだよと言う。しかし、何故そう「思いたい」のだろう。どうして、あなたはその考えを「選びたい」のだろう。
このように主体的に問い直すことの意味が分かるだろうか?
外側を変えられないときは、内側で考えるときだよ。
学校と家庭ではない、自分の物語に出会う必要がある。自分の世界を育む必要がある。もっと本に出会うこと。人間の可能性、人生の多様性にもっと触れること。

いくつか紹介する。Amazonレビューでも読んでみて、面白そうなら手にとってみたらいい。

『自分の中に毒を持て』岡本太郎
『嫌われる勇気』岸見一郎
『〈銀の匙〉の国語授業』橋本武

私が世界一だと思う大学講義。そのレジュメは無料公開されている。
http://www.trinityinc.jp/updated/?cat=76
沖縄大学 人文学部 准教 樋口耕太郎

家が無くても生活していける。人のご縁に委ねて旅をし、そこから見える景色を綴っている。自分をオープンにしていれば人間は絶対に死なないと言う坂爪圭吾さんのブログ。
http://ibaya.hatenablog.com/

自分を見つめなおすヒントになれば。

女子高生は、こうして想いを言語化できていて、人の気持ちに届くほどの文章を書けている。素晴らしいことだ。成長を祈る。

2015年9月11日金曜日

コンセプチュアルな関係を内発的に築くということ

『走ることについて語るときに僕の語ること』 村上春樹
 
ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。僕が生活の基盤を安定させ、執筆に集中できる環境を作り、少しでも質の高い作品を生み出していくことを、多くの読者はきっと歓迎してくれるに違いない。それこそが小説家としての僕にとっての責務であり、最優先事項ではないか。そういう考え方は今でも変わっていない。読者の顔は直接見えないし、それはある意味コンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的な」関係を、自分にとってもっとも意味あるものと定めて人生を送ってきた。

「みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。
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村上さんの言葉の中でも特にこの一節は、私にとって最も有意義な気づきと確信に繋がっています。

「社会くんとフェアな対話をしよう。」

「自己と世界はパートナーだ。」

私はよくそんな言い回しを好んで使います。それはつまり、不特定多数の人物に向けて頭と心をパカっと開き、派手にすっ転ぶ恐怖を感じるくらい、全体重を載せてコミュニケーション&アートして、自分主導でコンセプチュアルな関係を築けたら素敵な人生になりそうだよ、ということです。
健全に自立している人たちは皆、これを自然とやれている。

もっといえば、自立していない人たちは皆、他人主導のコンセプチュアルな関係にしがみついている。

もう一度書いておきます。

『僕の人生にとってもっとも重要な人間関係(リレーションシップ)とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。』

以上、「コンセプチュアルな関係を内発的に築く」という視点でした。

2015年9月7日月曜日

生きるとは、心と世界がちゃんと対話すること。

こんなツイートを読んだ。

そんなんじゃ生きていけないよと何度も言われてきたけれど、誤解を恐れずに言えば「そこまでして(自分を殺してまででも)生きていたいとは思えない」と感じてしまう自分がいた。生活のために生きるのか、生命のために生きるのか、多分、腹を括るとは『生命のために生きる』道を選ぶ覚悟だ。(坂爪圭吾さんのTwitter)

私が私の道を行くと決めた時、一緒に歩けなくなる人がいる。どんなに大好きな人でも、速度が変わり、感覚が変わり、気づいたら同じ景色を見ることはできなくなる場合もある。悲しい、寂しい時もある。それでも自分の道を行くと決めた。新しい場所へ行くと決めた。それが私にとって「生きる」ってこと。(mayuさんのTwitter)

どちらも、そうだよねと思います。

自分が証券会社を辞めたとき。辞めたあと、周囲に反対や否定をされても、たとえ縁を切られても、本当の表現をする覚悟をしたとき。この時代の社会から捨てられたとしても、偽らない対話をしていこうと踏み込んだ内容のブログを実名で書き始めたとき。

自分も同じような心境だったのを思い出します。

生きるってどういうこと?

それぞれにいろんな答えがある。今の自分の答えを言葉にして確かめてみると、何か良い気づきがあるかもしれません。

三歳児の娘を見ていると、あぁこの子はイキイキしているなぁって思います。目の前の環境に心が素直に影響され、また、変わりゆく心のままを体現する。好き、嫌だ、やりたい、見たい、触れたい、話したい、楽しい、面白い、見て、読んで、食べたい、お腹いっぱい、もっと、もういい。世界と純粋な対話をしています。

親は子を愛する。しかし、子は親を愛さない。親を愛する前に、幼い命は、世界を愛しています。

命はいつもフェア。嘘がない。怖れがない。スピリットは、いつだって世界と対等に対話したがっている。

生きるとは、心と世界がちゃんと対話すること。

ときどき娘から素敵なことを気づかされます。

2015年8月30日日曜日

自分がおかしいのか、社会がおかしいのか。

こんなツイートを読みました。

「社会不適合者という言葉もあるけれど、鬱病患者が100万人以上もいると噂の社会に無理矢理適合させて生きるよりも、新しい社会の在り方なり理想のスタイルを(自分の生き様を通じて)実現する為の力を養う方が、多分、圧倒的に有意義だと思う。レールを外れても、大地があるから大丈夫だ。」

「鬱病とは「おかしいのは自分なのか、おかしいのは世の中なのか」と悩んだ時に、おかしいのは自分なんだと思い込んでしまった瞬間に発症する病気だと思う。年間3万人の自殺者がいる世の中は「あまりまともじゃない」と思うので、おかしいのは世の中の方なんだと思うことを推奨しています。」

「先日、不登校の息子を抱えて悩む母親と話した。母親は「このままでは息子に未来はない」と言った。私は「そんなことはない」と思った。不登校は別に問題ではなく、不登校を問題だと思うマインドが問題で、世間的なレールの上を歩く価値よりも、息子そのものの価値を認めて欲しいと思った。」
(坂爪圭吾さんのツイッターより)
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共感するところが多分にあります。

日本の自殺者は年間三万人。しかし統計上の「変死者」は年間14万人に達します。両者の違いは、自殺の定義、①遺言があるか、②死後24時間以内に発見されたか。変死者の半数を自殺に計上するWHOの見解を適用すれば、日本の推定自殺数は十万人に膨れ上がります。
※死因が特定できず法規上警察への通報が義務付けられた遺体の内、犯罪の疑いのあるものを除外した「非犯罪死体」は14万6千体(08年)で、その数は過去11年間で1.6倍に増加している。一方、同期間の自殺者数はほぼ3万強で変動なし。

私見ですが、うつ病の人が「世間がおかしい」といってもまぁまぁ正解ですし、「自分がおかしい」といってもまぁまぁ正解だと思います。しかしどっちのせいにしても自分が苦しいという結果は変わりません。

大切なのは、そのおかしい自分を捨て身でオープンにする勇気と、そのおかしい世間と真っ向からフェアに対話する覚悟です。

『自己と世界との関係性がおかしい』という表現がきっと一番的確です。健全な関係を自分に正直になって選び直せばいいのだと思います。

2015年8月5日水曜日

街づくりのリーダー

社会人になって二年目、2009年頃、面白法人カヤックへの転職を結構真剣に考えてた時期がありました。社長の柳澤さんが面白いなって。

地域にイノベーションは起こせるか–福岡市・鎌倉市から学ぶ楽しい町づくり 
http://logmi.jp/80188
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鎌倉に本社があるカヤックの柳澤です。今日はカマコンバレーという活動の話ということで、カマコンバレーがどういう活動をしているか、どういう事例が生まれたか、あとかなりうまくいっていろんな行政の方が地方から見学に来るので……カマコンバレー式の仕組みを地方でもう5、6ヵ所展開して根付いているんですけれども、なぜうまくいっているか、と。この3つの話をすると5分ではたぶん終わらなくて。
吉田:5分でお願いします(笑)。
柳澤:終わらないので、なぜうまくいっているのかはあとで話そうと思って。じゃあカマコンバレーの仕組みを1分くらいでお話します。月に1回定例会をやっているだけです。地元のITとか、さっきデザインの話もありましたが、クリエイティブの企業や個人。都内で働いているような方が参加しまして。ただ実は中学生から80代くらいまでいるんですけどね。
毎月150人くらいが参加して。地元ですでにおもしろい活動をしている人をゲストで5組呼んで、1組5分でプレゼンをしてもらったあとに、自分が興味のあるところに分かれてクリエイティブやITでその活動に対してどんなお手伝いができるかをみんなで必死にブレストをすると。それだけをやっているだけです。
それをやるとやりたくなっちゃうので、さっきの話と一緒で自然発生的に手伝いたいチームが発足され、あとは分科会で勝手に行われていくと。さらにお金が必要なときは鎌倉専用のクラウドファンディングでお金を集めて支援すると。この流れを2、3年やっているうちに、いろいろな会社が生まれたり。
いろいろなプロジェクトが、自分がプレゼンを聞いていてやりたいと言って手を挙げてやることもありますし、お手伝いをしてその活動が大きくなることもある。さらに1年で60組プレゼンがありますから、町づくりに関わりたい人が何らかの形で参加できるようになるというということで、住んでいるのが楽しくなるという仕組みでやってるんですね。
中略
柳澤:自分ごと、つまり「この町は自分がつくっている」となると楽しく住めるようになる。これは会社でカヤックがそうだったので。「自分がこの会社をつくっている」となると、おもしろく働けるということだったので。
地域も一緒だろうということで、地域活動に関わる人が増えれば増えるほどたぶん好きになるんだろうと。全部自分ごと化して、それぞれ活動している人たちを勝手に応援して、参加していきましょうということでつくったんですけど。
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本物の街づくりのリーダーは、
皆の願いに純粋に関心を注いで「話そうよ」と根気よく語りかけ続け、
住民の自発的な対話と表現がシェアされるコミュニケーション機会を創っては愉しみ、
そのプロセスや体験やストーリーの面白さを世間にオープンにすることで、
街の外側の人々に対しても注目に値するケーススタディを提供し、彼らの関心にも開いたコミュニケーションで歓迎し、
シナジーを生むご縁を引き寄せ、自分たちの街づくりの意義や精神性やビジョンへの共感・共鳴を呼び、
巻き込んだマンパワーによって共同体内部における存在感とメッセージの説得力を拡大し、
意欲と協力の質量は台風のごとく大きくなってゆき、
不可能だと思われた理想を無理のない自然な展開で実現する。

そんなリーダー集団をつくる事業をやりたいと思っています。この柳澤さんの記事は参考になりました。