2013年3月20日水曜日

自分の生を貫くこと

僕には少し、


次世代の社会のあり方が見えています。



見えるというのは、予知でも予言でもありません。


地球と生命について、
人間という現象と存在について、
現状の社会問題について、

それぞれを洞察し続けて得た仮説です。


良き知恵を学び、
良き経験を積み重ねた結果、

自分を知り、今を知り、

その可能性の広がりと、
向かうであろう全体のベクトルが、

なんとなく分かるという感覚です。


それ以上ではないので、
高名な占い師や、バシャールの様な断言はできません。

断言はできませんが、
僕の実感(リアリティ)が確信しています。


私たちはこれから先、
次世代になろうと、どんな主義の社会になろうと、
地球を舞台にした人間の社会であることにはなんら変わりありません。


だからどのような時代であろうと心配ありません。


理性と情熱をもって、
人間の真実を貫く生き方を選択すればいい。

そのような普遍の精神を自己と向き合って養い、
気高い自分をオープンに皆と分かち合えばいい。

たくましく、誇りある生をまっとうできるはずです。


全然大丈夫です。


どんな条件でどんな環境であろうと、
真実に誠実であればいいだけですから。



根拠はありません。


天の理と人の理とは、
そのようにできているのだと確信できた、
そう悟った、というだけです。



真実は自分の心の中にあります。

自分の真実に誠実であるかどうかは、どうすればわかるのでしょうか。


胸の奥の方に響いている声を、聞けばいいんです。



良き質問があります。


これは以前の記事「死を思うことと生きること」で紹介した、
スティーブジョブズのあの言葉と同じものです。




もし今日が、
人生最後の日だとしたら。


自分の最後の日として、相応しい過ごし方をできているだろうか。




・・・・・


どうでしたか。


胸に誇りを感じながら、心の底から笑みが込み上げてきましたか。


きっとそれが、真実に生きるということなのだと思います。


僕も皆さんも、毎日そうであれば良いなと願っています。





娘はもうすぐ一歳になります。


この子の為に、僕が残せる最高の贈り物は何だろうか。


そう考えた時に浮かぶのは、
お金でも家でも思い出でもありません。


千明公司という生を貫いた精神です。


偽りのない生き方そのものが、

メッセージとして伝わり、それは

娘自身が自己の生を貫く精神を養う力となる。


そうして、父を誇り、胸に抱き続けることができる。


と、そう考えるからです。

日々を、その意義に値する一日としたい。



もし今日僕が死んだら、

このブログを妻子に読んでほしい。


10年後、20年後、30年後の娘にも読んでほしい。

親兄弟にも。孫にも。


「公を司る」と名付けてくれた、今は亡き祖父にも読んでほしい。


学生時代の友人にも。


以前勤めていた証券会社で、僕の顧客だった人にも。


一緒に働いていた同期や仲間、上司、後輩にも。


そして、

今この時代をともに生きる皆さんに読んでほしい。


風変わりな若者が、
時代の転換点で現れて、
志半ばで消えてったんだなーと思ってもらったら若者冥利に尽きます笑


過去と未来を背負わせたすべてを、
今ここの自分にのせて、
いつもブログを書いています。


そのように一日を過ごしています。




いや、今日はたまたま出来てる方なだけです笑


でも、

もっともっと、そうでありたいと願っています。





もし今日が、
人生最後の日だとしたら。




たった一つの質問で、
自分の日常と人生の意義を
トータルに問うことができます。


家族や財産を守るだとか、
見栄や損得とか、
やらなければならない義務とか、
あれがやりたい、こうなりたいとか、
そんなことの一切をすべてギュッと凝縮して、


結局、私という存在はどうあろうとしているのか?


と自身の内なる声に問うことになります。



それを突き詰めると気付くはずです。



自分が何者として、どうあろうとして、何を為したいのか。


それは、白は黒があって意味を為すのと同様に、

自分と「自分以外」を対峙させることでしか選択できません。



スピリチュアリティが言うように、
すべてはワンネスで、
縁も時も意識も、
全体の流れの中で生じる現象です。


でもその自覚だけでは、
自分を生きているとは言えないし、
本当に全体を生きているとも言えないと思う。

すべてが相対性の流れで機能する宇宙においては、
自分の生は、
自己の流れと自己以外の流れを定義して、
対峙することでしか経験しえないのではないでしょうか。


絶対のワンネスであることを信頼して、相対に対峙する生き方を選択する。

そうして、

自分の真実を生きるとは、

世界の真実を問うということになる。


それは強烈に「生」を感じることになる。


それが、

自己の真実=「生」を貫くということの意味であり、


本来の自分であるということなのではないでしょうか。




次世代への移行過程の洞察を書こうと思いましたが、
それを書くにあたっての、
僕の想いの方を書いてしまいました。

またいずれ書きます。

読んで下さりありがとうございました。

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