2013年3月27日水曜日

今を問う② 選挙と向き合う

前回の衆議院選挙の一票の格差について、
司法の違憲審査権を軽視しているとの理由で、
選挙無効の判決が広島高裁で出ましたね。

最大で2.43倍の差だとか。



いろいろと所感はありますが、
今一度問い直したいと思うことがあります。



そもそも

選挙ってなんでしょうか。



その意義が明確になってないと、

どんな議論も非効率ですし、空転します。



僕は一国民として、
選挙制度を見直すなら、
選挙の存在意義に立ち返ってほしいと思います。



選挙の目的とは何でしょうか。


それを合理的に実現する(=健全に機能する)
選挙をデザインしたいものです。



僕の考えでは、

選挙とは一言でいうと、

人材採用です。




選ぶんですね、

相応しい人物を。


それが選挙という国家人材採用システムの目的です。


国家なる人間集団の物事を決めるのに、
相応しい人物を選択する。



企業の人材採用と同じで、
人物を観なくてはお話にならないと思います。


皆さんは人物を、
どこまで本気で観ようとしていますか。


僕は結構観たい方なので、
議員の公式サイトとブログを一番に重んじて目を通します。


それだけを以てして、
その人の価値観や生き方の深いところまでは分かりませんが、

①正直であるかどうか
②経済・社会・人間への洞察力
③信念の強さ

については概ね判断がつきます。

立候補したということは、
国家という枠組みを担うために、
それなりの生き方を積み重ねてきて、
質の高い社会ビジョンを示せるはずです。

それを示せているか否か、
文章から候補者の姿勢を感じとろうとすれば、
相応しいかどうかは掴めてきます。


ただ正直、
情報が足りない議員もかなり多いです。
もちろん情報「量」はあるのですが、
情熱と理性を感じさせる本物の言葉は、
残念ながら多くはないんですね。


ありきたりな言葉やパターン化された議論ではなく、
情熱と理性と経験に溢れているような、
自分の思考で積み上げた本物の言葉を、
民に発しようとする人物なのかどうか。


議員の公式サイトやブログを読むとき、
そういう情報を発することが出来ていない、
というのも一つのメッセージになります。

あぁ、普段から情熱をもって社会を考えていないし、
信念がないから政党の共通政策の羅列しか記述しないのだろう・・・と。

そんな人は面接する以前に、
エントリーシートで落としたいな、
と思ってしまいます。

面接できませんけどね。


自分の経験に基づいて、
自問自答を積み重ねて得た、
重厚な世界観を持ち合わせているのか。


普段政治に関心のない人でも、比較すればすぐ分かりますよ。


人は、人の真実を感じとれるものです。


人の社会の問題とその解決の話が、
人に理解できないことの方が本来は例外です。

問題が難しく見えるのは、
話しを伝える方も、受け取る方も、
言葉(観念・概念)に捉われているからです。

そのままだと議論すればするほど、
言葉が空転して混乱するばかりです。

流れれば流れるほど、
お金が空転して価値流通体系が混乱するのとなんだか似ています。


固定観念がいろいろと判断を鈍らせるのですが、
それを差し引いても、
適切に比較をすれば、
やはり人が持つトータルな直観は鋭く機能します。


真実の言葉には心を動かす力がありますし、
物事の本質はシンプルなので、
よくわかっている人が本気で伝えたいと思っているならば、
詳しくない人にもちゃんと伝わります。



さて。

国家の人材採用は、国の民が行う。

このプロセスは、
民主主義国家の大黒柱です。


民主主義が、
国家を機能させる世界観だとしたら、


選挙は、
その世界観を最も体現した制度といえます。


それを今回取り上げたのは、
ニュースを見て改めて、
自分と社会に問いたいと感じたからです。


選挙という人材採用のあり方を問うこと。

民主主義国家のあり方を問うこと。


この問題を考えるにあたって、
さらに一歩踏み込んだ問いの視点を付け加えたい。


民主主義国家の人材採用を機能させる、私たちの意識のあり方を問うこと。


民主主義という社会哲学は、
王国や封建国家よりも健全だと思います。
人間性を解放し、尊厳を重んじ、人々の自立心を養い、
結果として共同体の質を高めます。

この100年間で世界中で民主主義の思想が広まったのも、
人間社会のあり方として普遍性があり、有用だからではないでしょうか。


民主主義は古くて新しいテーマです。


外形ではなく、その質について、まだまだ課題が多いです。



選挙が人材採用であるならば、
政治の問題はつねに
私たち採用する側の問題です。


どのような人物が相応しいのか、
もし望む人物像をイメージできていないまま採用するなら、
合理性を欠く結果になるのは必然ですから。



私たちは本当に、
候補者の人物を観ていると言えるのでしょうか。


候補者の人物を観る前に、
相応しい人物像を描けているでしょうか。


相応しい人物像を描く前に、
望ましい人間社会のあり方を描けているでしょうか。


そもそも自身が、
望ましい人間社会のあり方に関心を持ち、
その実現に貢献しようとしているでしょうか。


自らが真摯にそうあろうとしていなければ、
よき人物を選べないのではないでしょうか。


選挙制度を、
一票の格差という量的な問題として扱う前に、
あるいは憲法の精神に反するか否かを考える前に、

民主主義国家の主(あるじ)として、
自らの意識に問うべき視点を持ち合わせていなければなりません。


民主主義国家がこの先100年、200年と健全に機能し続けるためには、
そのような内的な責任を、
個々人が果たし続ける先にしかありえないように思います。


この課題については、
インターネットの登場によって
偽りの通用しない世界へ加速的に向かっているので、
大丈夫であろうと楽観してます。

国家と社会経済における人材採用は、
ネットの出現によって革命的に変わっていくと思うんですが、
次世代社会に関するこの辺りの洞察はまたいずれ書きたいと思います。



ニュースを見てそんなことも考えつつ。

今日も、皆とよき社会を創っていこうと勤めてきます。

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